2017/07/10
中山道六十九次・街道歩き【第13回: 松井田(五料)→軽井沢】(その3)
山裾の緩い坂道を登っていくと、ほどなく人家が現れます。
「碓氷関所跡」という案内標識が掲げられています。このあたりからが、五料と同じく松井田宿と坂本宿の間の“間の宿(あいのしゅく)”だった横川の集落です。
進行方向左手前方にJR横川駅の構内が見えてきました。このあたりから先に横川の茶屋が立ち並んでいたとされています。
間もなくその先に「峠の釜飯」で有名な「荻野屋(おぎのや)」の黄色い看板が見えてきました。
荻野屋の前を左に曲がるとすぐにJR信越本線の“現在の終点”横川駅があります。現在の横川駅は「北陸(長野)新幹線」の開通で、すっかり寂れた駅になってしまいました。現在、高崎駅からJR信越本線に乗車すると、終着駅は横川駅です。しかしながら、かつての信越本線は高崎駅を起点に横川駅から碓氷峠を越えて軽井沢駅に向かい、長野県内を北上して新潟駅に至る、全長300kmを超える、“本線”の名称を名のるに相応しい幹線鉄道路線でした。この信越本線ですが、横川駅から軽井沢駅の区間は最大勾配が 66.7 ‰(パーミル:1,000メートル進む間に66.7メートル登る急勾配)という碓氷峠の急勾配を登らねばならず、そのため特急列車も普通列車もすべての列車がこの横川駅で停車し、同区間専用のアプト式機関車(EC40形及びED42形電気機関車)や碓氷峠の登坂専用の強力な機関車(“補機”と言います:EF63形電気機関車がその代表)の連結を行っていました。その連結作業のために横川駅では長時間停車しました。この長い停車時間を利用して乗客相手に販売し、大ヒットした駅弁が荻野屋さんの「峠の釜めし」でした。益子焼の土釜に入れられているという点が特徴の駅弁で、「日本随一の人気駅弁」と評されました。
JR横川駅の前にはアプト式鉄道時代の“ピニオンギア”と呼ばれる歯車の付いた車輪が展示されています。また、駅前の排水溝の蓋には同じくアプト式鉄道で使用された“ラックレール”と呼ばれる特殊なレールが再利用されています。さすが、さすが。
ちなみに、信越本線の碓氷峠越えの区間(横川駅~軽井沢駅間)の鉄道が開通したのは明治26年(1893年)のことですが、その際に最大66.7 ‰(パーミル)という急勾配を登るため、ドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式が採用されました。このアプト式鉄道は昭和38年(1963年)に廃止されるまで70年という長きに渡って使用されました。なので、碓氷峠と言えば“アプト式”です。
平成9年(1997年)に長野新幹線が開通すると、横川駅~軽井沢駅間の在来線は廃止され、横川駅のホームで駅弁を売るかつての旅情は見られなくなってしまいました。しかし、現在も「峠の釜めし」の味は人々に愛され、横川駅の駅頭はもちろんのこと、横川周辺のドライブインやサービスエリア、長野新幹線の車内等で、その味を堪能することができます。今でも百貨店やスーパーマーケットなどで行われる『全国駅弁フェア』等では定番の人気駅弁です。この日もバイクのツーリングで訪れた一団やドライブで訪れた家族連れが峠の釜飯を買いに、JR横川駅前にある販売店に立ち寄っていました。
今は終着駅となってしまった横川駅です。下り方向は行き止まりとなっていて、その先の線路がなくなっています。
信越本線の横川駅~軽井沢駅間の廃止と共に役目を終えた、横川駅に隣接した横川運転区跡地は『碓氷峠鉄道文化むら』と呼ばれる体験型鉄道テーマパークに生まれ変わっています。
しばしのトイレ休憩と水分補給の後、街道歩きの再開です。旧中山道は荻野屋の前の道をまっすぐ進みます。ここからは群馬県道92号松井田軽井沢線に入ります。
JR横川駅から街道に出てすぐにある矢野沢橋の手前の土手の上に大きな石碑が建っています。「御嶽山座王大権現碑」です。手前の草むらには二十三夜塔や庚申塔、地蔵等の石塔が数基建っています。また矢野沢橋横のフェンスのところに子育地蔵尊の看板があり、上流300mと書いてあったので残念ながらパスさせていただきました。
