2014/08/12
“あの日”のこと…JAL123便墜落事故
今年もまた“あの日”がやってきました。今から29年前の今日、1985年(昭和60年)8月12日、お盆の帰省客などを乗せた日本航空のJL123便、ジャンボジェット機(ボーイング747-100SR型機)が群馬県上野村の御巣鷹山の山中に墜落し、歌手の坂本九さんを含め、国内の航空機事故としては最も多い520人もの方々が犠牲になりました。
これまであまり語ることはありませんでしたが、実は、あの事故は私にとっても自らの仕事と向き合う姿勢というものを強く認識したということで、忘れることのできない事故なんです。
当時、私は29歳。日本電信電話株式会社(NTT)のデータ通信事業本部(NTTデータの前身)第四データ部で航空路レーダー情報処理(RDP)システムの主任データ通信員(今の課長代理)をやっていました。
このRDPシステムは日本の航空路管制における重要な管制支援システムのひとつで、全国4ヶ所(札幌、所沢、福岡、那覇)の航空交通管制部に配置されており、全国に散らばる19ヶ所の航空路監視レーダーサイトに設置されている航空路監視レーダー(ARSR)や洋上航空路監視レーダー(ORSR)からのレーダー情報を収集し、他の航空関連システム(飛行計画情報処理(FDP)システム等)からの情報などと統合・解析を行い、管制官が業務を行う管制卓に設置された表示装置(PDF)に飛行機の現在位置や高度、速度、針路等の情報を表示する情報処理システムです。
このシステムで、私は各種ハードウェアの開発や工事を担当していました。その部署に異動になり、2年目を迎えた頃で、当時はメインコンピュータの更改工事の現場代理人として札幌、所沢、福岡、那覇…と全国4ヶ所の航空交通管制部を飛行機で飛び回っていた時期でした(全国19ヶ所のレーダーサイトでの工事も同時並行であったので、ほとんど東京にはいないくらいでした)。
今から思えば誠に不遜なことではあるのですが、私はこの部署への異動について、当初不本意に思えていて仕方なく、会社を辞めてしまおうか…と思ったこともあったくらいでした。
その前まで(日本航空JL123便の事故の1年ちょっと前まで)、私は日本電信電話公社(NTTの前身)の本社技術局という部署で伝送路網のディジタル化の仕事に就いていました。当時はアナログ通信全盛の頃で、通信の分野で“ディジタル”が解る(語れる)人財はまだまだ数が少なく、私のような若僧でも重宝がられ、多重段の設定システム(M20やPCM-MAX、STECS)やディジタル伝送路網切替システム(DSW)等、その後の日本のディジタル通信網の基幹となる各種システムの設計・開発をほとんど1人で任されて、ブイブイ言わせていたようなところがありました。まだ20歳代の後半の若僧に過ぎなかったのに、「我が国の通信は今後こうならないといけない!」などと天下国家を論じてみたり…、まぁやたら肩に力が入りすぎて、イキがっていましたね。今から思い返すと、恥ずかしくなるくらいの“嫌な奴”でした。妻は当時を思い出すと、「根拠もなくやたらイキがっていて、それが鼻について鼻について、結婚を躊躇したくらいだった」と言うほどでした(^^;
毎日、独身寮に帰ることも忘れるくらいに仕事が面白く、このままディジタル伝送の世界で通信エンジニアとして生きていこうと思っていた矢先に思いがけずデータ通信本部に異動になり、RDPシステムのハードウェア担当の主任データ通信員になったわけです。正直、私にとってこの異動は不本意以外のなにものでもありませんでした。
仕事の落差があまりに大きすぎて、最初は正直不本意で、申し訳ないことにやる気もあまり起きなかったのですが、ある日、それが一瞬にして大きく変わりました。
RDPシステムのハードウェア工事の現場代理人は、そのシステムの性格上、ハードウェア工事の実施後しばらくは現場に残ってシステムの動作状態を監視して、問題がないことを確認するのが日課でした。その日も埼玉県所沢市にある東京航空交通管制部の管制センターの(ディスプレイ画面の表示に集中するために)照明を落とした暗い部屋の中で、管制卓のディスプレイ(PDF)に浮かび上がる明るい緑色の表示(当時の航空管制用の高精細ディスプレイはカラーではありませんでした)を見ながら、航空管制官の方々が無線機のマイクを握りしめながら忙しく管制業務をなさっている様子を何気なく眺めていたのですが、ある時、背中に電撃が走るほどの衝撃を受け、あることに気づいたのです。「ああ、こうやって飛行機は安全に飛んでいるんだな」…って。そして、「私が担当している仕事は、その飛行機の安全運航を支える極めて社会的に重要なことなんだ!」…ということに。
