2018/04/20

大人の修学旅行2018 in鹿児島(その6)

薩摩義士碑の前を通り過ぎ、定期観光バスは城山を登っていきます。城山は鹿児島市市街地の中心部に位置する標高107メートルの小高い山で、クスの大木やシダ・サンゴ樹など600種以上の温帯・亜熱帯性植物が自生する自然の宝庫です。遊歩道での散策も楽しめ、市民の憩いの場ともなっています。展望台からは雄大な桜島をはじめ錦江湾や鹿児島市街地を一望でき、天気の良い日には遠く霧島や指宿の開聞岳も見えるということなのですが、この日はあいにくの雨。桜島の風景は少しも見えません。展望台にはそういう人のために晴れた日のここから見える風景を写真で展示しているので、それを見ながら、頭の中で、錦江湾越しに見える桜島の雄大な風景をイメージすることにしました。

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この展望台がある場所は、昔の曲輪の跡です。鶴丸城のところでも書きましたが、鶴丸城は天守閣のない城で、背後にあるこの城山自体を山城としていました。城山は鹿児島特有のシラス台地にできた山で、周囲が険しい断崖絶壁で囲まれているため、天然の要塞のようなところでした。西南戦争の時、僅か370名ほどになった西郷軍がこの城山に籠城し、約2万人とも言われた政府軍の猛攻を20日以上も凌いだことからも、この城山がいかに堅牢な要塞であったかが窺えます。城山は西南戦争の最後の激戦地となったため、西郷洞窟や西郷終焉の地など、西南戦争にまつわる史跡が多く存在します。 このため昭和6年(1931年)に国の史跡・天然記念物の指定を受けました。

城山を薩摩義士碑のほうに向かって下っていく途中に西郷洞窟があります。この洞窟は西郷軍と政府軍との城山攻防戦という西南戦争の最終段階において、政府軍の城山包囲網の中、西郷隆盛が明治10年(1877年)9月19日から同24日未明に至る6日間を過ごし、最後まで西郷軍の指揮を執っていた場所として重要な史跡です。現在の洞窟の規模は、奥行きが約4メートル、間口が約3メートル、入口の高さは約2.5メートル。昭和49年(1974年)に鹿児島市の記念物(史跡)に指定されています。

この城山の戦いは西郷軍の372人に対して、政府軍は総勢約5万人だったと言われています。130倍ほどの戦力差です。日本のあらゆる戦史の中でも、これほどの戦力差の戦いは珍しいものです。西郷隆盛ら西郷軍本営は、はじめ城山の頂上付近に陣を置いたのですが、砲撃が激しくなったため、この東側の岩崎谷に横穴を穿ってそこに移動しました。

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西郷隆盛の最期は次のようなものだったと伝わっています。明治10年(1877年)9月24日午前4時、政府軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まりました。この時、残っていた西郷隆盛、桐野利秋、桂久武、村田新八、別府晋介、辺見十郎太ら西郷軍の将士40余名は西郷隆盛が籠もっていたこの洞窟の前に整列し、岩崎谷口に向かって最後の突撃をしていったと言われています。進撃に際して既に怪我を負っていた国分寿介と小倉壮九郎が剣に伏して自刃。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷隆盛も太腿と腹に被弾しました。西郷隆盛は切腹を覚悟して、負傷して山駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて、「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、明治天皇がいらっしゃる遙か東方の皇居に向かって拝礼しました。実は別府晋介はこの城山の激戦の前、八代の萩原堤の戦いで脚に重傷を負っていたために山駕籠で移動していたそうなのですが、西郷のその言葉を聞くと駕籠から降りて、西郷隆盛の遙拝が終わり切腹の用意が整うと、別府晋助は「御免なったもんし!(お許しください!)」と叫ぶや、一刀両断、西郷隆盛を介錯しました。その後別府晋介はその場で切腹しました。西郷の切腹を見守っていた桐野利秋、村田新八らは再び岩崎谷口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、あるいは私学校近くの一塁に籠もって戦死し、全滅しました。銃声が止んだのは午前9時頃だったと言われています。西郷隆盛が自刃した場所には「西郷隆盛終焉の地」の碑が立っています。

