2017/09/04
エッ! 邪馬台国は四国にあった?(その4)
魏志倭人伝によると、その投馬国から最終目的地である邪馬台国までは「水路を十日、陸路を一月」という表現で示されています。ここは「水路を十日、陸路を一月」という表現をどのように解釈するかが重要になります。ふつうに読むと「水路を10日進み、そこで上陸して、あとは陸路を1ヶ月進む」と読み取れるのですが、そこで違和感を覚えるのは、もしそういうことであれば上陸する地点の名称が書かれていないとおかしいという点です。かりにも邪馬台国の玄関港です。末盧国や投馬国と同様にそれなりの規模の港を有した相当大きな町(国)だったと思われますので、その地点の名称が出てこないというのはあまりにも不自然です。なので、ここは「水路10日」と「陸路1ヶ月」を、“and”ではなく、“or”で繋いで考えるほうが適切なのではないか…と私は推測してみました。「水路を使えば10日、陸路を使えば1ヶ月」という意味です。おそらく「水路を使えば10日で行けないこともないけれど、それでは外海(太平洋)を航行することになるので大変に危険な航海になることから、投馬国から邪馬台国までは陸路を使うのが一般的。陸路を使えば一本道で約1ヶ月で行ける」…と言ったのを、バッサリ短く省略して、「水路を十日、陸路を一月」という風に実にアッサリした表現にしたのではないかと、私は推察しています。
まずは水路です。「南に向かうと邪馬台国…」とは足摺岬を回らないといけないので、確かに投馬国(愛南町)からは南に向けて出航しないといけません。水上とは四国の南の海上を黒潮に乗って徳島のほうまで航海することを意味しているように思えます。黒潮はこのあたりを最大で4ノット((約7.4km/時:秒速1メートルから2メートル)のかなり速い速度で、100km近い幅の帯状の潮流になって西から東に流れていますから、10日も順調に航海すれば徳島(の、おそらく阿南市付近)には到達することができます。しかし、これはかなり危険な航海です。下手をすれば紀伊半島の南端の潮岬のさらに南を通って、どこまでも流されていってしまいます。
問題は陸路。陸路1ヶ月という謎を解ければ、最終的に邪馬壹國がどこにあったのかの特定に繋がると思っています。で、実は私はこの謎をいともアッサリと見つけてしまったのです。四国の道路地図をご覧いただくとお分かりいただけますが、高知県の四万十市から四国を西から東に四国山地の山中を横断するように国道439号線が延びています。
この国道439号線、起点は徳島市の本町交差点。四国山地に沿って四国地方の中山間地域を東西に縦貫し、高知県四万十市に至る国道で、総延長は348.3km。四国の国道では国道11号線に次ぐ第2位の長大路線です。地図の上では、四国内陸部を袈裟懸けに短絡する道路のように見えますが、起点の徳島市本町交差点から四国霊場第12番・焼山寺への参道に当たる神山町内の区間(国道438号線との重複区間)、JR土讃線の豊永駅付近から大杉駅付近までの国道32号線との重複区間、高知県仁淀川町にある国道33号線との重複区間を除けば、ほとんどが乗用車1台分の道幅、つまり2.5メートル程度しかない、いわゆる「酷道」と呼ばれる未改良道路になっています。一般的に言われる悪路であるほか、路面を覆うコケや落ち葉、脆い崖などが通行条件の悪い酷道の要素を全て持っている路線のようで、岐阜県の国道418号線や紀伊半島の国道425号線と並んで「日本三大酷道」に数えられているその方面のマニアには有名な路線のようです。酷道マニアの間では、国道439号線の数字語呂合わせで「ヨサク(与作)」と呼ばれているそうです。
私は『晴れ時々ちょっと横道』の第24回を書くために四国の旧街道を調べようと四国の道路地図を見ているうちに“発見”しちゃったのですが、なにが凄い!ってそのコースというのが凄い!。起点の徳島から西へ向かって進むと、名東郡佐那河内村、名西郡神山町、神山からは鮎喰川に沿ってその上流まで遡り、美馬郡木屋平村、そしてあの剣山の山頂付近をかすめるように走り、有名なかずら橋のたもとを過ぎて、三好郡東祖谷山村に至ります。そこは『邪馬台国四国(徳島)説』だけでなく、日本の歴史の始まりは徳島からだった!?…とする『阿波古事記伝説』、あげくは古代イスラエル人が剣山のどこかに秘宝“アーク”を隠し、現在も眠っている!?…とする『ソロモン秘宝伝説』等々、歴史ロマンに彩られた徳島県の数多くの伝説の中に出てくる地名ばかりです。特に注目すべきは「神山」。この地名はいったい何を物語っているのでしょうね。
