2018/04/10
大人の修学旅行2018 in鹿児島(その3)
翌3月3日(土)、いよいよ今日と明日が『大人の修学旅行2018in鹿児島』の本番です。が、しかぁ〜し…、部屋のカーテンを捲って外を見ると朝から小雨が降っています。あれあれ…、ガックシ…。前日までの天気予報が見事に的中!ってことなんですが、さすがにガックシきちゃいます。旅の印象ってお天気によってガラッと変わるところがあり、お天気が悪いとせっかくあれこれ思いを巡らして準備してきたものが台無しになっちゃいますからね。ただ、降り出すタイミングが前日の夕方に弊社のオリジナル気象情報サービス『HalexDream!』で確認したものより早まっているようです。前日、夕食を摂りに『かごっま ふるさと屋台村』に行く前に確認した時には10時あたりから雨の予報だったのですが、実際には朝から小雨が降っています。
『HalexDream!』では気象庁から次々と送られてくる最新の数値予報データをもとに気象観測ロボットAMeDASの観測データや降雨レーダーの観測データを用いた実測補正処理(ここがいわゆるIoTってやつです)により30分ごとに弊社独自の1kmメッシュのピンポイント気象予報を提供しているのですが、最後に確認した前日夕方のタイミングから状況が微妙に違ってきたのでしょう。どのタイミングで状況が変わったのかは分かりません。屋台村からホテルに帰ってきた時にはかなり酔っ払っていて、部屋に入るなりベッドに倒れ込んでそのまま爆睡しちゃいましたから、その後の天気予報の確認を怠っていました。
で、改めて『HalexDream!』でこの後の鹿児島市中心部の天気予報を確認してみると……なんと、集合時刻の13時過ぎから雨脚が強まり本降りの雨になるみたいで、ちょうど私達が市内観光をしている17時くらいまでが雨のピークになるようです。やれやれ。でもまぁ〜、定期観光バスを利用するので移動時はまったく問題なく、見学場所に着いてからだけ傘の利用ってことになります。城山から錦江湾越しに見える桜島の雄大な風景を皆さんにご覧いただきたいと思っていたのですが、それはちょっと無理なようですね。仕方ない……。
でも、『HalexDream!』によると、その雨も今日の夜中(23時あたり)には止みそうで、その後急速に天気は回復して、2日目の明日(3月4日)は晴れの予報に変わっています。前日までは「雨のち曇り」の予報だったのが「晴れ」に変わっています! よっしゃ! 明日の桜島観光はいい天気のもとで行えそうです。桜島にいっさい雲がかからないくらいの晴天になれば、申し分なし!です。もしそうなれば、終わりよければ全てよし!、1日目の雨の印象も一気に帳消しです。私の「晴れ男のレジェンド」の神通力はまだまだ残っているようです。
それにしても鹿児島マラソンの影響で、当初のスケジュールを逆転して、1日目に市内観光、2日目に桜島観光に変更しておいて、本当に良かったです。これが当初の予定のままだったら最悪でした。鹿児島市交通局のアドバイスに感謝感謝です。
もうそろそろ皆さんご自宅を出る頃かな…と思っていると、7時前に青森のココさんから次のようなメールが入りました。「すみません!亭主が突然発熱して動けません!申し訳ありませんがキャンセルさせて下さい。空港までのタクシー呼ぼうとしてたのに(T ^ T)」 エーーーーッ!!(◎_◎;) 発達した低気圧が日本列島を通過した影響で、前日(3月2日)は北海道や東北地方といった北日本はところにより吹雪になったりで大荒れの天気でした。昨日(3月2日)の羽田空港でも北海道や東北各地の空港行きのフライトにのきなみ「欠航」や「天候調査」、「羽田空港に引き返すこともあるという条件付きフライト」の表示が出ていました。今日(3月3日)はその低気圧も北海道の東の海上に抜けるので、青森空港発のフライトも朝から問題なく飛ぶだろうと思ってホッとしていた矢先のことです。旦那さんが急に発熱しちゃうことまでは予想しておりませんでした。でも、仕方ありません。宿泊予定の国民宿舎や定期観光バス、2日目の昼食場所などに人数変更の連絡を入れることにしました。幹事として前日に先乗りしておいて、本当に良かったです。この日移動していたのなら、電車の乗車時間や飛行機の搭乗時間など電話ができない時間帯が結構あるので、各所への連絡ができないかもしれなかったですからね。
それにしても、旦那さんが急に発熱したからドタキャンですか。いかにもラブラブ夫婦のココさんらしいな…って思っちゃいました。ココさんの旦那さんが羨ましい。ウチの家内だと、そういう状況になっても、熱を発してフーフー言ってる私を残して、きっと旅行のほうを優先して行っちゃうだろうな…と思いましたからね。
8時過ぎ、地元香川県在住組の皆さんから丸亀駅や高松駅から電車に乗ったよぉ〜というメールが入ってきます。
午前9時前に各所への人数変更の連絡を済ませて、さてこれからどうしようと思っている時に、今度は横浜在住のイッカクからメールが…。「ただ今、鹿児島空港に到着。鹿児島中央駅に向かいます。」 ハヤッ! どうもイッカクは羽田空港から朝一番の飛行機に乗って鹿児島にやって来たようです。私はこんな雨だし、次々と到着するであろう皆さんをお迎えするため12時にはJR鹿児島中央駅に行っておかねばならなかったので、せいぜい午前中は宿泊したホテルの周辺にある西郷隆盛や大久保利通の生誕地跡を訪ねるくらいかな…と思っていた矢先だったので、ちょうどいいや、イッカクもそれに誘っちゃえ!…ってことにして、「鹿児島中央駅に着いたらメールして」って返事を返し、朝食を摂りに1階のレストランに向かいました (午後から定期観光バスで市内観光をするのですが、そのコースに西郷隆盛や大久保利通の生家跡は含まれていないのは予め分かっていましたので…)。
9時を過ぎて、関西地方在住組の皆さんからも◯◯駅から新幹線に乗ったよぉ〜というメールが次々と入ってきます。いよいよ皆さん、ここ鹿児島を目指して動き出しました。『大人の修学旅行』のムードが徐々に高まっていきます。
10時過ぎにイッカクから「鹿児島中央駅に到着しました。」というメールが入ってきました。ヨシッ! そのメールを受けて私も行動開始です。
JR鹿児島中央駅の改札口近くの喫茶店でイッカクと合流しました。これまで1人だけだったのが2人になって、ちょっと嬉しくなっちゃいました。横浜在住のイッカクとは東京で時々会っているので、久し振りって感じはまったくしないのですが、鹿児島という私達にとって“非日常”の場で会うとちょっと新鮮な感じがします。イッカクに「遠路鹿児島に到着したばかりでお疲れのところだけど、俺さぁ〜、これからこの鹿児島中央駅周辺にある西郷隆盛や大久保利通の生家跡に行ってみようと思ってるんだよね。雨の中だけど一緒に行くかい?」と言って誘ってみると、予想通りすぐに「おっ! いいねぇ〜。行く行く!」って返事が返ってきました。
