2017/10/10
中山道六十九次・街道歩き【第15回: 塩名田→長久保】(その12)
松尾神社を過ぎたあたりから下り坂を下りていくと、「長久保宿」と書かれた案内標柱が立っていて、ここからが長久保宿でした。
長久保宿(ながくぼしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて27番目の宿場です。元々は長窪宿と表記していました。現在の地名では長野県小県郡長和町長久保です。ともに難所であった笠取峠と和田峠との間にあって、また、善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)だったこともあり、最盛期には旅籠が43軒と比較的大きな宿場でした。
長久保宿は当初は現在の位置より西下の依田川沿いに設けられていました。しかし大洪水によって宿場全体が流失してしまったため、寛永8年(1631年)に河岸段丘の上にある現在の地に移り、本陣・問屋を中心に“堅町”を形成し、後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に“横町”を形成していったため、珍しいL字型に曲がった町並みの宿場町になっています。
本来の表記は長窪郷に含まれる「長窪」であったのですが、宿で生活する人々が「窪」の字を敬遠し、久しく保つという意味を持つ「久保」に縁起を担いだらしい…と言われています。安政6年(1859年)には宿方から代官所へ宿名変更の願書すら出されたが、許可はされなかったようです。そのため、以降も公文書には「長窪宿」と記されていたのですが、明治の時代になりようやく認められたのだそうです。天保14年(1843年)の記録(中山道宿村大概帳)によれば、長久保宿の宿内家数は187軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は721人であったそうです。善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)が宿内にある交通の要衝で、長久保宿は最大で43軒の旅籠があり、信濃国にある中山道26宿の中では塩尻宿に次ぐ2番目の数を誇りました。
まずは本陣のある堅町を歩きます。堅町の町並みは真っ直ぐに続いています。旅籠らしい家も数軒残っていて、たいそう味わいがあります。
丸木屋です。江戸時代末の旅籠を改修し、現在は地域交流センターとして開放されています。
屋根に石を載せた古い民家があります。佇まいからして元旅籠だったところのようです。
一服処「濱屋」です。ここは明治の初期に旅籠として建てられたのですが、交通量の減少で旅籠として開業できず、茶店となったのだそうです。現在は無料の休憩所を兼ねる「長久保宿歴史資料館」になっています。そこに宿場図が掛けられています。
ここ長久保は昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公である真田信繁(幸村)と非常に関係の深いところです。この長久保周辺は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて真田氏が治めていました。以下の書状の宛人である石合十蔵道定は、真田信繁(幸村)の長女“すへ”の婿にあたります。真田信繁と真田家家臣の堀田作兵衛興重の娘(妹という説もあります)との間に生まれた長女の“すへ”は、堀田作兵衛の養女となり、その後、長久保郷の中核をなした石合家の4代目・十蔵道定のもとに嫁ぎました(石合家は江戸時代に入って長久保宿の本陣を勤めることになります)。
NHK大河ドラマ『真田丸』でも描かれたように、真田信繁は、慶長5年(1600年)の第二次上田合戦後、父親である真田昌幸とともに高野山(和歌山県)に配流となり、以降14年の間、高野山の麓の九度山村に隠棲します。しかし、慶長19年(1614年)に豊臣家からの誘いを受け、長男の大助を伴って大坂城に入城し、「大坂冬の陣」では大坂城の南側に真田丸(大坂城に付属する出城)を築き、徳川方に大打撃を与えます。豊臣方・徳川方双方の和議によって「大坂冬の陣」は終息しますが、和議の条件であった大坂城の堀の埋め立てを巡り、豊臣方と徳川方は再び対立を深めていきます。この書状からも、豊臣方が再戦を覚悟している様子が読み取れます。
この時、真田信繁は徳川方からの「十万石」、さらには「信濃一国」ともいう誘いを断り、「大坂夏の陣」では徳川家康の本陣を突き崩す活躍を見せ、華々しく討ち死にします。その戦いぶりは、敵方であった諸将からも「真田日本一の兵(つわもの)、いにしえよりの物語にもこれなき由」とか、「古今これなき大手柄」と称賛されます。また、長男・大助は淀君・秀頼母子に殉じ、“すへ”の養父・堀田作兵衛も主君・真田信繁とともに戦い、討ち死にします。