徳島県観光協会HP
ちなみに、国道439号線は高知県に入ってからは長岡郡大豊町、吾川郡吾北村、吾川郡仁淀川町(旧池川町、吾川村、仁淀村)、高岡郡津野町(旧東津野村)、幡多郡大正町…と通って高知県四万十市に至ります。この高知県四万十市が西の起点だというところも気になるところです。吾川郡仁淀川町で国道33号線(松山街道)と、さらに高岡郡津野町で国道197号線(檮原街道)と交差します。また、剣山の山頂付近で徳島市の起点から重複していた国道438号線が分かれ、その国道438号線は北に向かって香川県坂出市に至ります。この国道438号線の途中には弘法大師所縁の満濃池があります。ここから想像するに、この国道439号線、古代においては四国各地を結ぶ幹線道路だったようなのです。
最初にこの道路の存在を見つけた時、なんで、酷道と言われるくらいのこの山の中を走る狭い道路を「国道」として国が管理しないといけないのか…、それが最大の謎でした。四国山地を東西に縦貫すると言っても、交通量はたいしたこともなく、経由する自治体もほとんどが“村”。生活道路ではあっても四国縦貫道路としての重要性をほとんど感じないのに、それでも「国道」。これにはきっと隠された謎があるように思いました。その答えも、この魏志倭人伝から読み解けた気がしています。ここが投馬国から邪馬台国までの陸路のコース。2,000年以上前の倭国にとっては国家の根幹を成す最重要幹線道路だったからです。総延長は348.3km、四万十市から剣山まででも300kmを超える道路です。しかも四国山地のど真ん中を東西に縦貫するため標高1,000メートル以上の区間も多く、アップダウンも激しいため、多くの荷物を持って1日で進める距離はせいぜい10kmから15km。それだと陸路で1ヶ月というのは十分に理解できることです。もしそうだとすると、『国宝』とも呼んでもいい歴史を秘めた道路なので、今でも国が管理する「国道」なのではないか…と、勝手に想像してしまいます。
ちなみに、この投馬国(愛南町)からはいったん南の高知県宿毛市方向に向けて歩き、宿毛市あたりから東に向きを変えることになります。なので、ここはいささかこじつけっぽいのですが、「南に向かうと邪馬台国…」も、あながち外れてはいないことになります。
古代の道が山の中を通っていることは、なんら不思議なことではありません。『晴れ時々ちょっと横道』の前回第24回でも書きましたように、橋梁技術が未発達だった昔においては、極力川幅が狭い所を通ろうと道路は山の中を通るのが一般的でした。京都と江戸を結ぶ幹線道路も海側を通る東海道と、山の中を通る東山道(中山道)があり、徳川家康が東海道五十三次を整備するまでは、東山道のほうが一般的だったという事実があります。なので、国道439号線もその昔は四国の一大幹線道路だったとしても、なんらおかしいことではありません。むしろ極めて自然なことです。現代人の感覚で物事を考えてはいけません。
それよりも、剣山の山頂付近を通過して山深い四国山地のど真ん中を東西に縦貫して高知県の四万十市と徳島県徳島市を結ぶ長い道路があるという事実をどのように解釈すべきかだと思います。いったい誰が何のために作った道路なのか…。
加えて、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の官(役人)の名前も気になるところです。伊支馬(イキマ)、彌馬升(ミマショウ)、彌馬獲支(ミマワキ)、奴佳鞮(ナカテイ)。特に気になるのが彌馬升(ミマショウ)と彌馬獲支(ミマワキ)です。この国道439号線の沿線には美馬(みま)郡木屋平村がありますからね。彌馬(ミマ)とは邪馬台国で卑弥呼を支える有力者の苗字だったのかもしれません。“みま”と言えば、現在は平成の大合併により宇和島市に編入されていますが、愛媛県にもかつては北宇和郡三間(みま)町という町がありました。この旧三間町あたりも私が福岡県行橋市あたりと推定した不弥国から、愛媛県愛南町あたりと推定した投馬国への経路上にあります。なにか関係があるのでしょうか。気になるところです。