ということで、イッカクと2人、雨の中、傘をさしてJR鹿児島中央駅を後にしました。いったん、昨夜宿泊した鹿児島東急REIホテルの前を通り過ぎ、甲突川(こうつきがわ)に架かる高見橋を渡ります。この甲突川は鹿児島市郡山町に聳える八重山(標高677メートル)の中腹にある甲突池を源流とし、南東に流れ、鹿児島市街地を南北に分けながら錦江湾(鹿児島湾)に注ぐ河川です。鹿児島城築城の際には、この甲突川を鹿児島城の外堀として位置付けたのだそうです。NHK大河ドラマ『西郷どん』の中で少年時代の西郷吉之助(隆盛)達がウナギ(鰻)を採ったり、川遊びをしたりするシーンがありましたが、あの川がこの甲突川です。その甲突川を高見橋で渡ったところに明治維新の元勲であり、西郷隆盛、長州の木戸孝允(たかよし)と並んで「維新の三傑」と称される大久保利通の銅像が建っています。
大久保利通は文政13年(1830年)、鹿児島城下高麗町に、琉球館附役の下級藩士・大久保次右衛門(利世)の長男として生まれました。幼名は正袈裟(しょうけさ)で、元服後は大久保正助(しょうすけ)と名乗り、後に島津久光から大久保一蔵(いちぞう)の名を賜りました。幼少期に加治屋町に移住し、加治屋町の郷中や藩校造士館で、西郷隆盛や税所篤(子爵・元老院議官)、吉井友実(伯爵・宮内次官等)、海江田信義(有村俊斎:子爵・元老院議官)、大山綱良(大山格之助:初代鹿児島県令)らと共に学問を学び親友・同志となりました。武術は胃が弱かったためまるで得意ではなかったようですが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたといわれています。幕末の薩摩を揺るがしたお由羅騒動では父に連座して謹慎処分とされたのですが、島津斉彬が藩主になると罰を解かれ、以降、藩内の有力者の囲碁の相手をするなどをして島津久光の信任を受けるようになります。文久元年(1861年)、31歳の時に小納戸役に抜擢されて藩政に深く関わるようになり、以後、薩摩藩内での出世街道を昇っていきます。
文久2年(1862年)に島津久光を擁立して京都の政局にも関わるようになり、西郷隆盛や公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜(後の第15代将軍徳川慶喜)の将軍後見職就任、福井藩主・松平慶永の政事総裁職就任などを進めました。慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っています。慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松帯刀や西郷隆盛と計画し、いわゆる四侯会議を開催させることにも成功します。しかし四侯会議は一橋慶喜によって頓挫させられたため、大久保利通は今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなります。大政奉還で江戸幕府が倒れ、明治維新を迎えると、明治2年(1869年)、明治政府の参議に就任。木戸孝允らとともに版籍奉還や廃藩置県などのこれまでの幕藩体制を一変させるような大胆な政策を推し進め、明治政府の中央集権体制確立を行いました。
明治4年(1871年)、大蔵卿となり、岩倉具視を団長とする岩倉使節団の副使として欧米諸国の最新技術を見聞。その外遊中に留守政府で朝鮮出兵を巡る征韓論論争が起こり、急遽帰国。西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変(1873年)にて西郷隆盛らを失脚させました。同年内務卿を兼任。冷静かつ精緻な政治力は常に西郷隆盛の鷹揚なキャラクターと対比され、征韓論を巡っての分裂は決定的となり、かつての盟友と袂を分かつことになります。
その後、明治7年(1874年)の佐賀の乱、明治9年(1876年)に熊本で起こった神風連の乱、明治10年(1877年)の西南戦争などを次々に鎮圧。地租改正を行い、元老院、大審院、地方官会議の設置による立憲制による近代国家の樹立をめざしたのですが、明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井坂(現・東京都千代田区紀尾井町)にて石川県士族・島田一良(いちろう)らによって暗殺されました。享年48歳でした。墓所は東京都港区の青山霊園にあります。
「維新の三傑」と称されるほどの偉人で、明治維新における功績は西郷隆盛を凌ぐほどのものを残しているのですが、鹿児島における大久保利通の人気は西郷隆盛に大きく水を開けられています。西南戦争でかつての盟友・西郷隆盛をはじめ薩摩の有能な仲間達の多くを死に追いやってしまったことが、今も影響しているのでしょうね。
高見橋から甲突川に沿って甲突橋までの間は「歴史ロード“維新ふるさとの道”」として整備されています。そこを少し歩くと「大久保利通 生い立ちの地」があり、それを記念する石碑が建っています。大久保利通は甲突川の向こう岸の高麗町で生まれたのですが、幼少期にこの加治屋町に家族で引っ越してきました。「無二の友を敵としても」という文字が、心を打ちます。大久保利通としては、無二の友を敵としても、この日本国を欧米列強と肩を並べられる近代国家にしたかったのでしょう、きっと。
ここで「かごしま まちなか おもてなし隊」の皆さんに遭遇。この「かごしま まちなか おもてなし隊」は鹿児島市が「まちなかおもてなし事業」の一環として進めるもので、明治維新150周年やNHK大河ドラマ「西郷どん」の放送に合わせ、鹿児島市内の主要観光スポットに幕末・維新期の衣装を着たキャストを配置し、鹿児島弁を用いた会話や記念撮影、寸劇の披露など、観光客らへ観光案内も含めたおもてなしをするというものなのだそうです。オーディションで選ばれた10~40代の男女が西郷隆盛や大久保利通、島津斉彬など幕末から維新期にかけて活躍した鹿児島の偉人5人と、西郷隆盛の愛犬・ツン、それと明治時代の女性に扮して、土日・祝日を中心に、鹿児島中央駅、加治屋町、天文館、西郷銅像前周辺などで活動しているそうです。その明治時代の女性に扮した皆さんに囲まれて、ちょっと嬉しい!
