2017/09/15
中山道六十九次・街道歩き【第15回: 塩名田→長久保】(その2)
現在はこの先には橋がないので、川に沿って左に曲り、県道に出て中津橋を渡ります。橋の上からは穏やかな流れの「千曲川」が望めます。
先ほど通ってきた川原(河原)宿の3階建て住居群の屋根が見えます。橋が架かっている高さが2階建ての建物なら屋根の上の高さなので、手前で見えている建物はほとんどが3階建ての建物です。
ここで地元の観光ボランティアガイドさんから千曲川についての説明を受けました。進行方向右手には浅間山、左手には蓼科山が見えます。
中津橋を渡り終えたところに「往還橋標識」が立っています。前述のように、この中津橋のところでは、これまで実に様々な方法で千曲川を渡ったことが書かれています。
下の石碑は同じく中津橋のたもとに立つ「塩名田節」の石碑です。塩名田節は塩名田宿で歌われてきた民謡です。かつての旅籠や茶屋は、中山道の宿駅廃止後に芸妓屋に転業したといいます。特に塩名田は、北佐久地方でも芸妓が多い土地であったようです。こうした宿場には、各地の流行歌が賑やかに歌われてきましたが、その一つとして、この唄が歌われてきました。歌詞の一つ一つは、七五調を4回重ねた四十八字からなります。テンポはゆっくりめで、しっとりとした曲調です。塩名田の風情を巧みに歌い込んだ歌詞が、大変魅力的だったと言われています。「♪塩名田帰りの千鳥足…」という印象的な歌詞も面白く、また塩名田宿がいかに賑わっていたのかが窺い知れます。現在ではなかなか歌える方がおられなくなり、伝承も難しくなってきているとのことのようです。
千曲川を渡ると御馬寄(みまよせ)集落に入リます。江戸時代、このあたりは御馬寄村と呼ばれ、千曲川の水運を利用した米の集散地として大いに栄えたところです。それ以前は文字通り馬を寄せ集める場所であり、その馬は朝廷に献上するものであったことから、頭に「御」の文字がついて「御馬寄」という地名で呼ばれるようになったのだろうと推察されます。つまりは、朝廷に馬を献ずる勅旨牧(今で言うところの“御料牧場”)の馬寄場…ということです。
御馬寄村は塩名田宿の加宿で、千曲川の渡しを担っていました。前述のように、穀市の存在や、千曲川橋・中山道の維持等の重要な役割の場所でもありました。市は毎月1と6の碑に立ち、小諸藩川西領(千曲川西岸の村々)の穀物相場はこの市で決まり、そのため商家も多く、たいそう賑わったところだったと言われています。これも前述のように、中山道の千曲川の通行は、対岸の塩名田宿とともに橋元として架橋、または井形渡しにより確保されてきました。この役を勤める御馬寄村は、代わりにその他の諸役を免除されていました。それでも、大雨が降るたびにしばしば発生する落橋・橋の流失に対し、その復旧費用や労役等を御馬寄村と塩名田宿だけでは負担しきれず、はじめ4万5千石余96ヶ村、のち3万1千石130ヶ村、佐久郡だけでなく小県郡にも及ぶ橋組合が道中奉行の指示により設定されました。この橋組合は江戸時代を通じて維持されたのだそうです。
朝廷に馬を献ずる勅旨牧は甲斐国・武蔵国・上野国・信濃国の4ヶ国に置かれ、中でも信濃国が最も多く、奈良時代末期には16の御牧(御料牧場)があり、約80頭の馬を朝廷に献上したと言われています。その最大のものがこの御馬寄の地の北にある御牧ヶ原(みまきがはら)台地にひろがる「望月の牧」であったのだそうです。