ここが私学校跡です。明治6年(1873年)、征韓論に敗れて下野した西郷隆盛は、鹿児島の士族達のため、この地に私学校を創設しました。 西南戦争の際、この私学校の石垣には多くの銃弾が打ち込まれ、今なお激戦の様子を伝えています。

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次に定期観光バスが向かったのは西郷隆盛の墓がある南洲墓地です。

西南戦争は明治10年(1877年)9月24日、政府軍が城山を総攻撃し、西郷隆盛ら西郷軍が全滅して終わりました。この時、鹿児島県令・岩村通俊は、官軍の許可を得て西郷隆盛らの遺体を鹿児島市内の5か所に仮埋葬しています。そのうち、ここ南州墓地には始め、西郷隆盛以下40名が葬られていました。その後、明治12年(1879年)には有志らが224名の遺骨をここに改葬し、明治16年(1883年)には薩摩・大隅・日向・豊後などの各地で戦死した西郷軍兵士の遺骨も集められ、合計2,023人が埋葬される「南洲墓地」(なんしゅうぼち)として整備されました。

整備されるとお墓参りする人々が増加したことから、明治13年(1880年)になって南洲墓地の東隣に参拝所が設けられました。そして、大正11年(1922年)6月28日に南洲神社(なんしゅうじんじゃ)として認定されています。

ちなみに、墓地や神社の名前となっている「南洲」というのは、西郷隆盛の雅号(俗に言うペンネーム)です。西郷隆盛はその生涯の中で10回以上も名前を変えています。そのうち、沖永良部島の流罪中に文筆活動で使用していた雅号(ペンネーム)が「西郷南洲」でした。

『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。
この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。』


これは西郷隆盛が語った言葉をまとめた「西郷南洲遺訓」に出てくる有名な言葉です。「命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬというような人は処理に困るものである。このような手におえない人物でなければ困難を一緒に分かち合い、国家の大きな仕事を大成することは出来ない」…という意味のようです。

無私無欲で知られる西郷隆盛。会う人、会う人が、その人柄に惚れたといいます。西郷隆盛の死体が発見された時、政府軍の総司令官だった山県有朋中将でさえも、「翁(おうい)は、まことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷したのだそうです。西郷隆盛と共に戦った人達は、西郷隆盛に魅せられ、祖国の未来を憂いて立ち上がったのでしょうか…。

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南洲神社の鳥居をくぐると無数のお墓が並んでいます。

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正面真ん中に立っているのが西郷隆盛の墓です。この西郷隆盛の墓には、実際に、本人の首と胴体が埋められているようです。

墓碑銘は川口雪篷(せっぽう)の揮毫によるものです。1862年に西郷隆盛が沖永良部島に流された時、川口雪篷は自らも沖永良部島に渡って、西郷隆盛の書や詩作の指導をしたとされています。

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西郷隆盛の墓の周囲を守るように、西郷軍の幹部達の墓があります。

西郷隆盛の墓の右側には薩摩軍の一番大隊長だった篠原国幹(しのはら くにもと)の墓があります。篠原国幹は鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩の城下三番小隊隊長として参戦。上野における彰義隊との戦いでは、もっとも激戦であった正面の黒門口攻めを担当。明治維新後の新政府では陸軍少将。征韓論で敗れた西郷が下野すると、篠原も職を捨て、後を追って鹿児島に帰りました。帰郷後は、西郷とともに教育業(私学校)に力を注いだのですが、皮肉にもその生徒の暴動を抑えきれなくなり、西南戦争に踏み込むこととなります。西郷軍の一番大隊長として奮戦するも、西南戦争における最大の激戦と言われる田原坂の戦いの戦闘中に銃弾を浴びて戦死。享年41歳でした。