このあたりが幕末・維新の偉人を数多く生んだ加治屋町です。薩摩藩90万石の鹿児島城下には武士屋敷が数多くあり、この加治屋町は城下町内では鶴丸城から遠い位置にあったことから主に下級武士の居住地でした。薩摩藩では城下の居住地を幾つかの区域に分け、その区域ごとで子弟の教育に当たりました。区域の1つ1つを「方眼(ほうぎり)」とか「郷(ごう)」と呼び、その教育機関として郷の相中(あいなか)、略して「郷中(ごじゅう)」という現在の学区にあたる制度を設けました。郷中では幼少の頃から肉体的にも精神的にも徹底した鍛錬教育が行われ、特に上下関係は厳しく躾けられました。この教育により、薩摩の青少年の間では「議を言うな (つべこべ小賢しい理屈を言わず、先輩の言うことに従え)」、「長老衆には従え」という暗黙の了解がなされていました。薩摩藩では幕末期33の郷中があり、中でもこのあたりの下加治屋町郷中は、高麗、上荒田の三郷中(三方眼)と並んで、幕末から明治にかけて多くの逸材を生み出したことで有名です。
加治屋町ゆかりの偉人達を以下に列挙します。
西郷隆盛: 明治政府の参議、日本最初の陸軍大将
伊地知正治: 薩摩の軍師と言われ、維新後、新政府の左院議長、参議議長等を歴任
大久保利通: 明治維新後、大蔵卿、内務卿を歴任。明治政府の礎を築く
篠原国幹: 私学校の創設に参加、幼年学校を監督した。西南戦争では一番大隊長として活躍
村田新八: 私学校の創設に参加、砲兵学校を監督した。西南戦争では二番大隊長として活躍
黒田清隆: 北海道開拓に大きく貢献した。枢密顧問官、逓信大臣を歴任し、総理大臣を務めた
大山巌: 西郷隆盛の従弟で陸軍元帥。日本陸軍の創設、近代化に貢献。西南戦争では政府軍に参加
西郷従道: 西郷隆盛の実弟。海軍大臣、内務大臣、枢密顧問官を歴任
黒木為楨: 陸軍大将、枢密顧問官を歴任。西南戦争では政府軍に参加
井上良馨: 海軍元帥。日本海軍の艦長として初めてヨーロッパ巡行に成功。初代海軍大学長等を歴任
東郷平八郎: 海軍元帥。英国に留学し、各艦の艦長を歴任。日露戦争では聯合艦隊司令長官として活躍
山本権兵衛: 日清・日露戦争では大本営にてその遂行に努めた。大正2年、12年、総理大臣を務めた
……などなど
ホント、幕末から明治にかけての偉人達がキラ星のごとく並んでいます。下加治屋町の郷中教育が日本近代化への原動力となったことを如実に物語っています。ちなみに、歴史小説家の司馬遼太郎先生はこの加治屋町のことを「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」と評しておられますが、まさにそんな感じですね。
NHK大河ドラマ『西郷どん』では、この下加治屋町の郷中教育を推し進めたのが沢村一樹さん演じる島津斉彬の重臣・赤山靱負(ゆきえ)だとして描かれていました。そしてその赤山靱負がお由羅騒動で切腹を命ぜられた際に、赤山家に御用人として出入りしていた西郷隆盛の父・西郷吉兵衛隆盛が介錯を依頼され、吉兵衛は赤山靭負の血染めの肌着を貰いうけ、子の西郷吉之助隆盛にこの肌着を与え、その最期の様子を伝えたとしています。実際、西郷隆盛は赤山靭負の生き様に大きく共感したといわれています。西郷隆盛が後年鹿児島で創設した私学校は、この下加治屋町の郷中教育を再興しようとしたものかもしれません。ちなみに、赤山靱負は薩摩藩内では代々家老をはじめとする重役を輩出した一門家に次ぐ名門の日置島津家の次男で、弟の桂久武は西郷隆盛と親交を結び、西郷隆盛とともに鹿児島藩権大参事となり藩政のトップを勤めました。西南戦争において西郷隆盛が挙兵すると西郷軍に加わって参戦。西郷隆盛が自刃した城山の戦いで流れ弾に当たって戦死しました。
「大久保利通 生い立ちの地」から約150メートル。午後に定期観光バスで連れていってもらうことになっている「維新ふるさと館」の先に、西郷隆盛・従道兄弟の生誕地跡があります。NHK大河ドラマ『西郷どん』の中では西郷隆盛の家と大久保利通の家は隣同士のように描かれていますが、実際はそこまで近いってわけではなく、150メートルほど離れていました。隣同士っていうのはドラマのセットの都合なのでしょうね、きっと。それでも近所であることに変わりはなく、子供の頃の西郷隆盛と大久保利通はほぼ毎日のように会っていたようです。
明治維新の元勲と呼ばれる西郷隆盛は、文政10年(1828年)、鹿児島城下の下加治屋町に小姓組の下級藩士・西郷吉兵衛の長男として生まれました。幼名は小吉、諱は隆永、のち隆盛と改名。通称を小吉、のちに吉兵衛または吉之助と称し、南洲と号しました。
安政元年(1854年)、26歳の時に藩主・島津斉彬の庭方役に抜擢され、江戸で当代随一の開明派大名であった島津斉彬の身近にあって、強い影響を受け、条約問題、一橋慶喜将軍擁立運動等に奮闘しますが、大老・井伊直弼の登場で一橋派は敗北。同年、尊敬していた藩主・島津斉彬が鹿児島で急死したため失脚。絶望して錦江湾(鹿児島湾)に僧月照とともに投身自殺を図ったものの、西郷隆盛のみが蘇生。奄美大島に流罪となります。文久2年(1862年)、召還されるのですが、新藩主島津忠義の実父で事実上の薩摩藩最高権力者の島津久光と折り合わず、再び失脚して沖永良部島に流罪となります。
しかし、家老・小松帯刀や大久保利通の後押しで元治元年(1864年)に赦免され復帰。軍賦役、小納戸頭取となり、禁門の変(蛤御門の変)で活躍しました。翌慶応元年(1865年)以降、討幕(幕府中心主義克服)の道を模索し、慶応2年(1866年)、土佐藩浪士・坂本竜馬らの仲介を得て薩長秘密同盟を締結。翌慶応3年(1867年)、四侯会議で雄藩連合政権の結成を目指し奔走したのですが、一橋慶喜によって頓挫させられたため失敗に終わり、西郷隆盛は大久保利通とともに今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなります。
第15代将軍となった徳川慶喜(一橋慶喜)は同年10月14日に大政奉還を上表し翌日勅許されたのですが、西郷隆盛達は振り上げた拳を抑えられずその後も討幕の機会を執拗に追求。王政復古のクーデターで旧幕府側に対し挑発を繰り返し、ついに慶応4年(1868年)1月3日、京都に進軍する旧幕府軍を鳥羽・伏見の戦で撃退しました。その後も西郷隆盛は戊辰戦争を巧みに主導し、同年2月、東征大総督府参謀に就任。3月、江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて総攻撃を中止し、江戸城の無血開城に成功しました。しかし、上野の彰義隊掃討戦の頃から軍事指導権を長州の大村益次郎に奪われ、鹿児島に帰郷。藩参政に就任し、大規模常備軍の編成を柱とした藩政改革を推進しました。
