2017/10/18
日光街道ダイジェストウォーク【日光東照宮→今市宿】(その4)
なんとか列の最後尾の方々に追いついたところで東武鉄道日光線の線路を再び潜ります。線路の向こう側が鬱蒼とした森のように見えますが、あれが杉並木です。ここからが今回の「日光街道ダイジェストウォーク」の目玉、「日光街道杉並木」の本番です。
日光街道の杉並木、通称「日光杉並木街道」は、樹齢380年超えの杉並木が全長約37kmにわたり現存している旧街道です。特に、その中でもこの上今市駅と日光との間の並木道は未舗装のままで、昔の面影を色濃く残しています。「日光杉並木街道」は日光街道だけでなく、日光例幣使街道、西会津街道という日光を起点・終点とする3つの街道の杉並木の総称です。前述のようにその長さは全長約37kmにも及び、その区間の道の両側に約1万2,350本(平成25年度時点)もの杉の木が鬱蒼と聳え立っています。
この見事な杉並木は相模国玉縄藩初代藩主で大河内松平宗家初代、松平正綱が20年余りの年月をかけて20万本以上もの杉を植樹し、家康の33回忌の年に日光東照宮の参道並木として寄進したものです。ちなみに、この松平正綱は江戸幕府の勘定奉行として、徳川家康の死後、久能山への埋葬や、駿府城に遺された莫大な遺産の管理を担当した人物です。
高さ約30mにも成長したこの杉並木は現在日本で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けており、平成3年(1991年)には「世界一長い並木道」としてギネスブックに認定され、「日光街道杉並木まつり」や「杉並木マラソン」などの催しも行われています。
それにしても見事な杉並木です。街道歩きを趣味としている人の間では、この日光街道の杉並木は必ずと言っていいほど話題に上る有名なところで、この日光街道の杉並木を歩いたことで街道歩きを始めたという人が何人もいらっしゃるほどです。今回参加した旅行会社が「五街道ダイジェストウォーク」の初回に東海道や中山道といった著名な街道ではなく、ちょっとマイナーな日光街道のこの区間を持ってきたことの理由も分かる気がします。そのくらい素晴らしいです。
私がこのところ参加している「中山道六十九次・街道歩き」でも日光街道の杉並木のことは何度も話題に上っているので、次回からはその話の輪に私も加われそうです。
砲弾打ち込み杉です。新政府側と旧幕府側とが争った戊辰戦争の際、この日光杉並木街道のあたりは、板垣退助率いる新政府軍と大鳥圭介率いる旧幕府軍の間で「日光の戦い」と呼ばれる激しい戦闘が行われ、両軍の砲撃戦の中心地となりました。この杉の幹にある凹んだところは、砲弾が当たって破裂した跡で、当時の戦火の激しさを今に伝える貴重な歴史の痕跡となっています。
ここで新政府軍と幕府軍、両軍の指揮官としてあいまみえた板垣退助と大鳥圭介ですが、前述のように板垣退助は明治維新後、自由民権運動の中心人物になるなどして政治の世界で大活躍するのですが、大鳥圭介のほうも大活躍することになります。
戊辰戦争当時、幕府陸軍の最高幹部の1人である歩兵奉行であった大鳥圭介は江戸開城と同日の慶応4年(1868年)4月11日、伝習隊を率いて江戸を脱走し、本所、市川を経て、小山、宇都宮、そしてここ今市での戦いに敗れた後も藤原、会津…と元新撰組副長の土方歳三等と合流しつつ転戦します。伝習隊は会津藩境での母成峠の戦いで壊滅的な損害を受けたものの辛うじて全滅は免れ仙台に至ります。仙台で幕府海軍の指揮官・榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、箱館政権の陸軍奉行となります。箱館戦争では遅滞戦術を駆使し粘り強く戦ったものの、徐々に追い詰められ、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭で降伏したのち、東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄されました。
明治5年(1872年)1月に特赦により出獄した後は新政府に出仕して、左院少議官、開拓使を経て、大蔵小丞の職を兼任し、欧米各国を開拓機械の視察と公債発行の交渉のために歴訪します。明治7年(1874年)に帰国した後は、開拓使に戻り、陸軍大佐を経て工部省出仕となり、技術官僚として殖産興業政策に貢献しました。工作局長として官営工場を総括し、セメントやガラス、造船、紡績などのモデル事業を推進するなどインフラ開発にも関わり、内国勧業博覧会の審査員として国内諸産業の普及と民力向上に尽力しました。明治10年(1877年)、工部大学校が発足した際には校長に任命され、明治14年(1881年)には工部技監に昇進。勅任官となり技術者としては最高位に就きました。さらに4年後の明治18年(1885年)には元老院議官に就任し、明治19年(1886年)には学習院院長兼華族女学校校長に就任するなど、技術・教育関係の役職を歴任しました。
その後は外交官に転じて明治22年(1889年)に駐清国特命全権公使を拝命し着任。明治26年(1893年)には朝鮮公使を兼任し朝鮮へ赴任。日清戦争開戦直前の困難な場面でも外交交渉に当たりました。明治27年(1894年)に公使を解任されて帰国後は枢密顧問官に転じ、明治33年(1900年)には多年の功により男爵を授けられました。
明治維新においては西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允など新政府軍として戦った人物のほうにどうしても注目が集まりがちですが、第一次伊藤博文内閣で初代の逓信大臣に就き、その後も農商務大臣や文部大臣、外務大臣などを歴任、子爵となった榎本武揚もそうですが、幕府軍として戦った側にもなかなかの人物が揃っています。私はそういう人物が好きですね。
道路の左側の杉並木の向こう側を流れている川から水が引き込まれ、ここから道の左脇に掘られた用水路を小さな音を立てて流れています。そこを流れている水は透き通っていて綺麗です。手をつけてみましたが冷たくて気持ちよかったです。おそらくここを旅した旅人の喉を潤したり、顔の汗を洗ったりするのに使われたのではないでしょうか。
道路が交差するところなど、ところどころ杉並木が途切れるのですが、そこには杉並木の「特別保護地域」を示す案内標識が立っています。
旧街道らしく、道沿いの家には大きな土蔵がある家が幾つもあり、その土蔵にはそれぞれの家の家紋が描かれていたりします。
この日は真夏の太陽が照りつける暑い1日だったのですが、鬱蒼と茂る杉並木で太陽の光が遮られるこの街道は風も通り、涼しくて歩きやすいです。なるほど、江戸幕府が街道沿いに松や杉の並木を植えることを奨励したのはこのためだったんですね。
この緩やかな右カーブ。いかにも旧街道って感じがします。昔もこういう光景だったのでしょうね。旧街道らしく古い神社が建っています。高龗神社(たかおじんじゃ)です。社名である「高靇」は水源を司る日本神話の神、高靇神(たかおかみのかみ)に由来しているそうで、神社には祭神として大山祇命(おおやまつみのみこと)・少名彦命(すくなびこなのみこと)・草野姫命(かやのひめのみこと)が祀られているのだそうです。大山祇命が主祭神として祀られているということで、愛媛県大三島も大山祇神社を氏神とする越智氏族の一員としては一気に親近感が湧きます。
先ほどまで道の左側を流れていた用水路は、このあたりからは道の右側を流れるようになります。これは明らかに意図的なものでしょうね。この道の右側の用水路を流れる水も透き通っていて、綺麗です。
日光東照宮は大勢の人達が参拝に訪れ、大いに賑わっていましたが、この杉並木のほうは私達の他には訪れている人もなく、騒がしいくらいに鳴いている蝉の声を除けば、静寂そのものです。ちょっと足を延ばせばこういう素晴らしい光景が見られるのにねぇ~。
これはぶっとい杉の木です。樹齢300年以上と言われるこの日光街道の杉並木の杉の木はどれも幹が太く、高さも30~40メートルと高いのですが、その中でも特に太い木です。
近年では、風雨や自動車の排気ガス等による倒木や枯損を抑止するため、日光杉並木保護財団および栃木県文化財課により樹勢回復及び保護対策事業が行われており、平成8年(1996年)からはその事業費を捻出するため「日光杉並木オーナー制度」が開始されています。それぞれの木には木のオーナーの名前が書かれた札が掲げられています。オーナー代は1,000万円なのだそうです。まぁ~、それだけの価値はありますわね。
杉並木オーナー制度について
