2014/08/20
空海はすごい!(越智の大胆仮説編:その1)
弘法大師空海、この御方は日本人ならほとんどの方が知っている有名人でありながら、前回も書きましたように歴史小説の大家である“あの”司馬遼太郎先生でも解明しきれていないあまりに不可思議な謎を多く残している人物です。言ってみれば、これほどまでに知的好奇心をくすぐられる日本の歴史上の人物はいないと言えるくらいです。
と言うことで、私もこの弘法大師空海の謎に挑戦してみたくなり、苫米地英人さんの『空海はすごい ~超訳弘法大師のことば~』を読んでから自分なりにいろいろと調査し、 大胆な仮説を立ててみました。
その前段として、弘法大師空海の生涯について簡単に振り返ってみます。簡単にと書きましたが、それでも結構な長文になるところが、弘法大師空海の凄いところです(^^;
弘法大師空海は俗名を佐伯真魚(さえき の まお)といいます。宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で生まれました。(この佐伯という苗字も四国では意外と多い苗字で、実は私の母の旧姓も佐伯です。)
延暦7年(788年)、弱冠14歳で平城京(奈良)に上り、延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びました。
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入り、大学で明経道を専攻。春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられています。
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったといわれ、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して、俗世の教えが真実でないことを示しました。この時期より遣唐使として入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多いが、吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだと言われています。密教経典に出会ったのもこの頃と考えられています。さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もあるようです。
延暦23年(804年)、30歳にして正規の遣唐使に抜擢され、留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡ります。入唐直前まで一介の私度僧(国の許可を得ずに僧を称した者)にすぎなかった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお大きな謎を残しています。伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもありますが、確かな定説はありません。
空海が唐に渡った第16次遣唐使一行には、後に天台宗を興す最澄や、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいました。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたのですが(なので最澄や霊仙は国費留学生)、空海はまったく無名の一介の私度僧でした(私度僧だったので空海は私費留学生)。
空海の乗った船は途中で嵐に遭い、大きく航路を逸れたものの、なんとか無事に唐の都・長安(現在の陝西省西安市。当時の長安は世界最大の都市でした)に辿り着きます。で、ここからの空海があまりにも凄い!凄すぎです!
長安で空海が最初に師事したのは、印度僧の般若三蔵。ここで密教を学ぶために必須の梵語(サンスクリット語)の修得に磨きをかけたとされ、空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を多数与えられたとされています。
約半年、般若三蔵のもとで学んだ後、今度は密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって恵果和尚に師事することになります。ここでもメキメキと頭角を表し、入門僅か3ヶ月後には先輩の弟子達を差し置いて、最高位である伝法阿闍梨位の灌頂(一種の洗礼?)を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者(すなわち大日如来)」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになります。この時、空海はその恵果和尚から密教秘伝の仏舎利や刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点の阿闍梨付嘱物のほか、健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点、計13点を授けられています。入門半年後に師匠の恵果和尚が他界。空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草したとされています。
その翌年、密教に関して学ぶべきものは全て学び終えたとばかりに長安を出発し、越州(現在の浙江省杭州市。杭州は13世紀には世界最大の都市でした)に入り、ここで約4ヶ月間滞在するのですが、ここでは土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集しました。
その地で一緒の第16次遣唐使として唐に渡ろうとしたものの途中で遭難し、その後遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成に偶然に出会い、彼の帰国に便乗する形で、明州(現在の浙江省寧波市。唐の時代、寧波は日本、新羅、東南アジアの船が往来する一大貿易港でした)を出航して帰国の途につきました。
結局、唐での滞在期間は僅かに2年弱。当初の留学期間は20年の予定だったので、随分と早く切り上げての帰国になりました。この際の「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、僅か2年前に無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示す言葉だとされています。
途中暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港するなどしながら、大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に数年間滞在します。20年の留学期間を2年で切り上げて帰国したため、規定違反ということで、入京の許しが出なかったようです。
空海に入京の許しが出たのは大同4年(809年)のこと。この空海の入京には、一緒に遣唐使として唐に渡った盟友の最澄の尽力や支援があったといわれています。その後2人は10年程交流関係を持ち、密教の分野に限っては、年上の最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていたと言われています。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至っています。
唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものがあったとされています。当然この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられていて、空海によるとこの唐への留学は「未だ学ばざるを学び、聞かざるを聞く」だったそうです。まぁ、一言で言えば、空海が唐から持ち帰ったものは、密教を含めた最新の文化体系であったということのようです。
この大同4年(809年)には、平城天皇が退位し、新たに嵯峨天皇が即位したのですが、この両天皇の(正しくはその取り巻きの)間で翌大同5年(810年)に「薬子の変」という政変が起こり、空海は嵯峨天皇側について鎮護国家のための大祈祷を行いました。このことから嵯峨天皇の寵愛を受けるようになり、弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を務めることになります。
弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。ここに真言宗が誕生します。入壇者には後に天台宗を興す最澄も含まれていました。弘仁7年(816年)、修禅の道場として、高野山の下賜を請い、同年7月8日に高野山を下賜する旨勅許を賜ります。弘仁9年(818年)11月、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り、翌年まで滞在しました。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手しました(これが今の真言宗高野山総本山です)。
真言宗を興す以外にも空海は数々の業績を残しています。弘仁12年(821年)、自身の生まれ故郷にほど近い満濃池(香川県にある日本最大の農業用溜池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使した一大工事を成功に導きました。また、我々四国人にとっては馴染みの深い四国八十八ヶ所の霊場を開くなど、まさに超人的としか言い様のない偉業、と言うか伝説を数々成し遂げています。いちいち書いていたらキリがないので、ここでは省略します。
弘仁13年(822年)には東大寺に灌頂道場真言院を建立。この年平城上皇に潅頂を授けました。弘仁14年(823年)、東寺を賜り、ここを真言密教の道場としました。後に天台宗の密教を台密と呼ぶのに対して、東寺の密教を東密と呼ぶようになるのはこのためです。
天長5年(828年)には、『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東に私立の教育施設「綜芸種智院」を開設します。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど一部の人々にしか門戸を開いていなかったのですが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校でした(ちなみに、現在の種智院大学及び高野山大学はその綜芸種智院の流れを受け継いだ学校です)。
空海は天長8年(831年)5月末、悪瘡、つまりタチの悪い皮膚の疾患を発症して、6月大僧都を辞する旨を上表しますが、時の天皇に慰留されます。慰留はされたものの、その後は高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられています。
承和2年(835年)、3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅しました。享年62(満60歳没)。 『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付された(火葬された)ようです。しか し後代には、入定した(即身仏となった)とする文献も現れて、そこのところはよく分かりません。
こうやって振り返ってみると、弘法大師空海が実質的に活躍したのは、弘仁2年(811年)から天長8年(831年)までの20年間に過ぎません。その僅かな期間に、今の時代にも繋がる実に様々な偉大な業績を残したことになります。ここが空海の凄いところなのですが、一番謎めいた部分でもあります。
空海っていったい何者?
ということで、(その2)では、その弘法大師空海の正体に関して、私の大胆な仮説をご披露します。
と言うことで、私もこの弘法大師空海の謎に挑戦してみたくなり、苫米地英人さんの『空海はすごい ~超訳弘法大師のことば~』を読んでから自分なりにいろいろと調査し、 大胆な仮説を立ててみました。
その前段として、弘法大師空海の生涯について簡単に振り返ってみます。簡単にと書きましたが、それでも結構な長文になるところが、弘法大師空海の凄いところです(^^;
弘法大師空海は俗名を佐伯真魚(さえき の まお)といいます。宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で生まれました。(この佐伯という苗字も四国では意外と多い苗字で、実は私の母の旧姓も佐伯です。)
延暦7年(788年)、弱冠14歳で平城京(奈良)に上り、延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びました。
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入り、大学で明経道を専攻。春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられています。
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったといわれ、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して、俗世の教えが真実でないことを示しました。この時期より遣唐使として入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多いが、吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだと言われています。密教経典に出会ったのもこの頃と考えられています。さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もあるようです。
延暦23年(804年)、30歳にして正規の遣唐使に抜擢され、留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡ります。入唐直前まで一介の私度僧(国の許可を得ずに僧を称した者)にすぎなかった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお大きな謎を残しています。伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもありますが、確かな定説はありません。
空海が唐に渡った第16次遣唐使一行には、後に天台宗を興す最澄や、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいました。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたのですが(なので最澄や霊仙は国費留学生)、空海はまったく無名の一介の私度僧でした(私度僧だったので空海は私費留学生)。
空海の乗った船は途中で嵐に遭い、大きく航路を逸れたものの、なんとか無事に唐の都・長安(現在の陝西省西安市。当時の長安は世界最大の都市でした)に辿り着きます。で、ここからの空海があまりにも凄い!凄すぎです!
