2017/11/13
中山道六十九次・街道歩き【第17回: 和田峠→岡谷】(その2)
何度も繰り返しになりますが、和田峠は碓氷峠と並んで『中山道最大の難所』と呼ばれる峠です。その標高は中山道はおろか、五街道の全ての峠の中で最高の1,600メートル。その『中山道最大の難所』の山道を登り、そして一気に下るということで、入念なストレッチ体操を行い、いよいよ出発です。まずは和田峠のサミット(頂上)へ向けて歩いていきます。
ほんの少しだけ国道142号線の旧道を歩きます。この国道142号線の旧道、意外と交通量が多く、時折、大型トラックが道一杯に通り過ぎていくのですが、歩道がありません。ちょっと怖い感じです。
この国道142号線を歩くのは嫌だなぁ~…って思っていると、ほどなく左の側道に入ります。この側道が旧中山道の原道です。
すぐに勾配を緩和するため右側から回り込んできた国道142号線(旧道)を横断し、標識に従い階段を上って山道に入ります。ちなみに、国道142号線の旧道はここで分かれ、このまま和田峠トンネルへ向かいます。
「和田嶺神社碑」が建っています。「和田嶺神社」ということで、かつてここには神社の社殿が建っていたのかもしれませんが、今は石碑が建っているだけです。
森の中の道をしばらく歩きます。
このあたりを白樺湖と美ヶ原を結ぶ旧長野県営観光道路「ビーナスライン」が中山道を横切るように伸びています。森の中の道をしばらく歩くと、その美ヶ原に至る観光道路のビーナスラインの下を「コールゲート」と呼ばれるパイプ型のトンネルで潜り抜けます。このトンネルは長さは短いのですが、大人が立って歩けるぐらいの太さしかなく、しかもトンネルの中には道と一緒に沢が流れ、いささか不気味な感じではあります。もちろん、江戸時代にこんなトンネルはなく、ビーナスライン建設時、この沢が流れ中山道が通っていた谷全体を土砂で人工的に埋めてしまったので、設けられたトンネルです。
コールゲートを出て、しばらく山道を歩きます。
標高が1,500メートルあたりなので、10月になって紅葉が一気に進んで綺麗です。ただ、山道は一面草で覆われている斜面のうえ、雨に濡れた落葉が積もり始めているので滑りやすく、トレッキングシューズを履いていないとちょっと危険な感じです。
コールゲートを出てしばらく山道を歩くと、再びビーナスラインにぶつかってしまうのですが、実は旧中山道の原道はここからビーナスラインを3度横切ります。かつては有料道路だった観光道路のビーナスラインを旧中山道の原道が交錯する光景は、いささか幻想的な雰囲気を醸し出しています。ちなみに、ビーナスラインは長野県茅野市から、同県上田市の美ヶ原高原美術館に至る全長約76 kmの日本の代表的な観光山岳道路の1つです。「ビーナスライン」の名は、沿道にある蓼科山の山容を女神に例えたことに由来するもので、当初は蓼科有料道路と霧ヶ峰有料道路を併せて呼ぶ愛称として1968年に公募で決定したものです。2002年に無料開放された後もこの名称が継続して使用されています。八ヶ岳中信高原国定公園の高原地帯を通るルート上には、蓼科高原、白樺湖、車山高原、霧ヶ峰、八島ヶ原湿原、美ヶ原高原といった観光地が並び、森林や高原地帯をワインディングロードで抜けてゆく日本有数の景観を誇る観光道路です。
このあたりから登り勾配が急になってきます。
ビーナスラインは谷筋を通っているので、ビーナスラインを横切る際には一度谷底に下り、再び登るという繰り返しになります。ビーナスラインを建設する際に、地形に少し手を入れたのかもしれません。
その証拠に、ビーナスラインを横切るところでは階段が設けられていたりします。中山道と言っても人がほとんど通らない原道なので、横切るところに横断歩道なぞは設けられてなく、ウォーキングガイドさんの誘導でビーナスラインを横断します。ビーナスラインは風光明媚な観光道路として有名な道路で、霧の中とはいえ、紅葉のシーズンが始まっているので、そこそこクルマの交通量もあり、ウォーキングガイドさんも大変そうです。おやおやぁ~、でっかいミミズがいます。写真では分かりにくいと思いますが、長さはゆうに30cmはあります。こんなに長いミミズを見たのは久しぶりです。
和田峠東坂です。この東坂は緩傾斜で、かつては村営のスキー場として利用されていました。
