2016/07/06
中山道六十九次・街道歩き【第2回: 板橋→蕨】(その2)
中宿と上宿の境目には石神井川が流れていて、そこに板橋の地名の由来にもなった「板橋」が架かっています。鎌倉時代の古文書にもその名が記されているくらい古くからある橋で、江戸時代に架けられた橋は長さ9間、幅3間の緩やかな木製の太鼓橋で、「江戸名所図会」にも描かれている美しい橋でした。昭和7年には、自動車の普及に対応するために早くもコンクリートの橋に架け替えられたのですが、橋の欄干はかつての木製の橋を偲ばせるような木目模様の装飾が施されています。橋の袂には「距日本橋二里二十五町三十三間」の標識が立っています。
板橋を渡ると、本町商店街になります。ここがかつての上宿で、板橋からおよそ300mほど進むと、右手に1本の榎と赤い幟がはためく小さな祠が建っています。ここが上宿の「縁切り榎木」です。榎は根元から榎と槻(つき)が双生していて、エンツキと重箱読みして“エンキリ”と転化したとされ、男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとって煎じ、秘かに飲ませるとその願いが成就するとされた神木です。いつの頃からか、この木の下を嫁入り、婿入りの行列が通ると必ず不縁になるという信仰が生まれたとのことで、皇女和宮降嫁の際には、榎を避けるための迂回路が作られた上、木を菰(こも)で包んで見えないようにしたといわれています。
旧中山道は板橋宿を緩く大きく弧を描くように貫きます。従って、板橋宿を向けたあたりでは進行方向はほぼ真北に変わっています。前述のように、かつて上宿の入り口(出口)には大木戸が設けられていて、ここから内側(南側)が「江戸」でした。なので、私達も江戸を出たことになります。ここから志村に向けて黙々と進みます。今も昔も見処の多い「江戸」を抜けたので、ここからしばらくはただただウォーキングです(笑)
清水町交番前で再び国道17号線(現在の中山道)と合流します。旧中山道と合流したのとは反対に、首都高速5号池袋線がこの清水町交番前で国道17号線から離れていきます。しばらく国道17号線を歩きます。国道17号線沿いにある氷川神社に立ち寄りしばらく時間調整をした後(先発の第1班がスタートした後)、氷川神社のすぐ隣にある寳勝山南蔵院という寺院で昼食のお弁当を摂りました。この南蔵院、真言宗智山派の寺院ですが、板橋区を代表する桜の名所となっており板橋十景に選定されているのだそうです。この日は新緑が綺麗でした。
昼食を摂り、しばし休憩を取った後、再び蕨宿を目指して歩きはじめました。国道17号線(現在の中山道)の歩道を黙々と歩きます。
都営地下鉄三田線の志村坂上駅の手前に「志村一里塚」があります。志村一里塚は江戸・日本橋を出て中山道3番目の一里塚として築かれたもので、明治以降多くの一里塚が消滅するなか、現在でも2基一対の完全な形で残っている一里塚はこの「志村一里塚」と、日光御成道の日本橋から2里目にあたる「西ヶ原一里塚(東京都北区)」だけで、全国的にも大変貴重なものになっています。そのため、現在は国の史跡に指定されています。現在、全国で17ヶ所の一里塚が国の史跡に指定されていますが、その中でも最初に史跡に指定された4つの一里塚の1つです。
この「志村一里塚」には目印となる大きな榎の木が植えられていますが、榎の木の寿命は約100年と短いため、約100年毎に植え替えられていて、東側は昭和7年、西側は昭和42年に植え替えられています。この一里塚の榎の木の下は木陰になっていて、旅人達はそこでしばしの休憩をするとともに、この先の状況についての貴重な情報交換の場にもなっていたようです。現代の高速道路におけるパーキングエリアみたいなところと考えればよろしいかと思います(その意味では宿場はサービスエリアってことですね)。
