2014/09/08
四国遷都説(衝撃の予備調査編)
8月(盆法要とは別の日)に四国松山に帰省した折、87歳の父と85歳の母を連れて、レンタカーを借りて愛媛県今治市朝倉の地へ先祖の墓参りに行ってきました。そこで、とうとう見つけてしまいました。な、な、なんだ、これは!!(@_@)… もしこ れが本当なら、これこそが「四国遷都説」!!。かつて四国朝廷なるものがあって、その中心地が今治市朝倉だった…っていう証拠の一端を!!(^^)d
鍵を握っていたのは、やはり我が家の菩提寺、無量寺さん、そして斉明天皇でした。
で、そのことを私より先に発見して、既にWebで情報発信していた方々がいらっしゃいました。その方々に敬意を表して、ご紹介します。
古田史学会報78号2007年2月10日
私が今回知ったことは、ほとんどここに書いておられるとおりのことです。
ちなみに、この資料に書かれている(三)の朝倉の太之原地区というところが私の本籍地、すなわち私の先祖が代々住んでいたところであり、太之原才明(斉明から転じたもの)地区って、我が家の本家から直線でほんの200メートルほどのところ、すなわちすぐ隣の集落です(ちなみに、我が家は才明地区より一段高いところに位置しているので、太之原上(かみ)地区と言うらしいです)。斉明天皇行在所跡とされる伏原正八幡神社は、その才明地区のすぐ奥に、才明の集落の家々に“周囲を守られるようにして”ひっそりと建っています。(周辺には随分と土地はあるのに、そこだけ集落にグルッと囲まれて神社が建っているというのは、どう考えても変)
http://japan.postecode.com/division.php?code=Ochi-gun++Asakura-mura
(今回の予備調査では私はほとんど写真を撮影していないのですが、ネットで検索すると、この伏原正八幡宮を撮影している方がいらっしゃったので、ご紹介します。)
この伏原正八幡神社は太之原上にある我が家の本家からは直線距離で250メートルも離れていないところにあって、私が子供の頃には夏休みに蝉採りに行っていた神社です。私も子供の頃から単純に「八幡神社」って呼んでいましたが、1300年以上昔にあそこに斉明天皇がお暮らしになっていたかもしれないところだとすると、驚きです(@_@)。そう言えば、こんなド田舎に建っているにしては、歴史を感じさせる妙に立派な構えの神社です。子供の頃、この八幡神社で、立ちションベンしたことがあったかどうかは覚えていませんが、もししておったら、斉明天皇から、コラァ!!って叱られるところでした。していない…という自信は、正直ありません(^^; 実は、恥ずかしながら、この話を聞いた時、一番最初に 私の脳裏に浮かんだことがこれでした(笑)
才明地区も太之原上地区も人家はさほど多くはなく、どちらも10軒ほどしかありません(ほとんどの家の苗字は越智です)。よくよく考えてみると、才明地区はあたかも伏原正八幡神社を守護するかのように人家が密集しているというのも変と言えば変。すぐ隣の太之原上地区は人家と人家の間がかなり開いていますから。
資料には「太之原の小高い塚の上に宝塔が二基ある」と書かれていますが、“太之原の小高い塚”と言えば、太之原上地区のことに違いありません。これを読んだあとから父や本家を継いでいる従兄に聞いてみても、確かに宝塔らしきものがあるにはあるが、謂れはまったく知らないとのことでした。大事に祀っていると書かれていますが、現在その地域に住む人達にとっては極々日常の中に組み込まれてしまっていて、自然と“地域の守り神”として大事にしてきている…という感じです。まぁ~、そういうものかもしれません。
そして、(四)に書かれている無量寺こそ、我が家の先祖代々の菩提寺。その無量寺には確かに伝わっていました、不思議な古文書が…(@_@) 今回は、無量寺の若い住職からその不思議な古文書の存 在を確認することができました。今度、それを見せてもらうことも依頼しておきました。それも先代の住職の解説付きで(^^)d
また、その名も天皇橋というズバリの名称の橋はありますし、なんとなんと天皇という名称の地区だってありました。狭い村にしては寺や神社の数が妙に多いのも不思議と言えば不思議。それも、こんな田舎には似つかわしくないような歴史を感じさせる立派な構えの神社や寺ばかりが妙に多いんです。
昔、宮殿が置かれていたという古谷(こや)という地名のところもあるし、次に宮殿が置かれた新谷(にいや)という地名のところもあります。どちらも“谷”という字が付いてはいますが、たいして大きな川が流れているわけでもありませんし、地形が谷の形にもなっているわけでもありません。古谷、新谷…と瀬戸内海に近づくように高いところから下っていき、国分寺がある(かつて伊予の国の国府が置かれていた)ところは、朝倉から一山越えた向こうの瀬戸内海に面した今治市桜井。
ちなみに、その桜井の隣町は富田。その両町にあるJR四国の予讃線の駅名は伊予桜井と伊予富田ですので、地図で確認していただけると、その位置関係はお分かりいただけると思います。桜井も富田も奈良県の飛鳥地方にある地名と一緒。その他にも(温泉もないのに)湯の口など、妙に謂れのありそうな地名の場所が幾つもあります。しかも、それらはどの市販の地図にも載ってなくて、単なる地元での通り名や屋号のようなものになっています。やっぱりフィールドワークは必要です(^^)d
さらに、熟田津(にきたつ)伝説。今でこそ朝倉に温泉は湧き出してはいませんが、隣の玉川(旧越智郡玉川町)には鈍川温泉という温泉が湧いていて、温泉旅館もあります(道後温泉ほど湯量が豊富ではないので、あまり知られてはいませんが…)。さらに桜井には湯ノ浦温泉がありますし、なんと言っても昔から蒸し風呂(サウナのようなもの)「石風呂」があります。日本書紀には「斉明天皇が伊予の熟田津の石湯行宮を行った」という表現が残っているのですが、道後温泉には石湯はなく、これって桜井の「石風呂」のことではないでしょうか?