毎年8月の中旬に、諸国の牧から献じた馬を天皇に御覧に入れる「駒牽(こまひき)」の儀式が行われ、天皇の御料馬を定め、残った馬から親王、皇族、公卿にも馬が下賜されました。もともとは国によって貢馬の日が異なっていたようなのですが、のちに8月15日(旧暦)の満月の日に固定となり、諸国から献ずる馬も鎌倉末期頃からは信濃国のこの地・御牧ヶ原台地だけとなりました。この馬は満月の日にちなんで「望月の駒」と呼ばれ、そこから、御牧ヶ原台地にあるこの牧場も「望月の牧(もちずきのまき)」と呼ばれるようになったのだそうです。
「逢坂の 関の清水に 影見えて、今や曳くらむ 望月の駒」 (拾遺集 巻三) 紀貫之
「さがの山 ちよの古道 跡と(尋)めて 又露分くる 望月の駒」 藤原定家
など、多くの歌人がこの望月の牧を題材にした歌を残しています。
御牧ヶ原台地・望月の牧一帯は、標高2,530メートルの蓼科山の広大な裾野が北東へ延びて千曲川にぶつかる地形で、北と東が千曲川、西が鹿曲川(かくまがわ)、南が布施川(ふせがわ)に囲まれています。牧場の規模は、現在の東御(とうみ)市・小諸市・佐久市にまたがる御牧ヶ原台地全域と、南は佐久市の瓜生坂、入布施、矢島原に及び、その面積は約2,100ha(ヘクタール)もあったといわれています。約2,100haと言っても皆さんどのくらい広いのかピンと来ないと思います。東京ドームの建築面積が約4.7haなので、約2,100haと言うのは「東京ドーム約450個分」。東京の都心をグルッと取り囲むように走るJR山手線の内側の面積が約6,500haなので、約2,100haと言うのは「JR山手線の内側の面積のおよそ3分の1」ということになります。とにかく、メチャメチャ広い面積の牧場でした。
また、断崖など自然の障壁を除いては、周囲約38kmにわたって土塁や柵、溝を築き、放牧している馬が逃げ出すのを防いだといわれています。この土手を「野馬除(のまよけ)」といい、現在でも数箇所でその遺構が確認され、東御市の文化財に指定されているのだそうです。
望月の牧がいつ頃成立したのか定かではないのですが、少なくとも『延喜式』が制作され始めた延喜5年(905年)以前には既に存在していたようです。望月の牧の周辺には特に馬具を副葬した古墳が多く、御馬寄、駒寄、牧寄、駒込、厩尻などの地名、駒込神社など馬にゆかりの地名や古跡、神社が数多く残っています。また、馬具に関係すると思われる鍛冶田、タタラ、吹上などの地名もあり、いずれも望月の牧に所縁の場所だとされています。望月の牧の南側には近世になり中山道が通ったのですが、古代には古東山道が東西に走っていました。
旧中山道は望月の牧の南側を東から西へ進んでいきます。この奥にある寺院は大圓寺。この寺院も塩名田宿にある正縁寺同様、阿弥陀如来三尊像を御本尊とする浄土宗の寺院です。
ここからは緩い登り坂で、道路がやや右に曲がる付近には、一部、昔の東山道の部分が残っているのだそうです。道の両側には旧中山道らしく、歴史のありそうな古い民家が立ち並んでいます。
旧中山道は緩く迂回するようにカーブする今の道路を短絡するように、右の細い道に入っていき、200メートルほど歩くと、また元の道と合流します。
中津橋を渡った先の登り坂を登りきる手前の街道から少し高くなった場所に、白い頭巾と赤い前掛けをしているお地蔵様のような大日如来の石像が立っています。「大日塚」と地元では呼ばれているようです。大日如来像の後方に雄大な浅間山が望めます。メチャメチャ絵になる光景です。
大日如来像の横に松尾芭蕉の句碑が立っています。
「涼しさや 直(すぐ)に野松の 枝の形(なり)」 松尾芭蕉
御馬寄の集落を歩きます。
このあたりに「御馬寄一里塚」がありました。江戸の日本橋を出てから44番目の一里塚です。今は標柱が立っているだけです。
さらに緩い登り坂の一本道を先に進みます。坂道を登りきると、しばらく歩くと下原と呼ばれる集落に入ります。