その旧村営スキー場の脇を登っていくこと約10分、ついに標高1,600メートル、中山道最高地点であると同時に五街道最高地点でもある和田峠の古峠に到着しました。頂上には「案内標識」、「賽の河原地蔵」、「御嶽遥拝所跡」碑、「御嶽山坐王権現像」、「本尊大日大聖不動明王像」、「馬頭観音」などが立っています。案内表示によると、この付近、冬場には積雪が3メートル近くになるのだそうです。ひぇ~~~ぇ!!…です。冬場の旧中山道は雪に覆われて道がどこだかわからず、歩く事さえ困難だったのではないか…と容易に想像ができます。
長野県のほぼ中央部に位置し、新潟県西部から長野県中部にかけて南北方向に延びる筑摩山地。美ヶ原や霧ヶ峰といった風光明媚な観光地も含まれるその筑摩山地を越える峠の1つが「和田峠」です。筑摩山地は有史以来、松本市を中心とした中信地方(大北、松本、木曽)・南信地方(諏訪、伊那)と東信地方(上田、佐久)との間を遮る交通の障壁となってきました。そのため、筑摩山地にはこの和田峠をはじめ、武石峠(標高1,830メートル:松本市~上田市)、保福寺峠(標高1,345メートル:松本市~上田市:北国脇往還)、地蔵峠(標高1,314メートル:大鹿村~飯田市:秋葉街道)、猿ヶ馬場峠(標高964メートル:千曲市~麻績村:旧北国西街道)など、東西の横断路として使われた歴史のある峠道が幾つも残っています。昭和51年(1976年)に三才山(みさやま)トンネルが貫通し、松本市と上田市を結ぶ三才山トンネル有料道路が開通したことで、中信地方と東信地方との交通の流れは一気に改善しましたが、残されたこれらの峠には風光明媚なところが多いことから、観光道路の一部となったりして、今も利用されています。
和田峠は筑摩山地の三峰山(標高1,887メートル)と鷲ヶ峰(標高1,798メートル)の鞍部を越え和田宿と下諏訪宿を結ぶ中山道の峠です。下諏訪宿側では「餅屋峠」とも呼ばれています。何度も書いてきましたが、その標高は1,600メートル。中山道はおろか江戸五街道最大標高の地点がこの和田峠です。
和田峠の歴史は古く、縄文の時代には峠付近で産出された黒耀石が鏃(矢じり)やナイフ形石器に加工され広く関東中部一円に運ばれていたことがわかっています。戦国時代以前の和田峠は和田山北峰の鞍部にあったとされています。これは和田宿側の東餅屋と下諏訪宿側の焙烙平を結ぶ古東山道上にあり、現在は通行不能となっています。江戸時代に入って現在「古峠」と呼ばれているこの峠の場所に移りました。
五街道制定後、中山道のこの峠道もそれなりに整備されたのですが、前述のように和田宿~下諏訪宿間は宿間距離が5里半(約22km)と中山道の中で最も長丁場の区間であったため、途中に唐沢・東餅屋・西餅屋・樋橋の4ヶ所の立場(幕府公認休憩所)が置かれました。また、冬季に降雪が多いところでもあるため、これとは別に江戸時代後期には冬期間の寒冷積雪対策として人馬施行所や石小屋などの旅人救済施設も設置されましたが、それでもひと冬に数人の死者が出たといわれています。大雪等の牛馬通行不能時には、助郷の召集など峠交通には地元の住民(多くは農民)を含めて多くの苦難があったことは容易に想像できます。
明治9年(1876年)、旧来の街道に代わって西餅屋から餅屋川に沿って遡上し東餅屋に下る新道(紅葉橋新道)が開削され、峠も和田山南峰の東斜面に移ったので、標高も1,570メートルと若干低くなりました。この紅葉橋新道も和田峠トンネルの真上を経由するルートとして現存しており、これがほぼ国道142号線の旧道のルートにまで踏襲されることになります(江戸時代の旧中山道とは最大300メートルほど離れています)。
さらに明治29年(1896年)には峠の頂上の勾配を緩くするために切通しを深く掘り下げる峠の大改修が行われ、標高が1,531メートルと、さらに低くなりました。同時に街道も新しいルートで、かつ幅広に開削されました。これにより諏訪地方から当時開通したばかりの信越本線(明治21年開業・明治26年全通)の大屋駅(明治29年開業:上田市)とを結ぶルートが馬車道として全通し、明治38年(1905年)の中央東線岡谷駅開業まで岡谷の製糸産業を支えました。
これでかなり改善されたとは言え、それでも高地で冬期の通行が困難であることは変わりはなく、大正時代以降自動車通行を可能とする道路の整備が図られるようになり、昭和8年(1933年)には現存する「和田峠トンネル」が開通しました。
