2017/08/02

中山道六十九次・街道歩き【第13回: 松井田(五料)→軽井沢】(その13)

矢ヶ崎川に架かる「二手橋」に着きました。軽井沢宿の飯盛女(遊女)が客をここまで見送り、東西二手に別れたことからその名がついたそうです。この橋を渡った先からが信濃国(現在の長野県)最初の宿場である軽井沢宿です。

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浅間山の麓に位置する軽井沢宿は江戸・日本橋から数えて18番目の宿場で、天保14年(1843年)の記録によると、軽井沢宿の人口は451人、家数は119軒、本陣1、脇本陣4、旅籠21軒。沓掛宿、追分宿とともに浅間根腰の三宿と並び称され、中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、碓氷峠越えを控えた旅人でたいそう賑わった宿場だったのだそうです。最盛期には100軒近くの旅籠があり、多くの飯盛女が働いていたといわれています。

江戸時代の軽井沢一帯は寒冷地帯であるため農作物に恵まれず、中山道を行き交う旅人達が落とす路銀だけが唯一の収入源でした。しかし、時代が明治に入り、明治17年(1884年)に碓氷新道(現在の国道18号線)が開通すると、中山道を歩く人はいなくなり、軽井沢宿は急速に衰退の一途を辿ってしまいました。高原野菜がまだ日本には普及していない時代だったので、寒冷地の軽井沢はろくに食べ物もない寒村で、宿場への人の流れが完全に絶たれてしまうと、ふつうに生活することさえ困難な状況でした。しかし、この寂れた軽井沢がカナダ人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーの来訪によって、一気に盛り返すことになります。

明治19年(1886年)、布教の途中で偶然寂れた軽井沢を通りがかったのが、カナダ生まれで英国国教会の宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーと友人の英語教師、ジェームズ・ディクソンでした。彼等は軽井沢の涼しい自然環境に祖国スコットランドの風景を思い出し、この地を「屋根のない病院」だと感動しました。彼等は既に休業状態に陥っていた旅籠『亀屋』を訪れて、「ひと夏の間、借りたい」と申し出ました。その理由を聞いた亀屋の主人・佐藤万平はこれを好機と捉え、彼等2人を通して外国人の生活習慣や彼等をもてなす技術を学びました。

アレキサンダー・クロフト・ショーはよほど軽井沢のことを気に入ったようで、その後も毎年夏には家族を伴って避暑に訪れるようになり、2年後の明治21年(1888年)には旧軽井沢の大塚山(だいづかやま)に簡素ながらも別荘まで建て、友人の宣教師や日本の知識人達にも勉強にもってこいの絶好の保養地であると紹介しました。その結果、外国人、財界人、文人、芸術家達の別荘が増え、幾つかの教会も建つことになり、西洋文化の香り漂う現在まで続く高級別荘地・軽井沢の形が作られることになりました。

いっぽう佐藤万平のほうは、明治27年(1894年)、旅籠の一部を洋風に改装し、『亀屋ホテル』と名乗り、さらに、その翌年の明治28年(1895年)、「万平ホテル」と名称を改め、今に至っています。

二手橋を渡ったすぐ右手に、そのアレキサンダー・クロフト・ショーの胸像と教会が建っています。

ちなみに「軽井沢宿」は正しくは(古くは)「かるいさわしゅく」と言います。「軽井沢」が「かるいざわ」と濁音で濁って発音されるようになったのは、アレキサンダー・クロフト・ショー以来外国人が数多く訪れるようになった以降のことだそうです。外国人にとっては「かるいさわ」と発音するのが難しいそうで、彼等が「かるいざわ」と濁音を使って発音するようになったのが最初ということのようです。

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その胸像の先の街道際に天保14年(1843年)に当地の俳人達によって建てられた松尾芭蕉の句碑があります。

「馬をさえ ながむる雪の あした哉」   松尾芭蕉


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また、軽井沢宿は天明2年(1783年)に発生した浅間山の大噴火により赤熱した火山弾の直撃を受けて火災が起こり、51軒の家屋が消失したのをはじめ、降り積もった石や砂は約1.4メートルにも達したため、その重さに堪えられず倒壊した家屋が150軒にものぼったのですが、早目に避難を行なったため、人畜に対する被害は意外なほど少なかったと言われています。

「旧軽井沢銀座」として有名な別荘街を進んでいきます。

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松尾芭蕉の句碑から1~2分歩いた右側に江戸時代初期の創業の旅籠「鶴屋」があります。明治以降は「つるや旅館」となり、島崎藤村、芥川龍之介、志賀直哉など多くの文人が滞在したことで知られています。