明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導しました。朝鮮との国交回復問題(いわゆる征韓論)では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦は大使に任命されたのですが、急遽帰国した大久保利通らと対立することになります。この明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野し、再び鹿児島に戻りました。
鹿児島に戻った西郷を追って薩摩出身の近衛士官や兵士の多数が明治天皇の制止も聞かずに鹿児島に引き揚げました。そういう士官や兵士達の受け皿として西郷隆盛は明治7年(1874年)に士族の教育、軍事訓練、開墾事業を推進する機関として鹿児島に私学校を創設、教育に専念するのですが、私学校の経営を腹心の桐野利秋、村田新八らに委ねて、西郷隆盛自身は悠々自適を決め込んだところから悲劇は始まります。
私学校党は鹿児島県政を掌握して、県官任免、禄制整理、地租改正、徴兵制という政府の主要な政策をいっさい拒絶し、鹿児島県(薩摩)は半独立国のような形勢をなすようになり、対外的な危機の到来を待って内政大改革に及ぼうと、そのチャンスを虎視眈々と狙うようになります。そこに明治7年(1874年)の佐賀の乱、明治9年(1876年)に熊本で起こった神風連の乱、同年、福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった秋月の乱、山口県萩で起こった萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争がついに勃発します。西郷隆盛は政府の挑発に激怒する大勢に押されて、心ならずも武力反乱の先頭に立つに至り、その指導者となります。西郷軍の兵力は約3万人。対する政府軍の兵力は約7万人。この西南戦争は両軍ともに6千名以上の戦死者を出すという明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で起こった最後の内戦となりました。
西南戦争は、2月20日、政府軍の熊本鎮台が守る熊本城の争奪戦から始まり、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県といった九州各地で戦闘が行われました。激戦で有名な田原坂の戦い、吉次峠の戦いはこの西南戦争での戦闘です。当初は精強な西郷軍は戦局を有利に進めたものの、戦闘が長引くにつれ政府軍の最新の兵器と大量に投入された弾薬の前に西郷軍は各地の戦闘で次々と敗戦。退却を余儀なくされ、9月1日、鹿児島まで退却。城山に布陣して籠城戦を展開することになります。この時の西郷軍はの数は約370名まで減っており、この約370名で約5万人の政府軍と向き合うことになりました。この圧倒的な戦力の差にもかかわらず西郷軍は20日間以上も持ちこたえたのですが、9月24日、最後の総攻撃を仕掛け、西郷隆盛はその総攻撃の激戦の中で自刃(切腹)して果てました。享年50歳。「敬天愛人(けいてんあいじん)」が座右の銘でした。「天を敬い、人を愛する」という意味です。
説明版に「時代をにらんだウドメサア」という文字が書かれています。この“ウドメサア”とは鹿児島弁で「巨眼(うどめ)さん」という意味で、西郷隆盛は肖像画にもあるように目が大きく、しかも黒目がちなところが特徴でした。その眼光と黒目がちの巨眼でジロッと見られると、桐野利秋(通称:人斬り半次郎)のような剛の者でも舌が張り付いて、モノも言えなかったと伝えられています。
紙面の都合で簡単に書こうと思ったのですが、それでも西郷隆盛の生涯を書こうとするとこのくらいの分量になってしまいました。これでも相当にはしょっているつもりです。詳しくは現在放映中のNHK大河ドラマ『西郷どん』を是非ご覧ください。
余談ですが、歴史上の英雄は通常“勝者”の中から語られることがほとんどなのですが、“敗者”であるにもかかわらず今も英雄と呼ばれているのは世界中見回してもこの西郷隆盛とフランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立したナポレオン・ボナパルトぐらいのものです。“敗者”である西郷隆盛を英雄と評価するのは日本国内にとどまらず、トム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラストサムライ(The Last Samurai)』は明治初頭の日本を舞台に、時代から取り残された侍達の生き様を描いた作品ですが、その『ラストサムライ』の中で渡辺謙さんが演じた反乱軍の首領・勝元は西郷隆盛をモデルとして描かれたものです。その渡辺謙さんがNHK大河ドラマ『西郷どん』では、西郷隆盛の生き様に大きな影響を与えた薩摩藩の名君・島津斉彬を演じています。また、司馬遼太郎先生の原作で、明治期最大の対外戦争であった日露戦争を描いたNHKの特別大河ドラマ『坂の上の雲』ではナレーションを担当しました。この日露戦争でも大山巌や東郷平八郎といった薩摩の、それこそ下加治屋町の郷中で学んだ人達が主導的立場でこの日本国を勝利へと結びつけていきます。なにかの因縁を感じてしまいますね。
この場所は西郷隆盛の生誕地であると同時に、実弟の西郷従道(つぐみち:“じゅうどう”とも)の生誕地でもあります。この西郷従道、兄である西郷隆盛が偉大すぎたのでその影に隠れがちですが、実はとんでもなく凄い人物なんです。
西郷従道は天保14年(1843年)の生まれ。西郷隆盛の15歳年下の弟(三男)で、幼名は竜助。9歳の時に両親と死別し、兄の隆盛を親代わりとして成長し、出世だけでなく思想面でも多大の影響を受けました。13歳で島津家の茶坊主となり、17歳で還俗して慎吾と改名しました。戊辰戦争では各地を転戦したのですが、まだ若かったこともあり、特別の功績は記録されていません。
ですが、明治2年(1869年)、長州の山県有朋とともに選ばれ、1年余、主にフランスの兵制を視察。帰国直後に兵部権大丞、陸軍掛となり、明治4年(1871年)、兵部少輔に任ぜられるという異例の出世を遂げます。明治6年(1873年)、兄の西郷隆盛が征韓論論争に敗れ、その下野が決定的になると、逆に西郷従道は台湾事務都督、次に台湾生蕃処理取調委任、台湾蕃地事務都督となり、明治7年(1874年)に行われた台湾出兵を指揮しました。この間、明治5年(1872年)に陸軍少将、明治7年(1874年)に陸軍中将と山県有朋に次ぐ昇進を遂げます。台湾出兵は士族の不満解消のための処方箋のようなところがあったのですが、明治10年(1877年)、恐れていた西南戦争が勃発。西郷従道は陸軍卿代理を務め、東京を動きませんでした。兄の西郷隆盛と袂をわかったことに対する世の中の非難は強く、これを避けるためイタリア特命全権大使になったのですが、結局赴任はしませんでした。
