2017/12/18
中山道六十九次・街道歩き【第18回: 岡谷→贄川宿】(その5)
「大小屋」という変った名前の交差点で国道20号線と合流します。角に大きな道祖神群が祀られています。信州の人は夫婦道祖神がよほど好きなんですね。
国道20号線と合流した地点で国道を渡り、反対側の歩道に出て、すぐに側道に入ります。側道に入るところに小さな石碑が立っています。どうも馬頭観音のようです。
塩尻橋のたもとで国道20号線に合流し、塩尻橋で田川を渡ります。この田川は先ほど縁並橋で渡った四沢川の下流になります。この先の松本市内で奈良井川と合流します。流れは完全に南から北の方向に変わっていて、このまま犀川、千曲川、そして信濃川となって日本海に注ぐのだな…って実感します。
下大門の交差点です。「中山道」と「松本街道(善光寺西街道)」との追分(分岐点)で、右に行くのが松本街道、正面はJR塩尻駅への道、中山道は左へ行きます。この道は長野県道305号床尾大門線で長野県塩尻市内を走る旧国道19号線です。JR塩尻駅前の市街地を避けて国道19号と国道153号を連絡しています。長野県道305号床尾大門線を歩きます。時刻は17時を過ぎて、さすがにあたりは暗くなってきました。私も懐中電灯をリュックサックから取り出しました。
右手に大門神社があります。この神社の特徴は同じ境内に柴宮八幡神社と若宮八幡神社という同程度の規模の2つの社殿があることです。元々この地にあったのは柴宮八幡神社。この神社は、正平10年(1355年)、この先にある桔梗ヶ原において南北朝の戦いに関連した合戦が行われた際、南朝側の指揮所が置かれた由緒ある地に建立された神社でした。この柴宮八幡神社は中山道沿いの交通の要衝の地にあったので旅人の参拝も多かったそうです。その柴宮八幡神社の境内に、昭和27年(1952年)、水分の神として祀られていた若宮八幡神社を奉遷して、大門神社と称するようになったのだそうです。なので、御祭神は柴宮八幡社・誉田別尊、若宮八幡社・大鷦鷯尊などいろいろです。ちなみに、大門はこのあたりの地名です。このあたりは中山道では塩尻宿の京方からの入り口に位置し、松本街道(善光寺西街道)との追分(分岐点)もある交通の要衝だったので“大門”と呼ばれるようになったとのことです。
また、境内の一隅から完成品としては最北端の銅鐸が出土したことで、考古学的に有名な神社なのだそうです。銅鐸は東海地方では幾つも出土していますが、長野県内では珍しく、長野県も銅鐸文化圏に入っていたことの証明になるというので、大変に貴重な発見だったようです。この大門神社の境内から出土した銅鐸は柴宮銅鐸と呼ばれ、長野県の県宝に指定されているのだそうです。その本物は今はこの先にある平出考古博物館に展示してあるのだそうです。
神社の隣に「耳塚」と呼ばれている変った名前の祠があり、お椀を奉納すると耳が治ると伝わっています。耳の神様とされていますが、前述の南北朝時代の正平10年(1355年)にこのあたりであった桔梗ヶ原の戦いとの関係が深いとされています。
耳塚の隣に男女の双体道祖神像が立っています。この男女の双体道祖神像は、男女が抱き合うというよりも、右側の男性が左側の女性の方に腕を回しているようにも見えます。
歴史のありそうな民家がさりげなく建っています。
すれ違った地元の女性が「ここは郵便局の跡。ぜひ写真に撮っていって」と教えてくれた建物です。なるほど、郵便局らしい佇まいの建物です。中山道を歩いていると、このように地元の方々から声を掛けていただくことが多々あります。中山道沿線に住む方はサービス精神旺盛ないい人が多いですね。
ここにも漆喰造りの土蔵を持つ古い民家がさりげなく建っています。とうとう日が山蔭に隠れ、あたりが暗くなってきました。
JR中央本線(東線)のガードの下を潜ると、右手に昭和電工の工場の長い長い塀が続きます。