ちなみに、この日光街道の杉並木は平成11年(1999年)に「日光の社寺」がユネスコの世界遺産に登録された際、二荒山神社、日光東照宮などとともに世界遺産の登録を受けています。それほどの価値のある素晴らしい景観です。
用水路の堰があります。ここで杉並木の向こう側を流れる用水路の本流から取り入れる水を調整しているようです。杉並木だけでなく、よく考えて作られた街道であることが分かります。凄いです。
杉並木が途切れたところが、今市宿の入り口です。
今市宿(いまいちじゅく)は、江戸の日本橋から数えて日光街道の20番目の宿場です。この地はもともとは今村と呼ばれていたのですが、宿場となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われています。この宿は日光街道だけの宿場ではなく、日光街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿場でした。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によると、今市宿には本陣が1軒、脇本陣が1軒設けられ、旅籠が21軒。宿内の家数は236軒、人口は1,122人であったのだそうです。宿場らしく、歴史を感じさせる商家の建物が幾つか建っています。
この日のゴールは「今市宿 市縁ひろば」でした。晴れてはいるものの、見るからに大気の状態が不安定そうな状況が続いていましたが、幸いなことに心配された雨に遭うことはありませんでした。遠くを見ると標高が高い鬼怒川方面には黒い雲がかかり、明らかに強い雨が降っている様子です。今回も「晴れ男のレジェンド」は健在でした。
背中に薪を背負って歩きながら書物を読む…、かつては小学校の校庭の片隅に必ずと言っていいくらい像が立っていた「二宮金次郎」。その「二宮金次郎」の名で知られる江戸時代後期の経世家で農政家、思想家であった二宮尊徳がお亡くなりになった場所が、ここ今市だったのですね。今市宿の標柱には「二宮尊徳翁終焉の地」という文字が刻まれています。この二宮尊徳、名前の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むのですが、尊敬の念をもって「そんとく」と読まれるのが一般的です。
二宮尊徳は天明7年(1787年)、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)で、百姓二宮利右衛門の長男として生まれました。尊徳が5歳の時、南関東をおそった暴風で、村の近くを流れる酒匂川の堤が決壊し、尊徳の住む地域が、濁流によって押し流されてしまいました。その影響で生家の田畑は崩壊。家も流失してしまいました。さらに、16歳までに両親を亡くし、伯父・二宮万兵衛の家に預けられた尊徳は、伯父の家で農業に励むかたわら、荒地になった生家の田畑を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功させます。
この体験をもとに、経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導しました。文政5年(1822年)に小田原藩に登用され、天保13年(1842年)には普請役格の幕臣となります。翌年、幕府直轄領(天領)下総大生郷村の仕法(復興・再建)を命じられ、弘化元年(1844年)には日光山領の仕法を命じられます。さらにその翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となって、真岡に移住。日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していたのですが、病を発し、安政3年(1856年)、ここ下野国今市村の報徳役所にて没したのだそうです。享年70歳。死後、尊徳の偉業に敬意を表し、尊徳を祀る二宮神社が生地の小田原(報徳二宮神社)だけでなく、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、さらには仕法の地・栃木県真岡市(桜町二宮神社)などに建てられました。
ここには日光東照宮参拝に来られた天皇も休憩のためお立ち寄りになられたようで、記念の石碑が残っています。