明治11年(1878年)参議兼文部卿、明治12年(1879年)陸軍卿、明治14年(1881年)からは農商務卿を歴任。山県有朋に並ぶ陸軍、明治政府の要石の位置に立ちました。明治18年(1885年)、内閣制の発足とともに初代の海軍大臣に就任し、鎮守府を中心としたフランス式海岸防備体制を導入するなど清国に対する戦備の充実に努めました。途中第1次松方正義内閣の内務大臣、枢密顧問官に代わることもありましたが、明治31年(1898年)まで海軍大臣として海軍部内をまとめるうえで功績をあげ、同年初の海軍元帥となりました。陸軍と海軍の両方で将官や閣僚を経験した人物は、西郷従道のみです (陸軍中将と海軍大将、陸軍卿と海軍大臣を歴任しました)。内閣総理大臣の候補として明治天皇から再三組閣を命じられた際にも、兄・西郷隆盛が逆賊の汚名を受けていたため、従兄の大山巌同様に断り続けたと言われています。
ロシアとの対決を予測して、軍艦建造費以外の予算を集められるだけかき集めて、のちに聯合艦隊の旗艦とる戦艦三笠の建造を強力に推し進めたのはこの西郷従道でした。その意味で、ロシアの脅威から日本を守った日露戦争勝利の影の立役者とでも呼べる人物です。しかし、日露戦争での東郷平八郎率いる聯合艦隊による日本海海戦の大勝利を見ることなく、明治35年(1902年)に胃癌により東京目黒の自邸で死去しました。享年60歳でした。西郷従道の墓は東京都府中市の多磨霊園にあります。
……(その4)に続きます。
『HalexDream!』では気象庁から次々と送られてくる最新の数値予報データをもとに気象観測ロボットAMeDASの観測データや降雨レーダーの観測データを用いた実測補正処理(ここがいわゆるIoTってやつです)により30分ごとに弊社独自の1kmメッシュのピンポイント気象予報を提供しているのですが、最後に確認した前日夕方のタイミングから状況が微妙に違ってきたのでしょう。どのタイミングで状況が変わったのかは分かりません。屋台村からホテルに帰ってきた時にはかなり酔っ払っていて、部屋に入るなりベッドに倒れ込んでそのまま爆睡しちゃいましたから、その後の天気予報の確認を怠っていました。
で、改めて『HalexDream!』でこの後の鹿児島市中心部の天気予報を確認してみると……なんと、集合時刻の13時過ぎから雨脚が強まり本降りの雨になるみたいで、ちょうど私達が市内観光をしている17時くらいまでが雨のピークになるようです。やれやれ。でもまぁ〜、定期観光バスを利用するので移動時はまったく問題なく、見学場所に着いてからだけ傘の利用ってことになります。城山から錦江湾越しに見える桜島の雄大な風景を皆さんにご覧いただきたいと思っていたのですが、それはちょっと無理なようですね。仕方ない……。
でも、『HalexDream!』によると、その雨も今日の夜中(23時あたり)には止みそうで、その後急速に天気は回復して、2日目の明日(3月4日)は晴れの予報に変わっています。前日までは「雨のち曇り」の予報だったのが「晴れ」に変わっています! よっしゃ! 明日の桜島観光はいい天気のもとで行えそうです。桜島にいっさい雲がかからないくらいの晴天になれば、申し分なし!です。もしそうなれば、終わりよければ全てよし!、1日目の雨の印象も一気に帳消しです。私の「晴れ男のレジェンド」の神通力はまだまだ残っているようです。
それにしても鹿児島マラソンの影響で、当初のスケジュールを逆転して、1日目に市内観光、2日目に桜島観光に変更しておいて、本当に良かったです。これが当初の予定のままだったら最悪でした。鹿児島市交通局のアドバイスに感謝感謝です。
もうそろそろ皆さんご自宅を出る頃かな…と思っていると、7時前に青森のココさんから次のようなメールが入りました。「すみません!亭主が突然発熱して動けません!申し訳ありませんがキャンセルさせて下さい。空港までのタクシー呼ぼうとしてたのに(T ^ T)」 エーーーーッ!!(◎_◎;) 発達した低気圧が日本列島を通過した影響で、前日(3月2日)は北海道や東北地方といった北日本はところにより吹雪になったりで大荒れの天気でした。昨日(3月2日)の羽田空港でも北海道や東北各地の空港行きのフライトにのきなみ「欠航」や「天候調査」、「羽田空港に引き返すこともあるという条件付きフライト」の表示が出ていました。今日(3月3日)はその低気圧も北海道の東の海上に抜けるので、青森空港発のフライトも朝から問題なく飛ぶだろうと思ってホッとしていた矢先のことです。旦那さんが急に発熱しちゃうことまでは予想しておりませんでした。でも、仕方ありません。宿泊予定の国民宿舎や定期観光バス、2日目の昼食場所などに人数変更の連絡を入れることにしました。幹事として前日に先乗りしておいて、本当に良かったです。この日移動していたのなら、電車の乗車時間や飛行機の搭乗時間など電話ができない時間帯が結構あるので、各所への連絡ができないかもしれなかったですからね。
それにしても、旦那さんが急に発熱したからドタキャンですか。いかにもラブラブ夫婦のココさんらしいな…って思っちゃいました。ココさんの旦那さんが羨ましい。ウチの家内だと、そういう状況になっても、熱を発してフーフー言ってる私を残して、きっと旅行のほうを優先して行っちゃうだろうな…と思いましたからね。
8時過ぎ、地元香川県在住組の皆さんから丸亀駅や高松駅から電車に乗ったよぉ〜というメールが入ってきます。
午前9時前に各所への人数変更の連絡を済ませて、さてこれからどうしようと思っている時に、今度は横浜在住のイッカクからメールが…。「ただ今、鹿児島空港に到着。鹿児島中央駅に向かいます。」 ハヤッ! どうもイッカクは羽田空港から朝一番の飛行機に乗って鹿児島にやって来たようです。私はこんな雨だし、次々と到着するであろう皆さんをお迎えするため12時にはJR鹿児島中央駅に行っておかねばならなかったので、せいぜい午前中は宿泊したホテルの周辺にある西郷隆盛や大久保利通の生誕地跡を訪ねるくらいかな…と思っていた矢先だったので、ちょうどいいや、イッカクもそれに誘っちゃえ!…ってことにして、「鹿児島中央駅に着いたらメールして」って返事を返し、朝食を摂りに1階のレストランに向かいました (午後から定期観光バスで市内観光をするのですが、そのコースに西郷隆盛や大久保利通の生家跡は含まれていないのは予め分かっていましたので…)。
9時を過ぎて、関西地方在住組の皆さんからも◯◯駅から新幹線に乗ったよぉ〜というメールが次々と入ってきます。いよいよ皆さん、ここ鹿児島を目指して動き出しました。『大人の修学旅行』のムードが徐々に高まっていきます。
10時過ぎにイッカクから「鹿児島中央駅に到着しました。」というメールが入ってきました。ヨシッ! そのメールを受けて私も行動開始です。