2~3分先の右奥に見える風格ある上州櫓造りの建物は『横川茶屋本陣跡』です。入口に「群馬県指定史跡 横川の茶屋本陣跡」と記された標柱も立っています。先ほど、中山道の松井田宿と坂本宿の間には五料村と横川村のそれぞれ2箇所に茶屋本陣が設けられたと書きましたが、ここがそのうちの1つ「横川の茶屋本陣」です。この茶屋本陣は、代々横川村の名主を勤め、幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部です。碓氷関所のすぐそばに設けられたのは、江戸側から来た参勤交代の大名等が服装を正すためと、碓氷関所を通過した大名等が服装を再び旅装に改めるためであったと考えられています。また、この武井家は古くから「矢の沢の家」と呼ばれ、現在も地元ではその名で通っているのだそうです。現在も個人の居宅として使われておられるようで、外から眺めるだけです。
この横川にはもう1つ、『雁金屋茶屋本陣』があったのですが、今はその跡は残っていません。また、横川茶屋本陣から10mほど先には諏訪神社の社標が建っており、参道奥に鳥居が見えます。茶屋本陣が使えない一般庶民は、この諏訪神社の境内で身支度を整えてから碓氷の関所に向かったのだそうです。
現代でも、国際空港で出入国審査を受ける際には、不審者と思われて無駄に余計な時間を取られないようにちょこっと襟は正しますものね。それと同じで、当時の通行手形には写真が貼られていないので、通行手形に書かれた身分に合った姿格好をしていることが本人を証明するうえで最低限必要でしたでしょうからね。
さらに4~5分、妙義山系の御岳のむき出しになった岩肌を見ながら歩くと、碓氷関所の東門があった場所の標識があり、その右側の高台に復元された「碓氷関所東門」そのものがあります。元々、この東門はこの位置で旧中山道を塞ぐように建てられ、門の両脇には竹矢来・本柵がめぐらされていました。現在は番所跡に移設されて復元したもので、柱や門扉は当時のものなのだそうです。明治2年(1869年)2月に関所が廃止になった時に、日本中の関所の門や建物は全て焼かれたり破壊されたりしてしまったそうで、横川に残るこの碓氷関所の東門は、現在日本でただ1つ当時のままの姿で残されている本当に貴重な関所の門なのだそうです。
ここで、地元の「碓氷関所保存会」の方から、碓氷関所に関する説明をお聞きしました。
まずは“関所”について。関所(せきしょ)とは、近世までの日本において、交通の要所に設置された徴税や検問のための施設です。陸の街道上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれて、陸路では、峠や河岸に設置されることが多かったようです。徳川幕府は街道を整備するにあたり、首都江戸を守るため、全国に53ヶ所の関所を設けました。
「日本四大関所」と呼ばれる関所があります。徳川幕府が整備した街道とそこに設けられた関所のうち特に規模の大きな関所のことで、第一と第二の主要幹線道路である東海道と中山道にはそれぞれ2つずつの関所が設けられていました。まずは東海道。1つ目は東海道の天下の険と言われている“箱根の関所”です。ここは箱根駅伝のおかげで誰もが知るようになった有名な場所ですね。2つ目は”新居関所”。場所は現在の静岡県湖西市新居町にあるので“新居関所”と呼ばれていますが、江戸時代の正式名称としては“今切関所”と呼ばれていました。中山道の2つの関所のうち1つ目がこの“碓氷関所”、そして2つ目が福島宿にある”福島関所”です。「日本三大関所」と呼ばれることもあり、その場合には箱根関所と碓氷関所、それに加えて、新居関所か福島関所のどちらかが入ります。このように碓氷関所は徳川幕府にとって極めて重要な関所でした。
中山道は重要な交通路であったため、この碓氷関所では、関東(首都江戸)への入国の関門として非常に厳しい監視が行われていました。旅人が関所を通るためには、様々な検査が行われ、関所を通る旅人によっては、関所通行手形を持っていなければならないケースもあったようです。特に「入鉄砲と出女」という言葉が残っているように、鉄砲などの武器を携行しての通行はもちろんのこと、特に江戸から関西方面へ向かう「女性(出女)」の場合は、幕府の御留守居役が発行した証文(女通行手形)を必ず持ち、その手形に記載された内容がこの女性の特徴と一致していなければ、関所を通ることはできないと言う、厳しい取り調べが関所の役人によって行われていたようです(時には身体検査も行われたようです)。