やがて江戸の日本橋から数えて59番目の平出一里塚が見えてきます。ここは左右とも現存しているという貴重な一里塚で、街道から見える左側の塚が南塚で、右側の北塚は民家の裏に現存しています。塚上の松には山本勘助子育ての松の伝承があります。
これを“釣瓶落とし”と言うのでしょうか、日が暮れて、周囲は一気に暗くなってきました。せっかくの左右現存している一里塚だというのに闇に浮かぶシルエットでの確認になってしまいました。シルエットで見る限り、左右どちらの松もよく手入れをされた美しい形をしています。明るいうちに見てみたかったです。ちなみに、この平出一里塚は2日目の朝に、スタートポイントとなる平出遺跡へ向かう観光バスの車内から見ることができたのですが、期待通りの美しい一里塚でした (写真は撮影できませんでしたが…)。
陽が沈んで、一気に気温が下がってきました。日中も9℃~10℃ほどでしたが、今は2~3℃ってところでしょうか。明るさと同様、気温も“釣瓶落とし”、急激な温度変化にちょっとついていけません。リュックサックからインナーダウンのベストを取り出して、中にもう1枚着込めばいいのでしょうが、そうすることで足を止めるよりも少しでも早く観光バスに乗り込んだほうがマシと判断して、そのまま進みました。ちょっと急ぎ足で…。暗闇の中に観光バスが私達の到着を待って停まっている灯りが小さく見えましたから。もうちょっとこの寒さの中を歩いていたら風邪をひいていたかも。この時期の街道歩きはこういうことがあるので注意が必要ですね。
すぐ先に「平出遺跡公園」があります。縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、縄文時代の7軒の竪穴住居のほか、古墳時代3軒、平安時代5軒の家屋が復元されています。
この日の街道歩きはこの平出遺跡の駐車場がゴールでした。2日目は同じくこの平出遺跡の駐車場が街道歩きのスタートポイントなので、平出遺跡は2日目の朝に訪れることになっています。この日は20,185歩、距離にして14.9km歩きました。
夕食はJR塩尻駅近くの「知春」という割烹でいただきました。すっかり顔馴染みになった皆さん方との夕食ですので、いろいろと話が弾みます。皆さん、街道歩きはこの中山道だけでなく東海道や甲州街道なども歩かれておられますし、それ以外でも日本全国いろいろなところを旅されていて、話題の豊富さに圧倒されます。
この夕食会場はJR塩尻駅のすぐ近くにあります。せっかくなので、夕食後の僅かな時間で塩尻駅を訪れてみました。塩尻駅は東京と名古屋という2つの大都市圏を結ぶ中央本線の中間駅ですが、この塩尻駅を起点として長野県の2大都市である長野・松本方面への篠ノ井線が分岐する交通の要衝となる駅です。また中央本線はみどり湖駅経由の本線と辰野駅経由の辰野支線がここ塩尻駅で分岐していて、合計4方向へ路線が延びるちょっとしたターミナル駅となっています。
昭和62年(1987年)の日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化以降、中央本線の旅客営業においてはこの塩尻駅がJR東日本とJR東海の境界駅となっていて、この駅より東(東京側)の本線と辰野駅経由の支線および篠ノ井線はJR東日本が、西(名古屋側)はJR東海が管轄しています。中央本線のうちJR東日本の管轄部分を中央東線、JR東海の管轄部分を中央西線と呼び、区別することもあります(ちなみに、この東線・西線の呼称は国鉄時代からあります)。
こういう塩尻駅だからこその「鉄道トリビア」というものがあります。
「途中駅混雑のため“上り”列車は10分ほど遅れています」とか「本日の“下り”列車は終了しました」など、駅や列車のアナウンスでしばしば使われる「上り」と「下り」。「上り」「下り」と言っても、どちらも坂道を上ったり下ったりするわけではなく、これはあくまでも列車の進行方向を示す表記です。