JR鹿児島中央駅の改札口近くの喫茶店でイッカクと合流しました。これまで1人だけだったのが2人になって、ちょっと嬉しくなっちゃいました。横浜在住のイッカクとは東京で時々会っているので、久し振りって感じはまったくしないのですが、鹿児島という私達にとって“非日常”の場で会うとちょっと新鮮な感じがします。イッカクに「遠路鹿児島に到着したばかりでお疲れのところだけど、俺さぁ〜、これからこの鹿児島中央駅周辺にある西郷隆盛や大久保利通の生家跡に行ってみようと思ってるんだよね。雨の中だけど一緒に行くかい?」と言って誘ってみると、予想通りすぐに「おっ! いいねぇ〜。行く行く!」って返事が返ってきました。
ということで、イッカクと2人、雨の中、傘をさしてJR鹿児島中央駅を後にしました。いったん、昨夜宿泊した鹿児島東急REIホテルの前を通り過ぎ、甲突川(こうつきがわ)に架かる高見橋を渡ります。この甲突川は鹿児島市郡山町に聳える八重山(標高677メートル)の中腹にある甲突池を源流とし、南東に流れ、鹿児島市街地を南北に分けながら錦江湾(鹿児島湾)に注ぐ河川です。鹿児島城築城の際には、この甲突川を鹿児島城の外堀として位置付けたのだそうです。NHK大河ドラマ『西郷どん』の中で少年時代の西郷吉之助(隆盛)達がウナギ(鰻)を採ったり、川遊びをしたりするシーンがありましたが、あの川がこの甲突川です。その甲突川を高見橋で渡ったところに明治維新の元勲であり、西郷隆盛、長州の木戸孝允(たかよし)と並んで「維新の三傑」と称される大久保利通の銅像が建っています。
大久保利通は文政13年(1830年)、鹿児島城下高麗町に、琉球館附役の下級藩士・大久保次右衛門(利世)の長男として生まれました。幼名は正袈裟(しょうけさ)で、元服後は大久保正助(しょうすけ)と名乗り、後に島津久光から大久保一蔵(いちぞう)の名を賜りました。幼少期に加治屋町に移住し、加治屋町の郷中や藩校造士館で、西郷隆盛や税所篤(子爵・元老院議官)、吉井友実(伯爵・宮内次官等)、海江田信義(有村俊斎:子爵・元老院議官)、大山綱良(大山格之助:初代鹿児島県令)らと共に学問を学び親友・同志となりました。武術は胃が弱かったためまるで得意ではなかったようですが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたといわれています。幕末の薩摩を揺るがしたお由羅騒動では父に連座して謹慎処分とされたのですが、島津斉彬が藩主になると罰を解かれ、以降、藩内の有力者の囲碁の相手をするなどをして島津久光の信任を受けるようになります。文久元年(1861年)、31歳の時に小納戸役に抜擢されて藩政に深く関わるようになり、以後、薩摩藩内での出世街道を昇っていきます。
文久2年(1862年)に島津久光を擁立して京都の政局にも関わるようになり、西郷隆盛や公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜(後の第15代将軍徳川慶喜)の将軍後見職就任、福井藩主・松平慶永の政事総裁職就任などを進めました。慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っています。慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松帯刀や西郷隆盛と計画し、いわゆる四侯会議を開催させることにも成功します。しかし四侯会議は一橋慶喜によって頓挫させられたため、大久保利通は今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなります。大政奉還で江戸幕府が倒れ、明治維新を迎えると、明治2年(1869年)、明治政府の参議に就任。木戸孝允らとともに版籍奉還や廃藩置県などのこれまでの幕藩体制を一変させるような大胆な政策を推し進め、明治政府の中央集権体制確立を行いました。
明治4年(1871年)、大蔵卿となり、岩倉具視を団長とする岩倉使節団の副使として欧米諸国の最新技術を見聞。その外遊中に留守政府で朝鮮出兵を巡る征韓論論争が起こり、急遽帰国。西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変(1873年)にて西郷隆盛らを失脚させました。同年内務卿を兼任。冷静かつ精緻な政治力は常に西郷隆盛の鷹揚なキャラクターと対比され、征韓論を巡っての分裂は決定的となり、かつての盟友と袂を分かつことになります。
その後、明治7年(1874年)の佐賀の乱、明治9年(1876年)に熊本で起こった神風連の乱、明治10年(1877年)の西南戦争などを次々に鎮圧。地租改正を行い、元老院、大審院、地方官会議の設置による立憲制による近代国家の樹立をめざしたのですが、明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井坂(現・東京都千代田区紀尾井町)にて石川県士族・島田一良(いちろう)らによって暗殺されました。享年48歳でした。墓所は東京都港区の青山霊園にあります。
「維新の三傑」と称されるほどの偉人で、明治維新における功績は西郷隆盛を凌ぐほどのものを残しているのですが、鹿児島における大久保利通の人気は西郷隆盛に大きく水を開けられています。西南戦争でかつての盟友・西郷隆盛をはじめ薩摩の有能な仲間達の多くを死に追いやってしまったことが、今も影響しているのでしょうね。
高見橋から甲突川に沿って甲突橋までの間は「歴史ロード“維新ふるさとの道”」として整備されています。そこを少し歩くと「大久保利通 生い立ちの地」があり、それを記念する石碑が建っています。大久保利通は甲突川の向こう岸の高麗町で生まれたのですが、幼少期にこの加治屋町に家族で引っ越してきました。「無二の友を敵としても」という文字が、心を打ちます。大久保利通としては、無二の友を敵としても、この日本国を欧米列強と肩を並べられる近代国家にしたかったのでしょう、きっと。
ここで「かごしま まちなか おもてなし隊」の皆さんに遭遇。この「かごしま まちなか おもてなし隊」は鹿児島市が「まちなかおもてなし事業」の一環として進めるもので、明治維新150周年やNHK大河ドラマ「西郷どん」の放送に合わせ、鹿児島市内の主要観光スポットに幕末・維新期の衣装を着たキャストを配置し、鹿児島弁を用いた会話や記念撮影、寸劇の披露など、観光客らへ観光案内も含めたおもてなしをするというものなのだそうです。オーディションで選ばれた10~40代の男女が西郷隆盛や大久保利通、島津斉彬など幕末から維新期にかけて活躍した鹿児島の偉人5人と、西郷隆盛の愛犬・ツン、それと明治時代の女性に扮して、土日・祝日を中心に、鹿児島中央駅、加治屋町、天文館、西郷銅像前周辺などで活動しているそうです。その明治時代の女性に扮した皆さんに囲まれて、ちょっと嬉しい!
