2016/07/04

中山道六十九次・街道歩き【第2回: 板橋→蕨】(その1)

 『中山道六十九次・街道歩き』の第2回に参加して来ました。第2回は中山道最初の宿場町・板橋宿から2番目の宿場町・蕨宿までの約11kmの区間を歩くのですが、今回は東京都を抜けて埼玉県に入ります。私は埼玉県さいたま市に住んで今年で28年になるのですが、28年間も住んでいてもずっと“埼玉都民”として過ごしてきましたので、哀しいかな地元とは言え埼玉県のことはほとんど知りません。今回、『街道歩き』のリアル「ブラタモリ」を通して、地元埼玉県のことを歴史の側面から勉強したいと思っています。

 第2回のスタートは前回のゴールだったJR埼京線の板橋駅西口を出てすぐの児童公園です。この日も大勢の方が参加しています。スタッフの方に聞くとこの日の参加者も約100名なのだそうです。この日も約30名~40名ずつの班構成で、15分ずつ時間をズラしてのスタート。私達はその第2班です。前回同様、受付を済ませると、ウォーキングリーダーからコース説明を聞き、あとは入念にストレッチ体操です。前回の経験から言うと、約11kmの歩行と言っても運動不足の身体にはちとキツいところがありますから。

 午前10時00分頃に児童公園を出発。基本2列の隊列を組んで、旧中山道を北西方向に進みます。板橋宿はこのJR板橋駅付近ではなくて、旧中山道をもうちょっと行った先にあります。第1回ではJR板橋駅の東口を出たすぐのところに新撰組の局長だった近藤勇が斬首された処刑場の跡と、供養塔があることを知りました。処刑場が宿場の真ん中にある筈もなく、このJR板橋駅付近は板橋宿の外れだったことが分かります。

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 出発して間もなく、国道17号線(現在の中山道)を横切ると板橋宿の入口になります。宿内の旧中山道は今は商店街になっていますが、かつてはここが中山道随一の賑わいを見せた板橋宿でした。

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 板橋宿は江戸の玄関口である「江戸四宿」の一つで、中山道の起点である江戸・日本橋より2里のところにあります。この入口から平尾宿(ひらおしゅく: 現在の板橋)、中宿(なかじゅく、現在の仲宿)、上宿(かみしゅく: 現在の本町)に分かれ、この三宿を総称して板橋宿と呼ばれていました。それぞれの宿には名主が置かれ独立した自治が行われていたようですが、中心は本陣や問屋場、旅籠等が軒を並べる中宿でした。上宿と中宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川で、中宿と平尾宿の境目は観明寺付近にありました。本陣は中宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつの計3軒が設けられ、総計54軒の旅籠(はたご)がありました。 板橋宿の中心的存在であった中宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋(警察官の詰め所)等がありました。 また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿といった一般庶民向けの宿泊施設が建ち並んでいました。この板橋宿は江戸の北の境界にもあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側(南側)をもって「江戸御府内」、「朱引き」、すなわち「江戸」として扱われていました。

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 日本橋を出てから最初の宿場と言っても、江戸を出た人がまず板橋宿に泊まったというわけではありません。たいした交通機関がなかった時代、昔の人は健脚揃いだったようで、1日に30~40kmは歩いて移動していたようで、朝早く日本橋(江戸)を出た旅人はその日のうちに上尾宿や桶川宿あたりまで移動したそうです。なので、板橋宿を宿所として利用する人は主に京都方から江戸に向かう人達に限られ、江戸から京都方に向かう人達にとっては途中の休憩所のような位置付けのところでした。

 江戸時代には日本橋が「五街道」と呼ばれる各主要街道の形式上の起点ではありましたが、実際の旅の起点・終点としての機能は「江戸四宿」と呼ばれる品川宿(東海道)、千住宿(奥州街道&日光街道)、内藤新宿(甲州街道)、そして、板橋宿(中山道)が機能していました。 今の東京駅や新宿駅、上野駅と同じようなものだったと捉えればよろしいかと思います。これらの各宿場には上記のような宿泊施設に加えて、茶屋や酒楼、飯盛旅籠(いいもりはたご)も多くあり、旅人のみならず見送り人や飯盛女(宿場女郎)目当ての客なども取り込んで、たいそうな賑わいを見せました。

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 板橋宿は第一に中山道の宿場ではありますが、脇往還として江戸側から分岐する川越街道が平尾宿を起点としていて、平尾追分(分岐点)と呼ばれていました。 下の写真で真っ直ぐ延びるのが中山道で、左手の現在の中山道方向に分かれるのが旧川越街道です。また、日本橋から2里の平尾宿には道中2つ目の一里塚(平尾の一里塚)があったのですが、今は何も残されていません。

