2015/06/24
歴史の捉え方(その2)
次に②についてです。
②“結果”から歴史を見ようとすると、捉え方を間違える危険性が高い。
理由など後からどうとでも付けられる。それでは真実は見えてこない。今、学校で習う歴史の多くは、後世の人(特に流行作家)の頭の中で類推したものが多いということです。
この例として松平さんが挙げられたのも、同じく織田信長。
織田信長と言えば、『長篠の合戦』という合戦があります。この『長篠の合戦』とは、天正3年5月21日(西暦1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8,000と、武田勝頼軍1万5,000との間で激突した戦いのことです。決戦地が設楽原だったため長篠設楽原の合戦と呼ぶ場合もあります。
歴史の教科書によると、この『長篠の合戦』において、織田・徳川連合軍は当時の最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意し、さらに新戦法の“三段撃ち”なる戦法を実行したため、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられ、武田軍は大敗北を喫し、これを契機に武田家は滅亡していったとされていますが、これってどこまで本当のことなのでしょうか?
特に「織田・徳川連合軍が当時の最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意し、さらに新戦法の“三段撃ち”なる戦法を実行した」ってくだり。本当に織田・徳川連合軍はこの『長篠の合戦』で鉄砲を主武器にして戦ったのか?…これは甚だ疑問の残るところです。
まず注目すべきは戦闘のあった日付。旧暦の5月21日とされていますが、これを今の新暦に直すと6月29日です。こんな6月の終わり頃の日本の気象の特徴と言えば“梅雨”。6月の終わり頃と言えば梅雨の最後の頃で、松平さんと同様にこの点に疑問を持った地元名古屋の中京大学の先生が地元の歴史書を片っ端から調べたところ、この天正3年(西暦1575年)という年はことのほか雨の多かった年だったということが判ったそうなんです。
また、戦場となった長篠(現愛知県新城市長篠)の当日の天気はわかりませんが、今の名古屋市の中心部は戦闘前日の5月20日(今の暦だと6月28日)が大雨だったという記録が見つかったそうなんです。名古屋市中心部から新城市なんて直線距離だとさして離れてはおりません。なので少なくとも前日は戦場付近は大雨が降って、グッチャグチャの泥に覆われたような状態だったことが容易に想像できます。
今は灌漑がちゃんとできているので、大雨が降ってもすぐに降ってきた雨水をどこか別のところに持っていって活用するなんてこともできるのですが、当時はそんなものはなくて、自然に任せるしかなかった筈なんです。なので、梅雨の終わり頃の時期なんて、泥地と言うよりも、極端に言うと“沼地”と呼ぶに相応しいような状況になっていたとも想像できます。
いっぽうで、当時の鉄砲の状況ですが、ポルトガル船によって種子島に鉄砲が伝来したのが1543年8月のことなので、『長篠の合戦』の30年以上前のことです。30年もの時間があると、手先の器用な日本人のこと、自らも生産することはできるようになっていたであろうし、ポルトガルやスペインの商人にとっては戦国時代ということでお得意様がいっぱいなので、大量に日本に鉄砲を持ち込んではいたので、織田信長の軍勢が3,000丁もの鉄砲を用意していたということは何も驚くことではなく、至極当然のことのように思えます。
問題は、その鉄砲を『長篠の合戦』に主武器として使ったのかどうかってこと。これは甚だ疑問の残るところです。
当時の鉄砲は今のように引き金を引きさえすれば「バーン!」と弾が出て、相手を殺傷できるってようなものではありませんでした。いわゆる『火縄銃』。この初期の銃の発射構造は、バネ仕掛けに火縄を挟んで保持しておき、発射時には火縄に火をつけ、引き金を引いてバネ仕掛けを作動させ、発射薬に点火するようになっていました。なので、引き金を引いたらすぐに「バーン!」と弾が出るわけではなく、火縄で火薬に引火させるための若干の時間差があったのです。当然、火縄や火薬が雨で湿って点火できなかったら弾は出ません。
