2014/06/20

昭和36年梅雨前線豪雨 (36.6伊那谷大水害)

梅雨末期の大雨と言われるが、末期にばかり大雨が集中するわけではない。過去の記録を見ても6月中の豪雨災害事例は多くある。

今回は、私が経験した36.6伊那谷大水害を紹介する。
私は伊那谷の生まれで普段はわずかな流れしかない天竜川に流れ込む小さな川(市の沢川)沿いに住んでいた。この時は、降り続く大雨によって1kmほど上流でがけ崩れが発生し、それが起因となった土石流が我が家を襲った。
雨が激しく降っている中、大雨警報が出され、学校からは「飯田線が止まる恐れがあるからすぐ帰れ」との指示があって、早々に岐路についたが既に電車は止まっていた。仕方なく、激しい雨の中10km近くを鉄路と道路を歩いて帰宅した。

昭和36年梅雨前線豪雨 (36.6伊那谷大水害)_1
幸い自宅にたどり着いたが、雨は降り続き、隣の川は溢れんばかりの水量になっていた。あまりの雨の激しさと川の音の異常さに家族全員が、直前に高所に駆け上がって間一髪助かった。祖母が「大雨時には雨戸を閉めて」と常々言っており、その日も雨戸を閉めていたため、土石流の勢いは多少なりとも弱められ、泥流が家を駆け抜けた程度で、庭に運ばれてきた大岩が突き抜けないで済んだ。

この土石流により水車が流され、100mほど上流では住家と共に夫婦が流されたが、我が家の庭と少し下流で二人とも無事救出された。これは、伊那谷で発生した土砂災害や、河川氾濫のほんの一例に過ぎないもので、伊那谷全体では死者・行方不明130名に及ぶ大災害であった。最も多くの犠牲者が出た大鹿村では、大西山の山崩れが集落を襲った。

なお、「大鹿村中央構造線博物館」がこの大西山の被災場所に建っており、366伊那谷大水害の展示もある。

天竜船下り乗船口の市田港近くの惣兵衛堤は築堤以来300年あまり破られたことがなかったが、この豪雨によって破壊され濁流が田畑を洗い流してしまった。

昭和36年梅雨前線豪雨 (36.6伊那谷大水害)_2
当時、大雨になると天竜川の堤防では、水防団が竹で編んだ蛇籠(4mほどの長さがあったと思う)に石を詰めて堤防補強し、対岸が崩れるまで必死の対応をしていた。堤防が決壊すると水田が氾濫原に変わってしまうのである。何回か天竜川の堤防が決壊したのを見たが、片方の堤防の決壊で収まっていた。しかし、この豪雨時には天竜川の両岸が各所で決壊する猛烈なものであった。この時の氾濫原を示した図が天竜川上流工事事務所の資料にあったので借用する。

まさに、この地方にとって、「過去に経験したことの無いような豪雨」であったのである。
昭和36年梅雨前線豪雨 (36.6伊那谷大水害)_3

この日の朝の天気図を見ると、梅雨前線が関東中部から長野県南部を通り、四国九州南部に延びている。一方、四国沖には台風6号(短命で15時には熱帯低気圧に弱まった)と熱帯低気圧が2つ南北に連なっており、北上していた。この形から南海上から暖湿な気流が次々と前線に向かって流れ込む豪雨の発生しやすいパターンであった。


昭和36年梅雨前線豪雨 (36.6伊那谷大水害)_4

当時は衛星画像がなかったので、南海上の様子は天気図の形状だけで判断するしかないが、このように熱帯低気圧が並ぶ形で最近見かけたのは、平成21年8月9日の兵庫県佐用町の豪雨事例である。これから類推すると南海上から次々と白く団塊状の雲の塊が北上していただろうと思う。この白い雲の塊部分が内陸に侵入すると激しい雨をもたらす。

この豪雨の状況を27日の長野県南部の日降水量分布と、飯田測候所の時間雨量の経過を図に示す。個々の数値は他の地域の豪雨事例と比べれば大した値ではないと思えるかもしれないが、飯田の日雨量325.3㎜は今もこの地点の最大の記録であり、2位の記録210.7㎜をはるかにかけ離れていることからも相当な豪雨であることがわかる。
昭和36年梅雨前線豪雨 (36.6伊那谷大水害)_5

昭和36年梅雨前線豪雨 (36.6伊那谷大水害)_6