2015/03/27
ターミナル…あゝ上野駅(その3)
頭端式のホーム構造を持つ路線の終端駅のことをターミナル駅…だと厳密に定義するならば、網の目のように路線網が拡がる現代日本の鉄道網において、本格的なターミナル駅と呼べる駅はさほど多くはありません。もちろん、いわゆる路線の終点も線路がそこで行き止まりになっていて、一面か二面あるプラットホームの一端が同一平面上で改札口や他のプラットホーム等と繋がっているような駅はかなりの数がありますが、ターミナル駅と呼ぶにはそれなりの乗降客数がないといけません(^^)d
日本で頭端式のホーム構造を持つターミナル駅と呼ぶに相応しい駅は、JR(旧国鉄)よりも私鉄、あるいは私鉄に源を発する鉄道のほうに多く見られます。
日本最大のターミナル駅は大阪にある阪急電鉄の梅田駅で京都線・宝塚線・神戸線各3線ずつの10面9線のホーム構造を持ちます。2番目も同じく大阪にある南海電鉄の難波駅で、高野線と南海線各4線ずつの9面8線のホーム構造を持ちます。
首都圏の私鉄もそれぞれターミナル駅を持っていますが、阪急電鉄梅田駅や南海電鉄難波駅と比べると、残念ながら規模は劣ります。東武鉄道の池袋駅は3面3線、浅草駅は3面4線に過ぎず、むしろ一番大きいのは東武日光駅の3面5線です。西武鉄道の場合、池袋駅が4面4線でそれなりの規模なのですが、それよりも規模が大きいのが西武球場前駅で、4面8線のホーム構造を持ち、この西武球場前駅が東日本最大のターミナル駅であると言うこともできます。東急電鉄で最大のターミナル駅は実は多摩川線と池上線の終点である蒲田駅で5面4線。京王電鉄の新宿駅は3面3線ですが、大きそうに思える小田急電鉄の新宿駅も7面5線(2層構造)です。
JRではこれがなかなか見つからず、実は一番規模が大きいのが私の故郷四国にあるJR四国の高松駅なんです。この高松駅、予讃線(土讃線、瀬戸大橋線を含む)、高徳線の発着駅で4面9線という頭端式のホームを持つ堂々たるターミナル駅構造を有しています。次に規模が大きいのがJR北海道の函館駅。ここも4面8線の頭端式のホームを持つターミナル駅構造の駅です。この高松駅と函館駅に共通するのは、どちらもかつては連絡船の乗換駅だったということ。高松駅の場合は本州と四国を結ぶ宇高連絡船があって、本州(本州側の乗換駅は岡山県の宇野駅)から連絡船でやって来た乗客は、ここ高松駅でずらりと並ぶ松山(愛媛県)、高知、徳島といった四国の各方面に向かう列車に乗り換えました。函館駅も同様で、青函連絡船を利用して本州(本州側の乗換駅は青森駅)から連絡船でやって来た乗客は、ここ函館駅でホームにずらりと並ぶ北海道各地へ向かう列車に乗り換えました。どちらも連絡船はなくなりましたが、その当時の名残りが今も頭端式のホームの構造とともに色濃く残っています。
そして、首都圏。首都圏のJR(JR東日本)で最大の頭端式のホーム構造を持つターミナル駅と言えば、皆さんよく御存知の上野駅です。上野駅も今では通過型のホームが多くなりましたが、地上3面5線、高架2面3線(合計5面8線)の規模の頭端式のホームを有しています。
路線距離が比較的短い私鉄と異なりJR(旧国鉄)の路線は運行距離の長い路線が多く、頭端式のホーム構造を持つターミナル駅にはどこも独特の非日常と言い表してもいいほどの“旅情”が漂っています。連絡船の乗換駅である高松駅と函館駅は、それぞれ四国と北海道の表玄関としての風情、そして上野駅には首都東京の北からの玄関としての風情がありました。
特に旅情という点で言えば、上野駅が日本で一番のターミナル駅だと私は思っています。就職して東京に出てきた時、皇居や東京タワー、浅草等の観光名所をさておいて、私が一番最初に見学に行った先が上野駅でした(鉄ちゃんですから、当然と言えば当然のことでした)。その時に感じた衝撃と感動は今でも鮮明に覚えています。