この「上り」と「下り」、鉄道だけでなく、道路でも一般的に用いられます。高速道路の渋滞のニュースでも、「東名自動車道“上り”は小仏トンネルを先頭に渋滞20km……」というように、「上り」「下り」の表現は道路、特に高速道路でも使われています。そもそも、進行方向を表す表記に「上り」「下り」を使うようになったのは道路のほうが遥かに先のことです。この中山道を含む街道(道路)ではかなり以前から国の首都に向かう方向が「上り」、首都から遠ざかる方向が「下り」と表現されていました。ですから、明治維新後、日本の首都が京都から東京に移るまでは、東海道や中山道といった街道もそれまでの首都であった京都へ向かう方面が「上り」で、首都京都から東京(江戸)へ向かう方面が「下り」でした。今でも関西のお笑いを「上方漫才」や「上方落語」などと呼ぶのはその名残です。明治の時代になって鉄道が建設される頃になると、東海道や中山道といった街道を含め主要な道路の「上り」「下り」はすっかり東京の日本橋が基準となっていました。これにならって、鉄道も首都東京から出るほうを「下り」、首都東京に向かうほうを「上り」と呼ぶようになったわけです。
また、次のような別の見方もあります。鉄道は国の認可や許可に基づいて建設されることから、必ず届出上の“起点”と“終点”が定められています。JRの東海道本線だと、東京駅が起点、神戸駅が終点…といった具合です。そして起点から遠ざかる方向を「下り」、起点に近づく方向を「上り」と呼ぶ…と定められています。すなわち、鉄道路線の場合は、法律上の起点はどこであるかが何においても基準になってくるわけです。国鉄時代は慣例として、首都東京の中心駅である東京駅に近いほうが路線の起点となりました。これは道路も同様で、東海道の起点となる日本橋が基準になったわけです。
ちなみに列車のダイヤグラム(ダイヤ表)では、起点となる駅を上に、終点を下に設定して表記します。左から右へ時間を進めると、起点から終点に向かう下り列車は下り坂、反対に終点から起点へと向かう上り列車は上り坂になって表現されます。これが「下り」「上り」の語源ではなかろうか…と捉えることもできそうですが、調べてみるとこれは単なる偶然のことで、「下り」「上り」の言葉の由来ではないのだそうです。また、この「上り」、「下り」の表現は日本独自のもので、海外では鉄道も道路も、日本のように「上り」「下り」とは呼ばず、単純に目的地を指して「……方面」と呼ぶことのほうが一般的なのだそうです。
路線の起点を基準にするという考え方ですから、当然、山手線や京浜東北線にも「下り」と「上り」があります。実は山手線の線路としての正式な起点は品川駅で、渋谷駅、新宿駅、池袋駅を経由して田端駅が終点です。ですから品川駅から田端駅へ向かう方向が「下り」、その逆が「上り」になります。ですが、山手線の場合、そう単純にはいきません。ご存知の通り、山手線は田端駅~東京駅の区間の東北本線、東京駅~品川駅の区間の東海道本線と合わせて環状運転をしているため(運行される路線の名称としての山手線)、「下り」「上り」の表現を使うのは極めて不便です。品川駅から田端駅まで「下り」だった山手線の電車は田端駅から東京駅までは東北本線の「上り」になり、次に東京駅から品川駅までは東海道本線の「下り」になります。このため、山手線では「外回り」「内回り」という表現を使っています。これは大阪環状線も同じです。
一方、京浜東北線の場合は、「北行き」「南行き」という表現を使います。京浜東北線は運行される路線の名称で、実際の線路名は、東京駅を境に北側が東北本線、南側が東海道本線となっています。「下り」「上り」の表現を使うと、大宮駅から「上り」として走ってきた列車が、東京駅からは「下り」となってしまいます。これでは面倒なので、「南行き」「北行き」と呼ぶようになったようです。たしかにこの「南行き」「北行き」のほうが、乗客はもちろん現場の職員の方々にもわかりやすく、混乱しないで済みますからね。
