2017/09/22
中山道六十九次・街道歩き【第15回: 塩名田→長久保】(その5)
百沢の集落を過ぎたあたりから短い登りの坂になります。ちょっとした山登りの雰囲気で、今回はそんなに勾配があるところは歩かないだろう…と油断していたこともあり、いささかキツイです。でも、碓氷峠を越えたことで、最近は幾分ワイルドなルートが途中に混じっていないと満足できなくなっているようなところがあり、こういう道を見ると嬉しくなってきます。
ここからは「瓜生坂(うりゅうざか)」と呼ばれ、古代の古東山道にあたります。この坂の峠の東側で祭祀遺跡が発見されています。
舗装もされていないちょっとワイルドな道をしばらく歩くと、ほどなく国道142号線と出会うのですが、中山道はそこを突っ切って先に進みます。
ちなみに、ここで旧中山道は少しの区間2つのルートに分かれます。1つはここで真っ直ぐ国道142号線を渡って進むルートで、今回私達はこのルートを進んでいったのですが、もう1つのルートはここを左折して、200メートルほど国道142号線を歩いたところから右に入るルートです。こちらのルートは途中で消滅しているそうなので、真っ直ぐ進むルートしか選択できないのではありますが…。
この、今回私達が使わなかったルートの入り口の国道142号線沿いには、日本一の規模を誇る「村おこし道祖神」なるデッカイ道祖神も建っているそうです。これは佐久市に合併する以前の旧望月町には140基を超える大量の道祖神があり、これは単独の自治体としては日本一の規模だということで、この道祖神をもとに「村おこし」をしようと考えて建てられたもののようです。
緩い坂を黙々と登っていきます。
小さな百万遍念仏塔が立っています。ここで中山道は急にUの字を描いて左に曲がり、さらに瓜生坂を登っていきます。振り返ると後ろの組が歩いてくるのが見えます。
ただ黙々と瓜生坂を登っていきます。
先ほど、旧中山道は少しの区間2つのルートに分かれると書きましたが、そのもう1つのルートがここで左から合流してきます。舗装もしておらず、轍の跡などから類推しても、人やクルマの通行もほとんどなさそうなので、なるほど途中で道が消滅しているというのも頷けます。
旧中山道は望月の牧の南側の鞍部である瓜生坂を進みます。この鞍部は御牧ヶ原台地の東側を流れる布施川がこの瓜生坂付近で御牧ヶ原台地の西側を流れる鹿曲川と接近したため、水の侵食作用で鞍部が生じたもののようです。
望月宿に通じるこの瓜生坂は大変に急だったため、往来が困難であったと伝えられています。安藤広重が浮世絵で描いた望月宿の絵はこの瓜生坂の光景を描いたもので、名馬の産地として有名だった望月を意識して、馬と満月が描かれています。
ここに「瓜生坂の一里塚」があります。別名、「望月の一里塚」。江戸の日本橋を出てから45番目の一里塚です。道路の改修により大きく変形しているものの、両塚とも現存しています。車道と峠の切通しは明治時代に作られた国道です。45番目の一里塚ということは、中山道の江戸の日本橋から京都の三条大橋までの全行程の距離が135里35町(約534km) ですから、ここまでほぼ3分の1の行程を歩いてきたことになります。随分と歩いてきたように思えるのですが、まだ3分の1なのですね。ゴールの京都三条大橋までは、さらにここまでの2倍の行程が残っているということです。遠いなぁ~。中山道六十九次・街道歩きで江戸の日本橋を出発したのが昨年の5月のこと。あれから1年と2ヶ月。毎月皆勤賞で参加して、尺取り虫のように前へ前へ進んできて、今回が15回目。まだまだ先は長い。頑張ろう!