この書状からは、敵将の子となった娘の将来を案じる父親の愛情がほとばしるほどに感じられます。
おおっ! 本物の道中合羽と三度笠です。まさに木枯らし紋次郎が着ていたような「股旅姿」です。
こちらは参勤交代の侍(下級武士)が着用していた道中用の衣装です。
この長久保宿歴史資料館には、長久保宿内で実際に使われていた様々なものが展示されています。下の写真の左側は火事の時の消防用の手押しポンプです。
下の写真の左側は祭りで使う「子ども獅子」のお面、右側は各家の屋号が入った提灯です。今でいう懐中電灯のようなものですね。
見上げると立派な梁です。歴史を感じさせます。
長久保宿歴史資料館を出て、長久保宿の中心部へと入っていきます。
中山道最古の本陣建築が現存する長久保宿の本陣です。この本陣は火災の記録がなく、江戸時代初期に建てられた御殿が今も残っています。前述のように、この本陣を務めた石合(いしあい)家の4代目・石合十蔵道定には、昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公・真田信繁(幸村)の長女すへが嫁ぎました。
本陣の横には高札場があります。この高札場、中山道でこれまで見てきた現存する高札場の中では、最も大きな高札場です。なるほど、昔もこんな感じだったんでしょうね。
江戸時代天保年間頃の建築と推定される旅籠「古久屋」(羽毛田家)です。この時期の標準的な規模の旅籠建築として、唯一現存する建造物で、表2階の格子や屋号の看板がその風情を伝えています。
旅籠「古久屋」(羽毛田家)の側面の壁の上部には旧主君・真田氏との関係を示す「六文銭」が描かれています。その隣が空き地になっていますが、かつてここに脇本陣があったようで、「脇本陣跡」の案内標識が立っています。
100坪以上の広さがあり、目を見張るような巨大な本卯建(うだつ)が上がる建物は、江戸初期の17世紀中頃から昭和の初期まで酒造業を営み、宿場の役職も勤めてきた「釜鳴屋(かまなりや)」(竹内家)です。長野県内最古の町屋なのだそうです。母屋の屋根の端部には、妻壁を高く突出させ、それに小屋根を付けた「本卯建(ほんうだつ)」が見られます。この天を衝くような卯建は“火煽り”とか“火返し”と呼ばれています。
この建物が建てられた年代は明らかになってはいませんが、寛延2年(1749年)に描かれた絵図に、現在と同じ間取りが記載されていることや、玄関口に打ち付けられている最も古い享保16年(1731年)の祈祷札に打ち替えた跡がなかったことから、これ以前に建てられていたものと考えられています。品質の上等な酒があることを示す「上酒有」と書かれた元禄時代からの看板があるそうです。
その「釜鳴屋」の斜め前にあるのが、長久保宿の創設期から問屋を勤めてきた「小林家」です。現在の母屋は明治3年(1870年)の大火で焼失し、再建されたものですが、出格子を付けた2階部分が昔の形状を伝えています。屋根には旧主君・真田氏との関係を示す「六文銭」の鬼瓦が見られます。
堅町は正面で突き当り、長久保宿はこのT字路を左折して、横町の宿場通りを進むのですが、この日の中山道六十九次・街道歩きはここでおしまい。同じT字路を右折します。
堅町から横町に中山道が曲がる付近にも、昔の旅籠らしい旧家が幾つも残っています。今も「よねや」旅館、「ならや」旅館、「濱田屋」旅館などが営業を続けています。
T字路に右折したところに「中山道 長久保宿 左ぜんこうじ」と書かれた道標が立っています。このT字路の場所が善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)でした。善光寺へ通じる上田道を少し歩きます。
JRバス関東小諸支店の長久保営業所です。ここには長野県東部(東信地方)の中心都市で、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町・上田市にある上田駅(JR北陸新幹線、しなの鉄道線、上田電鉄別所線)からJRバス関東の路線バスが乗り入れてきています。この路線バス、名称を和田峠北線と言います。現在は上田駅~長久保営業所間で運行されていますが、かつては次回の第16回で訪れる和田宿のある上和田まで延びていました。さらにその上和田から先はJRバス関東下諏訪支店(現在は廃止)が運行する和田峠南線と接続し、五街道最高標高の峠・和田峠を越えてJR中央本線の下諏訪駅まで運行され、信越本線と中央本線という2本の幹線鉄道路線を短絡していました(なので、旧国鉄がバスを運行していました)。しかしながら、乗客の減少により2005年に和田峠南線が廃止され、残った和田峠北線も長久保~上和田間が長和町巡回バス(JRバス関東が運行受託)の区間に切り替えられたために、現在は上田駅~長久保営業所間のみの運行になっています。真田信繁(幸村)の長女すへが長久保宿で本陣を務める石合家の5代目・石合十蔵道定に嫁いだということは前述の通りですが、上田と長久保って昔から密接に繋がっていたのですね。
