2017/09/11
エッ! 邪馬台国は四国にあった?(その7)
魏志倭人伝の第2章「倭國の風俗」にあたる部分には、倭国(邪馬台国)の社会に関する以下のような記述があります。
___________________________________
【現代語訳8】
その習俗では、行事や往来で何かがあれば、すぐに骨を焼いて卜占して吉凶を占い、あらかじめその結果を告げる。その言葉は中国の令亀の法と同じであり、ヒビを見て兆候を占う。集会や座る席には父子男女の区別はない。人々は酒を好んで嗜む。偉い人に逢えば、ただ拍手するだけで跪(ひざまづ)いて拝礼する代わりとする。
倭人の寿命は100年、あるいは8、90年。貴人は妻を4、5人、一般人でも2、3人。婦人は淫らではなく、嫉妬などをしない。窃盗などはせず、訴訟も少ない。法を犯した場合は、軽い場合はその妻子を取り上げ、重い場合は、一族を没収する。尊卑には様々な序列があり。互いによく服従する。
租税や賦を徴収し、その倉庫がある。国々には市があり、そこであるものと無いものを交易している。大倭を使わしてこれを監督させている。女王の国より北には、特別に一大率を置いて諸国を監督させている。諸国はこれを畏れ憚っている。この役目は常に伊都国が担う。国のなかで刺史のような役割をしている。王が使者を使わして洛陽の都や帯方郡、諸韓国に派遣したり、郡から倭国に使者が派遣される時は、いつも港に出向いて捜索して、文章を伝送したり、賜り物を女王に届けるのに、間違いがないようにさせている。
一般人が貴人と道路で出会った時は、後ずさりして草の中に入る。言葉を伝えたり、説明したりするときには、蹲(うずくま)ったり、跪(ひざまず)いたりして、両手は地面について、謹(つつし)み敬(うやま)う姿勢を取る。対応する答えは「噫(あい)」といって、中国語の「然諾(わかりました)」と同じ意味である。
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これを読む限り、倭国(邪馬台国)は犯罪も少なく、非常に規律のとれた穏やかな国だったようです。既にある程度の法治国家であり、「租税や賦を徴収し、その倉庫がある。国々には市(マーケット)があり、そこであるものと無いものとを交易している」という記述からも、かなり進んだ国家統治体制、経済体制が引かれていたように覗えます。読んでいて、なぁ~んか嬉しくなるような記述です。“わかりました”を意味する答えが「噫(あい)」。これは「はい」のことでしょうね。記録するための文字はなくても、独自の言語としての日本語はその頃既に存在していたことが、ここから読み取れます。
ちなみに、私は魏志倭人伝だけでなく、「烏丸鮮卑東夷伝」全体もざっと目を通してみましたが、烏丸、鮮卑をはじめとした他の8国との比較において、倭國に関する部分(いわゆる魏志倭人伝の部分)が一番好意的な内容に書かれているように感じています。倭國は「烏丸鮮卑東夷伝」の一番最後に登場する最も東の辺境の島にある国ですが、もしかすると、あの初代皇帝曹操が率いた魏國は、価値を共有する最大の友好国として、倭國に期待していたのかもしれません。
以上、邪馬台国の場所の推定に関して、理系のアプローチによる大胆すぎるくらいに大胆な私の仮説を述べさせていただきました。歴史学を本職になさっている専門家と称される方々からは「素人が勝手なことを言うな!」とフルボッコに叩かれるかもしれません。でも、私はまったく気にしません。タイムマシンが開発されていないので、現代人の誰も真実をこの目で見てきた人はいないわけで、専門家と称される方々の説にしても、あくまでも現代に残されているものをベースとしたそれぞれの方の推理による仮説の上で論じているものにすぎません。だったら、理系の論理的な視点によるこういう新たな仮説もあってはいいのではないか…と私は思うのですが、いかがでしょうか。論理的な反論をぜひ寄せていただきたいと願っています。それが日本の古代史最大の謎の究明にさらに一歩近づくと思っていますから。
ここまでいろいろなところで発掘された遺跡等の物証に関わる情報が載っている自治体等の公的な機関が運営するサイトを幾つかご紹介させていただきました。私は魏志倭人伝を読み解き、邪馬台国への道を解明するにあたり、私が推察した経路上にある場所に遺されている史跡の情報をその都度ネットで検索して僅かな物証を得るという手法を用いました。新井白石の時代と異なり、インターネットの普及により入手可能な情報量が飛躍的に増えたことから、これからは歴史研究のスタイルも大きく様変わりしていくのではないでしょうか。これまでともすれば“点”の情報にすぎなかった物証を幾つも繋ぎ合わせて“線”の情報に、さらにはそれらをさらに繋ぎ合わせて“面”の情報に拡大し(それも日本国内だけでなく、広くグローバルの視点で)、それに時間軸や政治的情勢、社会情勢等も掛け合わせた多面的な視点での検証が必要になってくると思っています。
