2016/08/26
大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭 (その10)
この日の山鉾巡行の行列の一番最後の23番目は船鉾です。「日本書紀」の神功皇后の新羅出船に因んでいるのだそうで、なかなか勇壮です。ちなみに、7月24日に行われる後祭の山鉾巡行の一番最後(すなわち、祇園祭の山鉾巡行全体の一番最後)を飾るのはこの船鉾より一回り規模の大きい大船鉾。前祭の船鉾が出陣船鉾と称されるのに対し、凱旋船鉾といわれています。この大船鉾は幕末の元治元年(1864年)に起きた蛤御門の変により一部を残して焼失。平成24年(2012年)に再興され、平成26年(2014年)に150年ぶりに巡行に復帰しました。
祇園祭という祭礼の名称は、日本土着の神道と大陸から伝来してきた仏教が混淆した神仏習合の時代に、八坂神社が比叡山に属して「祇園社」と呼ばれていたことに由来します。祇園社の祭神の牛頭天王(ごずてんおう)が仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会(ごりょうえ)となったのだそうです。
平家物語の冒頭で、「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり」という文章があります。この祇園精舎とは、インドに実際にある寺院のことで、正式には祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎったどくおんしょうじゃ)といいます。現在も歴史公園として遺されているこの場所は、前述のように釈迦の生誕地であるとされ、北インドの仏教徒にとっては聖地になっています。で、繰り返しになりますが、その祇園精舎の守り神とされているのが牛頭天王です。牛頭天王は、日本に伝来された後、神道と仏教が歴史の中で混交していく神仏習合の流れの中で、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一視されるようになりました。つまり、八坂神社に祀られているのは牛頭天王=素戔嗚尊(スサノオノミコト)ということになるのです。牛頭天王=素戔嗚尊(スサノオノミコト)は疫病を司る神とされ、非常に強大な力を持つと信じられていたので、これを鎮めるために山鉾や花笠で市中を練り歩き、退散を願うようになったのが祇園祭の発祥だと言われているのです。
その一方で、祇園祭は古代イスラエル(ユダヤ)の『シオン祭り』がルーツであるという説があります。『祇園(ギオン)祭』と『シオン祭り』、名称も似ていますし、どちらも疫病を払うことを目的としたもので、7月1日から約1ケ月間に渡って祭りは続き、ノアの箱舟がアララト山に漂着したと言われる7月17日にクライマックスを迎えるという共通点もあります。これらの共通点から、祇園祭もシルクロードの果てからユーラシア大陸を経て朝鮮半島(新羅)経由でやってきた最強の渡来人で、実質的に日本という国を作り上げたとされる秦氏(古代イスラエル人?)が、古代イスラエル(ユダヤ)の文化を日本に伝えたものの1つではないかと考えられるというわけです。その説によると、平安京を作り遷都したのは桓武天皇ですが、その技術や資金の大半は全て秦氏が拠出したものであるとされ、祇園祭を主催する八坂神社を作ったのも秦氏ということのようです。というか、日本の神社は八坂神社に限らず、すべて秦氏によって作られたものだとも言われています。
日本書紀によると、秦氏は3世紀の末に京都府の宮津の海岸に渡来したとあります。おそらく中国を最初に統一した秦の始皇帝の末裔にあたる一族が、秦が滅んだ数百年後に、陸路から日本に渡来したのが秦氏だとも考えられています。その秦の始皇帝は金髪で青い目をしていたという説もあります。だとしたら、秦氏は古代イスラエル人(ユダヤ人)であるとも考えられます。