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村田新八の墓です。村田新八は幼少期から家が近所だった西郷隆盛を深く尊敬していたと言われています。幕末期には西郷の懐刀として薩長同盟や戊辰戦争、江戸城無血開城などに奔走したほか、西郷隆盛が島津久光の怒りに触れて島流しにあった時には、西郷と共に流罪になっているほどです。明治新政府では、西郷の推挙によって宮内大丞に任命され、また大久保利通らと共に岩倉使節団の一員として欧米視察に出向いたこともありました。この使節団の薩摩藩出身者は、実は大久保利通と村田新八の2人だけで、大久保は村田のことを高く評価しており、将来自分の片腕になる人物だと期待していたほどの人物でした。

欧米視察に出向いた際、村田新八はパリでは燕尾服を新調し、オペラ座によく通っていたという逸話が残っています。また、武骨なイメージの強い薩摩武士としては珍しく音楽や美術を好み、持ち帰ったアコーディオンは日本でも死ぬまで手放さなかったと言われています。欧米視察からの帰国後、新政府で何が出来るのか村田新八には様々な期待や展望があった事と思われます。しかし兄貴分と慕う西郷隆盛が征韓論に敗れ明治政府を辞職した事で、村田新八の運命も悲劇へと変わっていきます。鹿児島へ戻った西郷に会うために帰郷した村田新八はそのまま西郷に元に留まる事となり、やがて西南戦争へ突入しました。西南戦争では西郷軍の二番大隊長を務め、城山での激戦で西郷隆盛が自決したのを見届けた後、村田新八はさらに進撃を続け、最期は岩崎谷口の塁の中で自決しました。享年42歳でした。

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別府晋介の墓です。別府晋介は桐野利秋の従弟。戊辰戦争では薩摩軍分隊長として東北地方を転戦。白河城攻防戦、棚倉・二本松戦を戦い抜き、会津若松城攻撃でも戦功を上げました。明治維新後は陸軍少佐に昇進しまし、明治5年(1872年)、西郷隆盛の命により朝鮮半島を軍事偵察に出向いたりしたのですが、翌明治6年、征韓論に敗れた西郷に従い職を捨てて下野。鹿児島に戻りました。鹿児島では加治木郷ほか4郷の区長、また私学校の運営にも参画。西南戦争時には西郷軍の六番・七番大隊長として熊本城を攻撃。その後も各郷連合大隊長となり各地を転戦。最後は鹿児島に戻り政府軍と最後の奮戦をし、前述のように城山の総攻撃で負傷した西郷隆盛の介錯を務めた後に岩崎谷口で自刃しました。31歳という若さでした。

この日、死を覚悟した別府晋助は自分の側を離れようとしない部下に「早く逃げろ」と叱った話が伝えられています。また、軍人として明治政府に出仕していた時には、自身の俸給を部下に分け与えたという逸話からも、別府晋助の人柄は公平無私であった事が伺えます。

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西郷隆盛の墓の左側には桐野利秋(きりの としあき)の墓があります。桐野利秋は初め中村半次郎と称していましたが、剣の達人で幕末の京都を震え上がらせた四大人斬りの一人「人斬り半次郎」と呼ばれ、当時の京都ではその名を知らぬ者がいないほどの存在でした(ちなみに、四大人斬りとは薩摩藩の田中新兵衛、肥後藩の河上彦斎、土佐藩の岡田以蔵、そして薩摩藩の中村半兵衛の4人)。京都の街の男達には近寄りがたい恐怖を与えていたものの、女性を妖しい魅力で惹きつけていたと言われています。その後、西郷隆盛の知遇を得て、鳥羽・伏見の戦いや、会津征討で軍功を立てます。特に、会津藩降伏後の開城の式では、官軍を代表して城の受け取りの大役を務めました。

維新後、陸軍少将・陸軍裁判所長等を歴任するのですが、征韓論で敗れた西郷が下野すると、桐野利秋も西郷とともに職を捨てて下野。以後、鹿児島で私学校運営や西郷派士族の教育などに尽力しました。西郷隆盛の用心棒的存在で、西南戦争では西郷軍総指揮者として従軍。西郷隆盛の自刃を見届けた後も、果敢にも城山の岩崎谷口の最前線で残った僅かな軍を鼓舞して奮戦するも、額に銃弾を受け戦死しました。享年39歳でした。妖しい魅力で女性達を惹きつけていたと言われる桐野利秋らしく、この墓石も京都の女性が建てたものだと言われ、また、桐野利秋の誕生日である12月2日には、今でも華やかに薔薇が飾られているのだそうです。