その中でも重要なのが“地形”と“気象”。2000年程度の時間の長さの中では地形や気象・気候が劇的に大きく変わったなんてことはまずありえませんし、いつ巨大地震が起きたとか、大きな気候変動が起きたといった事実は、様々な物的証拠が今に残っているため隠しようがありません。そして、文明や都市が消滅したとか、世情が不安定になったといったことの背景には、必ずと言っていいほど巨大地震や大きな気候変動、いわゆる“天変地異”があります。すなわち、地形と気象という疑いようのない事実をベースに歴史を読み解くってアプローチこそが、これからは必要なのではないでしょうか。
ニクソン大統領及びフォード大統領時代のアメリカ合衆国国務長官だったヘンリー・キッシンジャー氏は「どこに行こうとしているのか分からなければ、どんなに道を知っていても、決して辿り着くことはない」や「時間を無駄にするな。有益なことに常に従事せよ。あらゆる不必要な行動をやめよ」といった数々の名言を残していることで知られていますが、その中に「その国を知りたければ、その国の気象と地理を学ばなければならない」という言葉があります。これはけだし名言で、気象と地理への理解こそ、文明を、そして歴史を解き明かす重要な鍵となると私は思っています。
それにしても邪馬台国がいったいどこにあったかの謎解きは壮大なパズルを解くようで、メチャメチャ面白いです。3世紀あたりから大和朝廷が成立した7世紀後半までの歴史上失われた(隠された?)400年間の謎を解き明かす重要なヒントを探るってことに繋がるわけですから、こりゃあ江戸時代の新井白石にはじまって、私も含め多くの人が夢中になるわけです。
最初に書きましたように、魏志倭人伝は文字数にすると僅か2,000文字ほどの短い文章です。短い文章ということは、そこに書かれた漢字1字1字がそれはそれは貴重な歴史遺産だということです。なので、邪馬台国の場所を特定するにあたっても、表面的なヒントが示されている第1章にあたる部分だけを読んであれこれ推理を巡らせるのではなく、第2章や第3章にあたる部分もしっかり読んで、総合的な視点から推理をしていかないといけません。それが魏志倭人伝を含む三国志を西晋の初代皇帝・司馬炎(武帝)に命じられて編纂していただいた陳寿に対する最低限の礼儀だと私は思うのですが、変でしょうか? 特に第2章にあたる「倭國の風俗」の部分には、“鵲”や“青玉”、“丹”といった邪馬台国があった場所の特定に直接繋がるような重要なキーワード(宝)が散りばめられているわけですから。その宝を掘り出さないといけません。
これってコンピュータシステムの開発においてお客様の要求仕様定義、中でも要求分析のフェーズと非常によく似ています。私は若いSE(システムエンジニア)に、「要求分析に一番大事なことは、お客様が要求していることをヒアリング(hearing)するのではなく、リスニング(listening)しようとする姿勢だ」と教えています。ヒアリングの和訳は“聞く”、すなわち、門構えの中に耳が入ります。これはあくまでも自分自身の先入観の中で耳をそばだてることという意味です。なので、お客様からは尊大な態度に受け取られかねませんし、自分に都合が悪いこと、自分に関心のないことは聞き流しがちになってしまいます。いっぽう、リスニングの和訳は「聴く」。耳ヘンに十四の心と書きます。あるいは耳ヘンに+(プラス)目(を横にしたもの)と心と書きます。これは相手(お客様)の気持ちに立って、誠心誠意お客様と向き合おうという姿勢のことです。すなわち、こういう姿勢をとることでお客様は心を開いていただけますし、お客様と一緒になって(心を1つにして)問題や課題に立ち向かうことに繋がります。
