2017/01/23

中山道六十九次・街道歩き【第8回: 深谷→本庄】(その2)

実は、深谷市は関東地方随一、全国でも有数の漬物の生産地だってこと、ご存知でしたか?

深谷市で漬物業が発展したのは昭和30年頃。なので、それほど古いものではありません。それまで東京都の練馬で作られていた練馬大根が、都市化により深谷市の周辺へ産地移動してきたことで、“たくあん作り”が盛んになったことに由来します。昭和50年代には最盛期を迎え、漬物業者は約80軒にもなり、関東一の漬物生産地として名を馳せるようになりました。現在でも、岡部地区を中心に35軒の漬物業者が営業しており、この数は、実に埼玉県内全体の半数を占めています。

旧中山道(このあたりは国道17号)を歩いていても、沿道に何軒もの漬物屋さんを目にします。この漬物屋さんも店頭で漬物を漬ける大きな樽を干しています。

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深谷で漬物の生産が盛んに行われるようになった背景には、この深谷市の周辺が埼玉県内、いや関東地方でも有数の農業生産地域であるということが挙げられます。この一帯は利根川と荒川という関東地方を代表する2つの大河に挟まれた地形で、両河川が運んできた肥沃な土砂が堆積した極めて農業生産に適した土地柄なんです。漬物は、原料となる野菜の力を生かして保存性を高める食品です。特に発酵を伴う漬物の場合は、野菜の新鮮さが味を大きく左右します。この新鮮な野菜を大量に供給できる環境が整っているのが、この深谷市の周辺なのです。実際、大根の収穫量は埼玉県内1位、きゅうりは全国2位、ねぎは全国1位の収穫量を誇るなど、新鮮な野菜が豊富に揃っています。

また、漬物の種類が多いこともこの深谷市の特徴です。現在、市内では300種類以上の漬物が作られ、全国へ配送されています。埼玉県の漬物出荷額は全国5位であり、そのことから考えても、深谷市の漬物業がいかに盛んであるかが分かります。

国道17号をさらに北西方向に向かいます。

道路を挟んで反対側に「史跡 高島秋帆幽囚地入口」と刻まれた石碑が建っています。

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高島秋帆(しゅうはん)と聞いても、「それ誰?」ってことがほとんどだと思います。しかし、幕末に興味を持って、歴史小説等を読んだことがある方なら、一度は「高島流砲術」という文字を目にされたことがあるのではないかと思われます。私もそうでした。その高島流砲術を編み出したのが、高島秋帆でした。

高島秋帆は、江戸時代後期から末期の砲術家です。高島秋帆は寛政10年(1798年)、長崎町年寄の高島茂起の三男として生まれ、文化11年(1814年)、父の跡を継ぎ、その後、長崎会所調役頭取となりました。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで生まれ育った秋帆は、日本の砲術と西洋の砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え、天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させました。

その後、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、高島秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して、天保12年(1841年)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ないました。この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用されるようになり、またたく間に江戸幕府内に高島流砲術は広まったのですが、翌天保13年(1842年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行に逮捕・投獄され、高島家は断絶。この武蔵国岡部藩にて幽閉されました。

幽閉されている間も、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏にこの岡部の地を訪れては高島秋帆に接触し、洋式砲術を教わっていたそうです。嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。その後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、徳川幕府の砲術訓練の指導に尽力し、薩長連合の盟約が成立し徳川慶喜が15代将軍となった慶応2年(1866年)、69歳で没しました。

お家断絶の罪に問われても、この武蔵国岡部藩にて幽閉され、しかもその後赦免されて幕府の要職に就いたということは、この高島秋帆という人物、よっぽど優秀な方だったのでしょうね。しかも、幽閉されたのがこの旧中山道沿いの武蔵国岡部藩。昔の人の脚ならば、江戸から2日とちょっとで着ける距離の場所です。近くには飯盛り女が多くいて、それを目当てにわざわざ江戸から訪れる人も多かったという深谷宿もありますし、秘密裏に高島秋帆に教えを請うため訪れるには極めて都合のいい場所です。見つかったとしても「いやぁ〜、深谷の馴染みの飯盛り女に逢いに来ただけのことよ」と言い訳ができますからね。おそらく、それを見越して、徳川幕府も高島秋帆を幽閉する場所として岡部藩を選定したのではないでしょうか。粋な計らい…ってやつです。

余談ですが、東京都板橋区にある高島平の地名は、昭和時代になり、その地で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ったこの高島秋帆に因んでつけられたものです。