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桐野利秋の墓の隣は永山盛弘の墓です。永山盛弘は戊辰戦争では、小隊の監軍として鳥羽・伏見の戦いに参戦。白河攻防戦、会津若松城への進撃で勇戦しました。明治2年(1869年)に鹿児島常備隊がつくられると大隊の教導となり、明治4年に藩が御親兵を派遣した際には、西郷隆盛に従って上京し、陸軍少佐に任じられました。しかし、ロシアの東方進出を憂えた永山盛弘は、身を以て北方経営に当たらんと考え、志願して北海道開拓使出仕に応じ、北海道に赴きました。明治6年(1873年)、征韓論に敗れた西郷隆盛が下野し、腹心が大挙して職を捨てて鹿児島に帰りましたが、この時、永山盛弘は彼らと行動をともにせず、同年に黒田清隆北海道開拓次官の下で右大臣岩倉具視に提出された屯田兵創設における建白書に、永山武四郎、時任為基、安田定則らとともに連名しています。

しかし、政府が千島樺太交換条約を締結したことに憤激して、職を辞して鹿児島へ帰郷。永山盛弘の考え方は必ずしも私学校党と同じではなく、政府在官者を無能とはせず、大久保利通や川路利良らに対し一定の評価をし、在官者は日々進歩していると説き、私学校党にくみしませんでした。このように、西南戦争の出兵に異を唱えながらも、仲が良かった桐野利秋の熱心な説得でようやく同意。西南戦争に参戦し、西郷軍の三番大隊長を務めました。熊本県御船において奮戦したのですが、敗勢いかんともしがたく戦線は完全に崩壊、ついには四面楚歌という状況に陥り、近くの農家の老婆に数百円を渡して家を買い取って、自ら火を放ち、自刃しました(当時の百円というのは、立派な屋敷を一軒新築できるというほどの大金でした)。享年40歳でした。人柄は温和にして義に富む、将来を嘱望された人物でした。

ちなみに、明治2年(1869年)に創設された北海道開拓使には薩摩出身者が多く、西郷の腹心達が幹部を占めていました。西南戦争勃発直前の明治8年でみると、長官・黒田清隆、中判官・堀基、幹事・調所広丈、安田定則、永山盛弘など幹部26名中、薩摩出身者が11名を数え、北海道開拓使は薩摩閥だといわれたほどでした。

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このほか、南洲墓地には、西南戦争に際し軍資金や兵器、弾薬、食糧を送るなどして西郷隆盛を支援したために処刑された鹿児島県初代県令(県知事)・大山綱良(格之助)の墓や、わずか14歳で戦死した伊知地末吉・池田孝太郎や、遠く西郷を慕って山形県庄内から私学校で学び参戦した伴兼之・榊原政治の2名の墓もあります。さらに、福岡、大分、山梨の各県出身の志士の墓石もあり、西郷隆盛の人望がいかに厚かったのが伺えます。

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それにしても、私に小説を書く才能があるならば、それぞれを主人公にして長編の歴史小説が書けそうな人物ばかりが並んでいます。それを紙面の都合でこんなに短くご紹介せざるを得ないのが本当に申し訳ないくらいです。それにしても、西南戦争では、これだけ有能な人財を薩摩は、いや日本国は失ってしまった訳なんですね。この人達がその後も第一線で活躍していたら、この国はどうなっていたのだろう…と思ってしまいます。