京都市右京区に太秦(うずまさ)という地名があります。太秦はかつては多くの映画会社が時代劇映画の撮影所を置いていたことで知られていますが、木嶋坐天照御魂神社などの神社や、広隆寺、蛇塚古墳などの前方後円墳があることでも知られています。この広隆寺は秦氏の氏寺であり、国宝の木造弥勒菩薩半跏像を安置した京都最古の寺です。「太秦」という地名の由来には諸説ありますが、5世紀の第21代雄略天皇の御世、渡来系の豪族秦氏が、絹を「うず高く積んだ」ことから、「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに秦氏の本拠地であるという意味で「太秦」の漢字表記を当てたという説が有力です。とすると、渡来人の秦氏は西暦794年に平安京が建設されて遷都される以前からこの地に住んでいたと考えられます。また、「平安京」という都の名称も極めて意味深です。平安京を文字通りに読むと、「平安の都」。いっぽう、現在のイスラエルの首都エルサレムも「イール・シャローム=神の平安」というほぼ同じ意味の名称です。
ちなみに、渡来人ということで言うと、5世紀から6世紀にかけて権勢を誇った物部氏も海から渡来してきた渡来人だと言われています。この物部氏は秦の始皇帝に仕えていた徐福とともに紀元前3世紀に海(南方)から渡来してきた渡来人で、日本に弥生文化の種を蒔いたと考えられています。この物部氏は後に陸のシルクロードから渡来してきた同じ民族の秦氏に徐々に統合されていき、天皇家も秦氏が統合して守る方向になったのだと思われています。
山鉾においても、謎がいっぱい隠されています。函谷鉾を飾る装飾品のタペストリーには旧約聖書の一場面が描かれていますし、その他にもピラミッドやラクダ、イラクのバグダッド宮殿等の絵が大きく描かれていているタペストリーや絨毯を飾った鉾もあります。おそらく、巡行の最期を飾る船鉾は「ノアの方舟」ということなのかもしれません。これらをいったいどのように捉えればいいか…ということですが、ネットで「祇園祭 ユダヤ」で検索すると、この関連のことがいっぱい引っ掛かってきます。その中でもあるYouTubeの動画サイトで、祇園祭山鉾連合会の理事長が、インタビューで祇園祭と古代イスラエル(ユダヤ)との繋がりを認めているシーンが紹介されています。随分と昔のことなので何が本当のことなのか分かりませんが、一つの仮説としては浪漫がありますし、非常に面白いと私は思っています。
話が脱線しちゃいました。話を『大人のお泊まり遠足』のほうに戻します。
まだ新町御池の交差点での方向転換を待つ山鉾の行列が残っていたのですが、帰りの新幹線の時刻も迫ってきたので、後ろ髪を引かれる思いでその場を去り、烏丸御池駅から地下鉄烏丸線に乗って、JR京都駅に向かいました。
昼食はJR京都駅前の新阪急ホテルB1にある京懐石料理の「美濃吉 京都新阪急ホテル店」で、鰻(うなぎ)寿司をメインにした懐石コースをいただきました。この「美濃吉 京都新阪急ホテル店」は6年前の第1回『大人の修学旅行』でも2日目の昼食に使わせていただいたのですが、京都駅から近く、前回も非常に好評だったので、今回もオネエは2日目の昼食会場としてここを選んだのだそうです。
京懐石「美濃吉」公式HP
ちょうど土用の丑の日も近く、鰻(うなぎ)寿司は旬でした。この鰻(うなぎ)寿司は美濃吉さんの名物で、お土産に買って帰る人も続出していました。東京の新宿や池袋、横浜市やさいたま市大宮区にも支店があるようですので、あまりに美味しかったので、今度そちらを訪れてみようと思います。
15時、楽しかった今回の『大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭』で予定されたすべての旅程を終え、めいめいJR京都駅から新幹線、在来線、高速バスに分かれ、自宅に帰って行きました。別れ際は来年3月に開催を予定している『大人の修学旅行2017』での再会を約束して、握手とハイタッチ。来年の『大人の修学旅行2017』は私達関東在住組が幹事の番なので、「期待しているからね」って声をみんなからかけられました。
「はいよ!、代表幹事のマサヤがメチャメチャ張り切っているから、期待しててね。マサヤから、さっそく来週の土曜日に開催予定地のロケハン(現地下見)に行こうと誘われてるから、まずは行ってくるね」
今回の『大人のお泊まり遠足2016』は平安京でしたが、来年の『大人の修学旅行2017』は時代が1つ繰り下がって「鎌倉幕府」です!