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その「つるや旅館」のあたりから軽井沢宿の中心部になるのですが、本陣1軒、脇本陣が4軒もあった軽井沢宿も現在は「旧軽井沢銀座(旧軽銀座)」と称して、休日には多くの人が足を運ぶお洒落な観光地となっています。その一方で、中山道の宿場時代の面影は急速に失われてしまい、今ではさきほどの「つるや旅館」の“名”に、かろうじて当時の面影を留めているにすぎなくなってしまっています。この日も「旧軽井沢銀座」には多くの観光客が訪れていました。一様にリュックを背負った私達中山道六十九次街道歩きの一団は、若干場違いな感じさえ受けます。そうした「旧軽井沢銀座」にいらっしゃる大勢の観光客の皆さんも、是非少し足を延ばしてもらって、中山道の碓氷峠に行っていただきたいものだと思います。軽井沢はテニスとゴルフとアウトレットでのショッピングだけの街ではありません。中山道を歩いて軽井沢にやってくると、中山道が東山道と呼ばれた時代からの様々な歴史が残る街でもあるんだということを知ってもらいたいと思えてきます。

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軽井沢と言えば日本人として絶対に忘れてはならないのが、これ! 今上天皇陛下と美智子皇后陛下が初めて出逢われたのも、この軽井沢にあるテニスコートでした。

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旧軽銀座パーキングの看板下を右に入った奥に「明治天皇軽井澤行在所碑」が建っています。ここは軽井沢宿の本陣があった場所で、明治天皇は北陸東海御巡幸の際にここで昼食を摂られたのだそうです。

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「脇本陣 江戸屋」と、軽井沢宿らしく“脇本陣”の名称の付いたカフェがこの奥にあります。ここに脇本陣があったのでしょう。

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そこから3~4分も歩くと、三笠通りとの交差点で旧軽井沢銀座も終わります。軽井沢の宿場もここまでで、江戸時代にはここに枡形虎口があり、クランクのように直角に折れ曲がった「京側枡形道」があったのですが、現在は大きなロータリーに変身しています。ちなみに“虎口(こぐち)”とは日本の中世以降の城郭等に多く見られる出入り口のことで、「こぐち」には狭い道・狭い口という意味があります。このうち、箱形の石垣で形作られる方形の空間のことを枡形と言います。すなわち、枡形虎口を通り抜けるためには2つの門を潜る必要があり、防御上、堅固とされていました。

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この日の私はこういう格好で碓氷峠を越えました。スタート時は長袖Tシャツを着ていたのですが、この日は快晴で、正午を過ぎて気温がグングン上昇したので、さすがに暑くなって、碓氷峠の頂上の熊野神社のところで半袖ポロシャツに着替えました。足首のガムテープと首に巻いたタオルがあまりにもダサいですよね。この格好で華やかな旧軽銀座を歩きました。場違いもいいところですよね。

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こういう格好までして対策をうった蛭(ヤマビル)ですが、おかげさまで私は被害に遭うことはありませんでした。しかし、参加者の中には蛭に取り憑かれて吸血の被害を受けた方が何人もいらっしゃいました。私が属したC班ではウォーキングリーダーさんが蛭の被害に遭いました。ウォーキングリーダーさんは足首を覆う登山用のスパッツを装着していたのですが、そのスパッツの僅かな隙間から蛭の侵入を許したようです。それも2匹も。それがコイツです。

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蛭(ヤマビル)の体は細長いのですが、ウォーキングリーダーさんの血液をたっぷり吸って、丸々と膨らんでいます。蛭は靴に付くとシャクトリムシのように体の上の方に上がって行き、服や靴の裾や袖口などの隙間からもぐりこんで皮膚に到達します。なので、ガムテープで足首をグルグル巻きにしたのは大正解でした。

蛭は噛まれても蛭の唾液に麻酔成分があるため痛みを感じないまま血を吸われ、吸血痕からの出血を見て気がつく場合がほとんどです。ウォーキングリーダーさんも軽井沢に着いてから蛭に取り憑かれていることに気付きました。また、蛭の唾液には血液の凝固作用を妨げる成分も含まれているそうで、蛭を取り除いても1時間程度は出血が止まらず、大怪我をしたかのように靴下や衣服がみるみる真っ赤に染まります。ですが、前述のように麻酔成分が含まれているため、流血の多さのわりには痛くも痒くもないのだそうです。毒性もなく、通常、傷は数日で治るのだそうです。

そうそう、今回、蛭の被害に遭った方の共通項を調べたところ、全員の血液型がO型でした。血液型がO型の方が蛭の被害に遭いやすいという話があるようで、調べてみるとやっぱりそうでした。血液型がO型の方、山に行く時にはくれぐれもご注意ください。ちなみに、私の血液型はA型ですd(^_^o)

蛭(ヤマビル)の危険性はありますが、歩いた後の感想で述べさせていただきますと、この旧碓氷峠越えの道を歩かないで、中山道を語るなかれ!…とさえ思えてきます。皆さんも機会があればこの区間だけでも、是非、歩いていただきたいと思います。絶対にお薦めです。