お客様って自分自身が直面している問題や課題の本質について意外と気付いていらっしゃらないことが多く、私達SEがお客様から聴き取った(あくまでも)表面的に見える問題や課題を分解し、「それはなぜ?、それはなぜ?、それはなぜ?」…と最低3回くらい「なぜなぜなぜ」を繰り返すことでやっと問題や課題の本質にまで行き着くことができるってことが往々にしてあります。お客様がこれまでどうしようもないと思ってきた難解な問題や課題であっても、意外なところにその問題や課題の本質が隠されていたりすることがあります。その本質を見つけ出すことができたならば、あとはその問題や課題の本質を取り除いて、業務の再構築をするだけです。今の時代、その時に情報の活用というものが不可欠で、問題や課題解決のためのコンピュータシステム導入ということに繋がるわけです。よく「コンピュータは導入したんだけれど、その導入効果がサッパリ現れて来ない」というお客様の不満の声をお聞きします。そういうお客様のコンピュータシステムを見させていただくと、たいていは表面的に見える問題や課題に対してのみ対処療法的に対処したもので、問題や課題の本質にまで踏み込んで対処したものでないことがほとんどです。言ってみれば、本質的には胃癌であるにも関わらず、お腹が痛いからといって単純に胃薬を処方するようなものです。これじゃあいくらお金をかけても、それに見合った導入効果は期待できません。
私はこれまで40年近いSEとしての経験で、そういうことを幾つも幾つも実地で学んできました。理系のアプローチによる歴史の解明というのも、この経験で学んできた手法の単純な応用なのです。魏志倭人伝に書き残された貴重な漢字1字1字に真正面から向き合い、その中から少しでも真実を読み取ろうとする最大限の推理を働かせてみること、それがこのアプローチだということです。だって、この僅か2,000文字ほどの短い文章しか残されていないわけですから。何度も繰り返すことになりますが、僅か2,000文字ほどの短い文章です。邪馬台国の謎に迫ろうとしている人なら、せめて全文を読まなきゃあ。全文を読んだうえで、様々な推理を働かせないといけません。残念ながら、300年前に江戸幕府を代表する学者である新井白石が邪馬台国の場所の特定に関心を示して以来、北部九州説を唱えていらっしゃる方も、畿内説(近畿地方説)を唱えていらっしゃる方も、この魏志倭人伝トータルの視点での場所の考察をされておられる方は、私が調べた限りいらっしゃいませんし、その観点で両説の学者先生の間で喧喧諤諤の議論がなされたという記録も私が調べた限り残っていません。もしご存知の方がいらっしゃったら是非教えてください。どうも新井白石があまりに高名な学者先生だったことで、邪馬台国のあった場所の特定にあたっては、「新井白石の呪縛」のようなものが歴史学者の先生方の間では今も残っているのかもしれません。
前述のように、ネットでこれだけ容易に様々な情報が取得できる時代です。素人と言っても、様々な経験を積んできて、人とは少し違った視点や考え方を持った様々な分野の専門家と呼ばれる方々が、その独自の視点や考え方で歴史というものを改めて眺めてみると、これまで通説で言われてきたこととは少し違った解釈の仕方が出てくるのではないかと思っています。まずはこれまでの通説に少しでも疑問を感じたり、違和感を覚えたりしたことがあったら、皆さんもこれまでの経験を活かして、自分独自の歴史の読み解きにトライしてみたらいかがでしょうか? これはハマります。絶対にお薦めです。
そうそう、長野正孝さんという方が書かれた『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP新書)という本があります。『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)の著者で私が敬愛する“竹村公太郎さん推薦”と表紙の帯に書かれていたので、私も興味を持って購入し、読んでみました。著者の長野正孝さんは元国土交通省港湾技術研究所の部長で、元武蔵工業大学客員教授。広島港、鹿島港、第二パナマ運河など港湾や運河の計画・建設に携わってきた海洋土木工学の専門家です。その本の中で、長野正孝さんも私と同じようにエンジニアの観点から、魏志倭人伝の解釈から邪馬台国の位置の特定に取り組まれておられます。私と異なるのは長野正孝さんの場合、港湾や運河の建造に長年従事してこられた経験から、当時の航海技術や地形に基づく観点からの解釈をしている点で、そこから導き出されたのは、邪馬台国は日本海沿岸、丹後半島地方にあったのだというこれまた大胆すぎるくらいに大胆な仮説。
邪馬台国は丹後半島にあったとする仮説と、その仮説に至る論理展開を読む限り、私としては論理的に異論を差し挟みたいところは多々あるのですが、従来の文系の歴史学者さんのアプローチではなく、このように河川土木工学の専門家である竹村公太郎さんや海洋土木工学の専門家である長野正孝さんといったご自身のこれまでの経験や専門知識に裏打ちされた“理系のエンジニアの視点”で、論理的に歴史を読み解こうというアプローチをなされる方が増えてきていることには、大いに勇気づけられ、刺激を受けます。こういうアプローチをされる方が増えていけば、これまで謎とされてきた古代史の真実の姿の幾つかが、いずれ解き明かされることになるのではないか…と大いに期待しています。