道路の右わきに鳥居があり、奥まで細い参道が続く神社があります。名前も由緒も書かれていない小さな神社、おそらくこのあたりに住む名主か庄屋が個人で建立した神社のようですが、奥まで長く続く参道が見事です。

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このあたりの旧中山道の道路脇には馬頭観音や庚申塔、庚申塚が幾つも建っています。旧中山道ではここに来るまでも幾つもの庚申塔、庚申塚、馬頭観音を見てきましたが、このあたりは特に多いようです。信心深い人が多かったのではないかと思われます。

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道路脇に曹洞宗普済寺入口という表示がかかっています。

普済寺は建久2年(1191年)、前述の岡部六弥太(忠澄)が創建したといわれている寺院で、この普済寺のあったあたりが前述の岡部六弥太(忠澄)出生の地とされています。

開基した岡部六弥太(忠澄)はその6年後の建久8年(1197年)に没し、この寺に葬られたのですが、岡部六弥太(忠澄)の法名「普済寺殿道海大禅定門(ふさいじでんだいぜんじょうもん)」からこの寺院の寺号が付けられたそうです。鎌倉武士が多く帰依した禅宗である臨済宗では、“普”という文字がよく使われるのだそうです。

また、深谷市内にある清心寺という寺院には岡部六弥太(忠澄)が討ち取った平忠度の墓があるのだそうです。平忠度を一ノ谷の戦いで討ち取った岡部六弥太(忠澄)がこの地に手厚く葬ったのだそうです。

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国道17号をさらに進みます。「本庄まで7km」の表示が今日歩く残りの距離を示しています。「高崎まで27km」ですか…。まだまだありますね。

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「水越醫院」という旧漢字を使った表札のかかった古いながらも立派なお宅があります。病院を開業していたお宅なのでしょう。道路を挟んで向かい側には立派で近代的なビルになった病院が建っています。そちらには「水越医院」と常用漢字で書かれた看板が掲げられています。ここから想像するに、先代がこの古い建物で長く開業医を開業していて、その息子かなにかが道路を挟んで向かい側にビルを建てて、総合病院を開業したって構図なのかもしれません。沿道でひときわ目を引く味のある建物です。

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道路脇に鳥居が建ち、奥に小さな祠が建っています。おそらくこのあたりに住む名主か庄屋が個人で建立した神社のようですが、何を祀っているのでしょうか?なにか謂れがありそうです。

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道路脇のお宅の庭に植えられたカエデが見事に紅葉して、綺麗です。こうやって道路脇のお宅の庭に植えられている庭木や花を眺めながら歩くのも街道歩きのちょっとした魅力です。

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さらに国道17号を進みます。さすがに深谷、このあたりは深谷ネギの畑が広がっています。歩いていると、時折、ネギの甘い香りが漂ってきます。

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現在の中山道・国道17号と旧中山道とが二又に分かれる分かれ道のところに、松尾芭蕉の句が刻まれた句碑「雲雀塚」があります。

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「原中や 物にもつかず 啼く雲雀」

この句は貞亨4年(1687年)、芭蕉が44歳の時に詠んだ句だそうです。句碑の隣に「芭蕉翁句碑雲雀塚由来の記」の碑が建っています。

この松尾芭蕉の句碑が建っているあたりに、かつて岡一里塚(おかのいちりづか)と呼ばれる一里塚がありました。江戸日本橋を出てからちょうど20番目の一里塚で、1里が約4kmですから、ここまで約80kmやって来たことになります。残念ながら塚は左右両方とも現存せず、場所もこのあたりにあったと推定されているだけです。進行方向右手に一見すると一里塚のようなこんもりした小さな森のようなところがありますが、混乱しちゃいそうですが、残念ながらこれは一里塚の跡ではありません。

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深谷市から本庄市にかけてのこのあたりは関東地方でも有数の農業生産地域です。有名な深谷ネギのほか様々な野菜類が栽培されているのですが、中でもこのところ力を入れている作物がブロッコリー。埼玉県はブロッコリーの収穫量、出荷量共に全国1位を誇り、作付面積は1,200ヘクタール(東京ドーム250個分)、年間の収穫量は約15,000トン(約5,000万株)です。主要産地は、旧岡部町を中心とした深谷市と本庄市、すなわち、このあたりです。

この地域はかつて桑園が多かったのですが、昭和40年以降、桑栽培から野菜栽培に切替え、その中でブロッコリーが作られるようになりました。埼玉県産のブロッコリーの特徴は、花蕾のしまりが良く、みずみずしいことです。また、埼玉県は首都圏への物流網が整備されているため、鮮度が良いまま首都圏各地の売場に並べられます。

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……(その3)に続きます。