当時はまだ東北・上越新幹線は開業しておらず、上野駅の頭端式の櫛形になったホームには、東北本線や常磐線経由で青森や秋田、盛岡、仙台山形、福島といった東北方面に向かう特急や急行列車、高崎線、信越本線、上越線経由で新潟や長野、金沢といった上信越方面に向かう特急や急行列車等がズラァ~っと並び、それらがひっきりなしに発着していました。特に夕方。各方面に向かう夜行寝台列車が並ぶ光景には、大興奮したものです。
また、ホームでそれらの列車の発車を待つ、あるいは、到着したそれらの列車からホームに降り立った乗客の姿には東京駅にはない独特の雰囲気があって、これにも興奮したものです。発着する車両も、特急電車だけに限っても直流用の181系・183系・189系、交流直流両用の483系・485系・489系、世界に類がない夜行・昼行兼用寝台電車583系…と実にバリエーションに富んでいて、これに直流用急行電車の165系、交直流両用急行電車の451系・453系等も加わるので、色とりどりでした。また、行き先も青森、秋田、盛岡、仙台、山形、新潟、長野、金沢…と実にバラエティに富んでいて、行き先の案内表示を見たり案内放送を聴いたりするだけで、いやがうえにも旅情が掻き立てられて、最高でした。週末の土曜日曜など、朝からまるまる1日上野駅で過ごしたこともありましたが、まったく飽きませんでした。
吉岡秀隆さん・小雪さん主演、堤真一さん・薬師丸ひろ子さん助演で2005年に公開され大ヒットした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』。この映画は西岸良平さんの漫画『三丁目の夕日』(ビッグコミック・オリジナル)を原作とした作品だったのですが、その映画の冒頭近くで、堀北真希さん演じる六ちゃんこと星野六子(むつこ)が青森から集団就職で上京してくるシーンがありました。彼女が乗ってきた焦げ茶色の客車列車を牽引していたのがC62形蒸気機関車。これには鉄道マニアとして泣かされました(T-T)。そして上京してきた彼女が降り立った駅が上野駅でした。CG(コンピュータグラフィック)で見事なまでに再現された頭端式のホーム、馬蹄形をしたズラァ~っと居並ぶ改札ラッチ(改札口)、そして天井が高く広大に広がるコンコースには目を奪われました(@_@) まさに往年の上野駅! これこそが上野駅を他の駅とはひと味もふた味も違って見せる最大の特徴ですから。私なんぞ、もうこのシーンを観ただけで、この年の日本アカデミー賞の作品賞はこの『ALWAYS 三丁目の夕日』で決まりだ!(^-^)v…と思ったほどです。
『ALWAYS 三丁目の夕日』で集団就職列車に乗って青森から集団就職で星野六子が上野駅にやってきたのは昭和33年春の設定で、私が初めて上野駅に行ったのはそれから20年後の昭和53年春のこと。20年という月日が流れていましたが、往事の雰囲気は、昭和53年でも十分に残っていました。もちろん電化が進み、蒸気機関車により牽引された列車は既に姿を消していましたが、それに代わってEF58形電気機関車や赤(と言うかピンク色)に塗装された交直両流のEF81形電気機関車が長い編成の客車急行列車を牽引していました。そうそう、当時は嬉しいことに東北本線や常磐線には長距離の普通客車列車が若干数残っていて、そういう列車がホームにしずしずと入線してくると、「まさにこれが上野駅だ!」…と大興奮したものです(^-^)v