このあたりが幕末・維新の偉人を数多く生んだ加治屋町です。薩摩藩90万石の鹿児島城下には武士屋敷が数多くあり、この加治屋町は城下町内では鶴丸城から遠い位置にあったことから主に下級武士の居住地でした。薩摩藩では城下の居住地を幾つかの区域に分け、その区域ごとで子弟の教育に当たりました。区域の1つ1つを「方眼(ほうぎり)」とか「郷(ごう)」と呼び、その教育機関として郷の相中(あいなか)、略して「郷中(ごじゅう)」という現在の学区にあたる制度を設けました。郷中では幼少の頃から肉体的にも精神的にも徹底した鍛錬教育が行われ、特に上下関係は厳しく躾けられました。この教育により、薩摩の青少年の間では「議を言うな (つべこべ小賢しい理屈を言わず、先輩の言うことに従え)」、「長老衆には従え」という暗黙の了解がなされていました。薩摩藩では幕末期33の郷中があり、中でもこのあたりの下加治屋町郷中は、高麗、上荒田の三郷中(三方眼)と並んで、幕末から明治にかけて多くの逸材を生み出したことで有名です。
加治屋町ゆかりの偉人達を以下に列挙します。
西郷隆盛: 明治政府の参議、日本最初の陸軍大将
伊地知正治: 薩摩の軍師と言われ、維新後、新政府の左院議長、参議議長等を歴任
大久保利通: 明治維新後、大蔵卿、内務卿を歴任。明治政府の礎を築く
篠原国幹: 私学校の創設に参加、幼年学校を監督した。西南戦争では一番大隊長として活躍
村田新八: 私学校の創設に参加、砲兵学校を監督した。西南戦争では二番大隊長として活躍
黒田清隆: 北海道開拓に大きく貢献した。枢密顧問官、逓信大臣を歴任し、総理大臣を務めた
大山巌: 西郷隆盛の従弟で陸軍元帥。日本陸軍の創設、近代化に貢献。西南戦争では政府軍に参加
西郷従道: 西郷隆盛の実弟。海軍大臣、内務大臣、枢密顧問官を歴任
黒木為楨: 陸軍大将、枢密顧問官を歴任。西南戦争では政府軍に参加
井上良馨: 海軍元帥。日本海軍の艦長として初めてヨーロッパ巡行に成功。初代海軍大学長等を歴任
東郷平八郎: 海軍元帥。英国に留学し、各艦の艦長を歴任。日露戦争では聯合艦隊司令長官として活躍
山本権兵衛: 日清・日露戦争では大本営にてその遂行に努めた。大正2年、12年、総理大臣を務めた
……などなど
ホント、幕末から明治にかけての偉人達がキラ星のごとく並んでいます。下加治屋町の郷中教育が日本近代化への原動力となったことを如実に物語っています。ちなみに、歴史小説家の司馬遼太郎先生はこの加治屋町のことを「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」と評しておられますが、まさにそんな感じですね。
NHK大河ドラマ『西郷どん』では、この下加治屋町の郷中教育を推し進めたのが沢村一樹さん演じる島津斉彬の重臣・赤山靱負(ゆきえ)だとして描かれていました。そしてその赤山靱負がお由羅騒動で切腹を命ぜられた際に、赤山家に御用人として出入りしていた西郷隆盛の父・西郷吉兵衛隆盛が介錯を依頼され、吉兵衛は赤山靭負の血染めの肌着を貰いうけ、子の西郷吉之助隆盛にこの肌着を与え、その最期の様子を伝えたとしています。実際、西郷隆盛は赤山靭負の生き様に大きく共感したといわれています。西郷隆盛が後年鹿児島で創設した私学校は、この下加治屋町の郷中教育を再興しようとしたものかもしれません。ちなみに、赤山靱負は薩摩藩内では代々家老をはじめとする重役を輩出した一門家に次ぐ名門の日置島津家の次男で、弟の桂久武は西郷隆盛と親交を結び、西郷隆盛とともに鹿児島藩権大参事となり藩政のトップを勤めました。西南戦争において西郷隆盛が挙兵すると西郷軍に加わって参戦。西郷隆盛が自刃した城山の戦いで流れ弾に当たって戦死しました。
「大久保利通 生い立ちの地」から約150メートル。午後に定期観光バスで連れていってもらうことになっている「維新ふるさと館」の先に、西郷隆盛・従道兄弟の生誕地跡があります。NHK大河ドラマ『西郷どん』の中では西郷隆盛の家と大久保利通の家は隣同士のように描かれていますが、実際はそこまで近いってわけではなく、150メートルほど離れていました。隣同士っていうのはドラマのセットの都合なのでしょうね、きっと。それでも近所であることに変わりはなく、子供の頃の西郷隆盛と大久保利通はほぼ毎日のように会っていたようです。
明治維新の元勲と呼ばれる西郷隆盛は、文政10年(1828年)、鹿児島城下の下加治屋町に小姓組の下級藩士・西郷吉兵衛の長男として生まれました。幼名は小吉、諱は隆永、のち隆盛と改名。通称を小吉、のちに吉兵衛または吉之助と称し、南洲と号しました。
安政元年(1854年)、26歳の時に藩主・島津斉彬の庭方役に抜擢され、江戸で当代随一の開明派大名であった島津斉彬の身近にあって、強い影響を受け、条約問題、一橋慶喜将軍擁立運動等に奮闘しますが、大老・井伊直弼の登場で一橋派は敗北。同年、尊敬していた藩主・島津斉彬が鹿児島で急死したため失脚。絶望して錦江湾(鹿児島湾)に僧月照とともに投身自殺を図ったものの、西郷隆盛のみが蘇生。奄美大島に流罪となります。文久2年(1862年)、召還されるのですが、新藩主島津忠義の実父で事実上の薩摩藩最高権力者の島津久光と折り合わず、再び失脚して沖永良部島に流罪となります。
しかし、家老・小松帯刀や大久保利通の後押しで元治元年(1864年)に赦免され復帰。軍賦役、小納戸頭取となり、禁門の変(蛤御門の変)で活躍しました。翌慶応元年(1865年)以降、討幕(幕府中心主義克服)の道を模索し、慶応2年(1866年)、土佐藩浪士・坂本竜馬らの仲介を得て薩長秘密同盟を締結。翌慶応3年(1867年)、四侯会議で雄藩連合政権の結成を目指し奔走したのですが、一橋慶喜によって頓挫させられたため失敗に終わり、西郷隆盛は大久保利通とともに今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなります。
第15代将軍となった徳川慶喜(一橋慶喜)は同年10月14日に大政奉還を上表し翌日勅許されたのですが、西郷隆盛達は振り上げた拳を抑えられずその後も討幕の機会を執拗に追求。王政復古のクーデターで旧幕府側に対し挑発を繰り返し、ついに慶応4年(1868年)1月3日、京都に進軍する旧幕府軍を鳥羽・伏見の戦で撃退しました。その後も西郷隆盛は戊辰戦争を巧みに主導し、同年2月、東征大総督府参謀に就任。3月、江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて総攻撃を中止し、江戸城の無血開城に成功しました。しかし、上野の彰義隊掃討戦の頃から軍事指導権を長州の大村益次郎に奪われ、鹿児島に帰郷。藩参政に就任し、大規模常備軍の編成を柱とした藩政改革を推進しました。
明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導しました。朝鮮との国交回復問題(いわゆる征韓論)では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦は大使に任命されたのですが、急遽帰国した大久保利通らと対立することになります。この明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野し、再び鹿児島に戻りました。
鹿児島に戻った西郷を追って薩摩出身の近衛士官や兵士の多数が明治天皇の制止も聞かずに鹿児島に引き揚げました。そういう士官や兵士達の受け皿として西郷隆盛は明治7年(1874年)に士族の教育、軍事訓練、開墾事業を推進する機関として鹿児島に私学校を創設、教育に専念するのですが、私学校の経営を腹心の桐野利秋、村田新八らに委ねて、西郷隆盛自身は悠々自適を決め込んだところから悲劇は始まります。