そのことに気づいて、私は一瞬にして変わりました。RDPシステムのハードウェア担当の仕事に俄然誇りと遣り甲斐を感じて、面白くてたまらなくなりました。スイッチが入ったように考え方も、行動も、顔つきさえも変わったので、周囲も私の心境の変化に間違いなく気づいてくれた筈です。当時、7人の部下(全員私より年上)を抱えていたのですが、それ以降、部下達も掌握ができるようになりました。
考えてみれば、それまでエンジニアとして自分の仕事の成果物を実際にお客様がお使いになっている現場をマジマジと見たなんてことがなかったですからね。あくまでもプロダクトアウトでした。それが、東京航空交通管制部の管制センターで見た光景で、一瞬にして変わったわけです。それからは現場第一主義、顧客視点ということを常に意識するようになりました。
価値観、仕事観が変わったと言うか、仕事に対する“立ち位置”と“姿勢”が定まったと言うか…、まぁ、一種の“転職”をしたようなものですね。それくらい大きな“気づき”でした。これが今に続く私の仕事に対する根本部分になっています。それが異動3ヶ月後くらい経った時のことでした。
それから1年後、1985年(昭和60年)8月12日、日本航空JL123便の墜落事故が発生しました。
墜落時刻は午後6時56分、その時、私はまだ職場にいました。確かお盆明けのその翌週から札幌航空交通管制部での工事が始まるので、その準備をしていたところでした。
事故発生の一報が入り、職場に残っていた全員がテレビの前に集まり、画面に釘付けになりました。その全員がRDPシステムの関係者。航空機の安全運航に関わっている人達ばかりでしたので、満員の乗客を乗せたジャンボジェット機が墜落するなんて前代未聞の事故に、声を失っていました(その時はまだ消息を断って、すなわち行方がわからなくなったというニュースだったように記憶しています)。
その時、上司のところに運輸省航空局から電話が入りました。確か「JL123便が消息を断ってレーダーからも消えた。どこに行ったのか解析しているので手伝って欲しい」というものだったように記憶しています。
エッ!? レーダーが追尾出来ていない!? なんで!? 私は、その時、一瞬、わけが分からなくなっていました。レーダー画像情報の中から航空機の機影を割り出し航跡を追尾するシステムのハードウェア(TCP)も私の担当でしたから、ちゃんと動作していたのか?…って思ったわけです。
全国19ヶ所の航空路監視レーダーサイトに設置された航空路監視レーダー(ARSR)は10秒間に1回転します(飛行場近くの離着陸用の監視レーダーは4秒間に1回転。航空路監視用のレーダーは高出力で遠い距離まで電波を飛ばす必要があるので、10秒間に1回転なのです)。すなわち、機影を観測するのは10秒に1回なのです。その間、これまでの航跡から確か100秒後(すなわち10回転後)までのその飛行機の予想位置の推定処理を行い、次にレーダーで検出した機影が同一の飛行機のものかを判断するというロジックになっていたように思います。消息を絶ったJL123便が追尾できなかったのは、JL123便の“動き”がこの処理の設計限度を超えていたということなんです。
いわゆる“ダッチロール”ってやつです。JAL123便は何らかの原因で垂直尾翼を失い、左右方向の安定性を失い、機体の針路が左右に大きく振動を繰り返したと想像されています。またそれを何とか必死で制御して、羽田空港まで戻ろうと頑張ったコックピットの操縦士と副操縦士は、主翼の4つのエンジンの出力を調整することでこの振動と必死で戦ったと想像されていて、これにより、上下方向にも大きな振動を繰り返しました。これにより機体が予想外の動きをして、レーダーによる追尾が出来なかったわけです。
後日、航跡再生の業務を運輸省航空局様からいただいたのでいろいろ判ったことがありました。航空機の予想位置の推定は台風の進路予想図のように、ある程度の円形の範囲内で行うのですが、それからも大きく外れるくらいの激しいダッチロールを繰り返していたということ。さらに墜落を避けようと必死で下がる高度の維持を繰り返したようで、山影に入ってレーダーの電波の照射から一瞬外れるくらいの低空まで高度が下がった時もあったようだということ…等々。乗っておられた乗客・乗員の皆様の絶望感と恐怖を思えば、迂闊にこれまで話を出来ないくらいの事故でした。