この「上り」と「下り」は列車の進行方向を示す表記だけではありません。現在、鉄道会社のほとんどが列車番号を用いて個々の列車を管理しているのですが、JR等では通例として下り列車は奇数、上り列車は偶数の番号が付与されています。新幹線の場合は列車名にも列車番号が使われています。東海道新幹線だと、列車番号「1A」の列車は「のぞみ1号」、「466A」の列車は「ひかり466号」といった具合です。ところがこの原則にも例外があります。この中央本線の塩尻~名古屋間(中央西線)がその1つです。
実は中央本線の正式な(届出上の)線路としての起点は東京駅であり、塩尻駅を経由して名古屋駅が終点となっています。これに従うと、東京から名古屋へ向かう方向が「下り」で、名古屋から東京へ向かう方向が「上り」となるのですが、実際には名古屋駅から塩尻駅方面を「下り」、塩尻駅から名古屋駅方面を「上り」と呼んでいるようです。時刻表や駅の案内でもそうですし、列車番号も名古屋駅発の列車が奇数で「下り」扱いになっています。すなわち、中央本線は起点の東京と終点の名古屋の双方からやって来る「下り」列車がここ塩尻駅で合流する(鉢合わせする)ことになります。私が見ている短い時間帯にもJR東日本の誇るE351系特急電車を使用した中央東線“上り”の新宿行きの特急「スーパーあずさ」が発車していき、すぐに辰野方向(辰野支線)からJR東日本の“下り”の211系普通列車が到着。さらには名古屋からJR東海が誇る制御付き自然振り子方式の383系特急電車を使用した中央西線“下り”の特急「しなの」が到着し、そのまま篠ノ井線に乗り入れる松本方面行き“下り”列車として発車していきました。
これはおそらく、鉄道本来の「下り」「上り」とは別に、「大都市へ向かう方向が“上り”」という感覚が定着していて、中央本線のケースでは、中央西線側(名古屋側)で実質的に名古屋駅起点のような運行が行われているからだと思われます。届出上の起点・終点の原則を無理やり使っても利用者の感覚とずれてしまうため、列車と線路の「下り」「上り」が逆になってしまったってことなのでしょう (同様の事例は紀勢本線の和歌山駅~新宮駅間でも見られます)。
ちなみに、塩尻駅には特急列車は一部を除く中央東線(JR東日本)の「あずさ」「スーパーあずさ」と中央西線(JR東海)の全ての「しなの」が停車し、ほとんどが篠ノ井線を通じて松本駅、さらには長野駅まで乗り入れますが、中央東線・中央西線を塩尻駅で跨ぐ定期列車は存在せず、運行系統が完全に分断されています。普通列車も同様で、中央東線、中央西線それぞれから来る列車のほとんどが篠ノ井線を通じて松本駅まで乗り入れているのに対し、中央東線・中央西線を塩尻駅で跨ぐ定期列車は存在せず、運行系統が完全に分断されています。なので、名古屋駅から塩尻駅方面を「下り」、塩尻駅から名古屋駅方面を「上り」と呼ぶことは、むしろ正しいとさえ思えます。だって名古屋駅方面から塩尻駅にやって来たJR東海の「下り」の列車は、そのまま篠ノ井線の「下り」の列車として松本駅や長野駅に向かうことができますものね。
もともと「塩尻」という地名は、この地が塩の道と呼ばれる三州街道と五千石街道の追分(分岐点)であり、三河国からは太平洋産の表塩(南塩)が、また糸魚川からは松本経由で日本海産の裏塩(北塩)が入る接点であったこと、すなわち物流の合流点であったから「塩尻」という名称が付けられた…ということを書きましたが、鉄道においても東京と名古屋という2つの大都会からのヒトとモノの流れがここで合流するってことで、今に続いているのですね。