この和田峠越えのルートは長野県の中信・南信地方と東信地方とを結ぶ幹線道路であったため、大東亜戦争後も引き続き整備が行われ、昭和28年(1953年)には和田峠を含む前後の区間が国道142号線に指定されました。和田峠トンネルは戦前戦後を通じ、坑口のコンクリート覆いを延伸するなどの対策で積雪等への対処が図られてきたのですが、道路の幅は江戸時代の旧街道の基準である約3間(約5.4メートル)、すなわち自動車1台分強という狭い道路のままでした。
国道142号線に昇格してからの和田峠は、対向2車線を確保できない狭隘ぶりから、年々増加する自動車交通を捌ききれなくなってきました。そのため、代替路として大きくルートを変え、標高の低い鷲ヶ峰の北尾根直下を「新和田トンネル」で貫通する新和田トンネル有料道路が昭和53年(1978年)に開通しました。これにより旧国道142号線(旧道)は幹線道路としての役割を終えました。旧道の国道指定は解除されていないものの、現在の幹線自動車交通の大半は新和田トンネル経由の新道で賄われています。ちなみに、国道142号線(旧道)は国道と呼ばれるわりにはあまりに道路の幅が狭いので、現在では信号機を設置して交互通行するようにされています。
ちなみに江戸時代の旧中山道の峠は「古峠」、明治9年の峠は「旧峠」、明治29年の峠は「新峠」と呼ばれています。「古峠」を通る江戸時代の中山道は完全な徒歩道で、現在は国の史跡としての指定を受け、一部は散策路として整備されています。もちろん私が到達したここは江戸時代の旧中山道の和田峠、「古峠」です。なので、標高は1,600メートルです。
また、和田峠は中央分水界にあり、峠の北側は千曲川を経る信濃川水系で水は日本海に注ぎ、峠の南側は諏訪湖を経る天竜川水系で水は太平洋に注ぎます。
和田峠は想像していた峠とは異なり、ちょっと広々した感じの峠でした。前述のとおり、「明治9年(1876年)、東餅屋から西餅屋へ通じる紅葉橋新道が開通し、この峠を通る人はほとんどいなくなり、“古峠”の名を残すのみとなった」…と案内板に記されています。この日はあいにくの天気で、峠からの眺望は楽しめませんでしたが、晴れていたら、木曽御嶽山や木曽駒ヶ岳までが見渡せるそうで、さぞや美しい眺望が楽しめるだろうということは容易に想像できます。
……(その3)に続きます。
ほんの少しだけ国道142号線の旧道を歩きます。この国道142号線の旧道、意外と交通量が多く、時折、大型トラックが道一杯に通り過ぎていくのですが、歩道がありません。ちょっと怖い感じです。
この国道142号線を歩くのは嫌だなぁ~…って思っていると、ほどなく左の側道に入ります。この側道が旧中山道の原道です。
すぐに勾配を緩和するため右側から回り込んできた国道142号線(旧道)を横断し、標識に従い階段を上って山道に入ります。ちなみに、国道142号線の旧道はここで分かれ、このまま和田峠トンネルへ向かいます。
「和田嶺神社碑」が建っています。「和田嶺神社」ということで、かつてここには神社の社殿が建っていたのかもしれませんが、今は石碑が建っているだけです。
森の中の道をしばらく歩きます。
このあたりを白樺湖と美ヶ原を結ぶ旧長野県営観光道路「ビーナスライン」が中山道を横切るように伸びています。森の中の道をしばらく歩くと、その美ヶ原に至る観光道路のビーナスラインの下を「コールゲート」と呼ばれるパイプ型のトンネルで潜り抜けます。このトンネルは長さは短いのですが、大人が立って歩けるぐらいの太さしかなく、しかもトンネルの中には道と一緒に沢が流れ、いささか不気味な感じではあります。もちろん、江戸時代にこんなトンネルはなく、ビーナスライン建設時、この沢が流れ中山道が通っていた谷全体を土砂で人工的に埋めてしまったので、設けられたトンネルです。
コールゲートを出て、しばらく山道を歩きます。
標高が1,500メートルあたりなので、10月になって紅葉が一気に進んで綺麗です。ただ、山道は一面草で覆われている斜面のうえ、雨に濡れた落葉が積もり始めているので滑りやすく、トレッキングシューズを履いていないとちょっと危険な感じです。