このあたり一帯に広がっている一面の田圃が「五郎兵衛新田」です。この五郎兵衛新田は上州羽沢村(現在の群馬県南牧村)出身の武士、市川五郎兵衛が、寛永3年(1626年)に小諸藩から開拓の許可を得て開拓した田圃です。蓼科山に水源を求め、鹿曲川(かくまがわ)の上流から約20kmの五郎兵衛用水路を開削し、その用水をもとに五郎兵衛新田村を開発しました。この五郎兵衛新田は以降このあたり一帯の穀倉地帯となり、ここで採れる「五郎兵衛米」は、水が綺麗なことと土壌が強粘土質であり水持ちがいいこと、今でも多くが稲架掛を用いて天日干しされていること等から、昔から美味しい米として定評を得ていて、信州・長野県を代表する米となっているのだそうです。下原と言う地名は、その五郎兵衛新田の中でも下のはずれにあるあたりという意味なのかもしれません。
進行方向左手には青々とした田圃のかなたに蓼科山の雄大な姿が見えます。手前に横たわる低い山は浅間山の噴火で噴出した溶岩が流れ出して形成された山なのだそうです。
交差点の右手に古い門のある立派なお屋敷が建っています。この立派な古い門から類推するに、おそらく五郎兵衛新田の開拓で財を成した富農の家なのかもしれません。
御井大神(みいのおおかみ)と刻まれた石碑です。御井大神は万物の生育に欠かせない水を司る水神、水霊であり、古くは井戸の神様としても祀られました。もしかしたら、このあたりに美味しい湧水が湧き出ていたのかもしれません。
伊勢宮神社です。このあたりの鎮守社なのでしょう。
さすがに美味しい米を産出する五郎兵衛新田にある集落です。古くて立派な門構えの民家が幾つもあります。
ここにも御井大神と馬頭観音の石碑が立っています。
下原の集落を通り過ぎて坂道を下ると、再び登り坂となります。前方に次の八幡宿の集落が見えてきました。
振り返ると、「五郎兵衛新田」の美しい田園風景の先に雄大な浅間山の山容が見えます。
……(その3)に続きます。
先ほど通ってきた川原(河原)宿の3階建て住居群の屋根が見えます。橋が架かっている高さが2階建ての建物なら屋根の上の高さなので、手前で見えている建物はほとんどが3階建ての建物です。
ここで地元の観光ボランティアガイドさんから千曲川についての説明を受けました。進行方向右手には浅間山、左手には蓼科山が見えます。
中津橋を渡り終えたところに「往還橋標識」が立っています。前述のように、この中津橋のところでは、これまで実に様々な方法で千曲川を渡ったことが書かれています。
下の石碑は同じく中津橋のたもとに立つ「塩名田節」の石碑です。塩名田節は塩名田宿で歌われてきた民謡です。かつての旅籠や茶屋は、中山道の宿駅廃止後に芸妓屋に転業したといいます。特に塩名田は、北佐久地方でも芸妓が多い土地であったようです。こうした宿場には、各地の流行歌が賑やかに歌われてきましたが、その一つとして、この唄が歌われてきました。歌詞の一つ一つは、七五調を4回重ねた四十八字からなります。テンポはゆっくりめで、しっとりとした曲調です。塩名田の風情を巧みに歌い込んだ歌詞が、大変魅力的だったと言われています。「♪塩名田帰りの千鳥足…」という印象的な歌詞も面白く、また塩名田宿がいかに賑わっていたのかが窺い知れます。現在ではなかなか歌える方がおられなくなり、伝承も難しくなってきているとのことのようです。
千曲川を渡ると御馬寄(みまよせ)集落に入リます。江戸時代、このあたりは御馬寄村と呼ばれ、千曲川の水運を利用した米の集散地として大いに栄えたところです。それ以前は文字通り馬を寄せ集める場所であり、その馬は朝廷に献上するものであったことから、頭に「御」の文字がついて「御馬寄」という地名で呼ばれるようになったのだろうと推察されます。つまりは、朝廷に馬を献ずる勅旨牧(今で言うところの“御料牧場”)の馬寄場…ということです。