……(その6)に続きます。
国道20号線と合流した地点で国道を渡り、反対側の歩道に出て、すぐに側道に入ります。側道に入るところに小さな石碑が立っています。どうも馬頭観音のようです。
塩尻橋のたもとで国道20号線に合流し、塩尻橋で田川を渡ります。この田川は先ほど縁並橋で渡った四沢川の下流になります。この先の松本市内で奈良井川と合流します。流れは完全に南から北の方向に変わっていて、このまま犀川、千曲川、そして信濃川となって日本海に注ぐのだな…って実感します。
下大門の交差点です。「中山道」と「松本街道(善光寺西街道)」との追分(分岐点)で、右に行くのが松本街道、正面はJR塩尻駅への道、中山道は左へ行きます。この道は長野県道305号床尾大門線で長野県塩尻市内を走る旧国道19号線です。JR塩尻駅前の市街地を避けて国道19号と国道153号を連絡しています。長野県道305号床尾大門線を歩きます。時刻は17時を過ぎて、さすがにあたりは暗くなってきました。私も懐中電灯をリュックサックから取り出しました。
右手に大門神社があります。この神社の特徴は同じ境内に柴宮八幡神社と若宮八幡神社という同程度の規模の2つの社殿があることです。元々この地にあったのは柴宮八幡神社。この神社は、正平10年(1355年)、この先にある桔梗ヶ原において南北朝の戦いに関連した合戦が行われた際、南朝側の指揮所が置かれた由緒ある地に建立された神社でした。この柴宮八幡神社は中山道沿いの交通の要衝の地にあったので旅人の参拝も多かったそうです。その柴宮八幡神社の境内に、昭和27年(1952年)、水分の神として祀られていた若宮八幡神社を奉遷して、大門神社と称するようになったのだそうです。なので、御祭神は柴宮八幡社・誉田別尊、若宮八幡社・大鷦鷯尊などいろいろです。ちなみに、大門はこのあたりの地名です。このあたりは中山道では塩尻宿の京方からの入り口に位置し、松本街道(善光寺西街道)との追分(分岐点)もある交通の要衝だったので“大門”と呼ばれるようになったとのことです。
また、境内の一隅から完成品としては最北端の銅鐸が出土したことで、考古学的に有名な神社なのだそうです。銅鐸は東海地方では幾つも出土していますが、長野県内では珍しく、長野県も銅鐸文化圏に入っていたことの証明になるというので、大変に貴重な発見だったようです。この大門神社の境内から出土した銅鐸は柴宮銅鐸と呼ばれ、長野県の県宝に指定されているのだそうです。その本物は今はこの先にある平出考古博物館に展示してあるのだそうです。
神社の隣に「耳塚」と呼ばれている変った名前の祠があり、お椀を奉納すると耳が治ると伝わっています。耳の神様とされていますが、前述の南北朝時代の正平10年(1355年)にこのあたりであった桔梗ヶ原の戦いとの関係が深いとされています。
耳塚の隣に男女の双体道祖神像が立っています。この男女の双体道祖神像は、男女が抱き合うというよりも、右側の男性が左側の女性の方に腕を回しているようにも見えます。
歴史のありそうな民家がさりげなく建っています。
すれ違った地元の女性が「ここは郵便局の跡。ぜひ写真に撮っていって」と教えてくれた建物です。なるほど、郵便局らしい佇まいの建物です。中山道を歩いていると、このように地元の方々から声を掛けていただくことが多々あります。中山道沿線に住む方はサービス精神旺盛ないい人が多いですね。
ここにも漆喰造りの土蔵を持つ古い民家がさりげなく建っています。とうとう日が山蔭に隠れ、あたりが暗くなってきました。
JR中央本線(東線)のガードの下を潜ると、右手に昭和電工の工場の長い長い塀が続きます。
やがて江戸の日本橋から数えて59番目の平出一里塚が見えてきます。ここは左右とも現存しているという貴重な一里塚で、街道から見える左側の塚が南塚で、右側の北塚は民家の裏に現存しています。塚上の松には山本勘助子育ての松の伝承があります。