ですから、この資料に書かれている『熟田津=今治説』をまんざら否定することもできません。
となると、万葉集に掲載されている額田王女の和歌「熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の“潮”とは、来島海峡の速い潮の流れのことではないか…と考えられます。来島海峡は穏やかな瀬戸内海の中でも一、二を争う潮の流れが速いところとして有名で、1日2回、満潮と干潮のたびに東から西へ、西から東へとその速い潮の流れが変わるので、今では潮の流れの方向を示すデッカイ信号機(潮流表示器)が海峡の東西の入り口に設置されているほどです。ここなら「潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(潮の具合もいいので、さぁ、漕ぎだそう!)」というのも、分かります。
松山市の方々には大変申し訳ありませんが、同じ瀬戸内海でも松山市の沖の伊予灘(斎灘)は潮待ち風待ちをせねばならぬほど、流れが速いというところではありません。灘の文字が似合うほど、目の前には穏やかな海が広がっていて、額田王女の和歌とは少しイメージが異なります。『熟田津=今治説』のほうがはるかに説得力があります。しかも、日本地図をご覧いただくとお分かりいただけると思いますが、関西方面から九州、それも関門海峡を目指そうとすると、瀬戸内海に突き出た高縄半島の先端部の近い今治を出港してからまっすぐ一気に関門海峡を目指すほうがよっぽど速いし、経済的だしで、わざわざ遠回りして松山市の道後に立ち寄ることは考えにくいのですが…。
ちなみに、松山市では熟田津がどこの港だったか未だ特定することができず、三津、和気、堀江等で我こそが熟田津という論争が続いているようですが、どうも根拠のない不毛の論争のような気がしています。かつて伊予の国の国府が置かれていたという今治の桜井には、国府が置かれていたすぐ近くに“唐子浜”という海岸があります。20年ほど前まで唐子浜パークと呼ばれる海水浴場があったところとして地元ではそれなりに有名なところです。気になったのが、その名称。その名称から推察するに、この“唐子浜”こそが唐との貿易港、もしかしたら遣唐使を乗せた船も出港した港なのではないか…という仮説を立てることができると思います。
現在の今治港の場所では来島海峡に近すぎて潮の流れが速すぎます。いっぽう、この唐子浜あたりは海水浴場があったくらいで、潮の流れはさほど速くありません。エンジンも付いていない木造で小型の1300年以上も昔の船だと、潮の流れが速いところに停泊することは不可能で、この唐子浜のように潮の流れが穏やかなところにしか港は作れません。海水浴場はあっても、遠浅の海岸というわけでもありませんし。また、このあたりの島嶼部はかつては伊予水軍(河野水軍、村上水軍)と呼ばれる水軍の根拠地で、腕の立つ船乗り達がいっぱいいた筈ですから。まぁ~、遣唐使の船が出港したかどうかは分かりませんが、伊予の国の国府が置かれていた場所のすぐ前の海に“唐子浜”…。妙に気になる地名です。
でも、上記のような話は、父からも伯父達からも親戚の誰からも、これまで聞いたことはいっさいありませんでした。そこに住んでいる人達に伝承が残っていないのなら、その伝承を発掘するだけのことです。ここでその伝承に気づいた人間が発掘をしないと完全に埋れてしまう…、そんな危機感を持ってしまいました。住んだことはなくても、ここは私の本籍地、私にとっては先祖代々住んでいた土地です。気づいた人間がそういう立場の人間ならば、なおのことです。子孫として先祖のことを発掘する責任がある…との思いです。まぁ、我が家は無量寺の檀家だし、父や従兄もいるので、断然調べやすいポジションにいますからね。
私が仮説を説明して父に協力を求めても、父は「突然、何事だ!? そんなお伽話のようなことを言い出して」って呆れたように言っていますが、無理からんことです。1300年以上も昔のことなのですから。父はまだまだ元気ではありますが、現在87歳。時間はさほど残っておりません。急がねば…。
今回は墓参りがてらの予備調査みたいなもので、今治市内の病院や介護施設に入院中の2人の伯母の見舞いもありましたので、朝倉滞在はほんの1時間程度でしたが、そんな短い滞在時間の中でも明確な仮説をもって現地の風景を見、地元の人から話を聞くと、いろいろなことがわかってきました。地域の名称や人口の割には妙に多い由緒正しそうな立派な神社や寺院の多さ、そこに住む誰もが当たり前のように思ってきたことにも、いっぱい疑問が湧いてきますし、また、その疑問に対してある仮説をもって眺めてみると、腑に落ちるところがいっぱいあります。
今から1400年近く前に四国遷都があった!、それも私の本籍地、愛媛県今治市朝倉に。そう思って改めて朝倉の風景を眺めてみると、なんとなくそんな感じがしてくるところです、ここは。これまでただのド田舎だとばかり思っていましたが、やっぱ、ここにはなにかがあります。私の『四国遷都説』、確信に近いものに変わってきています(^^)d
そして、我が家の越智という摩訶不思議な苗字の謎も、斉明天皇による『四国遷都』に関係がありそうだということが、漠然とではありますが分かってきましたし。
今年2月に高速道路工事中の土の中から天然由来の水銀が見つかったという新聞記事を見つけて、そこから自分の本籍地である愛媛県今治市朝倉に興味を持って調べ始めたのですが、とうとうここまで行き着いてしまいました。今までのところ、この私の『四国遷都説』を否定するようなものは発見されていません。こりゃあ、断然面白くなってきました(^-^)v
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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