しかも、当時の火縄銃の有効射程距離は50メートルか100メートルほどのもの。よっぽど敵を手前に引き付けて発射しないと相手を殺傷することはできません。50メートルから100メートルと言えば、武田軍が誇る騎馬軍団の馬が疾走する速さならほんの数秒。確実に弾が発射されないとなると、鉄砲隊など無力です。当時の鉄砲は、至近距離からの狙撃か、轟音で馬を驚かせて隊列を乱させるために使用するくらいでした。
雨が降り続いてドロドロの沼地のような戦場でそんな不確実な武器を天下分け目とも言える当時最強と言われた武田軍との戦いに主武器として使うのはあまりにリスキーなことです。織田信長と言えども、そんな冒険は冒さなかった筈です。
これはおそらく、当時天下無敵と恐れられた騎馬軍団を有する武田軍が、新興勢力の織田・徳川連合軍に三河の長篠というところで繰り広げられた合戦で破れたという事実、すなわち“結果”だけが先にあって、なぜあの最強の武田軍が破れたのかという理由を後から後世の人達が勝手に理由付けしただけのことだと思います。あの武田騎馬軍団が負けるのは織田信長軍が鉄砲という最新兵器を上手に使ったからに違いない。そのほかには考えられない…とね。
実際はおそらく織田・徳川連合軍が武田軍を巧く沼地のような長篠一帯に誘き出した“諜略”の勝利というのが正解なのかもしれません。
このように、“結果”だけから歴史を見ようとすると、捉え方を間違える危険性が高いってことのようです。
最後に松平さんは次のようなことをおっしゃって、講演を〆られました。
●歴史は壮大な人間ドラマである。
●想像の輪をできるだけ広げることが大事
●資料に書いてあるから本当だと思うこと、また反対に、書いていないからなかったことだと思うこと、これは大きな間違いで、大変に危険なことである。
この3点を含め、今回松平さんが講演で述べられたことは日本史や世界史といった“歴史”に限ったことではなく、新聞やテレビの報道等で“現代”を読み解く上でも忘れてはならないことだと思います。真実を追求するジャーナリストとしての松平さんの姿勢を垣間見た感じがします。
これは我々の日常のビジネスにおいても、マーケットを捉える上で大いに参考になることだ…と私は思いました。
大変有意義な素晴らしい講演を聴かせていただきました(^.^)
【追記】
私は高校時代、日本史や世界史といった社会科の歴史科目が大の苦手だったのですが、その時漠然として思っていた疑問を、松平さんは明確に言っていただきました。「それって本当のことなのか? 誰も見ていないのに」
そう、その通りだ!…と大いに納得しちゃいました。
今なら歴史を得意科目にできそうです。試験で点が取れるかどうかは別にして(^^;
②“結果”から歴史を見ようとすると、捉え方を間違える危険性が高い。
理由など後からどうとでも付けられる。それでは真実は見えてこない。今、学校で習う歴史の多くは、後世の人(特に流行作家)の頭の中で類推したものが多いということです。
この例として松平さんが挙げられたのも、同じく織田信長。
織田信長と言えば、『長篠の合戦』という合戦があります。この『長篠の合戦』とは、天正3年5月21日(西暦1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8,000と、武田勝頼軍1万5,000との間で激突した戦いのことです。決戦地が設楽原だったため長篠設楽原の合戦と呼ぶ場合もあります。
歴史の教科書によると、この『長篠の合戦』において、織田・徳川連合軍は当時の最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意し、さらに新戦法の“三段撃ち”なる戦法を実行したため、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられ、武田軍は大敗北を喫し、これを契機に武田家は滅亡していったとされていますが、これってどこまで本当のことなのでしょうか?