これを“釣瓶落とし”と言うのでしょうか、日が暮れて、周囲は一気に暗くなってきました。せっかくの左右現存している一里塚だというのに闇に浮かぶシルエットでの確認になってしまいました。シルエットで見る限り、左右どちらの松もよく手入れをされた美しい形をしています。明るいうちに見てみたかったです。ちなみに、この平出一里塚は2日目の朝に、スタートポイントとなる平出遺跡へ向かう観光バスの車内から見ることができたのですが、期待通りの美しい一里塚でした (写真は撮影できませんでしたが…)。
陽が沈んで、一気に気温が下がってきました。日中も9℃~10℃ほどでしたが、今は2~3℃ってところでしょうか。明るさと同様、気温も“釣瓶落とし”、急激な温度変化にちょっとついていけません。リュックサックからインナーダウンのベストを取り出して、中にもう1枚着込めばいいのでしょうが、そうすることで足を止めるよりも少しでも早く観光バスに乗り込んだほうがマシと判断して、そのまま進みました。ちょっと急ぎ足で…。暗闇の中に観光バスが私達の到着を待って停まっている灯りが小さく見えましたから。もうちょっとこの寒さの中を歩いていたら風邪をひいていたかも。この時期の街道歩きはこういうことがあるので注意が必要ですね。
すぐ先に「平出遺跡公園」があります。縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、縄文時代の7軒の竪穴住居のほか、古墳時代3軒、平安時代5軒の家屋が復元されています。
この日の街道歩きはこの平出遺跡の駐車場がゴールでした。2日目は同じくこの平出遺跡の駐車場が街道歩きのスタートポイントなので、平出遺跡は2日目の朝に訪れることになっています。この日は20,185歩、距離にして14.9km歩きました。
夕食はJR塩尻駅近くの「知春」という割烹でいただきました。すっかり顔馴染みになった皆さん方との夕食ですので、いろいろと話が弾みます。皆さん、街道歩きはこの中山道だけでなく東海道や甲州街道なども歩かれておられますし、それ以外でも日本全国いろいろなところを旅されていて、話題の豊富さに圧倒されます。
この夕食会場はJR塩尻駅のすぐ近くにあります。せっかくなので、夕食後の僅かな時間で塩尻駅を訪れてみました。塩尻駅は東京と名古屋という2つの大都市圏を結ぶ中央本線の中間駅ですが、この塩尻駅を起点として長野県の2大都市である長野・松本方面への篠ノ井線が分岐する交通の要衝となる駅です。また中央本線はみどり湖駅経由の本線と辰野駅経由の辰野支線がここ塩尻駅で分岐していて、合計4方向へ路線が延びるちょっとしたターミナル駅となっています。
昭和62年(1987年)の日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化以降、中央本線の旅客営業においてはこの塩尻駅がJR東日本とJR東海の境界駅となっていて、この駅より東(東京側)の本線と辰野駅経由の支線および篠ノ井線はJR東日本が、西(名古屋側)はJR東海が管轄しています。中央本線のうちJR東日本の管轄部分を中央東線、JR東海の管轄部分を中央西線と呼び、区別することもあります(ちなみに、この東線・西線の呼称は国鉄時代からあります)。
こういう塩尻駅だからこその「鉄道トリビア」というものがあります。
「途中駅混雑のため“上り”列車は10分ほど遅れています」とか「本日の“下り”列車は終了しました」など、駅や列車のアナウンスでしばしば使われる「上り」と「下り」。「上り」「下り」と言っても、どちらも坂道を上ったり下ったりするわけではなく、これはあくまでも列車の進行方向を示す表記です。