それにしても、今回の『大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭』は素晴らしかったです。人数限定の豪華版ではありましたが、これぞ『大人の修学旅行』!‥‥って感じで、どこにも非の打ちどころがない完璧な旅行でした。「行けそうで、なかなか行けないところに行く」、また「経験できそうで、なかなか経験できないことを経験する」‥‥まさに『大人の修学旅行』のコンセプトを余すところなく実現しています。私に限らず、参加した全員が大満足した様子です。
国連の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されている『古都京都の文化財』の中から宇治の平等院と醍醐寺の2つを訪ね、さらに同じくユネスコの世界無形文化遺産に登録されている『京都祇園祭の山鉾巡行』を観る。食べるほうも抹茶懐石に鴨川の川床料理、そして旬の鰻(うなぎ)寿司を味わう。もう夏の京都を根こそぎ満喫したぁ〜って感じです。しかも、これだけ盛りだくさんであるにもかかわらず、決して急かされた‥って感じではなく、十分に余裕を持った旅程でしたし。この時期の1泊2日の京都旅行で、これ以上の旅程の企画は考えられません。それでいて参加費用は私が当初予想したよりも遥かに安いリーズナブルなものでした。
幹事の2人、特に京都在住のオネエには感謝感謝です。オネエなくしてこの企画はありませんでした。泊まるところや食べるところに対して相当無理な交渉をしていただいたのではないか‥‥と想像しています。この『大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭』をやったことで、オネエが関係した様々なお店からしばらく出禁(出入り禁止)を喰らわないか心配しているほどです。繰り返しになりますが、感謝感謝です。
今回の旅行でも私の“晴れ男”のレジェンドは健在でした。まだ梅雨は明けておらず、この2日間、不安定な大気の状態が続いていましたが、なんとか傘を使わなくて済みました。もっとも、私は自分のレジェンドを信じて、折り畳みの傘を携行していなかったのですが…。この日の京都は私がさいたま市に戻った18時以降、少しまとまった雨が降りました。帰りの新幹線で、オネエから「エッチャン、素戔嗚尊(スサノオノミコト)はんに勝ったね!」というメールが入りました。四国の丸亀に戻ったノリコさんからも「レジェンド再降臨! さすが!」というメールをいただきました。ええ、大勝利です! でも、これだけ“晴れ男”の運が続くと、自分でも正直怖くなってきます(笑)
家族への京都のお土産は、オネエお薦めの「抹茶ラングドシャ」と、孫娘が喜びそうな生八つ橋の「こたべ(おたべの小さいサイズ版)」です。東へ向かう東海道新幹線の車内で、“エッチャン”からいつもの“ジイジ”にすっかりモードチェンジしちゃいました。
【追記】
京都新聞社さんのサイトに「山鉾巡行」の後に行われる「神幸祭」の様子が動画で掲載されています。是非、この「神幸祭」の様子もお楽しみ下さい。
【神幸祭】
――――――――〔完結〕――――――――
祇園祭という祭礼の名称は、日本土着の神道と大陸から伝来してきた仏教が混淆した神仏習合の時代に、八坂神社が比叡山に属して「祇園社」と呼ばれていたことに由来します。祇園社の祭神の牛頭天王(ごずてんおう)が仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会(ごりょうえ)となったのだそうです。
平家物語の冒頭で、「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり」という文章があります。この祇園精舎とは、インドに実際にある寺院のことで、正式には祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎったどくおんしょうじゃ)といいます。現在も歴史公園として遺されているこの場所は、前述のように釈迦の生誕地であるとされ、北インドの仏教徒にとっては聖地になっています。で、繰り返しになりますが、その祇園精舎の守り神とされているのが牛頭天王です。牛頭天王は、日本に伝来された後、神道と仏教が歴史の中で混交していく神仏習合の流れの中で、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一視されるようになりました。つまり、八坂神社に祀られているのは牛頭天王=素戔嗚尊(スサノオノミコト)ということになるのです。牛頭天王=素戔嗚尊(スサノオノミコト)は疫病を司る神とされ、非常に強大な力を持つと信じられていたので、これを鎮めるために山鉾や花笠で市中を練り歩き、退散を願うようになったのが祇園祭の発祥だと言われているのです。