一里塚の跡を過ぎると、旧中山道は左に曲がっていて、曲がり角のところに「瓜生坂百万遍念仏塔」が建っています。当時、ここは眼下に望月宿が見下ろせる景色のいい場所として知られていたそうです。
百万遍念仏塔と「中山道瓜生坂」と刻まれた石碑が立っています。ここが瓜生坂の峠(サミット)にあたるところで、ここから下り坂に入ります。
瓜生坂の碑が立つ先で左折し、杉の木が生い茂る中、長坂と呼ばれる段丘崖の坂道を下っていきます。中山道の案内標識が立っていないと、この細い道が本当に中山道だったのかどうか、分からないところです。しばらく幾分ワイルドな道を歩きます。ちょっとウキウキしてきます。
一見、ただの山道のようですが、途中に道祖神や馬頭観音が立っていたりして、ここが旧中山道であることが分かります。長坂の途中にあどけない表情で合掌した双体道祖神が佇んでいます。このあたりはホント道祖神が多いです。
瓜生坂を下り終えました。遠くに次の望月宿の町並みが見えてきました。
さらに坂道を下って行きます。
このあたりは狭く曲がりくねった坂道ですが、坂の途中には石尊大権現や道祖神、御岳神社、百万遍供養塔、馬頭観音など多くの石仏石塔群がまとめられていて、これらは「長坂の道祖神」と呼ばれています。
坂道を下るにつれて、徐々に家並みの中に入って行きます。
千曲川の支流である鹿曲川のところまで下ってきました。下の左側の写真の奥の蛇行した鹿曲川の河岸段丘の段丘崖の斜面に蟠龍屈(ばんりゅうくつ)があります。崖の上にお稲荷さんを、また崖の下に弁天様が祀られています。
実は江戸時代前期の中山道は長坂橋の手前で鹿曲川を渡らずに右折し、信永院の前を通り望月宿に通じていました。寛保2年(1742年)8月に台風による大雨により千曲川と犀川流域で大洪水が発生しました。寛保2年が壬戌(みずのえいぬ)の年にあたるため、特に被害の大きかった千曲川流域では「戌の満水」と呼ばれています。長野県佐久地域の千曲川流域では、旧暦の8月1日(1742年8月30日)の被害が特に大きく、流域全体で2,800人以上の使者を出したと伝えられています。
当初、望月宿は鹿曲川の右岸にあったのですが、この寛保2年の大洪水「戌の満水」で宿駅が流されたので、その後、左岸にある現在地に移転し、中山道は現在のようなコの字形の経路に変わりました。
長坂橋で鹿曲川を渡ります。ここのあたりが望月宿の入り口になります。
……(その6)に続きます。
ここからは「瓜生坂(うりゅうざか)」と呼ばれ、古代の古東山道にあたります。この坂の峠の東側で祭祀遺跡が発見されています。
舗装もされていないちょっとワイルドな道をしばらく歩くと、ほどなく国道142号線と出会うのですが、中山道はそこを突っ切って先に進みます。
ちなみに、ここで旧中山道は少しの区間2つのルートに分かれます。1つはここで真っ直ぐ国道142号線を渡って進むルートで、今回私達はこのルートを進んでいったのですが、もう1つのルートはここを左折して、200メートルほど国道142号線を歩いたところから右に入るルートです。こちらのルートは途中で消滅しているそうなので、真っ直ぐ進むルートしか選択できないのではありますが…。
この、今回私達が使わなかったルートの入り口の国道142号線沿いには、日本一の規模を誇る「村おこし道祖神」なるデッカイ道祖神も建っているそうです。これは佐久市に合併する以前の旧望月町には140基を超える大量の道祖神があり、これは単独の自治体としては日本一の規模だということで、この道祖神をもとに「村おこし」をしようと考えて建てられたもののようです。
緩い坂を黙々と登っていきます。
小さな百万遍念仏塔が立っています。ここで中山道は急にUの字を描いて左に曲がり、さらに瓜生坂を登っていきます。振り返ると後ろの組が歩いてくるのが見えます。
ただ黙々と瓜生坂を登っていきます。
先ほど、旧中山道は少しの区間2つのルートに分かれると書きましたが、そのもう1つのルートがここで左から合流してきます。舗装もしておらず、轍の跡などから類推しても、人やクルマの通行もほとんどなさそうなので、なるほど途中で道が消滅しているというのも頷けます。