御馬寄村は塩名田宿の加宿で、千曲川の渡しを担っていました。前述のように、穀市の存在や、千曲川橋・中山道の維持等の重要な役割の場所でもありました。市は毎月1と6の碑に立ち、小諸藩川西領(千曲川西岸の村々)の穀物相場はこの市で決まり、そのため商家も多く、たいそう賑わったところだったと言われています。これも前述のように、中山道の千曲川の通行は、対岸の塩名田宿とともに橋元として架橋、または井形渡しにより確保されてきました。この役を勤める御馬寄村は、代わりにその他の諸役を免除されていました。それでも、大雨が降るたびにしばしば発生する落橋・橋の流失に対し、その復旧費用や労役等を御馬寄村と塩名田宿だけでは負担しきれず、はじめ4万5千石余96ヶ村、のち3万1千石130ヶ村、佐久郡だけでなく小県郡にも及ぶ橋組合が道中奉行の指示により設定されました。この橋組合は江戸時代を通じて維持されたのだそうです。
朝廷に馬を献ずる勅旨牧は甲斐国・武蔵国・上野国・信濃国の4ヶ国に置かれ、中でも信濃国が最も多く、奈良時代末期には16の御牧(御料牧場)があり、約80頭の馬を朝廷に献上したと言われています。その最大のものがこの御馬寄の地の北にある御牧ヶ原(みまきがはら)台地にひろがる「望月の牧」であったのだそうです。
毎年8月の中旬に、諸国の牧から献じた馬を天皇に御覧に入れる「駒牽(こまひき)」の儀式が行われ、天皇の御料馬を定め、残った馬から親王、皇族、公卿にも馬が下賜されました。もともとは国によって貢馬の日が異なっていたようなのですが、のちに8月15日(旧暦)の満月の日に固定となり、諸国から献ずる馬も鎌倉末期頃からは信濃国のこの地・御牧ヶ原台地だけとなりました。この馬は満月の日にちなんで「望月の駒」と呼ばれ、そこから、御牧ヶ原台地にあるこの牧場も「望月の牧(もちずきのまき)」と呼ばれるようになったのだそうです。
など、多くの歌人がこの望月の牧を題材にした歌を残しています。
御牧ヶ原台地・望月の牧一帯は、標高2,530メートルの蓼科山の広大な裾野が北東へ延びて千曲川にぶつかる地形で、北と東が千曲川、西が鹿曲川(かくまがわ)、南が布施川(ふせがわ)に囲まれています。牧場の規模は、現在の東御(とうみ)市・小諸市・佐久市にまたがる御牧ヶ原台地全域と、南は佐久市の瓜生坂、入布施、矢島原に及び、その面積は約2,100ha(ヘクタール)もあったといわれています。約2,100haと言っても皆さんどのくらい広いのかピンと来ないと思います。東京ドームの建築面積が約4.7haなので、約2,100haと言うのは「東京ドーム約450個分」。東京の都心をグルッと取り囲むように走るJR山手線の内側の面積が約6,500haなので、約2,100haと言うのは「JR山手線の内側の面積のおよそ3分の1」ということになります。とにかく、メチャメチャ広い面積の牧場でした。
また、断崖など自然の障壁を除いては、周囲約38kmにわたって土塁や柵、溝を築き、放牧している馬が逃げ出すのを防いだといわれています。この土手を「野馬除(のまよけ)」といい、現在でも数箇所でその遺構が確認され、東御市の文化財に指定されているのだそうです。
望月の牧がいつ頃成立したのか定かではないのですが、少なくとも『延喜式』が制作され始めた延喜5年(905年)以前には既に存在していたようです。望月の牧の周辺には特に馬具を副葬した古墳が多く、御馬寄、駒寄、牧寄、駒込、厩尻などの地名、駒込神社など馬にゆかりの地名や古跡、神社が数多く残っています。また、馬具に関係すると思われる鍛冶田、タタラ、吹上などの地名もあり、いずれも望月の牧に所縁の場所だとされています。望月の牧の南側には近世になり中山道が通ったのですが、古代には古東山道が東西に走っていました。