その一方で、祇園祭は古代イスラエル(ユダヤ)の『シオン祭り』がルーツであるという説があります。『祇園(ギオン)祭』と『シオン祭り』、名称も似ていますし、どちらも疫病を払うことを目的としたもので、7月1日から約1ケ月間に渡って祭りは続き、ノアの箱舟がアララト山に漂着したと言われる7月17日にクライマックスを迎えるという共通点もあります。これらの共通点から、祇園祭もシルクロードの果てからユーラシア大陸を経て朝鮮半島(新羅)経由でやってきた最強の渡来人で、実質的に日本という国を作り上げたとされる秦氏(古代イスラエル人?)が、古代イスラエル(ユダヤ)の文化を日本に伝えたものの1つではないかと考えられるというわけです。その説によると、平安京を作り遷都したのは桓武天皇ですが、その技術や資金の大半は全て秦氏が拠出したものであるとされ、祇園祭を主催する八坂神社を作ったのも秦氏ということのようです。というか、日本の神社は八坂神社に限らず、すべて秦氏によって作られたものだとも言われています。
日本書紀によると、秦氏は3世紀の末に京都府の宮津の海岸に渡来したとあります。おそらく中国を最初に統一した秦の始皇帝の末裔にあたる一族が、秦が滅んだ数百年後に、陸路から日本に渡来したのが秦氏だとも考えられています。その秦の始皇帝は金髪で青い目をしていたという説もあります。だとしたら、秦氏は古代イスラエル人(ユダヤ人)であるとも考えられます。
京都市右京区に太秦(うずまさ)という地名があります。太秦はかつては多くの映画会社が時代劇映画の撮影所を置いていたことで知られていますが、木嶋坐天照御魂神社などの神社や、広隆寺、蛇塚古墳などの前方後円墳があることでも知られています。この広隆寺は秦氏の氏寺であり、国宝の木造弥勒菩薩半跏像を安置した京都最古の寺です。「太秦」という地名の由来には諸説ありますが、5世紀の第21代雄略天皇の御世、渡来系の豪族秦氏が、絹を「うず高く積んだ」ことから、「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに秦氏の本拠地であるという意味で「太秦」の漢字表記を当てたという説が有力です。とすると、渡来人の秦氏は西暦794年に平安京が建設されて遷都される以前からこの地に住んでいたと考えられます。また、「平安京」という都の名称も極めて意味深です。平安京を文字通りに読むと、「平安の都」。いっぽう、現在のイスラエルの首都エルサレムも「イール・シャローム=神の平安」というほぼ同じ意味の名称です。
ちなみに、渡来人ということで言うと、5世紀から6世紀にかけて権勢を誇った物部氏も海から渡来してきた渡来人だと言われています。この物部氏は秦の始皇帝に仕えていた徐福とともに紀元前3世紀に海(南方)から渡来してきた渡来人で、日本に弥生文化の種を蒔いたと考えられています。この物部氏は後に陸のシルクロードから渡来してきた同じ民族の秦氏に徐々に統合されていき、天皇家も秦氏が統合して守る方向になったのだと思われています。
山鉾においても、謎がいっぱい隠されています。函谷鉾を飾る装飾品のタペストリーには旧約聖書の一場面が描かれていますし、その他にもピラミッドやラクダ、イラクのバグダッド宮殿等の絵が大きく描かれていているタペストリーや絨毯を飾った鉾もあります。おそらく、巡行の最期を飾る船鉾は「ノアの方舟」ということなのかもしれません。これらをいったいどのように捉えればいいか…ということですが、ネットで「祇園祭 ユダヤ」で検索すると、この関連のことがいっぱい引っ掛かってきます。その中でもあるYouTubeの動画サイトで、祇園祭山鉾連合会の理事長が、インタビューで祇園祭と古代イスラエル(ユダヤ)との繋がりを認めているシーンが紹介されています。随分と昔のことなので何が本当のことなのか分かりませんが、一つの仮説としては浪漫がありますし、非常に面白いと私は思っています。
話が脱線しちゃいました。話を『大人のお泊まり遠足』のほうに戻します。
まだ新町御池の交差点での方向転換を待つ山鉾の行列が残っていたのですが、帰りの新幹線の時刻も迫ってきたので、後ろ髪を引かれる思いでその場を去り、烏丸御池駅から地下鉄烏丸線に乗って、JR京都駅に向かいました。
昼食はJR京都駅前の新阪急ホテルB1にある京懐石料理の「美濃吉 京都新阪急ホテル店」で、鰻(うなぎ)寿司をメインにした懐石コースをいただきました。この「美濃吉 京都新阪急ホテル店」は6年前の第1回『大人の修学旅行』でも2日目の昼食に使わせていただいたのですが、京都駅から近く、前回も非常に好評だったので、今回もオネエは2日目の昼食会場としてここを選んだのだそうです。