長安で空海が最初に師事したのは、印度僧の般若三蔵。ここで密教を学ぶために必須の梵語(サンスクリット語)の修得に磨きをかけたとされ、空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を多数与えられたとされています。
約半年、般若三蔵のもとで学んだ後、今度は密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって恵果和尚に師事することになります。ここでもメキメキと頭角を表し、入門僅か3ヶ月後には先輩の弟子達を差し置いて、最高位である伝法阿闍梨位の灌頂(一種の洗礼?)を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者(すなわち大日如来)」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになります。この時、空海はその恵果和尚から密教秘伝の仏舎利や刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点の阿闍梨付嘱物のほか、健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点、計13点を授けられています。入門半年後に師匠の恵果和尚が他界。空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草したとされています。
その翌年、密教に関して学ぶべきものは全て学び終えたとばかりに長安を出発し、越州(現在の浙江省杭州市。杭州は13世紀には世界最大の都市でした)に入り、ここで約4ヶ月間滞在するのですが、ここでは土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集しました。
その地で一緒の第16次遣唐使として唐に渡ろうとしたものの途中で遭難し、その後遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成に偶然に出会い、彼の帰国に便乗する形で、明州(現在の浙江省寧波市。唐の時代、寧波は日本、新羅、東南アジアの船が往来する一大貿易港でした)を出航して帰国の途につきました。
結局、唐での滞在期間は僅かに2年弱。当初の留学期間は20年の予定だったので、随分と早く切り上げての帰国になりました。この際の「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、僅か2年前に無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示す言葉だとされています。
途中暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港するなどしながら、大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に数年間滞在します。20年の留学期間を2年で切り上げて帰国したため、規定違反ということで、入京の許しが出なかったようです。
空海に入京の許しが出たのは大同4年(809年)のこと。この空海の入京には、一緒に遣唐使として唐に渡った盟友の最澄の尽力や支援があったといわれています。その後2人は10年程交流関係を持ち、密教の分野に限っては、年上の最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていたと言われています。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至っています。
唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものがあったとされています。当然この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられていて、空海によるとこの唐への留学は「未だ学ばざるを学び、聞かざるを聞く」だったそうです。まぁ、一言で言えば、空海が唐から持ち帰ったものは、密教を含めた最新の文化体系であったということのようです。
この大同4年(809年)には、平城天皇が退位し、新たに嵯峨天皇が即位したのですが、この両天皇の(正しくはその取り巻きの)間で翌大同5年(810年)に「薬子の変」という政変が起こり、空海は嵯峨天皇側について鎮護国家のための大祈祷を行いました。このことから嵯峨天皇の寵愛を受けるようになり、弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を務めることになります。
弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。ここに真言宗が誕生します。入壇者には後に天台宗を興す最澄も含まれていました。弘仁7年(816年)、修禅の道場として、高野山の下賜を請い、同年7月8日に高野山を下賜する旨勅許を賜ります。弘仁9年(818年)11月、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り、翌年まで滞在しました。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手しました(これが今の真言宗高野山総本山です)。
真言宗を興す以外にも空海は数々の業績を残しています。弘仁12年(821年)、自身の生まれ故郷にほど近い満濃池(香川県にある日本最大の農業用溜池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使した一大工事を成功に導きました。また、我々四国人にとっては馴染みの深い四国八十八ヶ所の霊場を開くなど、まさに超人的としか言い様のない偉業、と言うか伝説を数々成し遂げています。いちいち書いていたらキリがないので、ここでは省略します。
弘仁13年(822年)には東大寺に灌頂道場真言院を建立。この年平城上皇に潅頂を授けました。弘仁14年(823年)、東寺を賜り、ここを真言密教の道場としました。後に天台宗の密教を台密と呼ぶのに対して、東寺の密教を東密と呼ぶようになるのはこのためです。
天長5年(828年)には、『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東に私立の教育施設「綜芸種智院」を開設します。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど一部の人々にしか門戸を開いていなかったのですが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校でした(ちなみに、現在の種智院大学及び高野山大学はその綜芸種智院の流れを受け継いだ学校です)。
空海は天長8年(831年)5月末、悪瘡、つまりタチの悪い皮膚の疾患を発症して、6月大僧都を辞する旨を上表しますが、時の天皇に慰留されます。慰留はされたものの、その後は高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられています。
承和2年(835年)、3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅しました。享年62(満60歳没)。 『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付された(火葬された)ようです。しか し後代には、入定した(即身仏となった)とする文献も現れて、そこのところはよく分かりません。
こうやって振り返ってみると、弘法大師空海が実質的に活躍したのは、弘仁2年(811年)から天長8年(831年)までの20年間に過ぎません。その僅かな期間に、今の時代にも繋がる実に様々な偉大な業績を残したことになります。ここが空海の凄いところなのですが、一番謎めいた部分でもあります。
空海っていったい何者?
ということで、(その2)では、その弘法大師空海の正体に関して、私の大胆な仮説をご披露します。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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