碓氷峠の頂上を出発したのが14時10分頃。この日のゴールである軽井沢宿の京側枡形道跡に到着したのが15時10分頃。距離が短く下りだったこともあって、約1時間で軽井沢まで降りてくることができました。ほぼ予定通りです。

それにしても、あんなに細くて険しい山道が150年ほど前までは日本の大幹線道路「中山道」だったのですね。途中、人一人がやっと通れるような細い道幅の区間が幾つもありました。横が崖のようになって危険な区間も。あの細くて険しい山道を古くは日本武尊の東征にはじまって武田軍、豊臣軍の大軍勢、参勤交代の各藩の大名行列、徳川家に降嫁される皇女和宮の一大行列等などが大きな荷物を携行しながら通ったわけですね。途中で上り下り双方からやって来るそれらの大行列が運悪く鉢合わせしたことだってあったでしょうに、そういう場合は一体どうやってすれ違ったんだろう…と思ってしまいます。

また、テレビや映画の時代劇等では、大名行列が往来を通り過ぎる時には必ず先導の旗持ちの発する「下にぃ~、下にぃ~」との声にあわせて百姓・町人などが道の脇に寄り平伏しているシーンが登場しますが、そういう時にこの碓氷峠越えの区間では一体どうしたのでしょうね。道幅が狭すぎて、脇に寄ろうにも寄りようがありません。無理に寄ろうとしたら急斜面を転がり落ちて、深い谷の底ってことにもなっちゃいそうです。

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ついに中山道最大の難所と言われる碓氷峠を越えて、信州(信濃国:長野県)に入りました。ついに関東地方を出ました(“関東”とは関所より東という意味なので、碓氷関所を抜けた時点で、関東を出ていました)。中山道最大の難所という言葉にふさわしく、さすがにキツかったですが、歩き終えた達成感は半端なくあり、爽やかです。これまで13回あった『中山道六十九次街道歩き』の中では、間違いなく一番です。

これから信州・長野県の中山道を歩いていくわけですが、これまでの関東地方とはひと味もふた味も違った中山道の雰囲気を味わえるのではないか…と期待しています。前日も同じC班の街道歩きの“先達”がおっしゃっていたことですが、碓氷峠までが序章で、碓氷峠を越えたこれからが中山道街道歩きの本番なのかもしれません。今回も碓氷峠だけでなく、五料の茶屋本陣や碓氷関所、坂本宿…と、往時を偲ばせる雰囲気が今も色濃く残るところばっかりで、見どころ満載でした。おかげで、このブログも(その1)から(その13)までの全13回と長いものになり、掲載させていただいた写真の枚数も桁違いのものになっちゃいました。そのくらい私の好奇心を掻き立てる素晴らしい街道歩きだったってことです。

中山道はかつては「木曽街道」とも呼ばれていました。これからその木曽にも入っていきます。江戸時代の浮世絵師、渓斎英泉(けいさいえいせん)と傑作『東海道五十三次絵』を描いた歌川広重が合作して中山道の宿場の風景を描いた一連の浮世絵の名作は『木曽海道六拾九次』で、「中山道」ではなく「木曽海道」と題されていたくらいです。ここからが本番です。

また、峠越えもこの碓氷峠だけではありません。中山道には「中山道三大峠」と呼ばれる峠があり、碓氷峠はその1つでした。この先にも和田峠、そして鳥居峠という難所の峠が控えています。碓氷峠(旧碓氷峠)の頂上が標高1,190メートルでしたが、鳥居峠(奈良井宿~藪原宿間)の最高点の標高は1,197メートル、和田峠(和田宿~下諏訪宿間)の最高点の標高は1,531メートルと、碓氷峠よりも高いところを通る峠です。特に和田峠。標高もさることながら前後の和田宿と下諏訪宿の間は20kmほどもあるので、もしかしたら和田峠のほうが厳しい難所なのかもしれません。

さらに難所という点では、「中山道三大難所」のうち、太田の渡し(伏見宿~太田宿間)と木曽の桟(かけはし:福島宿~上松宿間)の2つがこれから先に残っています。

これまで以上に期待が高まります。碓氷峠越えという1つの目標はクリアしましたが、この先も歩いて京都・三条大橋を目指してみようというモチベーションが湧いてきました。次は和田峠・鳥居峠を越え、木曽の桟を過ぎて木曽路を抜けるところまで(すなわち長野県区間完歩)を1つの目標に歩いてみたいと思っています。

この日は24,008歩、距離にして17.1km歩きました。距離もさることながら標高差約800メートルの山道を歩いてきたので、脚の筋肉がパンパンです。

次回【第14回】も1泊2日で、この軽井沢宿から沓掛宿、追分宿、小田井宿、岩村田宿を経て塩名田宿まで歩きます。ここからは地名としてあまり有名でない小さな宿場が続きますが、それだけに昔の面影が今も色濃く残っているのではないかと期待できます。次回【第14回】は1ヶ月後の6月24日(土)、25日(日)に行く予定にしています。



――――――――〔完結〕――――――――