京懐石「美濃吉」公式HP
ちょうど土用の丑の日も近く、鰻(うなぎ)寿司は旬でした。この鰻(うなぎ)寿司は美濃吉さんの名物で、お土産に買って帰る人も続出していました。東京の新宿や池袋、横浜市やさいたま市大宮区にも支店があるようですので、あまりに美味しかったので、今度そちらを訪れてみようと思います。
15時、楽しかった今回の『大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭』で予定されたすべての旅程を終え、めいめいJR京都駅から新幹線、在来線、高速バスに分かれ、自宅に帰って行きました。別れ際は来年3月に開催を予定している『大人の修学旅行2017』での再会を約束して、握手とハイタッチ。来年の『大人の修学旅行2017』は私達関東在住組が幹事の番なので、「期待しているからね」って声をみんなからかけられました。
「はいよ!、代表幹事のマサヤがメチャメチャ張り切っているから、期待しててね。マサヤから、さっそく来週の土曜日に開催予定地のロケハン(現地下見)に行こうと誘われてるから、まずは行ってくるね」
今回の『大人のお泊まり遠足2016』は平安京でしたが、来年の『大人の修学旅行2017』は時代が1つ繰り下がって「鎌倉幕府」です!
それにしても、今回の『大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭』は素晴らしかったです。人数限定の豪華版ではありましたが、これぞ『大人の修学旅行』!‥‥って感じで、どこにも非の打ちどころがない完璧な旅行でした。「行けそうで、なかなか行けないところに行く」、また「経験できそうで、なかなか経験できないことを経験する」‥‥まさに『大人の修学旅行』のコンセプトを余すところなく実現しています。私に限らず、参加した全員が大満足した様子です。
国連の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されている『古都京都の文化財』の中から宇治の平等院と醍醐寺の2つを訪ね、さらに同じくユネスコの世界無形文化遺産に登録されている『京都祇園祭の山鉾巡行』を観る。食べるほうも抹茶懐石に鴨川の川床料理、そして旬の鰻(うなぎ)寿司を味わう。もう夏の京都を根こそぎ満喫したぁ〜って感じです。しかも、これだけ盛りだくさんであるにもかかわらず、決して急かされた‥って感じではなく、十分に余裕を持った旅程でしたし。この時期の1泊2日の京都旅行で、これ以上の旅程の企画は考えられません。それでいて参加費用は私が当初予想したよりも遥かに安いリーズナブルなものでした。
幹事の2人、特に京都在住のオネエには感謝感謝です。オネエなくしてこの企画はありませんでした。泊まるところや食べるところに対して相当無理な交渉をしていただいたのではないか‥‥と想像しています。この『大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭』をやったことで、オネエが関係した様々なお店からしばらく出禁(出入り禁止)を喰らわないか心配しているほどです。繰り返しになりますが、感謝感謝です。
今回の旅行でも私の“晴れ男”のレジェンドは健在でした。まだ梅雨は明けておらず、この2日間、不安定な大気の状態が続いていましたが、なんとか傘を使わなくて済みました。もっとも、私は自分のレジェンドを信じて、折り畳みの傘を携行していなかったのですが…。この日の京都は私がさいたま市に戻った18時以降、少しまとまった雨が降りました。帰りの新幹線で、オネエから「エッチャン、素戔嗚尊(スサノオノミコト)はんに勝ったね!」というメールが入りました。四国の丸亀に戻ったノリコさんからも「レジェンド再降臨! さすが!」というメールをいただきました。ええ、大勝利です! でも、これだけ“晴れ男”の運が続くと、自分でも正直怖くなってきます(笑)
家族への京都のお土産は、オネエお薦めの「抹茶ラングドシャ」と、孫娘が喜びそうな生八つ橋の「こたべ(おたべの小さいサイズ版)」です。東へ向かう東海道新幹線の車内で、“エッチャン”からいつもの“ジイジ”にすっかりモードチェンジしちゃいました。
【追記】
京都新聞社さんのサイトに「山鉾巡行」の後に行われる「神幸祭」の様子が動画で掲載されています。是非、この「神幸祭」の様子もお楽しみ下さい。
【神幸祭】
――――――――〔完結〕――――――――
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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