2014/11/05

天皇の仏教信仰(その4)

で、鎌倉幕府を倒し、皇室を2つに分けるような元凶ともなった後宇多法皇の遺言状ですが、そこに大変に興味深い文字が見られます。それが『大日本国』。この国を指す国名として「日本国」ではなくて「大日本国」という文字が初めて使われたのです。

『日本』という国名は“日の出る国”という意味から701年に制定された大宝律令によって定められたとなっていますが、「大日本国」と“大”の字を付けて使われることはそれまでなかったことなんですが、この後宇多法王の遺言状に突然その文字が出てきます。ふつうに考えると“大”=“big”の意味なのですが、実はまったく違うんです。

これは“大日如来のもと(本)にある国”という意味なんです。このように、ここまで密教(真言宗)の影響力が高まっていたということです。

ちなみに、明治維新後、1889年に公布された近代立憲主義に基づく最初の近代憲法の名称が『大日本帝国憲法』で、さらに太平洋戦争に突入する直前の1936年には『大日本帝国』が正式な国号と定められたわけですが、その時の“大日本帝国”の文字に“大日如来の本の帝国”の意味が込められていたかどうかは定かではありません。

西暦1250年頃に端を発した寒冷期は1850年頃まで続き、世界中が大激変の時代に入ります。ヨーロッパの人々は寒冷化で生きていく上で必要な食糧の確保すらままならなくなった母国を捨てて、新天地(と言うか食糧)を求めて大海に乗りだし、新大陸を発見して、そこへの移住を始めます。

中国でも漢民族の出自と言われる朱元璋が一気に衰退した蒙古族の元を北へ逐って、1368年に明王朝を建国します。明王朝はその後300年近く治世を行いましたが、安定はせず、1644年に李自成の乱により滅亡。滅亡の後には今度は満州族の清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国全土を支配しました。
日本でも大きな時代の変化が現れてきます。

後醍醐天皇に必要以上に篤く信頼されたがゆえに京の都を離れて吉野の里に大量移住させられた真言宗(東密)の僧侶に代わって、俄然台頭してきたのが同じ密教系の天台宗(台密)。真言宗を興した空海とともに、遣唐使として唐の国に渡り、密教を平安時代初期に日本に持ち帰ってきた最澄が興したのが、天台宗。最澄は日本へ帰国後、京都の東にある比叡山に延暦寺に入り、そこを天台宗の総本山とします。

真言宗(東密)と天台宗(台密)の一番大きな違いは、真言宗が大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、天台宗はあくまで法華一乗の立場を取り、釈迦如来を本尊としている点にあります。

天才・空海が唱えた真言宗がそれ自身で一つの仏教の完成形とも言えるもので、それ以上の進化を遂げることがなかなかできなかったのに対して、最澄が興しですぐの時期の天台宗はまだまだ未完成。そこで、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指してさらに修行に励みました。

そんな勉強熱心な最澄が興した天台宗ですから、弟子たちも極めて勉強熱心。円仁(慈覚大師)や円珍(智証大師)などの弟子達が最澄の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願であった天台教学を中心にした総合仏教を確立しました。また、その後も比叡山延暦寺は長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を数多く輩出することとなります。

日本で天台宗から分かれて数多くの仏教宗派が生まれた平安末期から鎌倉時代にかけて…、これも西暦1250年に始まる1300年イベントと呼ばれる地球規模の大きな気候変動の時期と見事に重なります。このことからも、この時期に寒冷化からくる度重なる飢饉や疫病で、日本でも人心がいかに乱れていたかがよく分かります。

後醍醐天皇を吉野の地に追いやり、1336年に、足利尊氏が京都に室町幕府(足利幕府)を打ち立て、1573年、織田信長が第15代将軍・足利義昭を京都から追放し、滅亡するまで200年以上も長い期間室町時代は続くのですが、幕府の政権(中央集権)は盤石とは言えず、守護大名達による言ってみれば「合議制の連合政権」だったために、全国各地で紛争は絶えなかったようです。(それでも200年間も室町幕府が続いたのは、それなりに天変地異の少ない、気候的に穏やかに時代というものが背景にあったのではないかと思われます。)