私は鉄道と同じく、バスも趣味の対象にしています。かつて鉄道のローカル線に向けられていた情熱がローカルバスへ、絶滅したブルートレインに向けられていた情熱が夜行高速バスへ、また、同じくJRバスでは絶滅した急行列車に向けられていた情熱が昼行高速バスへ移ったもので、全国的に画一化する傾向の強い鉄道から離れて、最近ではバス趣味の比重のほうが高まってきているほどです。
JR四国バス(その1)
JR四国バス(その2)
バスも本来鉄道と同様に身近な存在の公共交通機関であったため、古くから鉄道と同様に趣味とする人は存在しました。しかし、バス趣味というとメジャーの鉄道趣味の影に隠れてマイナーな存在であったのは否めません。それを一変したのが2007年からテレビ東京系列で不定期に25回にわたって放映された旅企画番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』。この番組は俳優の太川陽介さんと漫画家の蛭子能収さんが毎回女性ゲスト1人を加えた3人で日本国内にある路線バスを乗り継いで3泊4日の日程内に目的地への到達を目指すというもので、この番組が話題となり、ローカル路線バスも一気に世の中的に陽が当たるようになってきて、それと同時にバスを趣味の対象とするバスマニアもある程度の市民権を得ることができた…と思っています。この『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』は2017年1月の第25回をもって終了し、現在は俳優の田中要次さんと小説家の羽田圭介さんの出演に代わって、新シリーズの『ローカル路線バス乗り継ぎの旅Z』として、同じく不定期で放送が続けられています。
そういうこともあり、このJRバス関東小諸支店の長久保営業所は私のハートを鷲掴みって感じです。背後に迫る山に、旧街道の宿場の面影を色濃く残す町並み、目の前に広がる青々とした田園風景。まさにローカル路線バスの営業所。ここをモチーフとしてローカル路線バスの営業所のジオラマ模型を作ってみたいという衝動に駆られるほどです。
今回の【第15回】のゴールは、このJRバス関東小諸支店長久保営業所の駐車場でした。駐車場で整理体操。歩き出す前に行う準備体操も重要ですが、実は歩き終わってからの整理体操も極めて重要なのです。入念に全身のストレッチを行うことで、翌日以降の筋肉痛の程度が全然異なります。
整理体操の後、観光バスに乗って東京池袋駅西口を目指して帰りました。
次回【第16回】は、ここ長久保宿を出て、和田宿へ、そして中山道だけでなく五街道最高標高(1,600メートル)の和田峠を目指します。またまた待望の峠越えです。
途中、「道の駅ほっとぱーく浅科」にトイレ休憩のため立ち寄りました。この日はよく晴れて、青空をバックに雄大な浅間山の姿が、山頂付近から立ち昇る噴煙も含めてクッキリ綺麗に見えます。
「道の駅ほっとぱーく浅科」のトイレに向かう通路の軒下でも、ツバメの巣がありました。ここのヒナ(雛)はすぐにでも巣立ちできそうなくらいにまで育っています。そう言えば、長久保で見掛けたJRバス関東の路線バスの車体にもツバメのマークが描かれていました。
長久保を出たのが15時ちょっと過ぎと早い時間帯だったこともあり、3連休の最終日というのに高速道路で酷い渋滞に巻き込まれることもなく、順調に池袋駅西口に到着しました。それでも所要時間は約4時間半。随分と遠くまで来たものです。この日は歩数にして21,593歩、距離にして15.8km、歩きました。真夏の直射日光に曝された中での街道歩きでしたし、笠取峠という難所をはじめ、アップダウンの激しいルートだったので、歩いた距離以上に疲れました。
それにしても、今回も(その1)から(その12)までの随分と長編の紀行文になってしまいました。正直、今回は知名度がイマイチ低い宿場ばかりを巡るルートでしたし、歩く距離も短いので、ここに来るまではどこまで書けるか…と思っていたのですが、見どころがいっぱいで、ここまでの長編になってしまいました。掲載した写真の数はこれまでで最多なのではないか…と思っています。それだけ途中に私の興味や好奇心を引く光景が多かったってことです。信濃路の中山道は昔の面影が色濃く残っているところが多く、メチャメチャ面白いです。これは、次回も本当に楽しみです。
