我が国初の暴風警報明治16年5月26日
我が国初の暴風警報の発表
明治16年(1883年)5月26日に内務省地理局気象台は、我が国初の暴風警報を発表した。 その発表に用いた地上天気図(26日6時)を示す。当時の観測所の数は全国で22か所であり、各地の観測資料は、1日3回8時間毎に電報により東京気象台に報告していた。
四国沖に解析された低気圧の中心気圧は745mmHg(水銀柱の高さ)で、現在の表記方法に変えると993㍱に当たる。高知では8時間に12㍱の気圧の下がりを観測しており、低気圧が急速に発達していることが判る。
なお、この天気図上には解析されていないが、等圧線の形状から、日本海にも低気圧があって、いわゆる二つ玉低気圧が通過中であったと推察できる。まさに春の嵐であって、 四国から東海にかけて雨が降っており、高知では前24時間に102mmの大雨であった。
この天気図には「摘要」として、気象概況が記述されている。天気図解析と警報発表を行ったE.Knippingによる英文とそれを翻訳した和文が併記されている。ここには和文の部分のみ示すが、このなかには、各地の気圧の時間変化についても触れており、大きな気圧の下がりから低気圧の発達を見て暴風警報の発表に至ったものであろうと推測される。
発表された警報は、電報によって各地に伝えられ、港湾や船舶の関係者は、退避行動をとったと伝えられている。
131年を経た現在では、世界中の国々からの観測資料や様々な観測手段によって得られる膨大な資料を用いて気象の予測を行っており、低気圧の発達や台風の接近を確実に捉えられるようになり、2、3日前から暴風や大雨に関する警戒の呼びかけができるようになりました。 気象に関わるものとしては、膨大な観測資料を使える時代になっても、この当時のわずかな観測資料を使いこなしていた点を学びたいものである。
(注) E.Knipping : ドイツ人。日本に暴風警報の制度を実施する必要性を建白し、その実現に関わった。気象観測、気象電報、天気図様式などを決めたといわれている。当時の天気図には、毎日彼のサインが入っており、年中休みなしに天気図を解析し情報作成していたようだ。全ての日をチェックしたわけではないが、1888年3月21日まで5年近く続いていた。写真は測候時報第5巻9号に掲載された「初期の日本気象業務史」から。
明治16年(1883年)5月26日に内務省地理局気象台は、我が国初の暴風警報を発表した。 その発表に用いた地上天気図(26日6時)を示す。当時の観測所の数は全国で22か所であり、各地の観測資料は、1日3回8時間毎に電報により東京気象台に報告していた。
四国沖に解析された低気圧の中心気圧は745mmHg(水銀柱の高さ)で、現在の表記方法に変えると993㍱に当たる。高知では8時間に12㍱の気圧の下がりを観測しており、低気圧が急速に発達していることが判る。
なお、この天気図上には解析されていないが、等圧線の形状から、日本海にも低気圧があって、いわゆる二つ玉低気圧が通過中であったと推察できる。まさに春の嵐であって、 四国から東海にかけて雨が降っており、高知では前24時間に102mmの大雨であった。
この天気図には「摘要」として、気象概況が記述されている。天気図解析と警報発表を行ったE.Knippingによる英文とそれを翻訳した和文が併記されている。ここには和文の部分のみ示すが、このなかには、各地の気圧の時間変化についても触れており、大きな気圧の下がりから低気圧の発達を見て暴風警報の発表に至ったものであろうと推測される。
発表された警報は、電報によって各地に伝えられ、港湾や船舶の関係者は、退避行動をとったと伝えられている。
131年を経た現在では、世界中の国々からの観測資料や様々な観測手段によって得られる膨大な資料を用いて気象の予測を行っており、低気圧の発達や台風の接近を確実に捉えられるようになり、2、3日前から暴風や大雨に関する警戒の呼びかけができるようになりました。 気象に関わるものとしては、膨大な観測資料を使える時代になっても、この当時のわずかな観測資料を使いこなしていた点を学びたいものである。
(注) E.Knipping : ドイツ人。日本に暴風警報の制度を実施する必要性を建白し、その実現に関わった。気象観測、気象電報、天気図様式などを決めたといわれている。当時の天気図には、毎日彼のサインが入っており、年中休みなしに天気図を解析し情報作成していたようだ。全ての日をチェックしたわけではないが、1888年3月21日まで5年近く続いていた。写真は測候時報第5巻9号に掲載された「初期の日本気象業務史」から。
執筆者
気象庁OB
市澤成介