旧中山道は望月の牧の南側を東から西へ進んでいきます。この奥にある寺院は大圓寺。この寺院も塩名田宿にある正縁寺同様、阿弥陀如来三尊像を御本尊とする浄土宗の寺院です。
ここからは緩い登り坂で、道路がやや右に曲がる付近には、一部、昔の東山道の部分が残っているのだそうです。道の両側には旧中山道らしく、歴史のありそうな古い民家が立ち並んでいます。
旧中山道は緩く迂回するようにカーブする今の道路を短絡するように、右の細い道に入っていき、200メートルほど歩くと、また元の道と合流します。
中津橋を渡った先の登り坂を登りきる手前の街道から少し高くなった場所に、白い頭巾と赤い前掛けをしているお地蔵様のような大日如来の石像が立っています。「大日塚」と地元では呼ばれているようです。大日如来像の後方に雄大な浅間山が望めます。メチャメチャ絵になる光景です。
大日如来像の横に松尾芭蕉の句碑が立っています。
御馬寄の集落を歩きます。
このあたりに「御馬寄一里塚」がありました。江戸の日本橋を出てから44番目の一里塚です。今は標柱が立っているだけです。
さらに緩い登り坂の一本道を先に進みます。坂道を登りきると、しばらく歩くと下原と呼ばれる集落に入ります。
このあたり一帯に広がっている一面の田圃が「五郎兵衛新田」です。この五郎兵衛新田は上州羽沢村(現在の群馬県南牧村)出身の武士、市川五郎兵衛が、寛永3年(1626年)に小諸藩から開拓の許可を得て開拓した田圃です。蓼科山に水源を求め、鹿曲川(かくまがわ)の上流から約20kmの五郎兵衛用水路を開削し、その用水をもとに五郎兵衛新田村を開発しました。この五郎兵衛新田は以降このあたり一帯の穀倉地帯となり、ここで採れる「五郎兵衛米」は、水が綺麗なことと土壌が強粘土質であり水持ちがいいこと、今でも多くが稲架掛を用いて天日干しされていること等から、昔から美味しい米として定評を得ていて、信州・長野県を代表する米となっているのだそうです。下原と言う地名は、その五郎兵衛新田の中でも下のはずれにあるあたりという意味なのかもしれません。
進行方向左手には青々とした田圃のかなたに蓼科山の雄大な姿が見えます。手前に横たわる低い山は浅間山の噴火で噴出した溶岩が流れ出して形成された山なのだそうです。
交差点の右手に古い門のある立派なお屋敷が建っています。この立派な古い門から類推するに、おそらく五郎兵衛新田の開拓で財を成した富農の家なのかもしれません。
御井大神(みいのおおかみ)と刻まれた石碑です。御井大神は万物の生育に欠かせない水を司る水神、水霊であり、古くは井戸の神様としても祀られました。もしかしたら、このあたりに美味しい湧水が湧き出ていたのかもしれません。
伊勢宮神社です。このあたりの鎮守社なのでしょう。
さすがに美味しい米を産出する五郎兵衛新田にある集落です。古くて立派な門構えの民家が幾つもあります。
ここにも御井大神と馬頭観音の石碑が立っています。
下原の集落を通り過ぎて坂道を下ると、再び登り坂となります。前方に次の八幡宿の集落が見えてきました。
振り返ると、「五郎兵衛新田」の美しい田園風景の先に雄大な浅間山の山容が見えます。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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