2017/07/24
中山道六十九次・街道歩き【第13回: 松井田(五料)→軽井沢】(その9)
栗が原のすぐ先は進行方向の左側が谷で、急勾配の斜面になっていて、なにかモノを落としたら、どこまでも転げ落ちていきそうです。ちょっと危険な道です。
路面幅の狭いV字形の堀割道が続きます。
しばらく歩くと杉林の中を通る狭い道に変わります。このあたりは「入道くぼ」と呼ばれています。説明板の上に「線刻馬頭観音」があります。「入道くぼ」という不思議な地名ですが、説明板を読んでも何のことなのかよく分かりません。手前の深い切通し道のことを指すのだろうと思います。ここから先は赤土のだらだらした下りが続く「馬込(まごめ)坂」です。ここまでほとんど登り坂ばっかりだったので、下り坂はちょっと新鮮です。
「入道くぼ」を出ると車が通れるほどの広い道になるのですが、左側にはかなりしっかりしたコンクリート製の擁壁が造られています。ごく最近(おそらく昭和の時代)まで人が住んでいた形跡のようです。こんな山の中の急峻で狭い道の脇にいったい何の目的で造られたものなのでしょうか…。これも謎です。
このあたりは、なかなか素敵な散策路のような感じです。
コンクリートの擁壁を通り過ぎると「山中茶屋跡」の説明板があります。山中茶屋は碓氷峠ルートのちょうど中心あたりにあった茶屋で、寛文2年(1662年)の記録によると、この場所には13軒の立場茶屋があり、茶屋本陣や寺もあり、その茶屋本陣には「上段の間」が2ヶ所もあったというからかなり本格的な茶屋でした。こんな山の上の場所ですが、それなりの数の人がここで暮らし、集落を形成していたようです。明治期には小学校もあって、明治11年(1878年)の明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附があったそうです。へぇ~~…です。
今は廃墟と化して誰も住んでいませんが、集落跡には石垣や墓、コンクリート製の下水溝等が残骸のように残され、生活の臭いが微かに漂ってきます。
いったん下った先にある登り坂が「山中坂」。別名を「飯喰い坂」と呼ばれていた急坂です。ここから先はあまりに厳しい急坂が長く続くので、空腹では登るのは困難ということで、旅人達は先ほどの山中茶屋でちゃんと飯を喰ってから登ったのだと言われています。なるほど、先ほど通った山中茶屋の集落はこの坂があったから成立していたのですね。そういう坂のようです。私は朝食をしっかり食べてきたので空腹というわけではないのですが、再び飴を口に含んで糖分補給しながら登っていきました。
崖の上に今は廃墟となった建物があります。
ブナと思われる広葉樹の林の中を、厚く堆積した落ち葉を一歩一歩踏みしめながら進みます。
山中坂を登っていくと、そこには古い路線バスが不法投棄されていました。バスは地元の千曲バスの路線バスで、バスマニアの間では有名な日野自動車製のセンターアンダーフロアエンジンバスBD系、通称ブルーリボン。このタイプのバスは昭和44年(1969年)まで製造が続けられたので、少なくとも1980年代までは現役で走り続けていたでしょうから、廃棄されたのはそれ以降と言うことになります。なんと。こんな大きなバスをいったいどうやってここまで運んできたのでしょうね。見る限り、ここまでバスが通れるほどの幅のある道はありません。
さらに、その奥には廃墟となった別荘かホテル(レストラン?)らしき建物も。
かつてはこの路線バスのほかにも「座頭ころがし」を登りきった先に乗用車(確かトヨタマークⅡセダン)が不法投棄されていたそうで、ネットで調べてみると碓氷峠越えの話題の中では必ず登場してくる有名な遺物だったのですが、いつの間にやら撤去されているようです。ここまで来る間に見掛けませんでした。解体して撤去されたのでしょうか? 思い出してみると、「座頭ころがし」のあたりはここよりもっと道幅が狭いところです。いったいどのようにしてそこまでクルマを持っていって捨てたのか…、不思議で仕方ありません。
あえぎあえぎ「飯喰い坂」を登りきると「一つ家跡」の小さな広場があります。「ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている」と記されているのですが、いったいどんな悪さをして旅人達を苦しめていたのでしょうね。なんとも意味深な記述です。どういう老婆だったのでしょうね。長谷川町子さん原作の新聞の4コマ漫画で、青島幸男さん主演でテレビドラマにもなった『いじわるばあさん』を思いだします。逸話になって残るくらいですから、悪質な悪さというよりも、「いじわるばあさん」のように憎めない意地悪だったのではないでしょうか。