このように、実は私もあの29年前の日本航空JL123便の墜落事故に、末端の一人ではありますが関わっていました。そして、自分達の仕事がこうして人々の生命に関わる極めて重要な仕事なんだということを改めて実感、再認識した事故でもありました。
そして、それ以来、私は、どんな仕事であっても自分が関わっている仕事の“目的”や“社会的な意義”というものを常に意識するようになり、今に至っています。
そういう経験をした人間が、今は気象情報会社の代表取締役社長を務めさせていただいています。この気象の仕事も、人々の生命と財産に深く関係している極めて社会的に重要な仕事です。29年前のあの時、自分達の仕事が人々の生命に関わる極めて重要な仕事なんだということを改めて実感、再認識した人間が、こういう仕事をさせていただいているというのも、何かの縁、と言うか、“運命”のようなものを感じています。
前述のように、異動した直後は不本意に感じた仕事でしたが、あの仕事を経験させていただいたからこそ、今の私がある…、今では感謝の気持ちを込めて、そう思っています。
今朝、テレビで「JAL123便の墜落事故から今日で29年」というニュースを見ながら、改めて、そのようなことを思わせていただきました。
【追記1】
余談ですが、あの事故の翌週、私は当初の予定通り札幌航空交通管制部での工事を行うため、JAL便(DC-10型機でした)で羽田から札幌(千歳)に出張で飛んだのですが、その便の乗客はさすがにまばら。あまりに少なくて、乗客の数よりもCA(キャビンアテンダント)さんの数のほうが多いくらいでした。
私を出張に送り出す時、アパートの玄関先で生後半年の息子を抱きかかえながら、妻は「大丈夫なの?」って心配顔で見送ってくれたのですが、私は「全然大丈夫だよ。なにも問題はないので、心配することはないよ。むしろ、飛行機を安全に飛ばすための仕事をしに行くのだから」と言って出掛けたのを思い出します。
【追記2】
亡き弟が眠る愛媛県松山市の墓地には、墜落したJL123便に乗務していてお亡くなりになったCAさんのお墓があります(松山市出身のCAさんがいらっしゃいました)。今週末、お盆で帰省する予定なのですが、その際には、久しぶりにそのCAさんのお墓にもお参りしたいと思っています。
これまであまり語ることはありませんでしたが、実は、あの事故は私にとっても自らの仕事と向き合う姿勢というものを強く認識したということで、忘れることのできない事故なんです。
当時、私は29歳。日本電信電話株式会社(NTT)のデータ通信事業本部(NTTデータの前身)第四データ部で航空路レーダー情報処理(RDP)システムの主任データ通信員(今の課長代理)をやっていました。
このRDPシステムは日本の航空路管制における重要な管制支援システムのひとつで、全国4ヶ所(札幌、所沢、福岡、那覇)の航空交通管制部に配置されており、全国に散らばる19ヶ所の航空路監視レーダーサイトに設置されている航空路監視レーダー(ARSR)や洋上航空路監視レーダー(ORSR)からのレーダー情報を収集し、他の航空関連システム(飛行計画情報処理(FDP)システム等)からの情報などと統合・解析を行い、管制官が業務を行う管制卓に設置された表示装置(PDF)に飛行機の現在位置や高度、速度、針路等の情報を表示する情報処理システムです。
このシステムで、私は各種ハードウェアの開発や工事を担当していました。その部署に異動になり、2年目を迎えた頃で、当時はメインコンピュータの更改工事の現場代理人として札幌、所沢、福岡、那覇…と全国4ヶ所の航空交通管制部を飛行機で飛び回っていた時期でした(全国19ヶ所のレーダーサイトでの工事も同時並行であったので、ほとんど東京にはいないくらいでした)。
今から思えば誠に不遜なことではあるのですが、私はこの部署への異動について、当初不本意に思えていて仕方なく、会社を辞めてしまおうか…と思ったこともあったくらいでした。