そうそう、魏志倭人伝には「投馬国から邪馬台国まで1ヶ月を要する」…と実にアッサリと書かれていることも、どこか不思議に思われませんか? 同じ陸路でも九州では末盧国から伊都国まで東南に500里(約40km)、伊都国から奴国まで東南に100里(約8km)、奴国から不弥国まで東に100里(約8km)…と100里(約8km)を最短の単位として途中の経路が紹介されていたのが、投馬国から邪馬台国までは実にアッサリと「陸路1ヶ月」という表現だけです。これって途中に特筆すべき國(都市)のようなものがいっさいなく、迷うことのない一本道をただひたすら前へ前へ進むってことを意味しているのではないでしょうか。もちろん、宿泊したり食事を摂ったりするために宿場のような小規模な集落は道路沿いのところどころに点在していたとは思われますが、せいぜいその程度のものだったのではないでしょうか。これも投馬国から邪馬台国までの陸路が現在の国道439号線と重なるということの証拠に十分なるのではないか…と私は思います。まぁ~、古代の人も現代人も、考えることってそれほど違っていませんから。
また、魏志倭人伝には「女王国より北は、おおよその戸数や距離を記すことができるが、その他の国ははるかに遠く、詳細はわからない」という表現があります。これは瀬戸内海を挟んだ北側(の今の中国地方)にも国はあるけど、まだそこまでは倭國(邪馬台国)の統治は十分には及んでいないと読み取ることも可能かと思います。で、この時点で邪馬台国北部九州説は完全に論理破綻してしまって、ダメ押しのアウトです。北部九州の北側には東シナ海しかありませんから。畿内説(近畿地方説)も「女王国より北」を特定することができず、同様に怪しくなります。
さらに、「(帯方)郡を出て女王国まで1万2,000里である」という文章もあります。短里で1万2,000里というと、約900km~1,000kmです。帯方郡は朝鮮半島の北方の現在の平壌(ピョンヤン)付近にあったと推定されることから、邪馬台国が四国の徳島県にあったのだとすると、だいたいその約900km~1,000km圏に入ります。
もうここまで来ると、疑いようがないことですね。倭人が住んでいたという邪馬台国はどこにあったのか?…という歴史の一大論争に終止符を打つ時が来たようです。間違いなく、邪馬台国は四国、それも徳島県の剣山の麓にあったと考えざるを得ません。
いかがですか? 以上はあくまでも私の立てた大胆な仮説に過ぎません。信じるか信じないかは、あなた次第です!
……(その5)に続きます。
まずは水路です。「南に向かうと邪馬台国…」とは足摺岬を回らないといけないので、確かに投馬国(愛南町)からは南に向けて出航しないといけません。水上とは四国の南の海上を黒潮に乗って徳島のほうまで航海することを意味しているように思えます。黒潮はこのあたりを最大で4ノット((約7.4km/時:秒速1メートルから2メートル)のかなり速い速度で、100km近い幅の帯状の潮流になって西から東に流れていますから、10日も順調に航海すれば徳島(の、おそらく阿南市付近)には到達することができます。しかし、これはかなり危険な航海です。下手をすれば紀伊半島の南端の潮岬のさらに南を通って、どこまでも流されていってしまいます。
問題は陸路。陸路1ヶ月という謎を解ければ、最終的に邪馬壹國がどこにあったのかの特定に繋がると思っています。で、実は私はこの謎をいともアッサリと見つけてしまったのです。四国の道路地図をご覧いただくとお分かりいただけますが、高知県の四万十市から四国を西から東に四国山地の山中を横断するように国道439号線が延びています。