コールゲートを出てしばらく山道を歩くと、再びビーナスラインにぶつかってしまうのですが、実は旧中山道の原道はここからビーナスラインを3度横切ります。かつては有料道路だった観光道路のビーナスラインを旧中山道の原道が交錯する光景は、いささか幻想的な雰囲気を醸し出しています。ちなみに、ビーナスラインは長野県茅野市から、同県上田市の美ヶ原高原美術館に至る全長約76 kmの日本の代表的な観光山岳道路の1つです。「ビーナスライン」の名は、沿道にある蓼科山の山容を女神に例えたことに由来するもので、当初は蓼科有料道路と霧ヶ峰有料道路を併せて呼ぶ愛称として1968年に公募で決定したものです。2002年に無料開放された後もこの名称が継続して使用されています。八ヶ岳中信高原国定公園の高原地帯を通るルート上には、蓼科高原、白樺湖、車山高原、霧ヶ峰、八島ヶ原湿原、美ヶ原高原といった観光地が並び、森林や高原地帯をワインディングロードで抜けてゆく日本有数の景観を誇る観光道路です。
このあたりから登り勾配が急になってきます。
ビーナスラインは谷筋を通っているので、ビーナスラインを横切る際には一度谷底に下り、再び登るという繰り返しになります。ビーナスラインを建設する際に、地形に少し手を入れたのかもしれません。
その証拠に、ビーナスラインを横切るところでは階段が設けられていたりします。中山道と言っても人がほとんど通らない原道なので、横切るところに横断歩道なぞは設けられてなく、ウォーキングガイドさんの誘導でビーナスラインを横断します。ビーナスラインは風光明媚な観光道路として有名な道路で、霧の中とはいえ、紅葉のシーズンが始まっているので、そこそこクルマの交通量もあり、ウォーキングガイドさんも大変そうです。おやおやぁ~、でっかいミミズがいます。写真では分かりにくいと思いますが、長さはゆうに30cmはあります。こんなに長いミミズを見たのは久しぶりです。
和田峠東坂です。この東坂は緩傾斜で、かつては村営のスキー場として利用されていました。
その旧村営スキー場の脇を登っていくこと約10分、ついに標高1,600メートル、中山道最高地点であると同時に五街道最高地点でもある和田峠の古峠に到着しました。頂上には「案内標識」、「賽の河原地蔵」、「御嶽遥拝所跡」碑、「御嶽山坐王権現像」、「本尊大日大聖不動明王像」、「馬頭観音」などが立っています。案内表示によると、この付近、冬場には積雪が3メートル近くになるのだそうです。ひぇ~~~ぇ!!…です。冬場の旧中山道は雪に覆われて道がどこだかわからず、歩く事さえ困難だったのではないか…と容易に想像ができます。
長野県のほぼ中央部に位置し、新潟県西部から長野県中部にかけて南北方向に延びる筑摩山地。美ヶ原や霧ヶ峰といった風光明媚な観光地も含まれるその筑摩山地を越える峠の1つが「和田峠」です。筑摩山地は有史以来、松本市を中心とした中信地方(大北、松本、木曽)・南信地方(諏訪、伊那)と東信地方(上田、佐久)との間を遮る交通の障壁となってきました。そのため、筑摩山地にはこの和田峠をはじめ、武石峠(標高1,830メートル:松本市~上田市)、保福寺峠(標高1,345メートル:松本市~上田市:北国脇往還)、地蔵峠(標高1,314メートル:大鹿村~飯田市:秋葉街道)、猿ヶ馬場峠(標高964メートル:千曲市~麻績村:旧北国西街道)など、東西の横断路として使われた歴史のある峠道が幾つも残っています。昭和51年(1976年)に三才山(みさやま)トンネルが貫通し、松本市と上田市を結ぶ三才山トンネル有料道路が開通したことで、中信地方と東信地方との交通の流れは一気に改善しましたが、残されたこれらの峠には風光明媚なところが多いことから、観光道路の一部となったりして、今も利用されています。
和田峠は筑摩山地の三峰山(標高1,887メートル)と鷲ヶ峰(標高1,798メートル)の鞍部を越え和田宿と下諏訪宿を結ぶ中山道の峠です。下諏訪宿側では「餅屋峠」とも呼ばれています。何度も書いてきましたが、その標高は1,600メートル。中山道はおろか江戸五街道最大標高の地点がこの和田峠です。
和田峠の歴史は古く、縄文の時代には峠付近で産出された黒耀石が鏃(矢じり)やナイフ形石器に加工され広く関東中部一円に運ばれていたことがわかっています。戦国時代以前の和田峠は和田山北峰の鞍部にあったとされています。これは和田宿側の東餅屋と下諏訪宿側の焙烙平を結ぶ古東山道上にあり、現在は通行不能となっています。江戸時代に入って現在「古峠」と呼ばれているこの峠の場所に移りました。