「志村一里塚」からほどなく、国道17号線の志村坂上交差点の左手、交番とみずほ銀行志村支店の間を斜めに入る坂道を下っていきます。閑静な住宅地で、国道を走るクルマの騒音もここまでは聞こえません。この坂が清水坂。坂の上の住宅街の一角に大山道の道標と庚申塔が立っています。左側の道標は寛政4年(1792年)の建立で、正面に「是より大山道并ねりま川こえ(川越)道」と彫られています。右の庚申塔は万延元年(1860年)の建立で、左面には「是より富士大山道 練馬江一里,柳沢江四里,府中江七里」とあり道標を兼ねているようです。清水坂は中山道を京都へ行く際の最初の急坂で、隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と時代とともに呼び名を変えてきました。中山道で唯一富士山を“右手”に一望できる場所で、「右富士」と呼ばれる名所であったと言われています。と言っても、この日の私達のように江戸から京都方面に向かう場合は急な下り坂で、正確には中山道を江戸に向かう際の最後の急な登り坂でした。荒川の河岸段丘を上から下に下る(下から上に登る)坂のようで、かなり急な坂です。なるほどぉ~、この急な坂を登りきったところの地名が「志村坂上」なんですね。
清水坂の下、都営地下鉄三田線高架下をくぐった辺りには、板橋宿と蕨宿をつなぐ志村合(あい)の宿(志村立場)がありました。志村の名主の屋敷や立場茶屋があり、戸田の渡しが増水で川留めになった時などには臨時の休息場所として利用されました(旅籠などの宿泊施設はありません)。都営地下鉄三田線が開通する昭和30年頃までは、このあたりの古い民家の軒下には、荒川の洪水に備えて避難用の小船が吊り下げられ、往時の面影を残していたと言われています。
清水坂を下り右折すると頭上を都営地下鉄三田線が走っています。その線路の下を潜ると国道17号線に合流。ちょっと戻って国道沿いにある庭園「薬師の泉」に立ち寄り休憩しました。ここは江戸名所図会にも描かれた元曹洞宗大善寺の境内で、8代将軍徳川吉宗が志村周辺で鷹狩の際に立寄り、湧き出す清水を誉めて寺の本尊である薬師如来を「清水薬師」と命名したと伝わっています。このあたりは良質の清水があったと当時の江戸の多くの文献にも記述された土地で、明治以来忘れられ荒廃していたのですが、平成元年(1989年)に板橋区により往時の姿を復元した日本式庭園として整備されました。
国道17号線に戻り、環状八号線と交差する志村3丁目交差点から再び旧中山道を辿り、500mほどして再び国道17号線に出て、戸田橋が架かる船渡に向かいます。志村坂下から船渡の間の旧中山道の道筋は消えてしまっていて、今ではほとんど特定できないのだそうです。後述しますが、このあたりは明治末期から昭和の初期にかけて行われた荒川放水路(現在の荒川)の建設工事、さらにはその工事の一環として行われた新河岸川と隅田川の直結工事などで地形そのものが大きく変えられたので、旧中山道がどこを通っていたのかという痕跡はほとんど残っておりません。現在の道路はほとんどがそれらの大工事の後に作られた道路ですから。ところどころ旧中山道の痕跡が残っている道を歩き、そこを繋ぐように現在の中山道(国道17号線)を歩きます。荒川(戸田川)の渡しがあった場所まではほんの僅かな距離ですし、まっ、大きくは外れてはいないでしょうから。下の写真は旧中山道であると分かっている道路で、緩やかなカーブが江戸時代からの道路であったことを偲ばせます。右は現在の中山道(国道17号線)との合流部の写真です。赤いクルマが走っている道路が現在の中山道(国道17号線)です。
ちなみに、この辺りは江戸時代「志村原」と呼ばれる一面の原野で、徳川将軍家の鷹狩場に指定されていました。
……(その3)に続きます。
板橋を渡ると、本町商店街になります。ここがかつての上宿で、板橋からおよそ300mほど進むと、右手に1本の榎と赤い幟がはためく小さな祠が建っています。ここが上宿の「縁切り榎木」です。榎は根元から榎と槻(つき)が双生していて、エンツキと重箱読みして“エンキリ”と転化したとされ、男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとって煎じ、秘かに飲ませるとその願いが成就するとされた神木です。いつの頃からか、この木の下を嫁入り、婿入りの行列が通ると必ず不縁になるという信仰が生まれたとのことで、皇女和宮降嫁の際には、榎を避けるための迂回路が作られた上、木を菰(こも)で包んで見えないようにしたといわれています。
旧中山道は板橋宿を緩く大きく弧を描くように貫きます。従って、板橋宿を向けたあたりでは進行方向はほぼ真北に変わっています。前述のように、かつて上宿の入り口(出口)には大木戸が設けられていて、ここから内側(南側)が「江戸」でした。なので、私達も江戸を出たことになります。ここから志村に向けて黙々と進みます。今も昔も見処の多い「江戸」を抜けたので、ここからしばらくはただただウォーキングです(笑)