この上野駅ですが、駅としての歴史は古く、明治の鉄道黎明期にまで遡ります。当時政府は日本初の鉄道、新橋(現・汐留)~横浜(現・桜木町)間に続く新たな路線を計画していましたが、財政難等によって停滞。そこで民間会社による鉄道建設が提案され、岩倉具視をはじめとする華族等が発起人となって1881年に日本初の“私鉄”である『日本鉄道会社』が設立されました。もともと政府では鉄道局長であった井上勝をはじめとして、「鉄道はすべて国が敷設して、国が保有すべきである」という意見が強かったのですが、西南戦争の出費などで財政が窮乏してしまっていて、民間資本を取り入れて鉄道を敷設することになったわけです。
同社は当初、品川を起点として、この前の1872年に敷設された新橋~横浜間の路線に繋げることを計画していたのですが、地形が起伏に富んで複雑で工期が長くなることが予想されたため、まずは東京の北部にターミナル駅を設け、東北方面への鉄道敷設を急ぐこととなりました。この際、鉄道局長であった井上勝が、現在の上野駅の場所を選んだと言われています。
日本鉄道会社は1883年に上野~熊谷間で営業を開始。上野駅が仮駅舎で営業を始めたのが1885年。この時のプラットホームは僅かに1本でした。その後、線路の敷設や各地に設立された私鉄を買収。現在の東北本線(上野~青森間)や高崎線(大宮~前橋間)、常磐線(日暮里~岩沼間)など、現在のJR東日本の路線の多くを開通させていきました。日本鉄道会社は1906年に国営化されます。
現在の上野駅の駅舎が完成したのは1932年のこと。当時は地平ホーム3面、高架ホーム1面だったのですが、その後改良改築工事が進められ、ホームは最大で高架が1番~12番、地平が13番~20番まで増え、上野を始終点とする長距離列車が多数発着するようになりました。
しかし、その後、新幹線の開業に伴って並行する在来線の特急や急行列車は削減・廃止されていき、まずは東北・上越新幹線の上野延伸に伴い1980年に20番線が廃止、続いて1983年に19番線が廃止、そして長野新幹線が開業した翌年の1999年に18番線も廃止されました。現在の上野駅は在来線が1番~17番、新幹線は19番~22番の総計21線のホーム構成になっています。
そして、先日3月14日、JR東日本は大幅なダイヤ改正を行いました。今回のダイヤ改正の目玉は北陸新幹線(長野~金沢間)の開業です。これにより、東京~金沢間は最速2時間28分、東京~富山間は2時間8分で結ばれるようになります。そしてもう一つの目玉は上野東京ラインの開業で、宇都宮線(東北本線)・高崎線と東海道線が相互直通運転を開始し、常磐線は品川駅までの直通運転を実施することになりました。従来、上野が始終点であった常磐線の特急は品川駅発着になります。これにより、一部、上野駅を始終点とする列車は残りますが、基本的に上野駅は終着駅(Terminal)から通常の通過型の駅(Station)に変更になってしまいました。
今回の上野東京ラインの開業は首都圏で生活をする者にとっては便利になって嬉しいことではあるのですが、ターミナル駅上野をこよなく愛していた者(鉄ちゃん)にとっては、寂しくて仕方ありません。
【追記】
副題の「あゝ上野駅」は、東京オリンピックが開催された1964年に発表された歌謡曲です。当時、埼玉県で銀行員だった関口義明さんがたまたま上野駅で見掛けた集団就職の少年達を題材にして詞を書き、農家向け家庭雑誌『家の光』の懸賞に応募。見事1位入選を果たしたこの歌詞に作曲家の荒井英一さんが曲をつけ、当時ほぼ無名の若手歌手だった青森県弘前市出身の井沢八郎さんが歌い、レコード化されました。発売後まもなく、当時「金の卵」と呼ばれていた集団就職者を中心に幅広い支持と共感を得て、高度経済成長期の世相を描いた代表的なヒット曲となりました。いわゆる団塊の世代を中心に、「心の応援歌」として多くの人々に勇気と感動を与えた楽曲です。