この国道439号線、起点は徳島市の本町交差点。四国山地に沿って四国地方の中山間地域を東西に縦貫し、高知県四万十市に至る国道で、総延長は348.3km。四国の国道では国道11号線に次ぐ第2位の長大路線です。地図の上では、四国内陸部を袈裟懸けに短絡する道路のように見えますが、起点の徳島市本町交差点から四国霊場第12番・焼山寺への参道に当たる神山町内の区間(国道438号線との重複区間)、JR土讃線の豊永駅付近から大杉駅付近までの国道32号線との重複区間、高知県仁淀川町にある国道33号線との重複区間を除けば、ほとんどが乗用車1台分の道幅、つまり2.5メートル程度しかない、いわゆる「酷道」と呼ばれる未改良道路になっています。一般的に言われる悪路であるほか、路面を覆うコケや落ち葉、脆い崖などが通行条件の悪い酷道の要素を全て持っている路線のようで、岐阜県の国道418号線や紀伊半島の国道425号線と並んで「日本三大酷道」に数えられているその方面のマニアには有名な路線のようです。酷道マニアの間では、国道439号線の数字語呂合わせで「ヨサク(与作)」と呼ばれているそうです。
私は『晴れ時々ちょっと横道』の第24回を書くために四国の旧街道を調べようと四国の道路地図を見ているうちに“発見”しちゃったのですが、なにが凄い!ってそのコースというのが凄い!。起点の徳島から西へ向かって進むと、名東郡佐那河内村、名西郡神山町、神山からは鮎喰川に沿ってその上流まで遡り、美馬郡木屋平村、そしてあの剣山の山頂付近をかすめるように走り、有名なかずら橋のたもとを過ぎて、三好郡東祖谷山村に至ります。そこは『邪馬台国四国(徳島)説』だけでなく、日本の歴史の始まりは徳島からだった!?…とする『阿波古事記伝説』、あげくは古代イスラエル人が剣山のどこかに秘宝“アーク”を隠し、現在も眠っている!?…とする『ソロモン秘宝伝説』等々、歴史ロマンに彩られた徳島県の数多くの伝説の中に出てくる地名ばかりです。特に注目すべきは「神山」。この地名はいったい何を物語っているのでしょうね。
徳島県観光協会HP
ちなみに、国道439号線は高知県に入ってからは長岡郡大豊町、吾川郡吾北村、吾川郡仁淀川町(旧池川町、吾川村、仁淀村)、高岡郡津野町(旧東津野村)、幡多郡大正町…と通って高知県四万十市に至ります。この高知県四万十市が西の起点だというところも気になるところです。吾川郡仁淀川町で国道33号線(松山街道)と、さらに高岡郡津野町で国道197号線(檮原街道)と交差します。また、剣山の山頂付近で徳島市の起点から重複していた国道438号線が分かれ、その国道438号線は北に向かって香川県坂出市に至ります。この国道438号線の途中には弘法大師所縁の満濃池があります。ここから想像するに、この国道439号線、古代においては四国各地を結ぶ幹線道路だったようなのです。
最初にこの道路の存在を見つけた時、なんで、酷道と言われるくらいのこの山の中を走る狭い道路を「国道」として国が管理しないといけないのか…、それが最大の謎でした。四国山地を東西に縦貫すると言っても、交通量はたいしたこともなく、経由する自治体もほとんどが“村”。生活道路ではあっても四国縦貫道路としての重要性をほとんど感じないのに、それでも「国道」。これにはきっと隠された謎があるように思いました。その答えも、この魏志倭人伝から読み解けた気がしています。ここが投馬国から邪馬台国までの陸路のコース。2,000年以上前の倭国にとっては国家の根幹を成す最重要幹線道路だったからです。総延長は348.3km、四万十市から剣山まででも300kmを超える道路です。しかも四国山地のど真ん中を東西に縦貫するため標高1,000メートル以上の区間も多く、アップダウンも激しいため、多くの荷物を持って1日で進める距離はせいぜい10kmから15km。それだと陸路で1ヶ月というのは十分に理解できることです。もしそうだとすると、『国宝』とも呼んでもいい歴史を秘めた道路なので、今でも国が管理する「国道」なのではないか…と、勝手に想像してしまいます。
ちなみに、この投馬国(愛南町)からはいったん南の高知県宿毛市方向に向けて歩き、宿毛市あたりから東に向きを変えることになります。なので、ここはいささかこじつけっぽいのですが、「南に向かうと邪馬台国…」も、あながち外れてはいないことになります。
古代の道が山の中を通っていることは、なんら不思議なことではありません。『晴れ時々ちょっと横道』の前回第24回でも書きましたように、橋梁技術が未発達だった昔においては、極力川幅が狭い所を通ろうと道路は山の中を通るのが一般的でした。京都と江戸を結ぶ幹線道路も海側を通る東海道と、山の中を通る東山道(中山道)があり、徳川家康が東海道五十三次を整備するまでは、東山道のほうが一般的だったという事実があります。なので、国道439号線もその昔は四国の一大幹線道路だったとしても、なんらおかしいことではありません。むしろ極めて自然なことです。現代人の感覚で物事を考えてはいけません。