先ほどからC班の男性4人の話題は先ほど見た廃バスをどうやってあそこまで運んできたのか?…ってことでした。どなたかが運んできたわけですから、きっと方法はある筈です。
で、その謎解きの答えをついに見つけてしまいました。下の写真の左端に写っているのが道路の境界杭です。杭はほとんどが土に埋まり、頭の部分だけがひょっこり顔を出しているだけなのですが(写真を撮るために上部の土をどけてみました)、境界杭ということはここまでが道路だということです。写真に写っているのは道路の左側の境界杭で、そういう目で探して見ると、道路の右側にも同じようにほとんど土に埋まった境界杭があります。と言うことは、元々この道路はこの左右の境界杭の間の道幅があったということです。約3メートルといったところでしょうか。これだけの道幅があれば、あの路線バスだって十分に走行することができます。そういう目でここまで歩いてきた道路を眺めて見ると、木が植わっている幅がそれまでよりも若干広くなっている感じがします。よぉ~くよぉ~く目を凝らして眺めてみると、クルマが通った轍(わだち)の跡らしきものさえも確認できます。なぁ~んだ!!…って皆さん納得(^-^)
昔はこの境界杭ギリギリまでの道幅があった道路だったのが、おそらく途中で土砂災害が発生したかなにかの原因でこの道路が通行止めになってしまった。そうなると1台もクルマが通らなくなったので、十分な道路整備ができなくなった。そのうち周辺の土砂が崩れてきて道幅が徐々に徐々に狭くなっていった。管理されていないから当然のことです。そして今のように人しか歩けない狭い道幅の道路になってしまった…というのがあの廃バスの種明かしのように思えます。もしかしたら、昔はあの廃ホテル(もしくはレストラン)のところまで定期路線バスが運行されていたのかもしれません。で、耐用年数が来て廃車になった後、あのホテル(もしくはレストラン)でしばらく物置きとして使用されていたのでしょう。どうです、見事な謎解きでしょ(^-^)n
……(その10)に続きます。
路面幅の狭いV字形の堀割道が続きます。
しばらく歩くと杉林の中を通る狭い道に変わります。このあたりは「入道くぼ」と呼ばれています。説明板の上に「線刻馬頭観音」があります。「入道くぼ」という不思議な地名ですが、説明板を読んでも何のことなのかよく分かりません。手前の深い切通し道のことを指すのだろうと思います。ここから先は赤土のだらだらした下りが続く「馬込(まごめ)坂」です。ここまでほとんど登り坂ばっかりだったので、下り坂はちょっと新鮮です。
「入道くぼ」を出ると車が通れるほどの広い道になるのですが、左側にはかなりしっかりしたコンクリート製の擁壁が造られています。ごく最近(おそらく昭和の時代)まで人が住んでいた形跡のようです。こんな山の中の急峻で狭い道の脇にいったい何の目的で造られたものなのでしょうか…。これも謎です。
このあたりは、なかなか素敵な散策路のような感じです。
コンクリートの擁壁を通り過ぎると「山中茶屋跡」の説明板があります。山中茶屋は碓氷峠ルートのちょうど中心あたりにあった茶屋で、寛文2年(1662年)の記録によると、この場所には13軒の立場茶屋があり、茶屋本陣や寺もあり、その茶屋本陣には「上段の間」が2ヶ所もあったというからかなり本格的な茶屋でした。こんな山の上の場所ですが、それなりの数の人がここで暮らし、集落を形成していたようです。明治期には小学校もあって、明治11年(1878年)の明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附があったそうです。へぇ~~…です。
今は廃墟と化して誰も住んでいませんが、集落跡には石垣や墓、コンクリート製の下水溝等が残骸のように残され、生活の臭いが微かに漂ってきます。
いったん下った先にある登り坂が「山中坂」。別名を「飯喰い坂」と呼ばれていた急坂です。ここから先はあまりに厳しい急坂が長く続くので、空腹では登るのは困難ということで、旅人達は先ほどの山中茶屋でちゃんと飯を喰ってから登ったのだと言われています。なるほど、先ほど通った山中茶屋の集落はこの坂があったから成立していたのですね。そういう坂のようです。私は朝食をしっかり食べてきたので空腹というわけではないのですが、再び飴を口に含んで糖分補給しながら登っていきました。