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 平尾宿と中宿との境目にある観明寺、この寺の入り口には寛文元年(1661年)に建立されたという庚申塔があります。ウォーキングリーダーの説明によれば青銅金剛像としては都内最古のものだそうです。境内の稲荷神社は、板橋にあった加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷のうちの一社で、明治になって遷されたものなのだそうです。また、本郷の東大キャンパスのものを小振りにしたような赤門も加賀藩下屋敷にあったものを移したものだそうです。加賀藩の下屋敷跡には板橋区加賀という地名が残されていて(東京家政大学や帝京大学医学部あたり。金沢小学校と言う小学校まであります)、加賀藩下屋敷はそうとう広い面積の屋敷でした(屋敷というよりも加賀藩の租界って感じですね)。さすがは外様大名随一の規模(102万5千石)を誇る加賀藩前田家です。

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 平尾宿の脇本陣豊田家の跡です。豊田家は平尾宿の名主を務めた家で、代々市右衛門を名乗っていました。天正18年(1590年)に徳川家康の関東入国に際し、三河の国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、“平尾の玄関”と呼ばれていました。慶応4年(1868年)4月、下総流山で新政府軍に捕えられた新選組の局長・近藤勇は、現在のJR板橋駅付近にあった処刑場で斬首されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。

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 いたばし観光センターに立ち寄って、板橋宿が栄えた当時の資料を幾つか見学しました。

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 中宿(現在の仲宿)に入ります。旧中山道は、現在は商店街になっています。緩やかなカーブに往時が偲ばれます。

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 中宿にある遍照寺です。この寺は江戸時代は、このあたり一帯で唯一の天台宗の寺院だったのですが、明治4年に廃寺となり、昭和22年に真言宗寺院として一度は復活したのですが、現在は再び廃寺になっています。この寺の境内は、宿場時代の馬継ぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などがここに繋がれていました。馬頭観音等が遺されています。

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 板橋宿の本陣・飯田新左衛門家の跡です。本陣とは一般的には街道を通行する大名等の休泊施設のことです。大名の旅は戦さと同じで、大将のいる本営を本陣と呼びました。大名や貴人の宿舎で門・玄関・上段の間を有し、格式が高いものでした。本陣を補う制度として脇本陣がありますが、いずれも大名・貴人・幕府の命を授かった人達には無料で奉仕されたのだそうです。本陣は、地元の相当な資産家でなければ続けることが出来なかったことでしょうね。本陣は一般的には街道を通行する大名等の休泊施設と書きましたが、日本橋より2里半(約10km)の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用されました。また、その際には藩主と江戸詰めの家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたようです。この家は、宝永元年(1704年)、飯田本家より別家し、その際に世襲名「新左衛門」と本陣・問屋役を引き継いでいます。この本陣・飯田新左衛門家、当時は広大な土地を保有していたようで、中山道に面した本陣の建物が置かれていたあたりは、今はライフ仲宿店になっています。また、飯田本家は同じく中宿で脇本陣を務めていました。

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 幕末の戊辰戦争のおり、江戸を目指して中山道と甲州街道を東進してきた新政府軍(官軍)の先遣隊(東山道鎮撫総督軍)は、江戸を目前としてこの板橋でその進軍の足を止めます。その背景には薩摩藩島津家から第13代将軍・徳川家定の正室となった天璋院・篤姫と、天皇家から第14代将軍・徳川家茂の正室となった皇女・和宮(静寛院宮)による島津家や朝廷に対する懸命の嘆願があったと言われています。これが江戸城無血開城に繋がります。その際、新政府軍(官軍)東山道鎮撫総督軍の本陣(本営)はこの板橋宿に置かれました。東山道鎮撫総督の岩倉具定(公家)、副総督の岩倉具経(公家)、参謀の板垣退助(土佐藩)、伊地知正治(薩摩藩)などがこの板橋宿中宿の本陣や脇本陣に逗留したというわけです。新撰組の局長・近藤勇が板橋で処刑されたのも、板橋にこの新政府軍(官軍)東山道鎮撫総督軍が駐屯していたからです。

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 戊辰戦争に限らず、この板橋宿には歴史上の数々の話が残っています。江戸時代後期の医者で蘭学者である高野長英の所縁の水村玄洞宅が中宿にあります。江戸幕府の異国船打払令をはじめとした対外政策を批判して小伝馬町牢屋敷で永牢(無期懲役)の身となった高野長英は弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄します。この火災は長英が牢で働いていた非人栄蔵を唆して放火させたとの説が有力です。脱獄の際、3日以内に戻って来れば罪一等減じるが、戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の役人から受けたのですが、長英はこれを無視。再び牢に戻ることはありませんでした。脱獄後、幕府の厳しい探索にもかかわらずしばらく消息不明でしたが、1ヶ月後の7月下旬のある夜に、板橋宿にある彼の門人である医師・水村玄洞宅をひょっこり訪れました。玄洞は身に危険を知りながらも長英を匿い、7月晦日の深夜に大間木村(現さいたま市緑区)に住む実兄で同門の医師・高野隆仙宅に逃れさせました。その後、長英は郷里水沢(現在の岩手県奥州市)をはじめ、近畿、四国、九州と逃亡生活を続け、嘉永3年(1850年)10月30日に江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)の隠れ家に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛され、その捕縛の途中で自殺しました。長英は江戸で人相書きが出回っていたため硝酸で顔を焼いて人相を変えながらの逃亡生活だったようです。水村玄洞宅は現在も医院になっています。

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……(その2)に続きます。