2017/07/07
中山道六十九次・街道歩き【第13回: 松井田(五料)→軽井沢】(その2)
昼食を終え、いつものように入念にストレッチ体操を行い、いよいよ五料の高札場の前から今日の街道歩きのスタートです。五料の高札場前の道路が旧中山道で、そこを坂本宿を目指して西に進みます。まだまだ雲の多い空模様ですが、一部の雲の切れ間から青空が顔を覗かせているところもあり、雨が降る心配はなさそうです。妙義山も山頂あたりまで見えるようになってきました。気温もさほど暑くもなく、快適に歩けそうです。
道路脇に天徳4年(1714年)に立てられたといわれる男女双体道祖神があります。このような男性と女性が仲睦まじく寄り添う姿が刻まれた男女双体道祖神は、これから碓氷峠を越えて信州に入っていくと多く見られるようになるのだそうです。
すぐに五料の集落の街並みは途切れます。振り返ると、旧街道らしい微妙に蛇行した道路になっています。中山道六十九次街道歩きも【第13回】にもなると、こういう微妙に蛇行する道路を見ると、「あぁ~、これは旧街道(あるいは古くからの道)だな」って自然と思えるようになってきました。
茶屋本陣を出てしばらく歩くと、国道18号線と合流する五料平交差点の直前で右折してJR信越本線の榎踏切を渡ります。踏切を渡って左に曲がり、「丸山坂」と名付けられたダラダラ坂を登っていきます。
坂の途中には青面金剛塔、馬頭観音、庚申塔等が幾つも立っています。街道情緒が色濃く残る旧中山道らしいなかなか趣きのある坂道です。
坂を登りきった峠のところに「夜泣き地蔵」と「茶釜石」なるものがあります。このうちの「夜泣き地蔵」には次のような言い伝えが残っています。昔、ある馬方がこの五料で道の脇に落ちていた地蔵の首を、荷物のバランスをとるためにちょうどいいと思って拾い、荷物と一緒に深谷宿まで運び、そこで不要になったので捨ててしまったのだそうです。すると夜な夜なその地蔵の首が「五料恋しや、五料恋しや」…と泣くので、深谷宿の人が哀れに思い、その首を拾って五料まで運び、元の胴の上に載せてやったのだそうです。そういう謂れがあるので「夜泣き地蔵」と呼ばれているのだそうです。
不思議なのはその「夜泣き地蔵」の前に置かれてある石。「茶釜石」といって、れっきとした石なのに、傍らの小石でたたくとカァ~ンカァ~ンと茶釜のような金属製の音がするので「茶釜石」と呼ばれているのだそうです。石の上には石ころが置かれているので、当然叩いてみることにします。「くゎーん、くゎーん、くぅぉゎーん」と面白い音がします。おそらくこの石の中には空洞があるからこのような不思議な音がするのでしょうが、理系の人間としては放射線や超音波などを利用した非破壊検査でこの石の内部の形状を見てみたい気がします。ふむふむ( ̄^ ̄)。それにしても、こんな大きな石、どこから運んで来たんでしょうか?