崖の上に今は廃墟となった建物があります。
ブナと思われる広葉樹の林の中を、厚く堆積した落ち葉を一歩一歩踏みしめながら進みます。
山中坂を登っていくと、そこには古い路線バスが不法投棄されていました。バスは地元の千曲バスの路線バスで、バスマニアの間では有名な日野自動車製のセンターアンダーフロアエンジンバスBD系、通称ブルーリボン。このタイプのバスは昭和44年(1969年)まで製造が続けられたので、少なくとも1980年代までは現役で走り続けていたでしょうから、廃棄されたのはそれ以降と言うことになります。なんと。こんな大きなバスをいったいどうやってここまで運んできたのでしょうね。見る限り、ここまでバスが通れるほどの幅のある道はありません。
さらに、その奥には廃墟となった別荘かホテル(レストラン?)らしき建物も。
かつてはこの路線バスのほかにも「座頭ころがし」を登りきった先に乗用車(確かトヨタマークⅡセダン)が不法投棄されていたそうで、ネットで調べてみると碓氷峠越えの話題の中では必ず登場してくる有名な遺物だったのですが、いつの間にやら撤去されているようです。ここまで来る間に見掛けませんでした。解体して撤去されたのでしょうか? 思い出してみると、「座頭ころがし」のあたりはここよりもっと道幅が狭いところです。いったいどのようにしてそこまでクルマを持っていって捨てたのか…、不思議で仕方ありません。
あえぎあえぎ「飯喰い坂」を登りきると「一つ家跡」の小さな広場があります。「ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている」と記されているのですが、いったいどんな悪さをして旅人達を苦しめていたのでしょうね。なんとも意味深な記述です。どういう老婆だったのでしょうね。長谷川町子さん原作の新聞の4コマ漫画で、青島幸男さん主演でテレビドラマにもなった『いじわるばあさん』を思いだします。逸話になって残るくらいですから、悪質な悪さというよりも、「いじわるばあさん」のように憎めない意地悪だったのではないでしょうか。
先ほどからC班の男性4人の話題は先ほど見た廃バスをどうやってあそこまで運んできたのか?…ってことでした。どなたかが運んできたわけですから、きっと方法はある筈です。
で、その謎解きの答えをついに見つけてしまいました。下の写真の左端に写っているのが道路の境界杭です。杭はほとんどが土に埋まり、頭の部分だけがひょっこり顔を出しているだけなのですが(写真を撮るために上部の土をどけてみました)、境界杭ということはここまでが道路だということです。写真に写っているのは道路の左側の境界杭で、そういう目で探して見ると、道路の右側にも同じようにほとんど土に埋まった境界杭があります。と言うことは、元々この道路はこの左右の境界杭の間の道幅があったということです。約3メートルといったところでしょうか。これだけの道幅があれば、あの路線バスだって十分に走行することができます。そういう目でここまで歩いてきた道路を眺めて見ると、木が植わっている幅がそれまでよりも若干広くなっている感じがします。よぉ~くよぉ~く目を凝らして眺めてみると、クルマが通った轍(わだち)の跡らしきものさえも確認できます。なぁ~んだ!!…って皆さん納得(^-^)
昔はこの境界杭ギリギリまでの道幅があった道路だったのが、おそらく途中で土砂災害が発生したかなにかの原因でこの道路が通行止めになってしまった。そうなると1台もクルマが通らなくなったので、十分な道路整備ができなくなった。そのうち周辺の土砂が崩れてきて道幅が徐々に徐々に狭くなっていった。管理されていないから当然のことです。そして今のように人しか歩けない狭い道幅の道路になってしまった…というのがあの廃バスの種明かしのように思えます。もしかしたら、昔はあの廃ホテル(もしくはレストラン)のところまで定期路線バスが運行されていたのかもしれません。で、耐用年数が来て廃車になった後、あのホテル(もしくはレストラン)でしばらく物置きとして使用されていたのでしょう。どうです、見事な謎解きでしょ(^-^)n
……(その10)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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