特に「織田・徳川連合軍が当時の最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意し、さらに新戦法の“三段撃ち”なる戦法を実行した」ってくだり。本当に織田・徳川連合軍はこの『長篠の合戦』で鉄砲を主武器にして戦ったのか?…これは甚だ疑問の残るところです。
まず注目すべきは戦闘のあった日付。旧暦の5月21日とされていますが、これを今の新暦に直すと6月29日です。こんな6月の終わり頃の日本の気象の特徴と言えば“梅雨”。6月の終わり頃と言えば梅雨の最後の頃で、松平さんと同様にこの点に疑問を持った地元名古屋の中京大学の先生が地元の歴史書を片っ端から調べたところ、この天正3年(西暦1575年)という年はことのほか雨の多かった年だったということが判ったそうなんです。
また、戦場となった長篠(現愛知県新城市長篠)の当日の天気はわかりませんが、今の名古屋市の中心部は戦闘前日の5月20日(今の暦だと6月28日)が大雨だったという記録が見つかったそうなんです。名古屋市中心部から新城市なんて直線距離だとさして離れてはおりません。なので少なくとも前日は戦場付近は大雨が降って、グッチャグチャの泥に覆われたような状態だったことが容易に想像できます。
今は灌漑がちゃんとできているので、大雨が降ってもすぐに降ってきた雨水をどこか別のところに持っていって活用するなんてこともできるのですが、当時はそんなものはなくて、自然に任せるしかなかった筈なんです。なので、梅雨の終わり頃の時期なんて、泥地と言うよりも、極端に言うと“沼地”と呼ぶに相応しいような状況になっていたとも想像できます。
いっぽうで、当時の鉄砲の状況ですが、ポルトガル船によって種子島に鉄砲が伝来したのが1543年8月のことなので、『長篠の合戦』の30年以上前のことです。30年もの時間があると、手先の器用な日本人のこと、自らも生産することはできるようになっていたであろうし、ポルトガルやスペインの商人にとっては戦国時代ということでお得意様がいっぱいなので、大量に日本に鉄砲を持ち込んではいたので、織田信長の軍勢が3,000丁もの鉄砲を用意していたということは何も驚くことではなく、至極当然のことのように思えます。
問題は、その鉄砲を『長篠の合戦』に主武器として使ったのかどうかってこと。これは甚だ疑問の残るところです。
当時の鉄砲は今のように引き金を引きさえすれば「バーン!」と弾が出て、相手を殺傷できるってようなものではありませんでした。いわゆる『火縄銃』。この初期の銃の発射構造は、バネ仕掛けに火縄を挟んで保持しておき、発射時には火縄に火をつけ、引き金を引いてバネ仕掛けを作動させ、発射薬に点火するようになっていました。なので、引き金を引いたらすぐに「バーン!」と弾が出るわけではなく、火縄で火薬に引火させるための若干の時間差があったのです。当然、火縄や火薬が雨で湿って点火できなかったら弾は出ません。
しかも、当時の火縄銃の有効射程距離は50メートルか100メートルほどのもの。よっぽど敵を手前に引き付けて発射しないと相手を殺傷することはできません。50メートルから100メートルと言えば、武田軍が誇る騎馬軍団の馬が疾走する速さならほんの数秒。確実に弾が発射されないとなると、鉄砲隊など無力です。当時の鉄砲は、至近距離からの狙撃か、轟音で馬を驚かせて隊列を乱させるために使用するくらいでした。
雨が降り続いてドロドロの沼地のような戦場でそんな不確実な武器を天下分け目とも言える当時最強と言われた武田軍との戦いに主武器として使うのはあまりにリスキーなことです。織田信長と言えども、そんな冒険は冒さなかった筈です。
これはおそらく、当時天下無敵と恐れられた騎馬軍団を有する武田軍が、新興勢力の織田・徳川連合軍に三河の長篠というところで繰り広げられた合戦で破れたという事実、すなわち“結果”だけが先にあって、なぜあの最強の武田軍が破れたのかという理由を後から後世の人達が勝手に理由付けしただけのことだと思います。あの武田騎馬軍団が負けるのは織田信長軍が鉄砲という最新兵器を上手に使ったからに違いない。そのほかには考えられない…とね。
実際はおそらく織田・徳川連合軍が武田軍を巧く沼地のような長篠一帯に誘き出した“諜略”の勝利というのが正解なのかもしれません。
このように、“結果”だけから歴史を見ようとすると、捉え方を間違える危険性が高いってことのようです。
最後に松平さんは次のようなことをおっしゃって、講演を〆られました。
●歴史は壮大な人間ドラマである。
●想像の輪をできるだけ広げることが大事
●資料に書いてあるから本当だと思うこと、また反対に、書いていないからなかったことだと思うこと、これは大きな間違いで、大変に危険なことである。
この3点を含め、今回松平さんが講演で述べられたことは日本史や世界史といった“歴史”に限ったことではなく、新聞やテレビの報道等で“現代”を読み解く上でも忘れてはならないことだと思います。真実を追求するジャーナリストとしての松平さんの姿勢を垣間見た感じがします。
これは我々の日常のビジネスにおいても、マーケットを捉える上で大いに参考になることだ…と私は思いました。
大変有意義な素晴らしい講演を聴かせていただきました(^.^)
【追記】
私は高校時代、日本史や世界史といった社会科の歴史科目が大の苦手だったのですが、その時漠然として思っていた疑問を、松平さんは明確に言っていただきました。「それって本当のことなのか? 誰も見ていないのに」
そう、その通りだ!…と大いに納得しちゃいました。
今なら歴史を得意科目にできそうです。試験で点が取れるかどうかは別にして(^^;
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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