ちなみに歌手の井沢八郎さんは、女優・工藤夕貴さんのお父さんです。
日本で頭端式のホーム構造を持つターミナル駅と呼ぶに相応しい駅は、JR(旧国鉄)よりも私鉄、あるいは私鉄に源を発する鉄道のほうに多く見られます。
日本最大のターミナル駅は大阪にある阪急電鉄の梅田駅で京都線・宝塚線・神戸線各3線ずつの10面9線のホーム構造を持ちます。2番目も同じく大阪にある南海電鉄の難波駅で、高野線と南海線各4線ずつの9面8線のホーム構造を持ちます。
首都圏の私鉄もそれぞれターミナル駅を持っていますが、阪急電鉄梅田駅や南海電鉄難波駅と比べると、残念ながら規模は劣ります。東武鉄道の池袋駅は3面3線、浅草駅は3面4線に過ぎず、むしろ一番大きいのは東武日光駅の3面5線です。西武鉄道の場合、池袋駅が4面4線でそれなりの規模なのですが、それよりも規模が大きいのが西武球場前駅で、4面8線のホーム構造を持ち、この西武球場前駅が東日本最大のターミナル駅であると言うこともできます。東急電鉄で最大のターミナル駅は実は多摩川線と池上線の終点である蒲田駅で5面4線。京王電鉄の新宿駅は3面3線ですが、大きそうに思える小田急電鉄の新宿駅も7面5線(2層構造)です。
JRではこれがなかなか見つからず、実は一番規模が大きいのが私の故郷四国にあるJR四国の高松駅なんです。この高松駅、予讃線(土讃線、瀬戸大橋線を含む)、高徳線の発着駅で4面9線という頭端式のホームを持つ堂々たるターミナル駅構造を有しています。次に規模が大きいのがJR北海道の函館駅。ここも4面8線の頭端式のホームを持つターミナル駅構造の駅です。この高松駅と函館駅に共通するのは、どちらもかつては連絡船の乗換駅だったということ。高松駅の場合は本州と四国を結ぶ宇高連絡船があって、本州(本州側の乗換駅は岡山県の宇野駅)から連絡船でやって来た乗客は、ここ高松駅でずらりと並ぶ松山(愛媛県)、高知、徳島といった四国の各方面に向かう列車に乗り換えました。函館駅も同様で、青函連絡船を利用して本州(本州側の乗換駅は青森駅)から連絡船でやって来た乗客は、ここ函館駅でホームにずらりと並ぶ北海道各地へ向かう列車に乗り換えました。どちらも連絡船はなくなりましたが、その当時の名残りが今も頭端式のホームの構造とともに色濃く残っています。
そして、首都圏。首都圏のJR(JR東日本)で最大の頭端式のホーム構造を持つターミナル駅と言えば、皆さんよく御存知の上野駅です。上野駅も今では通過型のホームが多くなりましたが、地上3面5線、高架2面3線(合計5面8線)の規模の頭端式のホームを有しています。
路線距離が比較的短い私鉄と異なりJR(旧国鉄)の路線は運行距離の長い路線が多く、頭端式のホーム構造を持つターミナル駅にはどこも独特の非日常と言い表してもいいほどの“旅情”が漂っています。連絡船の乗換駅である高松駅と函館駅は、それぞれ四国と北海道の表玄関としての風情、そして上野駅には首都東京の北からの玄関としての風情がありました。
特に旅情という点で言えば、上野駅が日本で一番のターミナル駅だと私は思っています。就職して東京に出てきた時、皇居や東京タワー、浅草等の観光名所をさておいて、私が一番最初に見学に行った先が上野駅でした(鉄ちゃんですから、当然と言えば当然のことでした)。その時に感じた衝撃と感動は今でも鮮明に覚えています。
当時はまだ東北・上越新幹線は開業しておらず、上野駅の頭端式の櫛形になったホームには、東北本線や常磐線経由で青森や秋田、盛岡、仙台山形、福島といった東北方面に向かう特急や急行列車、高崎線、信越本線、上越線経由で新潟や長野、金沢といった上信越方面に向かう特急や急行列車等がズラァ~っと並び、それらがひっきりなしに発着していました。特に夕方。各方面に向かう夜行寝台列車が並ぶ光景には、大興奮したものです。