それら多くの有為な人財を失うことになる西南戦争勃発の引き鉄となった征韓論について、ここで手短に触れておきます。

征韓論は、明治の初期、維新政府内部で唱えられた政策のことです。維新政府は成立以来朝鮮国王に日鮮修好を求めたのですが、朝鮮政府(李氏朝鮮)は日本からの外交文書が幕府時代の形式と異なっていることを理由に国交交渉の拒絶を回答してきました。さらに明治6年(1873年)5月、朝鮮が、釜山にあった日本側の滞在用施設の門の前に日本を侮辱した書を掲示したという報告が伝わり、政府内部にはどちらも国辱にかかわるものであるという意見が強まりました。ついには参議の板垣退助らが閣議で、居留民保護を名目に派兵(強行出兵論)を主張。いっぽう、西郷隆盛は、まず自らがその使節として朝鮮に渡り事態の打開を計ることを優先し、その交渉決裂後に出兵すべきだと主張しました。

明治6年(1873年)8月17日に閣議はいったん西郷の主張を受け入れ、西郷派遣を決定したのですが、同9月13日欧米視察から急遽帰国した岩倉具視、大久保利通らは内政優先などを理由に強硬に反対。閣内対立は決定的なものとなりました。両派対立の間に立って三条実美は病に倒れ、同10月24日、太政大臣代行についていた岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり、先の閣議決定は無期延期され、同日西郷隆盛が参議、近衛都督職を辞任。続いて翌25日、板垣退助(参議)、副島種臣(参議・外務卿)、後藤象二郎(参議)、江藤新平(参議・司法卿)が相次いで職を辞して下野。その後の佐賀の乱、西南戦争、国会開設運動、自由民権運動にいたる明治時代前期の政治を左右する様々な出来事の発端となりました。

世界中どこの国でも同じようなところがありますが、どうもお隣の国が絡むとややこしいことになるようです。外交は内政の延長。またその逆もあり…ということですね。

墓地の入り口に立つ常夜灯は、西郷隆盛と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸(東京)の街が戦火を免れたことへの感謝の印として、昭和14年(1939年)、当時の東京市によって建立されたものです。うっかりして見逃してしまいましたが、その常夜灯の傍らには勝海舟の歌碑も立っているのだそうです。

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その歌碑には次のような歌が刻まれているのだそうです。

 『ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな』 勝海舟

西郷隆盛を慕って集まった私学校の生徒達が暴発して始まった西南戦争。それに担がれ、身を任せるようにして、逝ってしまった西郷隆盛。この歌は、幕末以来西郷隆盛と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。この勝海舟の歌には、激動の時代を共に生きた西郷隆盛の死を惜しむ心情や寂しさが感じとられるようです。そして、そこに西郷隆盛という人物の大きさも感じられます。

ちなみに、勝海舟は西郷隆盛が西南戦争に敗れ非業の死を遂げた報に接して、次のように述べたと言われています。

「西郷さん、あたし(私)はあの日(江戸城開城の会見をした時)から、いずれあんたがこうなるのは判っていましたよ。あんたは人に好かれ過ぎましたね。もうちょっと、あたし(私)は生きます。亡国免罪の臣、勝海舟としてね。憎まれっ子は長生きするものです。」

この勝海舟の言葉、非常に興味深い西郷隆盛の人物評です。東京の上野公園にある西郷隆盛のイメージからしてもこのイメージを忠実に再現しているように思います。親しみやすいが隙だらけ。足元をすくわれるのも無理からぬことだったようです。

また、南洲墓地には、西南戦争直後、官軍の許可を得て西郷隆盛らの遺体を鹿児島市内の5か所に仮埋葬した当時の鹿児島県令・岩村通俊の記念碑も建っています。岩村通俊は土佐藩士。戊辰戦争の時には軍監として従軍し、越後に転戦しました。維新後は新政府に仕え、明治10年(1877年)5月、鹿児島県令(県知事)となり西南戦争の処理に努めました。城山の戦いで西南戦争が終わると、旧浄光明寺(現在の南洲墓地)に送られた西郷隆盛・桐野利秋以下西郷軍の戦死者の遺体をていねいに埋葬しました。そして自ら戦死者の墓碑を書いて建てました。岩村県令は「西郷隆盛らの考えは、後の世に必ずわかってもらえる」と信じ、政府への気兼ねや世間の煩わしい噂をしりぞけたといわれています。岩村通俊は、のちに北海道長官や農務大臣になりました。


……(その7)に続きます。