この先は緩やかな坂道を下り、山裾にある梨の木集落の里山の中の鄙びた道を歩きます。途中には馬頭観音があったり夫婦道祖神があったりで、飽きることがありません。先ほど通った丸山坂と同様、これぞ旧街道!、旧中山道らしいなかなか趣きのある道です。
五料では梅干しが特産品だったということは前述のとおりですが、このあたりには今もその梅干しの原材料となる梅の畑が広がっています。ちょうど今が梅の実の収穫時期で、緑色をした立派な梅の実がたわわに実っています。
いかにも旧街道という落ち着いた佇まいの緩い上り坂の道を登っていきます。
白桐(キリ)の木です。足元には薄紫色をした桐の花が落花しています。日本には白桐をもとに意匠化された家紋が幾つかいくつかあり、それらを総称して桐紋もしくは桐花紋と呼ばれます。中でも五七の桐と呼ばれるスタイルが有名です。 白桐は古くから桐は鳳凰の止まる木として神聖視されており、日本でも嵯峨天皇の頃から天皇の衣類の刺繍や染め抜きに用いられるなど、「菊の御紋」に次ぐ高貴な紋章とされています。また、中世以降では天下人たる武家が望んだ家紋としても有名で、足利尊氏や豊臣秀吉などもこの家紋を天皇から賜っています。このため、五七桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになり、明治維新後の近代から現代においても五七桐は「日本国政府の紋章」として大礼服や勲章(桐花章、旭日章、瑞宝章)の意匠に取り入れられたり、菊花紋に準じる国章としてビサやパスポートなどの書類や金貨の装飾に使われたり、「内閣総理大臣の紋章」として官邸の備品や総理の演台に取付けられるプレートに使われたりしています。
次に、妙義山を前方に見ながら、緩い坂を下っていきます。微妙にアップダウンのある区間です。
行く手の前方にJR信越本線の線路が見えてきます。このJR信越本線の線路にぶつかったすぐのところに踏切があります。旧中山道はこの踏切の地点からまっすぐ先、写真で見ると焦茶色をしたJAの建物の方向に伸びていたそうなのですが、国鉄(JR)信越本線と国道18号線に遮断されて寸断・消滅してしまっています。JAの建物の横から伸びている道路が旧中山道で、そこから復活しています。
ところでこの踏切なのですが、この踏切こそが鉄道マニアや中山道街道歩きの人達の間で知る人ぞ知る有名な“謎の踏切”「御所平踏切」なのです。この御所平踏切、渡ることができるのは手前の線路1本だけで、2本目の先はガードレールで渡ることができないことになっている“謎の踏切”として有名なんです。信越本線は複線で、手前が上り線です。その上り線の踏切はちゃんと渡ることができるのですが、問題はその先。上り線を渡ると一段下がって国道18号線との間の狭いところを下り線が通っているのですが、その下り線には踏切が見当たりません。加えて、国道側はずっとガードレールで切れ目もありません。行き止まりの表示すらあります。きちんと整備され、「御所平踏切」という名前も付いている踏切なのですが、これでは踏切の役目を果たしていないと思うのですが…。いったい何のための踏切なんでしょうね。(・・? 信越本線の線路と国道18号線の間は狭い畑になっているのですが、まさかその畑に農作業に行くためだけに踏切が設けられたのでしょうか…。
この踏切は行き止まりになっていて渡ることができないため、次の踏切のところまでJR信越本線の線路に沿って約300メートルほど迂回します。
杉の巨木に覆われた山の斜面に赤い鳥居があり、石段の奥に神社が見えます。「碓氷神社」です。この碓氷神社、創立年代は不明ですが、碓氷峠にある熊野神社の里宮なのだそうです。建久年間(1190年~1199年)、源頼朝が信州浅間まで牧狩りに行く際、この神社に祈願し、境内に陣屋(御所)を置いたため,以来このあたり一帯を「御所平」と呼ぶようになったのだそうです。
碓氷神社の説明板を見ると、祭神のところに大山祇命(おおやまつみのみこと)の文字があります。大山祇命は『全国の越智さん大集合!』で何度も書かせていただきましたが、瀬戸内海の大三島のその名も大山祇神社に祀られている越智氏族の氏神様です。こういうところでそのお名前を目にすると、嬉しくなってしまいます。
その碓氷神社の前にある「高墓踏切」でJR信越本線を渡り、さらに国道18号線を渡ります。もしかして、踏切近くの一段高くなったところに墓地があるようなので、「高墓踏切」と呼ぶのでしょうか。
高墓踏切を渡ったところで国道18号線を横断歩道で横切り、そのまま真っ直ぐ安中市立臼井小学校の方向に進みます。本当は国道18号線を200メートルほど戻ってJAの建物のところを急カーブで曲がり、街道が復活しているところから旧中山道に戻るところではありますが、ここはちょっとショートカットして、この臼井小学校のところから旧中山道に戻ります。
御所平集落の中の旧街道らしい雰囲気の緩やかにカーブした道を進みます。道路の左側は深い谷のようになっていて、その谷の向こう側に妙義山をはじめとした上州の山々が連なっています。美しい光景です。昔の人もこの山々を眺めながら旅をしたのでしょうね。