晴れた上に湿度が高い中を歩いたので、汗グッショリです。駐車場に停車した観光バスを更衣室代わりにして、まずは女性陣が、続いて男性陣が着替えを行い、そのまま帰路につきました。お土産を購入する時間も十分になく、ホント歩いて日本地図上に自分の足跡を残すことだけが目的…という感じの旅行企画商品で、ここまで徹底すると、かえって分かりやすいです。
この日は23,745歩、距離にして17.4km歩きました。何度も書いておりますように、とにかく体育会系の街道歩きで歩くペースが速く、しかも歩き始めてからは途中で立ち止まって休憩を取る時間も短かったので、15km以上の距離を僅か3時間ほどで歩きました。なので、距離的には街道歩きとしてはさして長い距離を歩いたわけではないのに、その後、筋肉痛が数日続きました。このところ「中山道六十九次・街道歩き」では、あの中山道最大の難所と言われる碓氷峠越えの時も含め筋肉痛になったことがしばらくなかったので、これは明らかに歩くペースの違いから起きたことでしょうね。
でもまぁ~、昔の旅人はこのくらいの速度か、もっと速い速度で1日に40kmも50kmも平気で歩いていたわけで、たまにはこの速度で旧街道を歩くのもありかな…って思っています。
この「日光街道ダイジェストウォーク」はもう1回あって、次回はこの今市宿を出て、次の大沢宿まで歩きます。次回も杉並木の道が続いているそうなので、楽しみです。
【追記】
帰りには東北自動車道の羽生(はにゅう)パーキングエリア(PA)で休憩をとりました。この羽生PAの上り線(東京方面)には、テレビドラマにもなった池波正太郎さんの代表的な時代小説、「鬼平犯科帳」とコラボした施設『鬼平江戸処』が設けられています。関所を模したという入口があり、そこを潜って中に入ると、江戸の日本橋の町並みを模したという建物が並んでいます。史実にもとづいて忠実に再現するべく、細部にわたってこだわりを持って作り込まれた施設ということで、どこかから移築されてきた本物かと見紛うばかりです。特に掲げられている看板や建物に使用されている木材のエイジング加工は見事です。施設の中では粋な“新内流し”の大道芸人が三味線を演奏しながら練り歩いています。
旧街道歩きの帰りに立ち寄るにはピッタリのところです。
――――――――〔完結〕――――――――
日光街道の杉並木、通称「日光杉並木街道」は、樹齢380年超えの杉並木が全長約37kmにわたり現存している旧街道です。特に、その中でもこの上今市駅と日光との間の並木道は未舗装のままで、昔の面影を色濃く残しています。「日光杉並木街道」は日光街道だけでなく、日光例幣使街道、西会津街道という日光を起点・終点とする3つの街道の杉並木の総称です。前述のようにその長さは全長約37kmにも及び、その区間の道の両側に約1万2,350本(平成25年度時点)もの杉の木が鬱蒼と聳え立っています。
この見事な杉並木は相模国玉縄藩初代藩主で大河内松平宗家初代、松平正綱が20年余りの年月をかけて20万本以上もの杉を植樹し、家康の33回忌の年に日光東照宮の参道並木として寄進したものです。ちなみに、この松平正綱は江戸幕府の勘定奉行として、徳川家康の死後、久能山への埋葬や、駿府城に遺された莫大な遺産の管理を担当した人物です。
高さ約30mにも成長したこの杉並木は現在日本で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けており、平成3年(1991年)には「世界一長い並木道」としてギネスブックに認定され、「日光街道杉並木まつり」や「杉並木マラソン」などの催しも行われています。
それにしても見事な杉並木です。街道歩きを趣味としている人の間では、この日光街道の杉並木は必ずと言っていいほど話題に上る有名なところで、この日光街道の杉並木を歩いたことで街道歩きを始めたという人が何人もいらっしゃるほどです。今回参加した旅行会社が「五街道ダイジェストウォーク」の初回に東海道や中山道といった著名な街道ではなく、ちょっとマイナーな日光街道のこの区間を持ってきたことの理由も分かる気がします。そのくらい素晴らしいです。
私がこのところ参加している「中山道六十九次・街道歩き」でも日光街道の杉並木のことは何度も話題に上っているので、次回からはその話の輪に私も加われそうです。