私学校党は鹿児島県政を掌握して、県官任免、禄制整理、地租改正、徴兵制という政府の主要な政策をいっさい拒絶し、鹿児島県(薩摩)は半独立国のような形勢をなすようになり、対外的な危機の到来を待って内政大改革に及ぼうと、そのチャンスを虎視眈々と狙うようになります。そこに明治7年(1874年)の佐賀の乱、明治9年(1876年)に熊本で起こった神風連の乱、同年、福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった秋月の乱、山口県萩で起こった萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争がついに勃発します。西郷隆盛は政府の挑発に激怒する大勢に押されて、心ならずも武力反乱の先頭に立つに至り、その指導者となります。西郷軍の兵力は約3万人。対する政府軍の兵力は約7万人。この西南戦争は両軍ともに6千名以上の戦死者を出すという明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で起こった最後の内戦となりました。
西南戦争は、2月20日、政府軍の熊本鎮台が守る熊本城の争奪戦から始まり、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県といった九州各地で戦闘が行われました。激戦で有名な田原坂の戦い、吉次峠の戦いはこの西南戦争での戦闘です。当初は精強な西郷軍は戦局を有利に進めたものの、戦闘が長引くにつれ政府軍の最新の兵器と大量に投入された弾薬の前に西郷軍は各地の戦闘で次々と敗戦。退却を余儀なくされ、9月1日、鹿児島まで退却。城山に布陣して籠城戦を展開することになります。この時の西郷軍はの数は約370名まで減っており、この約370名で約5万人の政府軍と向き合うことになりました。この圧倒的な戦力の差にもかかわらず西郷軍は20日間以上も持ちこたえたのですが、9月24日、最後の総攻撃を仕掛け、西郷隆盛はその総攻撃の激戦の中で自刃(切腹)して果てました。享年50歳。「敬天愛人(けいてんあいじん)」が座右の銘でした。「天を敬い、人を愛する」という意味です。
説明版に「時代をにらんだウドメサア」という文字が書かれています。この“ウドメサア”とは鹿児島弁で「巨眼(うどめ)さん」という意味で、西郷隆盛は肖像画にもあるように目が大きく、しかも黒目がちなところが特徴でした。その眼光と黒目がちの巨眼でジロッと見られると、桐野利秋(通称:人斬り半次郎)のような剛の者でも舌が張り付いて、モノも言えなかったと伝えられています。
紙面の都合で簡単に書こうと思ったのですが、それでも西郷隆盛の生涯を書こうとするとこのくらいの分量になってしまいました。これでも相当にはしょっているつもりです。詳しくは現在放映中のNHK大河ドラマ『西郷どん』を是非ご覧ください。
余談ですが、歴史上の英雄は通常“勝者”の中から語られることがほとんどなのですが、“敗者”であるにもかかわらず今も英雄と呼ばれているのは世界中見回してもこの西郷隆盛とフランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立したナポレオン・ボナパルトぐらいのものです。“敗者”である西郷隆盛を英雄と評価するのは日本国内にとどまらず、トム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラストサムライ(The Last Samurai)』は明治初頭の日本を舞台に、時代から取り残された侍達の生き様を描いた作品ですが、その『ラストサムライ』の中で渡辺謙さんが演じた反乱軍の首領・勝元は西郷隆盛をモデルとして描かれたものです。その渡辺謙さんがNHK大河ドラマ『西郷どん』では、西郷隆盛の生き様に大きな影響を与えた薩摩藩の名君・島津斉彬を演じています。また、司馬遼太郎先生の原作で、明治期最大の対外戦争であった日露戦争を描いたNHKの特別大河ドラマ『坂の上の雲』ではナレーションを担当しました。この日露戦争でも大山巌や東郷平八郎といった薩摩の、それこそ下加治屋町の郷中で学んだ人達が主導的立場でこの日本国を勝利へと結びつけていきます。なにかの因縁を感じてしまいますね。
この場所は西郷隆盛の生誕地であると同時に、実弟の西郷従道(つぐみち:“じゅうどう”とも)の生誕地でもあります。この西郷従道、兄である西郷隆盛が偉大すぎたのでその影に隠れがちですが、実はとんでもなく凄い人物なんです。
西郷従道は天保14年(1843年)の生まれ。西郷隆盛の15歳年下の弟(三男)で、幼名は竜助。9歳の時に両親と死別し、兄の隆盛を親代わりとして成長し、出世だけでなく思想面でも多大の影響を受けました。13歳で島津家の茶坊主となり、17歳で還俗して慎吾と改名しました。戊辰戦争では各地を転戦したのですが、まだ若かったこともあり、特別の功績は記録されていません。
ですが、明治2年(1869年)、長州の山県有朋とともに選ばれ、1年余、主にフランスの兵制を視察。帰国直後に兵部権大丞、陸軍掛となり、明治4年(1871年)、兵部少輔に任ぜられるという異例の出世を遂げます。明治6年(1873年)、兄の西郷隆盛が征韓論論争に敗れ、その下野が決定的になると、逆に西郷従道は台湾事務都督、次に台湾生蕃処理取調委任、台湾蕃地事務都督となり、明治7年(1874年)に行われた台湾出兵を指揮しました。この間、明治5年(1872年)に陸軍少将、明治7年(1874年)に陸軍中将と山県有朋に次ぐ昇進を遂げます。台湾出兵は士族の不満解消のための処方箋のようなところがあったのですが、明治10年(1877年)、恐れていた西南戦争が勃発。西郷従道は陸軍卿代理を務め、東京を動きませんでした。兄の西郷隆盛と袂をわかったことに対する世の中の非難は強く、これを避けるためイタリア特命全権大使になったのですが、結局赴任はしませんでした。
明治11年(1878年)参議兼文部卿、明治12年(1879年)陸軍卿、明治14年(1881年)からは農商務卿を歴任。山県有朋に並ぶ陸軍、明治政府の要石の位置に立ちました。明治18年(1885年)、内閣制の発足とともに初代の海軍大臣に就任し、鎮守府を中心としたフランス式海岸防備体制を導入するなど清国に対する戦備の充実に努めました。途中第1次松方正義内閣の内務大臣、枢密顧問官に代わることもありましたが、明治31年(1898年)まで海軍大臣として海軍部内をまとめるうえで功績をあげ、同年初の海軍元帥となりました。陸軍と海軍の両方で将官や閣僚を経験した人物は、西郷従道のみです (陸軍中将と海軍大将、陸軍卿と海軍大臣を歴任しました)。内閣総理大臣の候補として明治天皇から再三組閣を命じられた際にも、兄・西郷隆盛が逆賊の汚名を受けていたため、従兄の大山巌同様に断り続けたと言われています。
ロシアとの対決を予測して、軍艦建造費以外の予算を集められるだけかき集めて、のちに聯合艦隊の旗艦とる戦艦三笠の建造を強力に推し進めたのはこの西郷従道でした。その意味で、ロシアの脅威から日本を守った日露戦争勝利の影の立役者とでも呼べる人物です。しかし、日露戦争での東郷平八郎率いる聯合艦隊による日本海海戦の大勝利を見ることなく、明治35年(1902年)に胃癌により東京目黒の自邸で死去しました。享年60歳でした。西郷従道の墓は東京都府中市の多磨霊園にあります。
……(その4)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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