4~5分歩いていったん国道18号線に合流し、小山沢川を歩行者用の橋で渡ると、地名は横川に変わります。すぐの小山沢交差点の信号で旧中山道は国道18号線から別れ、左の脇道へ入リ、緩い坂を下っていきます。
2~3分歩くと再び国道18号線に合流するのですが、その合流の手前に「百合若大臣の足跡石」なるものがあります。その昔、百合若大臣なる人物が足で踏み潰したので石が凹んだ…と言われている石です。百合若は伝説上の人物ですが、平安時代の初期、四条左大臣公光の子供と言われ、北九州に多くの話が伝わっているのだそうです。力が相当あった人物らしく、大きな弓と長い矢で川向こうの妙義山系の山に向け、「よし、あの山の首のあたりを射抜いてみよう」と思い付き、満身の力を込めて射放った時、後ろ足を踏ん張ったのがこの石であったと言われています。なるほど、よく見ると石の上の窪みが足跡のように見えなくもありません。
また、これを見ていた百合若大臣の家来の1人も、これに負けじと腰にぶら下げていた弁当のおむすびを力一杯放り投げ、山には2つの穴が開いた…と言われています。今でも2つの穴がこの地点から見ると夜空の星のように見え、この山(岩峰)を「星穴岳」と呼ぶようになったのだそうです。残念ながら、この日はこの星穴岳のあたりは雲がかかって、その2つの穴は確認できませんでしたが、説明板の横によく晴れた日に撮影された写真が掲示されていました。なるほどぉ~。ちなみに、百合若大臣がその時に使ったといわれる弓矢が妙義山麓の妙義神社に奉納されているのだそうです。ところで、その百合若大臣って、何者?
(翌日の朝に観光バスで碓氷峠への登山口に向かう時に、傍を走る国道18号線から撮影した写真を以下に掲載します。穴は小さな穴で、遠く離れていることもあり、角度の関係で旧中山道のあの地点からでないと確認できないのかもしれません。)
「百合若大臣の足跡石」の先で国道18号線に合流し、4~5分歩きます。進行方向の左側は大きな谷にのような地形になっていて、谷底にはずっと農地が広がっています。このあたりの田圃では、既に田植えが終わっているようです。
下横川交差点に旧中山道の標識があり、その下横川交差点で国道18号線を横断し、右側の歩道に移ると、さらに「第十五中仙道踏切」でJR信越本線を再び渡ります。そこからは国道18号線から分岐した群馬県道222号横川停車場線が延びています。その群馬県道222号横川停車場線でJR信越本線の線路に沿って、今度は線路の右側の道路をしばらく歩いていきます。JR信越本線の終点、横川駅はまもなくです。
……(その3)に続きます。
道路脇に天徳4年(1714年)に立てられたといわれる男女双体道祖神があります。このような男性と女性が仲睦まじく寄り添う姿が刻まれた男女双体道祖神は、これから碓氷峠を越えて信州に入っていくと多く見られるようになるのだそうです。
すぐに五料の集落の街並みは途切れます。振り返ると、旧街道らしい微妙に蛇行した道路になっています。中山道六十九次街道歩きも【第13回】にもなると、こういう微妙に蛇行する道路を見ると、「あぁ~、これは旧街道(あるいは古くからの道)だな」って自然と思えるようになってきました。
茶屋本陣を出てしばらく歩くと、国道18号線と合流する五料平交差点の直前で右折してJR信越本線の榎踏切を渡ります。踏切を渡って左に曲がり、「丸山坂」と名付けられたダラダラ坂を登っていきます。
坂の途中には青面金剛塔、馬頭観音、庚申塔等が幾つも立っています。街道情緒が色濃く残る旧中山道らしいなかなか趣きのある坂道です。
坂を登りきった峠のところに「夜泣き地蔵」と「茶釜石」なるものがあります。このうちの「夜泣き地蔵」には次のような言い伝えが残っています。昔、ある馬方がこの五料で道の脇に落ちていた地蔵の首を、荷物のバランスをとるためにちょうどいいと思って拾い、荷物と一緒に深谷宿まで運び、そこで不要になったので捨ててしまったのだそうです。すると夜な夜なその地蔵の首が「五料恋しや、五料恋しや」…と泣くので、深谷宿の人が哀れに思い、その首を拾って五料まで運び、元の胴の上に載せてやったのだそうです。そういう謂れがあるので「夜泣き地蔵」と呼ばれているのだそうです。
不思議なのはその「夜泣き地蔵」の前に置かれてある石。「茶釜石」といって、れっきとした石なのに、傍らの小石でたたくとカァ~ンカァ~ンと茶釜のような金属製の音がするので「茶釜石」と呼ばれているのだそうです。石の上には石ころが置かれているので、当然叩いてみることにします。「くゎーん、くゎーん、くぅぉゎーん」と面白い音がします。おそらくこの石の中には空洞があるからこのような不思議な音がするのでしょうが、理系の人間としては放射線や超音波などを利用した非破壊検査でこの石の内部の形状を見てみたい気がします。ふむふむ( ̄^ ̄)。それにしても、こんな大きな石、どこから運んで来たんでしょうか?