砲弾打ち込み杉です。新政府側と旧幕府側とが争った戊辰戦争の際、この日光杉並木街道のあたりは、板垣退助率いる新政府軍と大鳥圭介率いる旧幕府軍の間で「日光の戦い」と呼ばれる激しい戦闘が行われ、両軍の砲撃戦の中心地となりました。この杉の幹にある凹んだところは、砲弾が当たって破裂した跡で、当時の戦火の激しさを今に伝える貴重な歴史の痕跡となっています。
ここで新政府軍と幕府軍、両軍の指揮官としてあいまみえた板垣退助と大鳥圭介ですが、前述のように板垣退助は明治維新後、自由民権運動の中心人物になるなどして政治の世界で大活躍するのですが、大鳥圭介のほうも大活躍することになります。
戊辰戦争当時、幕府陸軍の最高幹部の1人である歩兵奉行であった大鳥圭介は江戸開城と同日の慶応4年(1868年)4月11日、伝習隊を率いて江戸を脱走し、本所、市川を経て、小山、宇都宮、そしてここ今市での戦いに敗れた後も藤原、会津…と元新撰組副長の土方歳三等と合流しつつ転戦します。伝習隊は会津藩境での母成峠の戦いで壊滅的な損害を受けたものの辛うじて全滅は免れ仙台に至ります。仙台で幕府海軍の指揮官・榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、箱館政権の陸軍奉行となります。箱館戦争では遅滞戦術を駆使し粘り強く戦ったものの、徐々に追い詰められ、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭で降伏したのち、東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄されました。
明治5年(1872年)1月に特赦により出獄した後は新政府に出仕して、左院少議官、開拓使を経て、大蔵小丞の職を兼任し、欧米各国を開拓機械の視察と公債発行の交渉のために歴訪します。明治7年(1874年)に帰国した後は、開拓使に戻り、陸軍大佐を経て工部省出仕となり、技術官僚として殖産興業政策に貢献しました。工作局長として官営工場を総括し、セメントやガラス、造船、紡績などのモデル事業を推進するなどインフラ開発にも関わり、内国勧業博覧会の審査員として国内諸産業の普及と民力向上に尽力しました。明治10年(1877年)、工部大学校が発足した際には校長に任命され、明治14年(1881年)には工部技監に昇進。勅任官となり技術者としては最高位に就きました。さらに4年後の明治18年(1885年)には元老院議官に就任し、明治19年(1886年)には学習院院長兼華族女学校校長に就任するなど、技術・教育関係の役職を歴任しました。
その後は外交官に転じて明治22年(1889年)に駐清国特命全権公使を拝命し着任。明治26年(1893年)には朝鮮公使を兼任し朝鮮へ赴任。日清戦争開戦直前の困難な場面でも外交交渉に当たりました。明治27年(1894年)に公使を解任されて帰国後は枢密顧問官に転じ、明治33年(1900年)には多年の功により男爵を授けられました。
明治維新においては西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允など新政府軍として戦った人物のほうにどうしても注目が集まりがちですが、第一次伊藤博文内閣で初代の逓信大臣に就き、その後も農商務大臣や文部大臣、外務大臣などを歴任、子爵となった榎本武揚もそうですが、幕府軍として戦った側にもなかなかの人物が揃っています。私はそういう人物が好きですね。
道路の左側の杉並木の向こう側を流れている川から水が引き込まれ、ここから道の左脇に掘られた用水路を小さな音を立てて流れています。そこを流れている水は透き通っていて綺麗です。手をつけてみましたが冷たくて気持ちよかったです。おそらくここを旅した旅人の喉を潤したり、顔の汗を洗ったりするのに使われたのではないでしょうか。
道路が交差するところなど、ところどころ杉並木が途切れるのですが、そこには杉並木の「特別保護地域」を示す案内標識が立っています。
旧街道らしく、道沿いの家には大きな土蔵がある家が幾つもあり、その土蔵にはそれぞれの家の家紋が描かれていたりします。
この日は真夏の太陽が照りつける暑い1日だったのですが、鬱蒼と茂る杉並木で太陽の光が遮られるこの街道は風も通り、涼しくて歩きやすいです。なるほど、江戸幕府が街道沿いに松や杉の並木を植えることを奨励したのはこのためだったんですね。