この横川の「碓氷関所」の設置の歴史は古く、平安時代の昌泰2年(899年)、坂東に出没する群盗の取り締まりのため、醍醐天皇が相模国足柄と上野国碓氷の2ヶ所に関所を設け、交通を監視したのが始まりとされています。その後、正応2年(1289年)、鎌倉幕府の執権・北条貞時によって同じく松井田の関長原に関所が据えられ、以来、戦国時代まで何度か時の権勢によって整備が繰り返されました。その後の変遷を経て、文禄元年(1592年)に中山道の関所としての再整備が始まり、江戸時代に入り、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の時、安中藩主・井伊直勝が幕命によって以前からあった碓氷峠山中の番所を移してその関長原に仮番所を作り、関東防衛の拠点としました。元和8年(1622年)に番所となり、その翌年の元和9年(1622年)、将軍徳川家光の上洛に際して江戸幕府によって現在の上横川村に関所が移され、正式に“関所”となりました。
横川は碓氷峠山麓の3つの川が合流し、険しい山が迫って狭間となった地形で、関所要害を設置するには最適地だったからです。寛永12年(1635年)、参勤交代制度の確立後は鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせていた大名の妻子などが国元に逃げ帰ることを防ぐために厳しく取り締まるようになり、通行する人には関所手形を提出させました。宝永5年(1708年)より正式に「碓氷関所」と称するようになりました。
この碓氷の関所は安中藩が管理し、前述の「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まっていました。これは徳川幕府が諸大名の謀反を防ぐため、江戸に入る鉄砲と江戸から出て行く大名の妻女等を厳しく監視したことによるものです。改め時間も厳しく、「上下女改め、男上り手形にて上る。下りは手形いらず。朝六つより暮六つにて御門とめ」でした。
前述のように、碓氷関所は明治2年(1869年)に廃止されるまで東海道の箱根と並ぶ徳川幕府の二大関所でした。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていました。碓氷関所の構えは中山道を西門(幕府管理の門)と東門(安中藩管理の門)の52間2尺(約94.54メートル)で区切っていました。そこを木柵などで四方を取り囲み、その外側は天然の自然林による阻害物に遮られ、忍び通ることも不可能な要害が近御囲・遠御囲と続き、さらには碓氷峠山麓には堂峰番所を置いて、通行を厳しく監視していました。
また、関所の前には“三つ道具”と総称される刺股(さすまた)・突棒(つくぼう)・袖搦(そでがらみ)の三種類の捕り物用の道具(捕具)と、長柄の槍10筋を飾り、正面の軒に安中藩の定紋を染めた幔幕を中央で結び上げ、中山道を往来した通行者を取り締まっていました。
幕末になると関所の改めも緩やかなものとなり、明治2年(1869年)2月に全国の全ての関所が同時に廃関されました。この廃関の際、関所の構造物はことごとく破壊、あるいは焼却されたのですが、唯一この碓氷関所の東門だけは地元の人達に100両(確か)で払い下げられたので、残りました。現在、関所跡に建っている東門は、昭和34年(1959年)、東京大学の藤島亥治郎工学博士の設計により復元されたものですが、門柱2本(全長3.25メートル、正面幅0.3メートル、側面幅0.21メートル)と、要所に金具を用いた門扉は当時使用されていたもので、ともにケヤキ材の堅固なものです。他にも、屋根材6点と台石も当時のものを使っています。復元された東門の建っている位置は番所跡にあたり、往時の東門ではありますが、東西逆の方向にひっくり返って、西門の向きになっています。
また、碓氷関所跡には、当時、通行人が手をついて手形を差し出した「おじぎ石」も残されています。 通行人は門を入ると番所の前の石段を登り、番所の前にあるこの「おじぎ石」に手をつき、ひざまずいて手形を差し出し、通行の許可を得たと言われています。当時の旅人の苦労が窺えて、興味深いです。まぁ~、今の国際空港にある出入国管理ゲートのようなものですね。もちろん現在は普通に素通りできるのですが、かつての番人や旅人に敬意を表し、私も「おじぎ石」に手をついて通行の許可を得ました。
前述のように、関所の門限は「明け六つから暮れ六つ」までの半日間。門限以外は特別な場合を除き、固く門を閉じていました。関所を破った者は御定書により、磔・獄門の極刑に処せられました。