この「上り」と「下り」、鉄道だけでなく、道路でも一般的に用いられます。高速道路の渋滞のニュースでも、「東名自動車道“上り”は小仏トンネルを先頭に渋滞20km……」というように、「上り」「下り」の表現は道路、特に高速道路でも使われています。そもそも、進行方向を表す表記に「上り」「下り」を使うようになったのは道路のほうが遥かに先のことです。この中山道を含む街道(道路)ではかなり以前から国の首都に向かう方向が「上り」、首都から遠ざかる方向が「下り」と表現されていました。ですから、明治維新後、日本の首都が京都から東京に移るまでは、東海道や中山道といった街道もそれまでの首都であった京都へ向かう方面が「上り」で、首都京都から東京(江戸)へ向かう方面が「下り」でした。今でも関西のお笑いを「上方漫才」や「上方落語」などと呼ぶのはその名残です。明治の時代になって鉄道が建設される頃になると、東海道や中山道といった街道を含め主要な道路の「上り」「下り」はすっかり東京の日本橋が基準となっていました。これにならって、鉄道も首都東京から出るほうを「下り」、首都東京に向かうほうを「上り」と呼ぶようになったわけです。
また、次のような別の見方もあります。鉄道は国の認可や許可に基づいて建設されることから、必ず届出上の“起点”と“終点”が定められています。JRの東海道本線だと、東京駅が起点、神戸駅が終点…といった具合です。そして起点から遠ざかる方向を「下り」、起点に近づく方向を「上り」と呼ぶ…と定められています。すなわち、鉄道路線の場合は、法律上の起点はどこであるかが何においても基準になってくるわけです。国鉄時代は慣例として、首都東京の中心駅である東京駅に近いほうが路線の起点となりました。これは道路も同様で、東海道の起点となる日本橋が基準になったわけです。
ちなみに列車のダイヤグラム(ダイヤ表)では、起点となる駅を上に、終点を下に設定して表記します。左から右へ時間を進めると、起点から終点に向かう下り列車は下り坂、反対に終点から起点へと向かう上り列車は上り坂になって表現されます。これが「下り」「上り」の語源ではなかろうか…と捉えることもできそうですが、調べてみるとこれは単なる偶然のことで、「下り」「上り」の言葉の由来ではないのだそうです。また、この「上り」、「下り」の表現は日本独自のもので、海外では鉄道も道路も、日本のように「上り」「下り」とは呼ばず、単純に目的地を指して「……方面」と呼ぶことのほうが一般的なのだそうです。
路線の起点を基準にするという考え方ですから、当然、山手線や京浜東北線にも「下り」と「上り」があります。実は山手線の線路としての正式な起点は品川駅で、渋谷駅、新宿駅、池袋駅を経由して田端駅が終点です。ですから品川駅から田端駅へ向かう方向が「下り」、その逆が「上り」になります。ですが、山手線の場合、そう単純にはいきません。ご存知の通り、山手線は田端駅~東京駅の区間の東北本線、東京駅~品川駅の区間の東海道本線と合わせて環状運転をしているため(運行される路線の名称としての山手線)、「下り」「上り」の表現を使うのは極めて不便です。品川駅から田端駅まで「下り」だった山手線の電車は田端駅から東京駅までは東北本線の「上り」になり、次に東京駅から品川駅までは東海道本線の「下り」になります。このため、山手線では「外回り」「内回り」という表現を使っています。これは大阪環状線も同じです。
一方、京浜東北線の場合は、「北行き」「南行き」という表現を使います。京浜東北線は運行される路線の名称で、実際の線路名は、東京駅を境に北側が東北本線、南側が東海道本線となっています。「下り」「上り」の表現を使うと、大宮駅から「上り」として走ってきた列車が、東京駅からは「下り」となってしまいます。これでは面倒なので、「南行き」「北行き」と呼ぶようになったようです。たしかにこの「南行き」「北行き」のほうが、乗客はもちろん現場の職員の方々にもわかりやすく、混乱しないで済みますからね。