五街道制定後、中山道のこの峠道もそれなりに整備されたのですが、前述のように和田宿~下諏訪宿間は宿間距離が5里半(約22km)と中山道の中で最も長丁場の区間であったため、途中に唐沢・東餅屋・西餅屋・樋橋の4ヶ所の立場(幕府公認休憩所)が置かれました。また、冬季に降雪が多いところでもあるため、これとは別に江戸時代後期には冬期間の寒冷積雪対策として人馬施行所や石小屋などの旅人救済施設も設置されましたが、それでもひと冬に数人の死者が出たといわれています。大雪等の牛馬通行不能時には、助郷の召集など峠交通には地元の住民(多くは農民)を含めて多くの苦難があったことは容易に想像できます。
明治9年(1876年)、旧来の街道に代わって西餅屋から餅屋川に沿って遡上し東餅屋に下る新道(紅葉橋新道)が開削され、峠も和田山南峰の東斜面に移ったので、標高も1,570メートルと若干低くなりました。この紅葉橋新道も和田峠トンネルの真上を経由するルートとして現存しており、これがほぼ国道142号線の旧道のルートにまで踏襲されることになります(江戸時代の旧中山道とは最大300メートルほど離れています)。
さらに明治29年(1896年)には峠の頂上の勾配を緩くするために切通しを深く掘り下げる峠の大改修が行われ、標高が1,531メートルと、さらに低くなりました。同時に街道も新しいルートで、かつ幅広に開削されました。これにより諏訪地方から当時開通したばかりの信越本線(明治21年開業・明治26年全通)の大屋駅(明治29年開業:上田市)とを結ぶルートが馬車道として全通し、明治38年(1905年)の中央東線岡谷駅開業まで岡谷の製糸産業を支えました。
これでかなり改善されたとは言え、それでも高地で冬期の通行が困難であることは変わりはなく、大正時代以降自動車通行を可能とする道路の整備が図られるようになり、昭和8年(1933年)には現存する「和田峠トンネル」が開通しました。
この和田峠越えのルートは長野県の中信・南信地方と東信地方とを結ぶ幹線道路であったため、大東亜戦争後も引き続き整備が行われ、昭和28年(1953年)には和田峠を含む前後の区間が国道142号線に指定されました。和田峠トンネルは戦前戦後を通じ、坑口のコンクリート覆いを延伸するなどの対策で積雪等への対処が図られてきたのですが、道路の幅は江戸時代の旧街道の基準である約3間(約5.4メートル)、すなわち自動車1台分強という狭い道路のままでした。
国道142号線に昇格してからの和田峠は、対向2車線を確保できない狭隘ぶりから、年々増加する自動車交通を捌ききれなくなってきました。そのため、代替路として大きくルートを変え、標高の低い鷲ヶ峰の北尾根直下を「新和田トンネル」で貫通する新和田トンネル有料道路が昭和53年(1978年)に開通しました。これにより旧国道142号線(旧道)は幹線道路としての役割を終えました。旧道の国道指定は解除されていないものの、現在の幹線自動車交通の大半は新和田トンネル経由の新道で賄われています。ちなみに、国道142号線(旧道)は国道と呼ばれるわりにはあまりに道路の幅が狭いので、現在では信号機を設置して交互通行するようにされています。
ちなみに江戸時代の旧中山道の峠は「古峠」、明治9年の峠は「旧峠」、明治29年の峠は「新峠」と呼ばれています。「古峠」を通る江戸時代の中山道は完全な徒歩道で、現在は国の史跡としての指定を受け、一部は散策路として整備されています。もちろん私が到達したここは江戸時代の旧中山道の和田峠、「古峠」です。なので、標高は1,600メートルです。
また、和田峠は中央分水界にあり、峠の北側は千曲川を経る信濃川水系で水は日本海に注ぎ、峠の南側は諏訪湖を経る天竜川水系で水は太平洋に注ぎます。
和田峠は想像していた峠とは異なり、ちょっと広々した感じの峠でした。前述のとおり、「明治9年(1876年)、東餅屋から西餅屋へ通じる紅葉橋新道が開通し、この峠を通る人はほとんどいなくなり、“古峠”の名を残すのみとなった」…と案内板に記されています。この日はあいにくの天気で、峠からの眺望は楽しめませんでしたが、晴れていたら、木曽御嶽山や木曽駒ヶ岳までが見渡せるそうで、さぞや美しい眺望が楽しめるだろうということは容易に想像できます。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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