碓氷関所の跡には「関所資料館」も建てられていて、通行手形や関所の番人が実際に来ていた着物等、碓氷関所および当時の中山道の交通に関する様々な資料が展示されています。
まったくの余談ですが、私は前の会社で「e-Airport 」という国際空港における出入国管理の電子化プロジェクトに深く携わっていたことがあります。その関係で世界の航空会社で構成される業界団体であるIATA(国際航空運送協会:International Air Transport Association)のSPT(Simplifying Passenger Travel)研究部会のメンバーだったこともあります。言ってみれば、ITを活用して現代の(当時は将来の)関所を作ろうという世界的なプロジェクトでした。現在日本のパスポートにはICチップが埋め込まれていますが、そのICパスポートとそれを使った電子認証の仕組み、今や当たり前のようになっているe-チケットの仕組み等がその時の「e-Airport 」プロジェクトの成果です。懐かしく思い出したので、ネットで検索してみると、こういうものがありました。
ビジネスコミュニケーション誌インタビュー記事
NTTデータニュースリリース(2003年5月1日)
インタビュー記事には私の写真も載っていますが、取材を受けたのが2003年のことですから、今から14年前の40歳代中頃の写真です。自分で言うのも変ですが、まだ若いですね(笑)。2003年というと、私が当社ハレックスの経営再建のため、非常勤の代表取締役社長に就任した年でもあります。まぁ~、こういうこともやりながら、気象情報会社の再建もやる、さらにはこの2年後には埼玉大学工学部の非常勤講師にも就任して……と、今思い出しても本当によく働かせていただきました。どの仕事も精一杯やったつもりですので、肉体的にキツかったのは事実ですが、毎日毎日が充実していましたね。
パスポートや通行手形を携行してはおりませんでしたが、私達も無事に関所の詮議を済ませ(?)、先に進みます。
……(その4)に続きます。
「碓氷関所跡」という案内標識が掲げられています。このあたりからが、五料と同じく松井田宿と坂本宿の間の“間の宿(あいのしゅく)”だった横川の集落です。
進行方向左手前方にJR横川駅の構内が見えてきました。このあたりから先に横川の茶屋が立ち並んでいたとされています。
間もなくその先に「峠の釜飯」で有名な「荻野屋(おぎのや)」の黄色い看板が見えてきました。
荻野屋の前を左に曲がるとすぐにJR信越本線の“現在の終点”横川駅があります。現在の横川駅は「北陸(長野)新幹線」の開通で、すっかり寂れた駅になってしまいました。現在、高崎駅からJR信越本線に乗車すると、終着駅は横川駅です。しかしながら、かつての信越本線は高崎駅を起点に横川駅から碓氷峠を越えて軽井沢駅に向かい、長野県内を北上して新潟駅に至る、全長300kmを超える、“本線”の名称を名のるに相応しい幹線鉄道路線でした。この信越本線ですが、横川駅から軽井沢駅の区間は最大勾配が 66.7 ‰(パーミル:1,000メートル進む間に66.7メートル登る急勾配)という碓氷峠の急勾配を登らねばならず、そのため特急列車も普通列車もすべての列車がこの横川駅で停車し、同区間専用のアプト式機関車(EC40形及びED42形電気機関車)や碓氷峠の登坂専用の強力な機関車(“補機”と言います:EF63形電気機関車がその代表)の連結を行っていました。その連結作業のために横川駅では長時間停車しました。この長い停車時間を利用して乗客相手に販売し、大ヒットした駅弁が荻野屋さんの「峠の釜めし」でした。益子焼の土釜に入れられているという点が特徴の駅弁で、「日本随一の人気駅弁」と評されました。
JR横川駅の前にはアプト式鉄道時代の“ピニオンギア”と呼ばれる歯車の付いた車輪が展示されています。また、駅前の排水溝の蓋には同じくアプト式鉄道で使用された“ラックレール”と呼ばれる特殊なレールが再利用されています。さすが、さすが。
ちなみに、信越本線の碓氷峠越えの区間(横川駅~軽井沢駅間)の鉄道が開通したのは明治26年(1893年)のことですが、その際に最大66.7 ‰(パーミル)という急勾配を登るため、ドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式が採用されました。このアプト式鉄道は昭和38年(1963年)に廃止されるまで70年という長きに渡って使用されました。なので、碓氷峠と言えば“アプト式”です。