この緩やかな右カーブ。いかにも旧街道って感じがします。昔もこういう光景だったのでしょうね。旧街道らしく古い神社が建っています。高龗神社(たかおじんじゃ)です。社名である「高靇」は水源を司る日本神話の神、高靇神(たかおかみのかみ)に由来しているそうで、神社には祭神として大山祇命(おおやまつみのみこと)・少名彦命(すくなびこなのみこと)・草野姫命(かやのひめのみこと)が祀られているのだそうです。大山祇命が主祭神として祀られているということで、愛媛県大三島も大山祇神社を氏神とする越智氏族の一員としては一気に親近感が湧きます。
先ほどまで道の左側を流れていた用水路は、このあたりからは道の右側を流れるようになります。これは明らかに意図的なものでしょうね。この道の右側の用水路を流れる水も透き通っていて、綺麗です。
日光東照宮は大勢の人達が参拝に訪れ、大いに賑わっていましたが、この杉並木のほうは私達の他には訪れている人もなく、騒がしいくらいに鳴いている蝉の声を除けば、静寂そのものです。ちょっと足を延ばせばこういう素晴らしい光景が見られるのにねぇ~。
これはぶっとい杉の木です。樹齢300年以上と言われるこの日光街道の杉並木の杉の木はどれも幹が太く、高さも30~40メートルと高いのですが、その中でも特に太い木です。
近年では、風雨や自動車の排気ガス等による倒木や枯損を抑止するため、日光杉並木保護財団および栃木県文化財課により樹勢回復及び保護対策事業が行われており、平成8年(1996年)からはその事業費を捻出するため「日光杉並木オーナー制度」が開始されています。それぞれの木には木のオーナーの名前が書かれた札が掲げられています。オーナー代は1,000万円なのだそうです。まぁ~、それだけの価値はありますわね。
杉並木オーナー制度について
ちなみに、この日光街道の杉並木は平成11年(1999年)に「日光の社寺」がユネスコの世界遺産に登録された際、二荒山神社、日光東照宮などとともに世界遺産の登録を受けています。それほどの価値のある素晴らしい景観です。
用水路の堰があります。ここで杉並木の向こう側を流れる用水路の本流から取り入れる水を調整しているようです。杉並木だけでなく、よく考えて作られた街道であることが分かります。凄いです。
杉並木が途切れたところが、今市宿の入り口です。
今市宿(いまいちじゅく)は、江戸の日本橋から数えて日光街道の20番目の宿場です。この地はもともとは今村と呼ばれていたのですが、宿場となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われています。この宿は日光街道だけの宿場ではなく、日光街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿場でした。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によると、今市宿には本陣が1軒、脇本陣が1軒設けられ、旅籠が21軒。宿内の家数は236軒、人口は1,122人であったのだそうです。宿場らしく、歴史を感じさせる商家の建物が幾つか建っています。
この日のゴールは「今市宿 市縁ひろば」でした。晴れてはいるものの、見るからに大気の状態が不安定そうな状況が続いていましたが、幸いなことに心配された雨に遭うことはありませんでした。遠くを見ると標高が高い鬼怒川方面には黒い雲がかかり、明らかに強い雨が降っている様子です。今回も「晴れ男のレジェンド」は健在でした。
背中に薪を背負って歩きながら書物を読む…、かつては小学校の校庭の片隅に必ずと言っていいくらい像が立っていた「二宮金次郎」。その「二宮金次郎」の名で知られる江戸時代後期の経世家で農政家、思想家であった二宮尊徳がお亡くなりになった場所が、ここ今市だったのですね。今市宿の標柱には「二宮尊徳翁終焉の地」という文字が刻まれています。この二宮尊徳、名前の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むのですが、尊敬の念をもって「そんとく」と読まれるのが一般的です。