【追記】
魏志倭人伝が書かれているのは三国志。その三国志と言えば諸葛孔明。三国志を知らずとも、この名軍師の名前をご存知の方は多いと思います。三国志において、天下三分の計(いきなり天下を統一するのは難しいので、まずは三分割を目指した上で天下をのぞむという戦略)を提唱し、後に蜀を建国する劉備を軍師として助け、その子劉禅を丞相として支えた人物です。
その諸葛孔明が大活躍するのが「赤壁の戦い」。赤壁の戦いとは、中国の後漢末期の西暦208年、長江中流域にある赤壁(現在の湖北省赤壁市)において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍との間の戦いのことで、この戦いにより天下三分の計の形勢がほぼ決まったとされる三国志の中で最も有名な戦いです。ジョン・ウー監督がメガホンをとり『レッドクリフ』というアクション映画にもなったので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。その映画『レッドクリフ』では、日本人俳優の金城武さんが諸葛孔明の役を演じました。
小説『三国志演義』によると、その赤壁の戦いにおいて、その季節では珍しい東南の風が吹き、火計(火攻め)が成功して曹操の大艦隊が壊滅するというシーンがあります。その際、諸葛孔明は「東南の風を吹かせてみせる」と言い、祭壇を作り祈祷するとどこからか東南の風が吹いてきた‥‥とされていますが、これは諸葛孔明が雲の流れやその時の温度・湿度等から東南の風が吹くのを予め予測していたとも考えられます。すなわち、諸葛孔明は極めて有能な気象予報士だったってことです。このことから、諸葛孔明は気象予報士の間で神様のように尊敬されているようなところがあります。
――――――――〔完結〕――――――――
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いかがでしたでしょうか、理系のアプローチによる私の『邪馬台国四国説』。信じるか信じないかは、あなた次第です!
【現代語訳8】
その習俗では、行事や往来で何かがあれば、すぐに骨を焼いて卜占して吉凶を占い、あらかじめその結果を告げる。その言葉は中国の令亀の法と同じであり、ヒビを見て兆候を占う。集会や座る席には父子男女の区別はない。人々は酒を好んで嗜む。偉い人に逢えば、ただ拍手するだけで跪(ひざまづ)いて拝礼する代わりとする。
倭人の寿命は100年、あるいは8、90年。貴人は妻を4、5人、一般人でも2、3人。婦人は淫らではなく、嫉妬などをしない。窃盗などはせず、訴訟も少ない。法を犯した場合は、軽い場合はその妻子を取り上げ、重い場合は、一族を没収する。尊卑には様々な序列があり。互いによく服従する。
租税や賦を徴収し、その倉庫がある。国々には市があり、そこであるものと無いものを交易している。大倭を使わしてこれを監督させている。女王の国より北には、特別に一大率を置いて諸国を監督させている。諸国はこれを畏れ憚っている。この役目は常に伊都国が担う。国のなかで刺史のような役割をしている。王が使者を使わして洛陽の都や帯方郡、諸韓国に派遣したり、郡から倭国に使者が派遣される時は、いつも港に出向いて捜索して、文章を伝送したり、賜り物を女王に届けるのに、間違いがないようにさせている。
一般人が貴人と道路で出会った時は、後ずさりして草の中に入る。言葉を伝えたり、説明したりするときには、蹲(うずくま)ったり、跪(ひざまず)いたりして、両手は地面について、謹(つつし)み敬(うやま)う姿勢を取る。対応する答えは「噫(あい)」といって、中国語の「然諾(わかりました)」と同じ意味である。
これを読む限り、倭国(邪馬台国)は犯罪も少なく、非常に規律のとれた穏やかな国だったようです。既にある程度の法治国家であり、「租税や賦を徴収し、その倉庫がある。国々には市(マーケット)があり、そこであるものと無いものとを交易している」という記述からも、かなり進んだ国家統治体制、経済体制が引かれていたように覗えます。読んでいて、なぁ~んか嬉しくなるような記述です。“わかりました”を意味する答えが「噫(あい)」。これは「はい」のことでしょうね。記録するための文字はなくても、独自の言語としての日本語はその頃既に存在していたことが、ここから読み取れます。