また、ホームでそれらの列車の発車を待つ、あるいは、到着したそれらの列車からホームに降り立った乗客の姿には東京駅にはない独特の雰囲気があって、これにも興奮したものです。発着する車両も、特急電車だけに限っても直流用の181系・183系・189系、交流直流両用の483系・485系・489系、世界に類がない夜行・昼行兼用寝台電車583系…と実にバリエーションに富んでいて、これに直流用急行電車の165系、交直流両用急行電車の451系・453系等も加わるので、色とりどりでした。また、行き先も青森、秋田、盛岡、仙台、山形、新潟、長野、金沢…と実にバラエティに富んでいて、行き先の案内表示を見たり案内放送を聴いたりするだけで、いやがうえにも旅情が掻き立てられて、最高でした。週末の土曜日曜など、朝からまるまる1日上野駅で過ごしたこともありましたが、まったく飽きませんでした。
吉岡秀隆さん・小雪さん主演、堤真一さん・薬師丸ひろ子さん助演で2005年に公開され大ヒットした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』。この映画は西岸良平さんの漫画『三丁目の夕日』(ビッグコミック・オリジナル)を原作とした作品だったのですが、その映画の冒頭近くで、堀北真希さん演じる六ちゃんこと星野六子(むつこ)が青森から集団就職で上京してくるシーンがありました。彼女が乗ってきた焦げ茶色の客車列車を牽引していたのがC62形蒸気機関車。これには鉄道マニアとして泣かされました(T-T)。そして上京してきた彼女が降り立った駅が上野駅でした。CG(コンピュータグラフィック)で見事なまでに再現された頭端式のホーム、馬蹄形をしたズラァ~っと居並ぶ改札ラッチ(改札口)、そして天井が高く広大に広がるコンコースには目を奪われました(@_@) まさに往年の上野駅! これこそが上野駅を他の駅とはひと味もふた味も違って見せる最大の特徴ですから。私なんぞ、もうこのシーンを観ただけで、この年の日本アカデミー賞の作品賞はこの『ALWAYS 三丁目の夕日』で決まりだ!(^-^)v…と思ったほどです。
『ALWAYS 三丁目の夕日』で集団就職列車に乗って青森から集団就職で星野六子が上野駅にやってきたのは昭和33年春の設定で、私が初めて上野駅に行ったのはそれから20年後の昭和53年春のこと。20年という月日が流れていましたが、往事の雰囲気は、昭和53年でも十分に残っていました。もちろん電化が進み、蒸気機関車により牽引された列車は既に姿を消していましたが、それに代わってEF58形電気機関車や赤(と言うかピンク色)に塗装された交直両流のEF81形電気機関車が長い編成の客車急行列車を牽引していました。そうそう、当時は嬉しいことに東北本線や常磐線には長距離の普通客車列車が若干数残っていて、そういう列車がホームにしずしずと入線してくると、「まさにこれが上野駅だ!」…と大興奮したものです(^-^)v
この上野駅ですが、駅としての歴史は古く、明治の鉄道黎明期にまで遡ります。当時政府は日本初の鉄道、新橋(現・汐留)~横浜(現・桜木町)間に続く新たな路線を計画していましたが、財政難等によって停滞。そこで民間会社による鉄道建設が提案され、岩倉具視をはじめとする華族等が発起人となって1881年に日本初の“私鉄”である『日本鉄道会社』が設立されました。もともと政府では鉄道局長であった井上勝をはじめとして、「鉄道はすべて国が敷設して、国が保有すべきである」という意見が強かったのですが、西南戦争の出費などで財政が窮乏してしまっていて、民間資本を取り入れて鉄道を敷設することになったわけです。