――――――――〔完結〕――――――――
長久保宿(ながくぼしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて27番目の宿場です。元々は長窪宿と表記していました。現在の地名では長野県小県郡長和町長久保です。ともに難所であった笠取峠と和田峠との間にあって、また、善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)だったこともあり、最盛期には旅籠が43軒と比較的大きな宿場でした。
長久保宿は当初は現在の位置より西下の依田川沿いに設けられていました。しかし大洪水によって宿場全体が流失してしまったため、寛永8年(1631年)に河岸段丘の上にある現在の地に移り、本陣・問屋を中心に“堅町”を形成し、後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に“横町”を形成していったため、珍しいL字型に曲がった町並みの宿場町になっています。
本来の表記は長窪郷に含まれる「長窪」であったのですが、宿で生活する人々が「窪」の字を敬遠し、久しく保つという意味を持つ「久保」に縁起を担いだらしい…と言われています。安政6年(1859年)には宿方から代官所へ宿名変更の願書すら出されたが、許可はされなかったようです。そのため、以降も公文書には「長窪宿」と記されていたのですが、明治の時代になりようやく認められたのだそうです。天保14年(1843年)の記録(中山道宿村大概帳)によれば、長久保宿の宿内家数は187軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は721人であったそうです。善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)が宿内にある交通の要衝で、長久保宿は最大で43軒の旅籠があり、信濃国にある中山道26宿の中では塩尻宿に次ぐ2番目の数を誇りました。
まずは本陣のある堅町を歩きます。堅町の町並みは真っ直ぐに続いています。旅籠らしい家も数軒残っていて、たいそう味わいがあります。
丸木屋です。江戸時代末の旅籠を改修し、現在は地域交流センターとして開放されています。
屋根に石を載せた古い民家があります。佇まいからして元旅籠だったところのようです。
一服処「濱屋」です。ここは明治の初期に旅籠として建てられたのですが、交通量の減少で旅籠として開業できず、茶店となったのだそうです。現在は無料の休憩所を兼ねる「長久保宿歴史資料館」になっています。そこに宿場図が掛けられています。
ここ長久保は昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公である真田信繁(幸村)と非常に関係の深いところです。この長久保周辺は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて真田氏が治めていました。以下の書状の宛人である石合十蔵道定は、真田信繁(幸村)の長女“すへ”の婿にあたります。真田信繁と真田家家臣の堀田作兵衛興重の娘(妹という説もあります)との間に生まれた長女の“すへ”は、堀田作兵衛の養女となり、その後、長久保郷の中核をなした石合家の4代目・十蔵道定のもとに嫁ぎました(石合家は江戸時代に入って長久保宿の本陣を勤めることになります)。
NHK大河ドラマ『真田丸』でも描かれたように、真田信繁は、慶長5年(1600年)の第二次上田合戦後、父親である真田昌幸とともに高野山(和歌山県)に配流となり、以降14年の間、高野山の麓の九度山村に隠棲します。しかし、慶長19年(1614年)に豊臣家からの誘いを受け、長男の大助を伴って大坂城に入城し、「大坂冬の陣」では大坂城の南側に真田丸(大坂城に付属する出城)を築き、徳川方に大打撃を与えます。豊臣方・徳川方双方の和議によって「大坂冬の陣」は終息しますが、和議の条件であった大坂城の堀の埋め立てを巡り、豊臣方と徳川方は再び対立を深めていきます。この書状からも、豊臣方が再戦を覚悟している様子が読み取れます。
この時、真田信繁は徳川方からの「十万石」、さらには「信濃一国」ともいう誘いを断り、「大坂夏の陣」では徳川家康の本陣を突き崩す活躍を見せ、華々しく討ち死にします。その戦いぶりは、敵方であった諸将からも「真田日本一の兵(つわもの)、いにしえよりの物語にもこれなき由」とか、「古今これなき大手柄」と称賛されます。また、長男・大助は淀君・秀頼母子に殉じ、“すへ”の養父・堀田作兵衛も主君・真田信繁とともに戦い、討ち死にします。
この書状からは、敵将の子となった娘の将来を案じる父親の愛情がほとばしるほどに感じられます。