ちなみに、私は魏志倭人伝だけでなく、「烏丸鮮卑東夷伝」全体もざっと目を通してみましたが、烏丸、鮮卑をはじめとした他の8国との比較において、倭國に関する部分(いわゆる魏志倭人伝の部分)が一番好意的な内容に書かれているように感じています。倭國は「烏丸鮮卑東夷伝」の一番最後に登場する最も東の辺境の島にある国ですが、もしかすると、あの初代皇帝曹操が率いた魏國は、価値を共有する最大の友好国として、倭國に期待していたのかもしれません。
以上、邪馬台国の場所の推定に関して、理系のアプローチによる大胆すぎるくらいに大胆な私の仮説を述べさせていただきました。歴史学を本職になさっている専門家と称される方々からは「素人が勝手なことを言うな!」とフルボッコに叩かれるかもしれません。でも、私はまったく気にしません。タイムマシンが開発されていないので、現代人の誰も真実をこの目で見てきた人はいないわけで、専門家と称される方々の説にしても、あくまでも現代に残されているものをベースとしたそれぞれの方の推理による仮説の上で論じているものにすぎません。だったら、理系の論理的な視点によるこういう新たな仮説もあってはいいのではないか…と私は思うのですが、いかがでしょうか。論理的な反論をぜひ寄せていただきたいと願っています。それが日本の古代史最大の謎の究明にさらに一歩近づくと思っていますから。
ここまでいろいろなところで発掘された遺跡等の物証に関わる情報が載っている自治体等の公的な機関が運営するサイトを幾つかご紹介させていただきました。私は魏志倭人伝を読み解き、邪馬台国への道を解明するにあたり、私が推察した経路上にある場所に遺されている史跡の情報をその都度ネットで検索して僅かな物証を得るという手法を用いました。新井白石の時代と異なり、インターネットの普及により入手可能な情報量が飛躍的に増えたことから、これからは歴史研究のスタイルも大きく様変わりしていくのではないでしょうか。これまでともすれば“点”の情報にすぎなかった物証を幾つも繋ぎ合わせて“線”の情報に、さらにはそれらをさらに繋ぎ合わせて“面”の情報に拡大し(それも日本国内だけでなく、広くグローバルの視点で)、それに時間軸や政治的情勢、社会情勢等も掛け合わせた多面的な視点での検証が必要になってくると思っています。
その中でも重要なのが“地形”と“気象”。2000年程度の時間の長さの中では地形や気象・気候が劇的に大きく変わったなんてことはまずありえませんし、いつ巨大地震が起きたとか、大きな気候変動が起きたといった事実は、様々な物的証拠が今に残っているため隠しようがありません。そして、文明や都市が消滅したとか、世情が不安定になったといったことの背景には、必ずと言っていいほど巨大地震や大きな気候変動、いわゆる“天変地異”があります。すなわち、地形と気象という疑いようのない事実をベースに歴史を読み解くってアプローチこそが、これからは必要なのではないでしょうか。
ニクソン大統領及びフォード大統領時代のアメリカ合衆国国務長官だったヘンリー・キッシンジャー氏は「どこに行こうとしているのか分からなければ、どんなに道を知っていても、決して辿り着くことはない」や「時間を無駄にするな。有益なことに常に従事せよ。あらゆる不必要な行動をやめよ」といった数々の名言を残していることで知られていますが、その中に「その国を知りたければ、その国の気象と地理を学ばなければならない」という言葉があります。これはけだし名言で、気象と地理への理解こそ、文明を、そして歴史を解き明かす重要な鍵となると私は思っています。
それにしても邪馬台国がいったいどこにあったかの謎解きは壮大なパズルを解くようで、メチャメチャ面白いです。3世紀あたりから大和朝廷が成立した7世紀後半までの歴史上失われた(隠された?)400年間の謎を解き明かす重要なヒントを探るってことに繋がるわけですから、こりゃあ江戸時代の新井白石にはじまって、私も含め多くの人が夢中になるわけです。
最初に書きましたように、魏志倭人伝は文字数にすると僅か2,000文字ほどの短い文章です。短い文章ということは、そこに書かれた漢字1字1字がそれはそれは貴重な歴史遺産だということです。なので、邪馬台国の場所を特定するにあたっても、表面的なヒントが示されている第1章にあたる部分だけを読んであれこれ推理を巡らせるのではなく、第2章や第3章にあたる部分もしっかり読んで、総合的な視点から推理をしていかないといけません。それが魏志倭人伝を含む三国志を西晋の初代皇帝・司馬炎(武帝)に命じられて編纂していただいた陳寿に対する最低限の礼儀だと私は思うのですが、変でしょうか? 特に第2章にあたる「倭國の風俗」の部分には、“鵲”や“青玉”、“丹”といった邪馬台国があった場所の特定に直接繋がるような重要なキーワード(宝)が散りばめられているわけですから。その宝を掘り出さないといけません。