同社は当初、品川を起点として、この前の1872年に敷設された新橋~横浜間の路線に繋げることを計画していたのですが、地形が起伏に富んで複雑で工期が長くなることが予想されたため、まずは東京の北部にターミナル駅を設け、東北方面への鉄道敷設を急ぐこととなりました。この際、鉄道局長であった井上勝が、現在の上野駅の場所を選んだと言われています。
日本鉄道会社は1883年に上野~熊谷間で営業を開始。上野駅が仮駅舎で営業を始めたのが1885年。この時のプラットホームは僅かに1本でした。その後、線路の敷設や各地に設立された私鉄を買収。現在の東北本線(上野~青森間)や高崎線(大宮~前橋間)、常磐線(日暮里~岩沼間)など、現在のJR東日本の路線の多くを開通させていきました。日本鉄道会社は1906年に国営化されます。
現在の上野駅の駅舎が完成したのは1932年のこと。当時は地平ホーム3面、高架ホーム1面だったのですが、その後改良改築工事が進められ、ホームは最大で高架が1番~12番、地平が13番~20番まで増え、上野を始終点とする長距離列車が多数発着するようになりました。
しかし、その後、新幹線の開業に伴って並行する在来線の特急や急行列車は削減・廃止されていき、まずは東北・上越新幹線の上野延伸に伴い1980年に20番線が廃止、続いて1983年に19番線が廃止、そして長野新幹線が開業した翌年の1999年に18番線も廃止されました。現在の上野駅は在来線が1番~17番、新幹線は19番~22番の総計21線のホーム構成になっています。
そして、先日3月14日、JR東日本は大幅なダイヤ改正を行いました。今回のダイヤ改正の目玉は北陸新幹線(長野~金沢間)の開業です。これにより、東京~金沢間は最速2時間28分、東京~富山間は2時間8分で結ばれるようになります。そしてもう一つの目玉は上野東京ラインの開業で、宇都宮線(東北本線)・高崎線と東海道線が相互直通運転を開始し、常磐線は品川駅までの直通運転を実施することになりました。従来、上野が始終点であった常磐線の特急は品川駅発着になります。これにより、一部、上野駅を始終点とする列車は残りますが、基本的に上野駅は終着駅(Terminal)から通常の通過型の駅(Station)に変更になってしまいました。
今回の上野東京ラインの開業は首都圏で生活をする者にとっては便利になって嬉しいことではあるのですが、ターミナル駅上野をこよなく愛していた者(鉄ちゃん)にとっては、寂しくて仕方ありません。
【追記】
副題の「あゝ上野駅」は、東京オリンピックが開催された1964年に発表された歌謡曲です。当時、埼玉県で銀行員だった関口義明さんがたまたま上野駅で見掛けた集団就職の少年達を題材にして詞を書き、農家向け家庭雑誌『家の光』の懸賞に応募。見事1位入選を果たしたこの歌詞に作曲家の荒井英一さんが曲をつけ、当時ほぼ無名の若手歌手だった青森県弘前市出身の井沢八郎さんが歌い、レコード化されました。発売後まもなく、当時「金の卵」と呼ばれていた集団就職者を中心に幅広い支持と共感を得て、高度経済成長期の世相を描いた代表的なヒット曲となりました。いわゆる団塊の世代を中心に、「心の応援歌」として多くの人々に勇気と感動を与えた楽曲です。
ちなみに歌手の井沢八郎さんは、女優・工藤夕貴さんのお父さんです。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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