平成9年(1997年)に長野新幹線が開通すると、横川駅~軽井沢駅間の在来線は廃止され、横川駅のホームで駅弁を売るかつての旅情は見られなくなってしまいました。しかし、現在も「峠の釜めし」の味は人々に愛され、横川駅の駅頭はもちろんのこと、横川周辺のドライブインやサービスエリア、長野新幹線の車内等で、その味を堪能することができます。今でも百貨店やスーパーマーケットなどで行われる『全国駅弁フェア』等では定番の人気駅弁です。この日もバイクのツーリングで訪れた一団やドライブで訪れた家族連れが峠の釜飯を買いに、JR横川駅前にある販売店に立ち寄っていました。
今は終着駅となってしまった横川駅です。下り方向は行き止まりとなっていて、その先の線路がなくなっています。
信越本線の横川駅~軽井沢駅間の廃止と共に役目を終えた、横川駅に隣接した横川運転区跡地は『碓氷峠鉄道文化むら』と呼ばれる体験型鉄道テーマパークに生まれ変わっています。
しばしのトイレ休憩と水分補給の後、街道歩きの再開です。旧中山道は荻野屋の前の道をまっすぐ進みます。ここからは群馬県道92号松井田軽井沢線に入ります。
JR横川駅から街道に出てすぐにある矢野沢橋の手前の土手の上に大きな石碑が建っています。「御嶽山座王大権現碑」です。手前の草むらには二十三夜塔や庚申塔、地蔵等の石塔が数基建っています。また矢野沢橋横のフェンスのところに子育地蔵尊の看板があり、上流300mと書いてあったので残念ながらパスさせていただきました。
2~3分先の右奥に見える風格ある上州櫓造りの建物は『横川茶屋本陣跡』です。入口に「群馬県指定史跡 横川の茶屋本陣跡」と記された標柱も立っています。先ほど、中山道の松井田宿と坂本宿の間には五料村と横川村のそれぞれ2箇所に茶屋本陣が設けられたと書きましたが、ここがそのうちの1つ「横川の茶屋本陣」です。この茶屋本陣は、代々横川村の名主を勤め、幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部です。碓氷関所のすぐそばに設けられたのは、江戸側から来た参勤交代の大名等が服装を正すためと、碓氷関所を通過した大名等が服装を再び旅装に改めるためであったと考えられています。また、この武井家は古くから「矢の沢の家」と呼ばれ、現在も地元ではその名で通っているのだそうです。現在も個人の居宅として使われておられるようで、外から眺めるだけです。
この横川にはもう1つ、『雁金屋茶屋本陣』があったのですが、今はその跡は残っていません。また、横川茶屋本陣から10mほど先には諏訪神社の社標が建っており、参道奥に鳥居が見えます。茶屋本陣が使えない一般庶民は、この諏訪神社の境内で身支度を整えてから碓氷の関所に向かったのだそうです。
現代でも、国際空港で出入国審査を受ける際には、不審者と思われて無駄に余計な時間を取られないようにちょこっと襟は正しますものね。それと同じで、当時の通行手形には写真が貼られていないので、通行手形に書かれた身分に合った姿格好をしていることが本人を証明するうえで最低限必要でしたでしょうからね。
さらに4~5分、妙義山系の御岳のむき出しになった岩肌を見ながら歩くと、碓氷関所の東門があった場所の標識があり、その右側の高台に復元された「碓氷関所東門」そのものがあります。元々、この東門はこの位置で旧中山道を塞ぐように建てられ、門の両脇には竹矢来・本柵がめぐらされていました。現在は番所跡に移設されて復元したもので、柱や門扉は当時のものなのだそうです。明治2年(1869年)2月に関所が廃止になった時に、日本中の関所の門や建物は全て焼かれたり破壊されたりしてしまったそうで、横川に残るこの碓氷関所の東門は、現在日本でただ1つ当時のままの姿で残されている本当に貴重な関所の門なのだそうです。
ここで、地元の「碓氷関所保存会」の方から、碓氷関所に関する説明をお聞きしました。
まずは“関所”について。関所(せきしょ)とは、近世までの日本において、交通の要所に設置された徴税や検問のための施設です。陸の街道上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれて、陸路では、峠や河岸に設置されることが多かったようです。徳川幕府は街道を整備するにあたり、首都江戸を守るため、全国に53ヶ所の関所を設けました。