これってコンピュータシステムの開発においてお客様の要求仕様定義、中でも要求分析のフェーズと非常によく似ています。私は若いSE(システムエンジニア)に、「要求分析に一番大事なことは、お客様が要求していることをヒアリング(hearing)するのではなく、リスニング(listening)しようとする姿勢だ」と教えています。ヒアリングの和訳は“聞く”、すなわち、門構えの中に耳が入ります。これはあくまでも自分自身の先入観の中で耳をそばだてることという意味です。なので、お客様からは尊大な態度に受け取られかねませんし、自分に都合が悪いこと、自分に関心のないことは聞き流しがちになってしまいます。いっぽう、リスニングの和訳は「聴く」。耳ヘンに十四の心と書きます。あるいは耳ヘンに+(プラス)目(を横にしたもの)と心と書きます。これは相手(お客様)の気持ちに立って、誠心誠意お客様と向き合おうという姿勢のことです。すなわち、こういう姿勢をとることでお客様は心を開いていただけますし、お客様と一緒になって(心を1つにして)問題や課題に立ち向かうことに繋がります。
お客様って自分自身が直面している問題や課題の本質について意外と気付いていらっしゃらないことが多く、私達SEがお客様から聴き取った(あくまでも)表面的に見える問題や課題を分解し、「それはなぜ?、それはなぜ?、それはなぜ?」…と最低3回くらい「なぜなぜなぜ」を繰り返すことでやっと問題や課題の本質にまで行き着くことができるってことが往々にしてあります。お客様がこれまでどうしようもないと思ってきた難解な問題や課題であっても、意外なところにその問題や課題の本質が隠されていたりすることがあります。その本質を見つけ出すことができたならば、あとはその問題や課題の本質を取り除いて、業務の再構築をするだけです。今の時代、その時に情報の活用というものが不可欠で、問題や課題解決のためのコンピュータシステム導入ということに繋がるわけです。よく「コンピュータは導入したんだけれど、その導入効果がサッパリ現れて来ない」というお客様の不満の声をお聞きします。そういうお客様のコンピュータシステムを見させていただくと、たいていは表面的に見える問題や課題に対してのみ対処療法的に対処したもので、問題や課題の本質にまで踏み込んで対処したものでないことがほとんどです。言ってみれば、本質的には胃癌であるにも関わらず、お腹が痛いからといって単純に胃薬を処方するようなものです。これじゃあいくらお金をかけても、それに見合った導入効果は期待できません。
私はこれまで40年近いSEとしての経験で、そういうことを幾つも幾つも実地で学んできました。理系のアプローチによる歴史の解明というのも、この経験で学んできた手法の単純な応用なのです。魏志倭人伝に書き残された貴重な漢字1字1字に真正面から向き合い、その中から少しでも真実を読み取ろうとする最大限の推理を働かせてみること、それがこのアプローチだということです。だって、この僅か2,000文字ほどの短い文章しか残されていないわけですから。何度も繰り返すことになりますが、僅か2,000文字ほどの短い文章です。邪馬台国の謎に迫ろうとしている人なら、せめて全文を読まなきゃあ。全文を読んだうえで、様々な推理を働かせないといけません。残念ながら、300年前に江戸幕府を代表する学者である新井白石が邪馬台国の場所の特定に関心を示して以来、北部九州説を唱えていらっしゃる方も、畿内説(近畿地方説)を唱えていらっしゃる方も、この魏志倭人伝トータルの視点での場所の考察をされておられる方は、私が調べた限りいらっしゃいませんし、その観点で両説の学者先生の間で喧喧諤諤の議論がなされたという記録も私が調べた限り残っていません。もしご存知の方がいらっしゃったら是非教えてください。どうも新井白石があまりに高名な学者先生だったことで、邪馬台国のあった場所の特定にあたっては、「新井白石の呪縛」のようなものが歴史学者の先生方の間では今も残っているのかもしれません。
