2016/03/23

ミシンの中の青春 ~動員女学生の手記~

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今年87歳になる実家(愛媛県松山市)の母から預かって、読んでいる本があります。本の題名は『ミシンの中の青春 ~動員女学生の手記~』。この本は母と同じ愛媛県立西条高等女学校(現・西条高校…時々野球の甲子園大会に出場する高校です)の第38回生の有志が寄稿して、10年前の平成17年に自費出版した本なのだそうです。

私の母は昭和4年の生まれですので、母達が小学校を卒業して高等女学校に進学したのは昭和16年のことです。昭和16年というと、昭和12年に起きた盧溝橋事件を発端として、既に中国大陸の北支(北支那、現中国の華北地方)周辺では日本と中華民国の間で支那事変と呼ばれる長期間かつ大規模な戦闘が繰り広げられていて、戦時色が濃くなる中、ついに12月8日、日本はハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、太平洋戦争に突入した年にあたります。

従って、母達はせっかく希望に胸を膨らませて高等女学校に進学したものの、憧れのセーラー服を着ての女学生生活は入学したての1年生の秋くらいまでで、徐々に勉強よりも竹やり訓練やバケツリレー等の練習、また勤労奉仕に駆り出されての農家の手伝い等の時間が増えていったようです。そのうちに戦局も次第に厳しくなり、母達が通う西条高等女学校自体が軍需工場となり、白いハチマキにモンペ姿で「勝つまで頑張ろう!」と夏季休暇も返上して、袴下(こした:南方の兵士用の軍服のズボン)の生産に、ミシンを踏む毎日を送ったようです。それも昭和20年8月15日の終戦の日まで…。

あれから70年(この本を自費出版した当時は60年)、世界各地、特に中近東では戦火は絶えず、今なお多くの人が爆撃を受け苦しんでいます。そういう中、喜寿(77歳・当時)を迎えた母達が、その記念に、自分達が体験した戦争の怖ろしさ、悲惨さを二度と再び子や孫達には体験させてはならないとの思いから、戦中の女学生生活を思い起こして手記を集め、文集を作ろうと計画し、自費出版まで漕ぎ着けた本なのだそうです。

母達が女学生生活を送ったのは愛媛県西条市。隣の新居浜市には別子銅山があるものの、軍事基地もない四国の片田舎の街だったので、母の言葉を聞くと、警戒警報や空襲警報のサイレンはたびたび鳴ったものの、爆弾の下を逃げ回る恐怖を感じたことはなかったということのようです。また、乏しい配給制の食糧難は日本中いずこも同じようではあったものの、都会と田舎では比べものにならず、田舎にはどこにもカボチャやトマトを作る多少の土地があり、頼めば何とか食料を融通してくれる親戚や知人もいて、お粥やお芋ばかりを食べていても、それほど差し迫った感じはなかったということのようです。しかも、学校自体が軍需工場になったので、動員で都会の軍需工場に勤め、たびたび空襲の危険に晒された人達から見れば、生ぬるい生活だったかもしれないと母は謙遜して言っていますが、それでも今の時代と比べると、大変な苦労だったと思います。

私の母も「学徒動員と通学の思い出」と題した3ページにわたる手記を寄稿しています。もちろん私は一番最初に読んだのですが、あまりに文章が上手くて、ビックリしてしまいました。母がこんなに文章が上手かったとは…。もし、私に作文の才能というものがあるとするならば、それは間違いなく母から遺伝で貰ったものではないか…と思ってしまいます。

「さあ今日も頑張ろうと、鉢巻をしめて、ミシンを踏む。教室で動力ミシンの音がごうごうと響き出した。軍服といっても国防色の柔かい木綿の生地で、袴下(こした)と言っていた。これは南方で着用するみたいね等と言いながら縫った。」……で始まる母の文章は、慣れない動力ミシンと格闘する若き母の様子がいきいきと描かれています。「当時は簡単なミシンの修理は自分で出来るようになっていた」とも書かれています。私が子供の頃、足踏みミシンで上手に私の着る服を縫ってくれたり、毛糸の編み機や編み針で器用にセーターを編んでくれていた母の原点を見たような気がしました。