おおっ! 本物の道中合羽と三度笠です。まさに木枯らし紋次郎が着ていたような「股旅姿」です。
こちらは参勤交代の侍(下級武士)が着用していた道中用の衣装です。
この長久保宿歴史資料館には、長久保宿内で実際に使われていた様々なものが展示されています。下の写真の左側は火事の時の消防用の手押しポンプです。
下の写真の左側は祭りで使う「子ども獅子」のお面、右側は各家の屋号が入った提灯です。今でいう懐中電灯のようなものですね。
見上げると立派な梁です。歴史を感じさせます。
長久保宿歴史資料館を出て、長久保宿の中心部へと入っていきます。
中山道最古の本陣建築が現存する長久保宿の本陣です。この本陣は火災の記録がなく、江戸時代初期に建てられた御殿が今も残っています。前述のように、この本陣を務めた石合(いしあい)家の4代目・石合十蔵道定には、昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公・真田信繁(幸村)の長女すへが嫁ぎました。
本陣の横には高札場があります。この高札場、中山道でこれまで見てきた現存する高札場の中では、最も大きな高札場です。なるほど、昔もこんな感じだったんでしょうね。
江戸時代天保年間頃の建築と推定される旅籠「古久屋」(羽毛田家)です。この時期の標準的な規模の旅籠建築として、唯一現存する建造物で、表2階の格子や屋号の看板がその風情を伝えています。
旅籠「古久屋」(羽毛田家)の側面の壁の上部には旧主君・真田氏との関係を示す「六文銭」が描かれています。その隣が空き地になっていますが、かつてここに脇本陣があったようで、「脇本陣跡」の案内標識が立っています。
100坪以上の広さがあり、目を見張るような巨大な本卯建(うだつ)が上がる建物は、江戸初期の17世紀中頃から昭和の初期まで酒造業を営み、宿場の役職も勤めてきた「釜鳴屋(かまなりや)」(竹内家)です。長野県内最古の町屋なのだそうです。母屋の屋根の端部には、妻壁を高く突出させ、それに小屋根を付けた「本卯建(ほんうだつ)」が見られます。この天を衝くような卯建は“火煽り”とか“火返し”と呼ばれています。
この建物が建てられた年代は明らかになってはいませんが、寛延2年(1749年)に描かれた絵図に、現在と同じ間取りが記載されていることや、玄関口に打ち付けられている最も古い享保16年(1731年)の祈祷札に打ち替えた跡がなかったことから、これ以前に建てられていたものと考えられています。品質の上等な酒があることを示す「上酒有」と書かれた元禄時代からの看板があるそうです。
その「釜鳴屋」の斜め前にあるのが、長久保宿の創設期から問屋を勤めてきた「小林家」です。現在の母屋は明治3年(1870年)の大火で焼失し、再建されたものですが、出格子を付けた2階部分が昔の形状を伝えています。屋根には旧主君・真田氏との関係を示す「六文銭」の鬼瓦が見られます。
堅町は正面で突き当り、長久保宿はこのT字路を左折して、横町の宿場通りを進むのですが、この日の中山道六十九次・街道歩きはここでおしまい。同じT字路を右折します。
堅町から横町に中山道が曲がる付近にも、昔の旅籠らしい旧家が幾つも残っています。今も「よねや」旅館、「ならや」旅館、「濱田屋」旅館などが営業を続けています。
T字路に右折したところに「中山道 長久保宿 左ぜんこうじ」と書かれた道標が立っています。このT字路の場所が善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)でした。善光寺へ通じる上田道を少し歩きます。
JRバス関東小諸支店の長久保営業所です。ここには長野県東部(東信地方)の中心都市で、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町・上田市にある上田駅(JR北陸新幹線、しなの鉄道線、上田電鉄別所線)からJRバス関東の路線バスが乗り入れてきています。この路線バス、名称を和田峠北線と言います。現在は上田駅~長久保営業所間で運行されていますが、かつては次回の第16回で訪れる和田宿のある上和田まで延びていました。さらにその上和田から先はJRバス関東下諏訪支店(現在は廃止)が運行する和田峠南線と接続し、五街道最高標高の峠・和田峠を越えてJR中央本線の下諏訪駅まで運行され、信越本線と中央本線という2本の幹線鉄道路線を短絡していました(なので、旧国鉄がバスを運行していました)。しかしながら、乗客の減少により2005年に和田峠南線が廃止され、残った和田峠北線も長久保~上和田間が長和町巡回バス(JRバス関東が運行受託)の区間に切り替えられたために、現在は上田駅~長久保営業所間のみの運行になっています。真田信繁(幸村)の長女すへが長久保宿で本陣を務める石合家の5代目・石合十蔵道定に嫁いだということは前述の通りですが、上田と長久保って昔から密接に繋がっていたのですね。