前述のように、ネットでこれだけ容易に様々な情報が取得できる時代です。素人と言っても、様々な経験を積んできて、人とは少し違った視点や考え方を持った様々な分野の専門家と呼ばれる方々が、その独自の視点や考え方で歴史というものを改めて眺めてみると、これまで通説で言われてきたこととは少し違った解釈の仕方が出てくるのではないかと思っています。まずはこれまでの通説に少しでも疑問を感じたり、違和感を覚えたりしたことがあったら、皆さんもこれまでの経験を活かして、自分独自の歴史の読み解きにトライしてみたらいかがでしょうか? これはハマります。絶対にお薦めです。
そうそう、長野正孝さんという方が書かれた『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP新書)という本があります。『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)の著者で私が敬愛する“竹村公太郎さん推薦”と表紙の帯に書かれていたので、私も興味を持って購入し、読んでみました。著者の長野正孝さんは元国土交通省港湾技術研究所の部長で、元武蔵工業大学客員教授。広島港、鹿島港、第二パナマ運河など港湾や運河の計画・建設に携わってきた海洋土木工学の専門家です。その本の中で、長野正孝さんも私と同じようにエンジニアの観点から、魏志倭人伝の解釈から邪馬台国の位置の特定に取り組まれておられます。私と異なるのは長野正孝さんの場合、港湾や運河の建造に長年従事してこられた経験から、当時の航海技術や地形に基づく観点からの解釈をしている点で、そこから導き出されたのは、邪馬台国は日本海沿岸、丹後半島地方にあったのだというこれまた大胆すぎるくらいに大胆な仮説。
邪馬台国は丹後半島にあったとする仮説と、その仮説に至る論理展開を読む限り、私としては論理的に異論を差し挟みたいところは多々あるのですが、従来の文系の歴史学者さんのアプローチではなく、このように河川土木工学の専門家である竹村公太郎さんや海洋土木工学の専門家である長野正孝さんといったご自身のこれまでの経験や専門知識に裏打ちされた“理系のエンジニアの視点”で、論理的に歴史を読み解こうというアプローチをなされる方が増えてきていることには、大いに勇気づけられ、刺激を受けます。こういうアプローチをされる方が増えていけば、これまで謎とされてきた古代史の真実の姿の幾つかが、いずれ解き明かされることになるのではないか…と大いに期待しています。
【追記】
魏志倭人伝が書かれているのは三国志。その三国志と言えば諸葛孔明。三国志を知らずとも、この名軍師の名前をご存知の方は多いと思います。三国志において、天下三分の計(いきなり天下を統一するのは難しいので、まずは三分割を目指した上で天下をのぞむという戦略)を提唱し、後に蜀を建国する劉備を軍師として助け、その子劉禅を丞相として支えた人物です。
その諸葛孔明が大活躍するのが「赤壁の戦い」。赤壁の戦いとは、中国の後漢末期の西暦208年、長江中流域にある赤壁(現在の湖北省赤壁市)において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍との間の戦いのことで、この戦いにより天下三分の計の形勢がほぼ決まったとされる三国志の中で最も有名な戦いです。ジョン・ウー監督がメガホンをとり『レッドクリフ』というアクション映画にもなったので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。その映画『レッドクリフ』では、日本人俳優の金城武さんが諸葛孔明の役を演じました。
小説『三国志演義』によると、その赤壁の戦いにおいて、その季節では珍しい東南の風が吹き、火計(火攻め)が成功して曹操の大艦隊が壊滅するというシーンがあります。その際、諸葛孔明は「東南の風を吹かせてみせる」と言い、祭壇を作り祈祷するとどこからか東南の風が吹いてきた‥‥とされていますが、これは諸葛孔明が雲の流れやその時の温度・湿度等から東南の風が吹くのを予め予測していたとも考えられます。すなわち、諸葛孔明は極めて有能な気象予報士だったってことです。このことから、諸葛孔明は気象予報士の間で神様のように尊敬されているようなところがあります。
いかがでしたでしょうか、理系のアプローチによる私の『邪馬台国四国説』。信じるか信じないかは、あなた次第です!
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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