旧中山道は望月の牧の南側の鞍部である瓜生坂を進みます。この鞍部は御牧ヶ原台地の東側を流れる布施川がこの瓜生坂付近で御牧ヶ原台地の西側を流れる鹿曲川と接近したため、水の侵食作用で鞍部が生じたもののようです。
望月宿に通じるこの瓜生坂は大変に急だったため、往来が困難であったと伝えられています。安藤広重が浮世絵で描いた望月宿の絵はこの瓜生坂の光景を描いたもので、名馬の産地として有名だった望月を意識して、馬と満月が描かれています。
ここに「瓜生坂の一里塚」があります。別名、「望月の一里塚」。江戸の日本橋を出てから45番目の一里塚です。道路の改修により大きく変形しているものの、両塚とも現存しています。車道と峠の切通しは明治時代に作られた国道です。45番目の一里塚ということは、中山道の江戸の日本橋から京都の三条大橋までの全行程の距離が135里35町(約534km) ですから、ここまでほぼ3分の1の行程を歩いてきたことになります。随分と歩いてきたように思えるのですが、まだ3分の1なのですね。ゴールの京都三条大橋までは、さらにここまでの2倍の行程が残っているということです。遠いなぁ~。中山道六十九次・街道歩きで江戸の日本橋を出発したのが昨年の5月のこと。あれから1年と2ヶ月。毎月皆勤賞で参加して、尺取り虫のように前へ前へ進んできて、今回が15回目。まだまだ先は長い。頑張ろう!
一里塚の跡を過ぎると、旧中山道は左に曲がっていて、曲がり角のところに「瓜生坂百万遍念仏塔」が建っています。当時、ここは眼下に望月宿が見下ろせる景色のいい場所として知られていたそうです。
百万遍念仏塔と「中山道瓜生坂」と刻まれた石碑が立っています。ここが瓜生坂の峠(サミット)にあたるところで、ここから下り坂に入ります。
瓜生坂の碑が立つ先で左折し、杉の木が生い茂る中、長坂と呼ばれる段丘崖の坂道を下っていきます。中山道の案内標識が立っていないと、この細い道が本当に中山道だったのかどうか、分からないところです。しばらく幾分ワイルドな道を歩きます。ちょっとウキウキしてきます。
一見、ただの山道のようですが、途中に道祖神や馬頭観音が立っていたりして、ここが旧中山道であることが分かります。長坂の途中にあどけない表情で合掌した双体道祖神が佇んでいます。このあたりはホント道祖神が多いです。
瓜生坂を下り終えました。遠くに次の望月宿の町並みが見えてきました。
さらに坂道を下って行きます。
このあたりは狭く曲がりくねった坂道ですが、坂の途中には石尊大権現や道祖神、御岳神社、百万遍供養塔、馬頭観音など多くの石仏石塔群がまとめられていて、これらは「長坂の道祖神」と呼ばれています。
坂道を下るにつれて、徐々に家並みの中に入って行きます。
千曲川の支流である鹿曲川のところまで下ってきました。下の左側の写真の奥の蛇行した鹿曲川の河岸段丘の段丘崖の斜面に蟠龍屈(ばんりゅうくつ)があります。崖の上にお稲荷さんを、また崖の下に弁天様が祀られています。
実は江戸時代前期の中山道は長坂橋の手前で鹿曲川を渡らずに右折し、信永院の前を通り望月宿に通じていました。寛保2年(1742年)8月に台風による大雨により千曲川と犀川流域で大洪水が発生しました。寛保2年が壬戌(みずのえいぬ)の年にあたるため、特に被害の大きかった千曲川流域では「戌の満水」と呼ばれています。長野県佐久地域の千曲川流域では、旧暦の8月1日(1742年8月30日)の被害が特に大きく、流域全体で2,800人以上の使者を出したと伝えられています。
当初、望月宿は鹿曲川の右岸にあったのですが、この寛保2年の大洪水「戌の満水」で宿駅が流されたので、その後、左岸にある現在地に移転し、中山道は現在のようなコの字形の経路に変わりました。
長坂橋で鹿曲川を渡ります。ここのあたりが望月宿の入り口になります。
……(その6)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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