二宮尊徳は天明7年(1787年)、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)で、百姓二宮利右衛門の長男として生まれました。尊徳が5歳の時、南関東をおそった暴風で、村の近くを流れる酒匂川の堤が決壊し、尊徳の住む地域が、濁流によって押し流されてしまいました。その影響で生家の田畑は崩壊。家も流失してしまいました。さらに、16歳までに両親を亡くし、伯父・二宮万兵衛の家に預けられた尊徳は、伯父の家で農業に励むかたわら、荒地になった生家の田畑を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功させます。
この体験をもとに、経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導しました。文政5年(1822年)に小田原藩に登用され、天保13年(1842年)には普請役格の幕臣となります。翌年、幕府直轄領(天領)下総大生郷村の仕法(復興・再建)を命じられ、弘化元年(1844年)には日光山領の仕法を命じられます。さらにその翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となって、真岡に移住。日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していたのですが、病を発し、安政3年(1856年)、ここ下野国今市村の報徳役所にて没したのだそうです。享年70歳。死後、尊徳の偉業に敬意を表し、尊徳を祀る二宮神社が生地の小田原(報徳二宮神社)だけでなく、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、さらには仕法の地・栃木県真岡市(桜町二宮神社)などに建てられました。
ここには日光東照宮参拝に来られた天皇も休憩のためお立ち寄りになられたようで、記念の石碑が残っています。
晴れた上に湿度が高い中を歩いたので、汗グッショリです。駐車場に停車した観光バスを更衣室代わりにして、まずは女性陣が、続いて男性陣が着替えを行い、そのまま帰路につきました。お土産を購入する時間も十分になく、ホント歩いて日本地図上に自分の足跡を残すことだけが目的…という感じの旅行企画商品で、ここまで徹底すると、かえって分かりやすいです。
この日は23,745歩、距離にして17.4km歩きました。何度も書いておりますように、とにかく体育会系の街道歩きで歩くペースが速く、しかも歩き始めてからは途中で立ち止まって休憩を取る時間も短かったので、15km以上の距離を僅か3時間ほどで歩きました。なので、距離的には街道歩きとしてはさして長い距離を歩いたわけではないのに、その後、筋肉痛が数日続きました。このところ「中山道六十九次・街道歩き」では、あの中山道最大の難所と言われる碓氷峠越えの時も含め筋肉痛になったことがしばらくなかったので、これは明らかに歩くペースの違いから起きたことでしょうね。
でもまぁ~、昔の旅人はこのくらいの速度か、もっと速い速度で1日に40kmも50kmも平気で歩いていたわけで、たまにはこの速度で旧街道を歩くのもありかな…って思っています。
この「日光街道ダイジェストウォーク」はもう1回あって、次回はこの今市宿を出て、次の大沢宿まで歩きます。次回も杉並木の道が続いているそうなので、楽しみです。
【追記】
帰りには東北自動車道の羽生(はにゅう)パーキングエリア(PA)で休憩をとりました。この羽生PAの上り線(東京方面)には、テレビドラマにもなった池波正太郎さんの代表的な時代小説、「鬼平犯科帳」とコラボした施設『鬼平江戸処』が設けられています。関所を模したという入口があり、そこを潜って中に入ると、江戸の日本橋の町並みを模したという建物が並んでいます。史実にもとづいて忠実に再現するべく、細部にわたってこだわりを持って作り込まれた施設ということで、どこかから移築されてきた本物かと見紛うばかりです。特に掲げられている看板や建物に使用されている木材のエイジング加工は見事です。施設の中では粋な“新内流し”の大道芸人が三味線を演奏しながら練り歩いています。
旧街道歩きの帰りに立ち寄るにはピッタリのところです。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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