その前まで(日本航空JL123便の事故の1年ちょっと前まで)、私は日本電信電話公社(NTTの前身)の本社技術局という部署で伝送路網のディジタル化の仕事に就いていました。当時はアナログ通信全盛の頃で、通信の分野で“ディジタル”が解る(語れる)人財はまだまだ数が少なく、私のような若僧でも重宝がられ、多重段の設定システム(M20やPCM-MAX、STECS)やディジタル伝送路網切替システム(DSW)等、その後の日本のディジタル通信網の基幹となる各種システムの設計・開発をほとんど1人で任されて、ブイブイ言わせていたようなところがありました。まだ20歳代の後半の若僧に過ぎなかったのに、「我が国の通信は今後こうならないといけない!」などと天下国家を論じてみたり…、まぁやたら肩に力が入りすぎて、イキがっていましたね。今から思い返すと、恥ずかしくなるくらいの“嫌な奴”でした。妻は当時を思い出すと、「根拠もなくやたらイキがっていて、それが鼻について鼻について、結婚を躊躇したくらいだった」と言うほどでした(^^;
毎日、独身寮に帰ることも忘れるくらいに仕事が面白く、このままディジタル伝送の世界で通信エンジニアとして生きていこうと思っていた矢先に思いがけずデータ通信本部に異動になり、RDPシステムのハードウェア担当の主任データ通信員になったわけです。正直、私にとってこの異動は不本意以外のなにものでもありませんでした。
仕事の落差があまりに大きすぎて、最初は正直不本意で、申し訳ないことにやる気もあまり起きなかったのですが、ある日、それが一瞬にして大きく変わりました。
RDPシステムのハードウェア工事の現場代理人は、そのシステムの性格上、ハードウェア工事の実施後しばらくは現場に残ってシステムの動作状態を監視して、問題がないことを確認するのが日課でした。その日も埼玉県所沢市にある東京航空交通管制部の管制センターの(ディスプレイ画面の表示に集中するために)照明を落とした暗い部屋の中で、管制卓のディスプレイ(PDF)に浮かび上がる明るい緑色の表示(当時の航空管制用の高精細ディスプレイはカラーではありませんでした)を見ながら、航空管制官の方々が無線機のマイクを握りしめながら忙しく管制業務をなさっている様子を何気なく眺めていたのですが、ある時、背中に電撃が走るほどの衝撃を受け、あることに気づいたのです。「ああ、こうやって飛行機は安全に飛んでいるんだな」…って。そして、「私が担当している仕事は、その飛行機の安全運航を支える極めて社会的に重要なことなんだ!」…ということに。
そのことに気づいて、私は一瞬にして変わりました。RDPシステムのハードウェア担当の仕事に俄然誇りと遣り甲斐を感じて、面白くてたまらなくなりました。スイッチが入ったように考え方も、行動も、顔つきさえも変わったので、周囲も私の心境の変化に間違いなく気づいてくれた筈です。当時、7人の部下(全員私より年上)を抱えていたのですが、それ以降、部下達も掌握ができるようになりました。
考えてみれば、それまでエンジニアとして自分の仕事の成果物を実際にお客様がお使いになっている現場をマジマジと見たなんてことがなかったですからね。あくまでもプロダクトアウトでした。それが、東京航空交通管制部の管制センターで見た光景で、一瞬にして変わったわけです。それからは現場第一主義、顧客視点ということを常に意識するようになりました。
価値観、仕事観が変わったと言うか、仕事に対する“立ち位置”と“姿勢”が定まったと言うか…、まぁ、一種の“転職”をしたようなものですね。それくらい大きな“気づき”でした。これが今に続く私の仕事に対する根本部分になっています。それが異動3ヶ月後くらい経った時のことでした。
それから1年後、1985年(昭和60年)8月12日、日本航空JL123便の墜落事故が発生しました。
墜落時刻は午後6時56分、その時、私はまだ職場にいました。確かお盆明けのその翌週から札幌航空交通管制部での工事が始まるので、その準備をしていたところでした。
事故発生の一報が入り、職場に残っていた全員がテレビの前に集まり、画面に釘付けになりました。その全員がRDPシステムの関係者。航空機の安全運航に関わっている人達ばかりでしたので、満員の乗客を乗せたジャンボジェット機が墜落するなんて前代未聞の事故に、声を失っていました(その時はまだ消息を断って、すなわち行方がわからなくなったというニュースだったように記憶しています)。
その時、上司のところに運輸省航空局から電話が入りました。確か「JL123便が消息を断ってレーダーからも消えた。どこに行ったのか解析しているので手伝って欲しい」というものだったように記憶しています。
エッ!? レーダーが追尾出来ていない!? なんで!? 私は、その時、一瞬、わけが分からなくなっていました。レーダー画像情報の中から航空機の機影を割り出し航跡を追尾するシステムのハードウェア(TCP)も私の担当でしたから、ちゃんと動作していたのか?…って思ったわけです。
