2014/10/24

天皇の仏教信仰(その1)

『空海は、すごい』に続いて、『天皇の仏教信仰 ~仏にすがった“アマテラスの子孫”たち~』(藤巻一保著、学研)なる本を読みました。

気候変動、異常気象を軸に、日本の歴史をこの『天皇の仏教信仰』という観点から眺めて、私なりにまとめてみました。相変わらずのダラダラとした長文で、しかも4回の連載物です。よろしかったらお付き合いください。

天皇の仏教信仰

『天皇の仏教信仰 ~仏にすがった“アマテラスの子孫”たち~』の著者の藤巻一保さんは1952年、北海道の生まれ。宗教を軸とした思想文化を主要テーマに、特に中世以降の密教と習合神道を母胎とした神秘思想、近代の秘教的思潮を広範に掘り起こし、再検証する研究書を多数執筆しています。『日本呪教全書』、『安倍晴明』、『真言立川流』、『日本秘教全書』、『天皇の秘教』、『戦国の呪法』、『古事記外伝』、『性愛の仏教史』、『密教 印のすべて』、『占いの宇宙史』など、多くの著作があるようです。(要するに高名な方のようですが、ちょっと得体の知れない方のようです。)

天皇=神道というのが現代の日本人の「常識」になっているようなところがありますが、江戸時代までは即位礼を含めた主要な宮中行事はすべて仏教を軸に営まれ、歴代の天皇は誰もが熱心な仏教徒だったということをこの本は書いています。

奈良以前から幕末にいたるまで、歴代の天皇は熱心な仏教信仰者であり、仏教の最大のパトロンだったのです。

分かりやすい例が“法皇”や“上皇”です。日本史の教科書にも後白河法皇や後鳥羽上皇などのお名前が登場し、“法皇”や“上皇”という称号があったということは広く知られていますが、これは落飾(出家)して仏教徒になることを意味し、自ら阿闍梨(あじゃり:仏教の教えを教授する師匠や僧侶のこと)となって瞑想や護摩法を行うという意味です。

このように、本書は「仏教徒としての天皇」に着目し、世界に他に類を見ない君主・天皇の信仰世界を明らかにした本です。この本を読み進むにつれて、一般的には天皇および皇統は自らの出自である日本の神(特に天照大神)ひとすじに古来より仕えてきたのだと思われがちですが、どうもそうではなかったのだということが、分かってきました。考えてみたら、このことは日本の歴史上最大の謎のように思えます。

“葦原(あしはら)の中つ国”、すなわち日本には、天孫降臨(天照大神の孫“ニニギ命(ににぎのみこと)”の降臨)以前から八百万(やおよろず)の神々が棲んでいたと言われています。日本書紀には、日本を指して「彼の地には、多(さわ)に蛍火(ほたるび)の光(かがや)く神、また蠅声(さばえな)す邪(あや)しき神あり。また草木ことごとくに能(よ)く言語(ものい)ふことあり」とあります。すなわち、火山、森や草木、動物など、自然そのものが神だったわけです。

その意味で、元々は天照大神中心の信仰が神道ではないというわけです。そういう意味で天孫降臨から始まる「紀記神話による神道」の成立は、古代の宗教改革であったとも言えます。

さらに、仏教伝来前の日本人の信仰は、「神を崇める」と諡(おくりな)された崇神天皇の伝記に見ることができます。崇神天皇は天照大神と倭(やまと)大国魂神を八十万群神(八百万神:やおよろずのかみ)と並列に祀りました。また、三輪山を神体とする“国つ神”の代表でとして、その三輪山を祟(たた)る神、『大物主神』を丁重に祀っています。さらには大和の東西の境の神である『墨坂神』と『大坂神』も祀っています。このように日本の神とは元々は自然や土地の神々であり、祀らなければ祟る神であったわけです。

このように八百万の神々をはじめ伝統的な神を祀っていた日本の天皇家にとって、異国の宗教である仏教を受け入れることは、自殺行為のように思えるのですが、それにもかかわらず、なぜ仏教は、日本では、上から下へと、権力者が推奨する中で一気に普及していったのでしょうか。調べてみると、そこにはどうもある気候的背景があったように思えます。

田家康さんの『気候で読み解く日本の歴史』を読んで以来、私は気象情報会社に勤めているということもありますが、どうしても日本の歴史を気候変動と重ね合わせて眺める傾向にあります。人間社会が劇的な変化を遂げる時は、人間の力ではどうすることもできない自然の圧倒的な破壊力を前にしてどうしようもない絶望感に苛まれた時に違いないと思えるからです。人は自分達の力や知恵ではどうしようもない事態に直面した時に神仏に頼ろうとする気持ちが働き、それが宗教の盛衰と直結するのだと思っています。

反対に祟り(たたり)もそうです。圧倒的破壊力を持つ自然の脅威が襲ってきた時、それは為世者の信心が足りないせいだとか、なにか善からぬことをやった祟りだと因果を追求するようなところがあって、それでまた新たな宗派が起きたりしているわけです。天皇が崩御したわけではないのに新しい天皇が即位したり、年号が代わったりする時は、たいてい自然災害と直結しています。宗教だけでなく、日本や世界の歴史を自然災害や気候変動と結びつけてみると、かなり分かりやすくなります(^^)d

日本に仏教が公式に伝来したのは、『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』によると、欽明天皇の戊午の年(西暦538年)ではないか…と言われています。『日本書紀』は仏教伝来の年を欽明13年壬申(552年)としていますが、いずれにせよ、そのあたりの時期です。その背景としては、日本に援軍の派遣を依頼した百済の聖明王がその対価として仏像と経文を献じたということがあったようです。日本は、これに報いるために、554年、千人規模の援軍を百済に派遣したということが『日本書紀』に書かれています。

その後、仏教は、日本社会の上から下へと瞬く間に普及しました。6世紀後半頃からは朝廷の上級豪族達が競って寺を造り始め、7世紀になると、朝廷の下級豪族達までがこぞって一族の寺を造るようになりました。多くの歴史家は、こうした仏教の日本への伝来と普及をさも当然のように扱っていますが、よく考えてみると、天皇は世俗的権力者であっただけでなく、宗教的権力者でもあったわけで、なぜ当時の朝廷が、伝統的な神道と本来は対立するはずの仏教という外来の哲学を受け入れたのかは大きな謎の残るところです。例えば、キリスト教は、封建道徳に反するという理由で、江戸時代に弾圧されました。同様に、当時は仏教も拒否されて当然だったのではないでしょうか。