この先は緩やかな坂道を下り、山裾にある梨の木集落の里山の中の鄙びた道を歩きます。途中には馬頭観音があったり夫婦道祖神があったりで、飽きることがありません。先ほど通った丸山坂と同様、これぞ旧街道!、旧中山道らしいなかなか趣きのある道です。
五料では梅干しが特産品だったということは前述のとおりですが、このあたりには今もその梅干しの原材料となる梅の畑が広がっています。ちょうど今が梅の実の収穫時期で、緑色をした立派な梅の実がたわわに実っています。
いかにも旧街道という落ち着いた佇まいの緩い上り坂の道を登っていきます。
白桐(キリ)の木です。足元には薄紫色をした桐の花が落花しています。日本には白桐をもとに意匠化された家紋が幾つかいくつかあり、それらを総称して桐紋もしくは桐花紋と呼ばれます。中でも五七の桐と呼ばれるスタイルが有名です。 白桐は古くから桐は鳳凰の止まる木として神聖視されており、日本でも嵯峨天皇の頃から天皇の衣類の刺繍や染め抜きに用いられるなど、「菊の御紋」に次ぐ高貴な紋章とされています。また、中世以降では天下人たる武家が望んだ家紋としても有名で、足利尊氏や豊臣秀吉などもこの家紋を天皇から賜っています。このため、五七桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになり、明治維新後の近代から現代においても五七桐は「日本国政府の紋章」として大礼服や勲章(桐花章、旭日章、瑞宝章)の意匠に取り入れられたり、菊花紋に準じる国章としてビサやパスポートなどの書類や金貨の装飾に使われたり、「内閣総理大臣の紋章」として官邸の備品や総理の演台に取付けられるプレートに使われたりしています。
次に、妙義山を前方に見ながら、緩い坂を下っていきます。微妙にアップダウンのある区間です。
行く手の前方にJR信越本線の線路が見えてきます。このJR信越本線の線路にぶつかったすぐのところに踏切があります。旧中山道はこの踏切の地点からまっすぐ先、写真で見ると焦茶色をしたJAの建物の方向に伸びていたそうなのですが、国鉄(JR)信越本線と国道18号線に遮断されて寸断・消滅してしまっています。JAの建物の横から伸びている道路が旧中山道で、そこから復活しています。
ところでこの踏切なのですが、この踏切こそが鉄道マニアや中山道街道歩きの人達の間で知る人ぞ知る有名な“謎の踏切”「御所平踏切」なのです。この御所平踏切、渡ることができるのは手前の線路1本だけで、2本目の先はガードレールで渡ることができないことになっている“謎の踏切”として有名なんです。信越本線は複線で、手前が上り線です。その上り線の踏切はちゃんと渡ることができるのですが、問題はその先。上り線を渡ると一段下がって国道18号線との間の狭いところを下り線が通っているのですが、その下り線には踏切が見当たりません。加えて、国道側はずっとガードレールで切れ目もありません。行き止まりの表示すらあります。きちんと整備され、「御所平踏切」という名前も付いている踏切なのですが、これでは踏切の役目を果たしていないと思うのですが…。いったい何のための踏切なんでしょうね。(・・? 信越本線の線路と国道18号線の間は狭い畑になっているのですが、まさかその畑に農作業に行くためだけに踏切が設けられたのでしょうか…。
この踏切は行き止まりになっていて渡ることができないため、次の踏切のところまでJR信越本線の線路に沿って約300メートルほど迂回します。
杉の巨木に覆われた山の斜面に赤い鳥居があり、石段の奥に神社が見えます。「碓氷神社」です。この碓氷神社、創立年代は不明ですが、碓氷峠にある熊野神社の里宮なのだそうです。建久年間(1190年~1199年)、源頼朝が信州浅間まで牧狩りに行く際、この神社に祈願し、境内に陣屋(御所)を置いたため,以来このあたり一帯を「御所平」と呼ぶようになったのだそうです。