ちなみに、第3代将軍・足利義満が鹿苑寺(金閣)を建立したり、第8代将軍・足利義政が東山銀閣を建立したりしていますが、このどちらの寺も宗派は臨済宗。禅を重んじる宗派で、こういうところが武家に好まれたのでしょう。

前述のように室町幕府は中央集権の力が弱かったために、その後、日本全土で群雄割拠、下剋上の実力社会の時代(戦国時代)に突入し、前述のように、1573年、織田信長が第15代将軍・足利義昭を京都から追放することによって滅亡します。

その織田信長が天台宗の総本山である比叡山延暦寺を焼き討ちしたのは、単に延暦寺の僧侶達が武装蜂起したことが理由でない感じがしています。これに関しては竹村公太郎さん著の『日本史の謎は「地形」で解ける』の解釈が一番腑に落ちる感じがします。

織田信長が明智光秀に本能寺で討たれて、あとを継いだのが豊臣秀吉で、その摂政関白豊臣秀吉が毎年楽しんだという“醍醐の花見”で有名な京都・醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山。ここでまたまた登場するのが“空海”です。比叡山延暦寺が織田信長の焼き討ちに遭ったので、壊滅的な被害を受けた天台宗に代わって、またまた真言宗が台頭してくるわけです。後醍醐天皇に従って吉野に移らず、京都の地に残って頑張っていた真言宗の一派(醍醐派等)がいたということです。

で、その豊臣家が関ヶ原の合戦、大坂夏の陣、冬の陣で滅んだあと、天下を獲ったのが徳川家康。そこから約300年間、徳川の世が続くのですが、1867年、第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、天皇がこれを勅許した政治的事件が大政奉還で、これをもって徳川幕府は終焉を迎え、王政復古の大号令でもってこの国は明治維新を迎えることになります。

この明治維新が起きて、日本が近代国家へと変貌を遂げた時期が、西暦1250年頃に端を発した地球規模の寒冷期が終息した1850年頃に符合するというのも、面白いところです。1850年代以降、地球は現在に至るまで地球全体が温暖化期に入り、自然が豊かな実りを供給して農作物がよくできるようになり、世界中で人口が爆発的に急増することになります。

そして、日本の宗教の世界でも大きな変化が生まれます。いわゆる「神仏分離」というものです。

明治政府の打ち出した「神仏分離」や「廃仏毀釈」の考え方は、実は江戸時代後期から準備されていました。まず儒学者の仏教批判に端を発し、仏教を排して「復古神道」を唱える国学者がこれを受け継ぎました。水戸藩と長州藩ではすでに天保期に「神仏分離」と「廃仏毀釈」が藩政改革として行なわれ、幕末には薩摩藩と津和野藩でもそれが実行されました。1868年、有名な「五か条の誓文」発布の前日に、いわゆる「神仏分離令」が布告されます。

宮中でも「神仏分離」と「廃仏毀釈」が展開されました。その興味深い例があります。「神仏分離令」が布告される1年半前に御隠れになった孝明天皇の葬儀は僧侶によって仏式で執り行なわれたのですが、1868年に執り行われた孝明天皇の三年祭(三周忌)は神式で行われました。

このように、現在の「神道」は正確には明治以降に創り出されたものだということのようです。


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以上、気候変動、異常気象を軸に、日本の歴史を『天皇の仏教信仰』という観点から眺めてみました。ここまで読んでいただいただけでも、いかに人々の生活に気象、特に気候変動、異常気象と呼ばれるものが深く関与しているのかがお分かりいただけるかと思います。

興味をもたれた方は、ぜひこの『天皇の仏教信仰』という本をお読みください。目から鱗で、日本の歴史がよく分かります。

私は何度も書いているように、高校時代、社会科、特に歴史が苦手教科で、受験科目に社会科が要らない大学を選んで受験したくらいなのですが、今なら大得意科目になる自信はあります。歴史が腑に落ちた感じがしていますから(^^)d

ただ、私が ここで書いていることは現在の教科書には載っていないことばかりなので、それでテストの点数が取れるかというと、それとこれとは別です。でも、私が書いたことはあくまでも推測。真実はその時代にタイムスリップしてこの目で見てみないと解りません。