通学の思い出のところでは、母のある日の通学の時の様子が描かれています。当時、母は国鉄(現JR四国)の予讃本線で学校の最寄駅である伊予西条駅から1駅隣にある新居浜市中萩に住んでいたので、通学には汽車を利用していました。1駅といっても伊予西条駅と中萩駅の間は駅間の距離が離れていて、歩くとなるととても大変な距離です。

「昭和20年の7月頃になると通学列車が不足がちで大変だった。その日もいつものように6時30分頃に家を出て駅に行った。やっぱり客車不足で貨物車が連結されてきた。学生はその窓のない貨物車に乗った。うす暗くて蒸し暑いが一駅だけなので、皆んな我慢ができた。(中略) 午後の作業を終えて汽車通学の友人と駅に行ったら、午前中の空襲で上り下りとも列車が遅れて、駅前がごった返していた。いつ列車が到着するか分からないので友達と相談して歩いて帰ることに決める。」……で始まり、真夏の太陽がギラギラと照りつける中、友人達とワイワイガヤガヤと喋りながら線路の上を歩いたり、土手を歩いたり、なんとなんと高所恐怖症の母からは想像できないことですが、足がすくむ中、鉄橋を渡ったりして自宅に帰りつくまでのことを鮮明に描いています。また、そんな苦労をしながらも、4年間1日も休まずに皆勤賞を貰ったということを母は最期に書いて締め括っています。母は当時は13歳~16歳。頑張り屋さんの母に頭が下がります。

紀行文とも言えるその道中記のあまりの文章の上手さに、私が紀行文を得意としているのは、きっと母から受け継いだ遺伝子のおかげか…とも思ってしまいました。最近の母は、私が地元の愛媛新聞社から依頼されて、同社が運営する会員制経済サイト『E4(いーよん)』に毎月連載しているコラム「晴れ時々ちょっと横道」を楽しみにしてくれていて、毎月掲載されるたびにそれをプリントアウトして郵送してあげると、電話でその感想がすぐに返ってきます。特に、私があくまでも理系のコンピュータエンジニアの視点から大胆すぎるくらいに大胆な仮説を設けて歴史(特に地元愛媛県や四国の歴史)の謎を解説する「理系の歴史解明シリーズ」がお気に入りのようで、常に「面白い!」と言ってくれています。「よくあんな長い文章を次から次へと思いついて書けるものだわねぇ~」と感心してくれるのですが、母のこの文章を読んでからは、「これはお母さんのおかげ」と秘かに思うようにしています。ホントいろいろな意味で感謝感謝です。

この本には、母と同じ西条高等女学校第38回生の193名の卒業生の中から40名の方が寄稿された手記が載っています。その全てを読ませていただきました。内容が被らないように上手く編集しているのか、当時の生活が40名の方の様々な切り口から描かれていて、全部を読むことで当時の女学生達の生活の様子が鮮明に蘇ってくる感じがします。60年以上昔のことを非常に細かいところまでよく記憶されていて、驚かされます。中には当時の日記をそのままお持ちの方も2、3人いらっしゃって、その当時の日記から抜粋して書かれている方もいらっしゃいます。これはビビッドです。

何人もの方の手記の中に「和田先生」と言う先生のお名前が登場してきます。和田先生は勉強をしたくても出来なかった当時の女学生達に小説や万葉集を読んで励まして下さったり、短歌の手ほどきをしてくださったりしたようで、その和田先生の影響からか、手記の中にご自身で詠まれた短歌を載せておられる方が何人もいらっしゃいます。どの方も総じて文章が上手く、これには驚かされます。77歳の素人のオバチャンが書いた文章とはとても思えません。戦前の日本の学校教育のレベルの高さのようなものを心底感じてしまいました。凄いことです。今の若い人にこれほどの文章が書ける人が何人いるだろうか…と思ってしまうほどです。

この『ミシンの中の青春 ~動員女学生の手記~』、間違いなく母の宝物の中の宝物でしょうから、今度松山に帰った時に、母にお返ししたいと思っています。素晴らしい本を読ませていただきました。母達がこの本に込めた思いを、私も受け継いでいきたいと思っています。