それよりも、剣山の山頂付近を通過して山深い四国山地のど真ん中を東西に縦貫して高知県の四万十市と徳島県徳島市を結ぶ長い道路があるという事実をどのように解釈すべきかだと思います。いったい誰が何のために作った道路なのか…。
加えて、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の官(役人)の名前も気になるところです。伊支馬(イキマ)、彌馬升(ミマショウ)、彌馬獲支(ミマワキ)、奴佳鞮(ナカテイ)。特に気になるのが彌馬升(ミマショウ)と彌馬獲支(ミマワキ)です。この国道439号線の沿線には美馬(みま)郡木屋平村がありますからね。彌馬(ミマ)とは邪馬台国で卑弥呼を支える有力者の苗字だったのかもしれません。“みま”と言えば、現在は平成の大合併により宇和島市に編入されていますが、愛媛県にもかつては北宇和郡三間(みま)町という町がありました。この旧三間町あたりも私が福岡県行橋市あたりと推定した不弥国から、愛媛県愛南町あたりと推定した投馬国への経路上にあります。なにか関係があるのでしょうか。気になるところです。
そうそう、魏志倭人伝には「投馬国から邪馬台国まで1ヶ月を要する」…と実にアッサリと書かれていることも、どこか不思議に思われませんか? 同じ陸路でも九州では末盧国から伊都国まで東南に500里(約40km)、伊都国から奴国まで東南に100里(約8km)、奴国から不弥国まで東に100里(約8km)…と100里(約8km)を最短の単位として途中の経路が紹介されていたのが、投馬国から邪馬台国までは実にアッサリと「陸路1ヶ月」という表現だけです。これって途中に特筆すべき國(都市)のようなものがいっさいなく、迷うことのない一本道をただひたすら前へ前へ進むってことを意味しているのではないでしょうか。もちろん、宿泊したり食事を摂ったりするために宿場のような小規模な集落は道路沿いのところどころに点在していたとは思われますが、せいぜいその程度のものだったのではないでしょうか。これも投馬国から邪馬台国までの陸路が現在の国道439号線と重なるということの証拠に十分なるのではないか…と私は思います。まぁ~、古代の人も現代人も、考えることってそれほど違っていませんから。
また、魏志倭人伝には「女王国より北は、おおよその戸数や距離を記すことができるが、その他の国ははるかに遠く、詳細はわからない」という表現があります。これは瀬戸内海を挟んだ北側(の今の中国地方)にも国はあるけど、まだそこまでは倭國(邪馬台国)の統治は十分には及んでいないと読み取ることも可能かと思います。で、この時点で邪馬台国北部九州説は完全に論理破綻してしまって、ダメ押しのアウトです。北部九州の北側には東シナ海しかありませんから。畿内説(近畿地方説)も「女王国より北」を特定することができず、同様に怪しくなります。
さらに、「(帯方)郡を出て女王国まで1万2,000里である」という文章もあります。短里で1万2,000里というと、約900km~1,000kmです。帯方郡は朝鮮半島の北方の現在の平壌(ピョンヤン)付近にあったと推定されることから、邪馬台国が四国の徳島県にあったのだとすると、だいたいその約900km~1,000km圏に入ります。
もうここまで来ると、疑いようがないことですね。倭人が住んでいたという邪馬台国はどこにあったのか?…という歴史の一大論争に終止符を打つ時が来たようです。間違いなく、邪馬台国は四国、それも徳島県の剣山の麓にあったと考えざるを得ません。
いかがですか? 以上はあくまでも私の立てた大胆な仮説に過ぎません。信じるか信じないかは、あなた次第です!
……(その5)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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