「日本四大関所」と呼ばれる関所があります。徳川幕府が整備した街道とそこに設けられた関所のうち特に規模の大きな関所のことで、第一と第二の主要幹線道路である東海道と中山道にはそれぞれ2つずつの関所が設けられていました。まずは東海道。1つ目は東海道の天下の険と言われている“箱根の関所”です。ここは箱根駅伝のおかげで誰もが知るようになった有名な場所ですね。2つ目は”新居関所”。場所は現在の静岡県湖西市新居町にあるので“新居関所”と呼ばれていますが、江戸時代の正式名称としては“今切関所”と呼ばれていました。中山道の2つの関所のうち1つ目がこの“碓氷関所”、そして2つ目が福島宿にある”福島関所”です。「日本三大関所」と呼ばれることもあり、その場合には箱根関所と碓氷関所、それに加えて、新居関所か福島関所のどちらかが入ります。このように碓氷関所は徳川幕府にとって極めて重要な関所でした。
中山道は重要な交通路であったため、この碓氷関所では、関東(首都江戸)への入国の関門として非常に厳しい監視が行われていました。旅人が関所を通るためには、様々な検査が行われ、関所を通る旅人によっては、関所通行手形を持っていなければならないケースもあったようです。特に「入鉄砲と出女」という言葉が残っているように、鉄砲などの武器を携行しての通行はもちろんのこと、特に江戸から関西方面へ向かう「女性(出女)」の場合は、幕府の御留守居役が発行した証文(女通行手形)を必ず持ち、その手形に記載された内容がこの女性の特徴と一致していなければ、関所を通ることはできないと言う、厳しい取り調べが関所の役人によって行われていたようです(時には身体検査も行われたようです)。
この横川の「碓氷関所」の設置の歴史は古く、平安時代の昌泰2年(899年)、坂東に出没する群盗の取り締まりのため、醍醐天皇が相模国足柄と上野国碓氷の2ヶ所に関所を設け、交通を監視したのが始まりとされています。その後、正応2年(1289年)、鎌倉幕府の執権・北条貞時によって同じく松井田の関長原に関所が据えられ、以来、戦国時代まで何度か時の権勢によって整備が繰り返されました。その後の変遷を経て、文禄元年(1592年)に中山道の関所としての再整備が始まり、江戸時代に入り、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の時、安中藩主・井伊直勝が幕命によって以前からあった碓氷峠山中の番所を移してその関長原に仮番所を作り、関東防衛の拠点としました。元和8年(1622年)に番所となり、その翌年の元和9年(1622年)、将軍徳川家光の上洛に際して江戸幕府によって現在の上横川村に関所が移され、正式に“関所”となりました。
横川は碓氷峠山麓の3つの川が合流し、険しい山が迫って狭間となった地形で、関所要害を設置するには最適地だったからです。寛永12年(1635年)、参勤交代制度の確立後は鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせていた大名の妻子などが国元に逃げ帰ることを防ぐために厳しく取り締まるようになり、通行する人には関所手形を提出させました。宝永5年(1708年)より正式に「碓氷関所」と称するようになりました。
この碓氷の関所は安中藩が管理し、前述の「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まっていました。これは徳川幕府が諸大名の謀反を防ぐため、江戸に入る鉄砲と江戸から出て行く大名の妻女等を厳しく監視したことによるものです。改め時間も厳しく、「上下女改め、男上り手形にて上る。下りは手形いらず。朝六つより暮六つにて御門とめ」でした。
前述のように、碓氷関所は明治2年(1869年)に廃止されるまで東海道の箱根と並ぶ徳川幕府の二大関所でした。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていました。碓氷関所の構えは中山道を西門(幕府管理の門)と東門(安中藩管理の門)の52間2尺(約94.54メートル)で区切っていました。そこを木柵などで四方を取り囲み、その外側は天然の自然林による阻害物に遮られ、忍び通ることも不可能な要害が近御囲・遠御囲と続き、さらには碓氷峠山麓には堂峰番所を置いて、通行を厳しく監視していました。