私は鉄道と同じく、バスも趣味の対象にしています。かつて鉄道のローカル線に向けられていた情熱がローカルバスへ、絶滅したブルートレインに向けられていた情熱が夜行高速バスへ、また、同じくJRバスでは絶滅した急行列車に向けられていた情熱が昼行高速バスへ移ったもので、全国的に画一化する傾向の強い鉄道から離れて、最近ではバス趣味の比重のほうが高まってきているほどです。
JR四国バス(その1)
JR四国バス(その2)
バスも本来鉄道と同様に身近な存在の公共交通機関であったため、古くから鉄道と同様に趣味とする人は存在しました。しかし、バス趣味というとメジャーの鉄道趣味の影に隠れてマイナーな存在であったのは否めません。それを一変したのが2007年からテレビ東京系列で不定期に25回にわたって放映された旅企画番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』。この番組は俳優の太川陽介さんと漫画家の蛭子能収さんが毎回女性ゲスト1人を加えた3人で日本国内にある路線バスを乗り継いで3泊4日の日程内に目的地への到達を目指すというもので、この番組が話題となり、ローカル路線バスも一気に世の中的に陽が当たるようになってきて、それと同時にバスを趣味の対象とするバスマニアもある程度の市民権を得ることができた…と思っています。この『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』は2017年1月の第25回をもって終了し、現在は俳優の田中要次さんと小説家の羽田圭介さんの出演に代わって、新シリーズの『ローカル路線バス乗り継ぎの旅Z』として、同じく不定期で放送が続けられています。
そういうこともあり、このJRバス関東小諸支店の長久保営業所は私のハートを鷲掴みって感じです。背後に迫る山に、旧街道の宿場の面影を色濃く残す町並み、目の前に広がる青々とした田園風景。まさにローカル路線バスの営業所。ここをモチーフとしてローカル路線バスの営業所のジオラマ模型を作ってみたいという衝動に駆られるほどです。
今回の【第15回】のゴールは、このJRバス関東小諸支店長久保営業所の駐車場でした。駐車場で整理体操。歩き出す前に行う準備体操も重要ですが、実は歩き終わってからの整理体操も極めて重要なのです。入念に全身のストレッチを行うことで、翌日以降の筋肉痛の程度が全然異なります。
整理体操の後、観光バスに乗って東京池袋駅西口を目指して帰りました。
次回【第16回】は、ここ長久保宿を出て、和田宿へ、そして中山道だけでなく五街道最高標高(1,600メートル)の和田峠を目指します。またまた待望の峠越えです。
途中、「道の駅ほっとぱーく浅科」にトイレ休憩のため立ち寄りました。この日はよく晴れて、青空をバックに雄大な浅間山の姿が、山頂付近から立ち昇る噴煙も含めてクッキリ綺麗に見えます。
「道の駅ほっとぱーく浅科」のトイレに向かう通路の軒下でも、ツバメの巣がありました。ここのヒナ(雛)はすぐにでも巣立ちできそうなくらいにまで育っています。そう言えば、長久保で見掛けたJRバス関東の路線バスの車体にもツバメのマークが描かれていました。
長久保を出たのが15時ちょっと過ぎと早い時間帯だったこともあり、3連休の最終日というのに高速道路で酷い渋滞に巻き込まれることもなく、順調に池袋駅西口に到着しました。それでも所要時間は約4時間半。随分と遠くまで来たものです。この日は歩数にして21,593歩、距離にして15.8km、歩きました。真夏の直射日光に曝された中での街道歩きでしたし、笠取峠という難所をはじめ、アップダウンの激しいルートだったので、歩いた距離以上に疲れました。
それにしても、今回も(その1)から(その12)までの随分と長編の紀行文になってしまいました。正直、今回は知名度がイマイチ低い宿場ばかりを巡るルートでしたし、歩く距離も短いので、ここに来るまではどこまで書けるか…と思っていたのですが、見どころがいっぱいで、ここまでの長編になってしまいました。掲載した写真の数はこれまでで最多なのではないか…と思っています。それだけ途中に私の興味や好奇心を引く光景が多かったってことです。信濃路の中山道は昔の面影が色濃く残っているところが多く、メチャメチャ面白いです。これは、次回も本当に楽しみです。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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