全国19ヶ所の航空路監視レーダーサイトに設置された航空路監視レーダー(ARSR)は10秒間に1回転します(飛行場近くの離着陸用の監視レーダーは4秒間に1回転。航空路監視用のレーダーは高出力で遠い距離まで電波を飛ばす必要があるので、10秒間に1回転なのです)。すなわち、機影を観測するのは10秒に1回なのです。その間、これまでの航跡から確か100秒後(すなわち10回転後)までのその飛行機の予想位置の推定処理を行い、次にレーダーで検出した機影が同一の飛行機のものかを判断するというロジックになっていたように思います。消息を絶ったJL123便が追尾できなかったのは、JL123便の“動き”がこの処理の設計限度を超えていたということなんです。
いわゆる“ダッチロール”ってやつです。JAL123便は何らかの原因で垂直尾翼を失い、左右方向の安定性を失い、機体の針路が左右に大きく振動を繰り返したと想像されています。またそれを何とか必死で制御して、羽田空港まで戻ろうと頑張ったコックピットの操縦士と副操縦士は、主翼の4つのエンジンの出力を調整することでこの振動と必死で戦ったと想像されていて、これにより、上下方向にも大きな振動を繰り返しました。これにより機体が予想外の動きをして、レーダーによる追尾が出来なかったわけです。
後日、航跡再生の業務を運輸省航空局様からいただいたのでいろいろ判ったことがありました。航空機の予想位置の推定は台風の進路予想図のように、ある程度の円形の範囲内で行うのですが、それからも大きく外れるくらいの激しいダッチロールを繰り返していたということ。さらに墜落を避けようと必死で下がる高度の維持を繰り返したようで、山影に入ってレーダーの電波の照射から一瞬外れるくらいの低空まで高度が下がった時もあったようだということ…等々。乗っておられた乗客・乗員の皆様の絶望感と恐怖を思えば、迂闊にこれまで話を出来ないくらいの事故でした。
このように、実は私もあの29年前の日本航空JL123便の墜落事故に、末端の一人ではありますが関わっていました。そして、自分達の仕事がこうして人々の生命に関わる極めて重要な仕事なんだということを改めて実感、再認識した事故でもありました。
そして、それ以来、私は、どんな仕事であっても自分が関わっている仕事の“目的”や“社会的な意義”というものを常に意識するようになり、今に至っています。
そういう経験をした人間が、今は気象情報会社の代表取締役社長を務めさせていただいています。この気象の仕事も、人々の生命と財産に深く関係している極めて社会的に重要な仕事です。29年前のあの時、自分達の仕事が人々の生命に関わる極めて重要な仕事なんだということを改めて実感、再認識した人間が、こういう仕事をさせていただいているというのも、何かの縁、と言うか、“運命”のようなものを感じています。
前述のように、異動した直後は不本意に感じた仕事でしたが、あの仕事を経験させていただいたからこそ、今の私がある…、今では感謝の気持ちを込めて、そう思っています。
今朝、テレビで「JAL123便の墜落事故から今日で29年」というニュースを見ながら、改めて、そのようなことを思わせていただきました。
【追記1】
余談ですが、あの事故の翌週、私は当初の予定通り札幌航空交通管制部での工事を行うため、JAL便(DC-10型機でした)で羽田から札幌(千歳)に出張で飛んだのですが、その便の乗客はさすがにまばら。あまりに少なくて、乗客の数よりもCA(キャビンアテンダント)さんの数のほうが多いくらいでした。
私を出張に送り出す時、アパートの玄関先で生後半年の息子を抱きかかえながら、妻は「大丈夫なの?」って心配顔で見送ってくれたのですが、私は「全然大丈夫だよ。なにも問題はないので、心配することはないよ。むしろ、飛行機を安全に飛ばすための仕事をしに行くのだから」と言って出掛けたのを思い出します。
【追記2】
亡き弟が眠る愛媛県松山市の墓地には、墜落したJL123便に乗務していてお亡くなりになったCAさんのお墓があります(松山市出身のCAさんがいらっしゃいました)。今週末、お盆で帰省する予定なのですが、その際には、久しぶりにそのCAさんのお墓にもお参りしたいと思っています。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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