また、関所の前には“三つ道具”と総称される刺股(さすまた)・突棒(つくぼう)・袖搦(そでがらみ)の三種類の捕り物用の道具(捕具)と、長柄の槍10筋を飾り、正面の軒に安中藩の定紋を染めた幔幕を中央で結び上げ、中山道を往来した通行者を取り締まっていました。
幕末になると関所の改めも緩やかなものとなり、明治2年(1869年)2月に全国の全ての関所が同時に廃関されました。この廃関の際、関所の構造物はことごとく破壊、あるいは焼却されたのですが、唯一この碓氷関所の東門だけは地元の人達に100両(確か)で払い下げられたので、残りました。現在、関所跡に建っている東門は、昭和34年(1959年)、東京大学の藤島亥治郎工学博士の設計により復元されたものですが、門柱2本(全長3.25メートル、正面幅0.3メートル、側面幅0.21メートル)と、要所に金具を用いた門扉は当時使用されていたもので、ともにケヤキ材の堅固なものです。他にも、屋根材6点と台石も当時のものを使っています。復元された東門の建っている位置は番所跡にあたり、往時の東門ではありますが、東西逆の方向にひっくり返って、西門の向きになっています。
また、碓氷関所跡には、当時、通行人が手をついて手形を差し出した「おじぎ石」も残されています。 通行人は門を入ると番所の前の石段を登り、番所の前にあるこの「おじぎ石」に手をつき、ひざまずいて手形を差し出し、通行の許可を得たと言われています。当時の旅人の苦労が窺えて、興味深いです。まぁ~、今の国際空港にある出入国管理ゲートのようなものですね。もちろん現在は普通に素通りできるのですが、かつての番人や旅人に敬意を表し、私も「おじぎ石」に手をついて通行の許可を得ました。
前述のように、関所の門限は「明け六つから暮れ六つ」までの半日間。門限以外は特別な場合を除き、固く門を閉じていました。関所を破った者は御定書により、磔・獄門の極刑に処せられました。
碓氷関所の跡には「関所資料館」も建てられていて、通行手形や関所の番人が実際に来ていた着物等、碓氷関所および当時の中山道の交通に関する様々な資料が展示されています。
まったくの余談ですが、私は前の会社で「e-Airport 」という国際空港における出入国管理の電子化プロジェクトに深く携わっていたことがあります。その関係で世界の航空会社で構成される業界団体であるIATA(国際航空運送協会:International Air Transport Association)のSPT(Simplifying Passenger Travel)研究部会のメンバーだったこともあります。言ってみれば、ITを活用して現代の(当時は将来の)関所を作ろうという世界的なプロジェクトでした。現在日本のパスポートにはICチップが埋め込まれていますが、そのICパスポートとそれを使った電子認証の仕組み、今や当たり前のようになっているe-チケットの仕組み等がその時の「e-Airport 」プロジェクトの成果です。懐かしく思い出したので、ネットで検索してみると、こういうものがありました。
ビジネスコミュニケーション誌インタビュー記事
NTTデータニュースリリース(2003年5月1日)
インタビュー記事には私の写真も載っていますが、取材を受けたのが2003年のことですから、今から14年前の40歳代中頃の写真です。自分で言うのも変ですが、まだ若いですね(笑)。2003年というと、私が当社ハレックスの経営再建のため、非常勤の代表取締役社長に就任した年でもあります。まぁ~、こういうこともやりながら、気象情報会社の再建もやる、さらにはこの2年後には埼玉大学工学部の非常勤講師にも就任して……と、今思い出しても本当によく働かせていただきました。どの仕事も精一杯やったつもりですので、肉体的にキツかったのは事実ですが、毎日毎日が充実していましたね。
パスポートや通行手形を携行してはおりませんでしたが、私達も無事に関所の詮議を済ませ(?)、先に進みます。
……(その4)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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