この「上り」と「下り」は列車の進行方向を示す表記だけではありません。現在、鉄道会社のほとんどが列車番号を用いて個々の列車を管理しているのですが、JR等では通例として下り列車は奇数、上り列車は偶数の番号が付与されています。新幹線の場合は列車名にも列車番号が使われています。東海道新幹線だと、列車番号「1A」の列車は「のぞみ1号」、「466A」の列車は「ひかり466号」といった具合です。ところがこの原則にも例外があります。この中央本線の塩尻~名古屋間(中央西線)がその1つです。
実は中央本線の正式な(届出上の)線路としての起点は東京駅であり、塩尻駅を経由して名古屋駅が終点となっています。これに従うと、東京から名古屋へ向かう方向が「下り」で、名古屋から東京へ向かう方向が「上り」となるのですが、実際には名古屋駅から塩尻駅方面を「下り」、塩尻駅から名古屋駅方面を「上り」と呼んでいるようです。時刻表や駅の案内でもそうですし、列車番号も名古屋駅発の列車が奇数で「下り」扱いになっています。すなわち、中央本線は起点の東京と終点の名古屋の双方からやって来る「下り」列車がここ塩尻駅で合流する(鉢合わせする)ことになります。私が見ている短い時間帯にもJR東日本の誇るE351系特急電車を使用した中央東線“上り”の新宿行きの特急「スーパーあずさ」が発車していき、すぐに辰野方向(辰野支線)からJR東日本の“下り”の211系普通列車が到着。さらには名古屋からJR東海が誇る制御付き自然振り子方式の383系特急電車を使用した中央西線“下り”の特急「しなの」が到着し、そのまま篠ノ井線に乗り入れる松本方面行き“下り”列車として発車していきました。
これはおそらく、鉄道本来の「下り」「上り」とは別に、「大都市へ向かう方向が“上り”」という感覚が定着していて、中央本線のケースでは、中央西線側(名古屋側)で実質的に名古屋駅起点のような運行が行われているからだと思われます。届出上の起点・終点の原則を無理やり使っても利用者の感覚とずれてしまうため、列車と線路の「下り」「上り」が逆になってしまったってことなのでしょう (同様の事例は紀勢本線の和歌山駅~新宮駅間でも見られます)。
ちなみに、塩尻駅には特急列車は一部を除く中央東線(JR東日本)の「あずさ」「スーパーあずさ」と中央西線(JR東海)の全ての「しなの」が停車し、ほとんどが篠ノ井線を通じて松本駅、さらには長野駅まで乗り入れますが、中央東線・中央西線を塩尻駅で跨ぐ定期列車は存在せず、運行系統が完全に分断されています。普通列車も同様で、中央東線、中央西線それぞれから来る列車のほとんどが篠ノ井線を通じて松本駅まで乗り入れているのに対し、中央東線・中央西線を塩尻駅で跨ぐ定期列車は存在せず、運行系統が完全に分断されています。なので、名古屋駅から塩尻駅方面を「下り」、塩尻駅から名古屋駅方面を「上り」と呼ぶことは、むしろ正しいとさえ思えます。だって名古屋駅方面から塩尻駅にやって来たJR東海の「下り」の列車は、そのまま篠ノ井線の「下り」の列車として松本駅や長野駅に向かうことができますものね。
もともと「塩尻」という地名は、この地が塩の道と呼ばれる三州街道と五千石街道の追分(分岐点)であり、三河国からは太平洋産の表塩(南塩)が、また糸魚川からは松本経由で日本海産の裏塩(北塩)が入る接点であったこと、すなわち物流の合流点であったから「塩尻」という名称が付けられた…ということを書きましたが、鉄道においても東京と名古屋という2つの大都会からのヒトとモノの流れがここで合流するってことで、今に続いているのですね。
……(その6)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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