碓氷神社の説明板を見ると、祭神のところに大山祇命(おおやまつみのみこと)の文字があります。大山祇命は『全国の越智さん大集合!』で何度も書かせていただきましたが、瀬戸内海の大三島のその名も大山祇神社に祀られている越智氏族の氏神様です。こういうところでそのお名前を目にすると、嬉しくなってしまいます。
その碓氷神社の前にある「高墓踏切」でJR信越本線を渡り、さらに国道18号線を渡ります。もしかして、踏切近くの一段高くなったところに墓地があるようなので、「高墓踏切」と呼ぶのでしょうか。
高墓踏切を渡ったところで国道18号線を横断歩道で横切り、そのまま真っ直ぐ安中市立臼井小学校の方向に進みます。本当は国道18号線を200メートルほど戻ってJAの建物のところを急カーブで曲がり、街道が復活しているところから旧中山道に戻るところではありますが、ここはちょっとショートカットして、この臼井小学校のところから旧中山道に戻ります。
御所平集落の中の旧街道らしい雰囲気の緩やかにカーブした道を進みます。道路の左側は深い谷のようになっていて、その谷の向こう側に妙義山をはじめとした上州の山々が連なっています。美しい光景です。昔の人もこの山々を眺めながら旅をしたのでしょうね。
4~5分歩いていったん国道18号線に合流し、小山沢川を歩行者用の橋で渡ると、地名は横川に変わります。すぐの小山沢交差点の信号で旧中山道は国道18号線から別れ、左の脇道へ入リ、緩い坂を下っていきます。
2~3分歩くと再び国道18号線に合流するのですが、その合流の手前に「百合若大臣の足跡石」なるものがあります。その昔、百合若大臣なる人物が足で踏み潰したので石が凹んだ…と言われている石です。百合若は伝説上の人物ですが、平安時代の初期、四条左大臣公光の子供と言われ、北九州に多くの話が伝わっているのだそうです。力が相当あった人物らしく、大きな弓と長い矢で川向こうの妙義山系の山に向け、「よし、あの山の首のあたりを射抜いてみよう」と思い付き、満身の力を込めて射放った時、後ろ足を踏ん張ったのがこの石であったと言われています。なるほど、よく見ると石の上の窪みが足跡のように見えなくもありません。
また、これを見ていた百合若大臣の家来の1人も、これに負けじと腰にぶら下げていた弁当のおむすびを力一杯放り投げ、山には2つの穴が開いた…と言われています。今でも2つの穴がこの地点から見ると夜空の星のように見え、この山(岩峰)を「星穴岳」と呼ぶようになったのだそうです。残念ながら、この日はこの星穴岳のあたりは雲がかかって、その2つの穴は確認できませんでしたが、説明板の横によく晴れた日に撮影された写真が掲示されていました。なるほどぉ~。ちなみに、百合若大臣がその時に使ったといわれる弓矢が妙義山麓の妙義神社に奉納されているのだそうです。ところで、その百合若大臣って、何者?
(翌日の朝に観光バスで碓氷峠への登山口に向かう時に、傍を走る国道18号線から撮影した写真を以下に掲載します。穴は小さな穴で、遠く離れていることもあり、角度の関係で旧中山道のあの地点からでないと確認できないのかもしれません。)
「百合若大臣の足跡石」の先で国道18号線に合流し、4~5分歩きます。進行方向の左側は大きな谷にのような地形になっていて、谷底にはずっと農地が広がっています。このあたりの田圃では、既に田植えが終わっているようです。
下横川交差点に旧中山道の標識があり、その下横川交差点で国道18号線を横断し、右側の歩道に移ると、さらに「第十五中仙道踏切」でJR信越本線を再び渡ります。そこからは国道18号線から分岐した群馬県道222号横川停車場線が延びています。その群馬県道222号横川停車場線でJR信越本線の線路に沿って、今度は線路の右側の道路をしばらく歩いていきます。JR信越本線の終点、横川駅はまもなくです。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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