清水町交番前で再び国道17号線(現在の中山道)と合流します。旧中山道と合流したのとは反対に、首都高速5号池袋線がこの清水町交番前で国道17号線から離れていきます。しばらく国道17号線を歩きます。国道17号線沿いにある氷川神社に立ち寄りしばらく時間調整をした後(先発の第1班がスタートした後)、氷川神社のすぐ隣にある寳勝山南蔵院という寺院で昼食のお弁当を摂りました。この南蔵院、真言宗智山派の寺院ですが、板橋区を代表する桜の名所となっており板橋十景に選定されているのだそうです。この日は新緑が綺麗でした。
昼食を摂り、しばし休憩を取った後、再び蕨宿を目指して歩きはじめました。国道17号線(現在の中山道)の歩道を黙々と歩きます。
都営地下鉄三田線の志村坂上駅の手前に「志村一里塚」があります。志村一里塚は江戸・日本橋を出て中山道3番目の一里塚として築かれたもので、明治以降多くの一里塚が消滅するなか、現在でも2基一対の完全な形で残っている一里塚はこの「志村一里塚」と、日光御成道の日本橋から2里目にあたる「西ヶ原一里塚(東京都北区)」だけで、全国的にも大変貴重なものになっています。そのため、現在は国の史跡に指定されています。現在、全国で17ヶ所の一里塚が国の史跡に指定されていますが、その中でも最初に史跡に指定された4つの一里塚の1つです。
この「志村一里塚」には目印となる大きな榎の木が植えられていますが、榎の木の寿命は約100年と短いため、約100年毎に植え替えられていて、東側は昭和7年、西側は昭和42年に植え替えられています。この一里塚の榎の木の下は木陰になっていて、旅人達はそこでしばしの休憩をするとともに、この先の状況についての貴重な情報交換の場にもなっていたようです。現代の高速道路におけるパーキングエリアみたいなところと考えればよろしいかと思います(その意味では宿場はサービスエリアってことですね)。
「志村一里塚」からほどなく、国道17号線の志村坂上交差点の左手、交番とみずほ銀行志村支店の間を斜めに入る坂道を下っていきます。閑静な住宅地で、国道を走るクルマの騒音もここまでは聞こえません。この坂が清水坂。坂の上の住宅街の一角に大山道の道標と庚申塔が立っています。左側の道標は寛政4年(1792年)の建立で、正面に「是より大山道并ねりま川こえ(川越)道」と彫られています。右の庚申塔は万延元年(1860年)の建立で、左面には「是より富士大山道 練馬江一里,柳沢江四里,府中江七里」とあり道標を兼ねているようです。清水坂は中山道を京都へ行く際の最初の急坂で、隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と時代とともに呼び名を変えてきました。中山道で唯一富士山を“右手”に一望できる場所で、「右富士」と呼ばれる名所であったと言われています。と言っても、この日の私達のように江戸から京都方面に向かう場合は急な下り坂で、正確には中山道を江戸に向かう際の最後の急な登り坂でした。荒川の河岸段丘を上から下に下る(下から上に登る)坂のようで、かなり急な坂です。なるほどぉ~、この急な坂を登りきったところの地名が「志村坂上」なんですね。
清水坂の下、都営地下鉄三田線高架下をくぐった辺りには、板橋宿と蕨宿をつなぐ志村合(あい)の宿(志村立場)がありました。志村の名主の屋敷や立場茶屋があり、戸田の渡しが増水で川留めになった時などには臨時の休息場所として利用されました(旅籠などの宿泊施設はありません)。都営地下鉄三田線が開通する昭和30年頃までは、このあたりの古い民家の軒下には、荒川の洪水に備えて避難用の小船が吊り下げられ、往時の面影を残していたと言われています。
清水坂を下り右折すると頭上を都営地下鉄三田線が走っています。その線路の下を潜ると国道17号線に合流。ちょっと戻って国道沿いにある庭園「薬師の泉」に立ち寄り休憩しました。ここは江戸名所図会にも描かれた元曹洞宗大善寺の境内で、8代将軍徳川吉宗が志村周辺で鷹狩の際に立寄り、湧き出す清水を誉めて寺の本尊である薬師如来を「清水薬師」と命名したと伝わっています。このあたりは良質の清水があったと当時の江戸の多くの文献にも記述された土地で、明治以来忘れられ荒廃していたのですが、平成元年(1989年)に板橋区により往時の姿を復元した日本式庭園として整備されました。
国道17号線に戻り、環状八号線と交差する志村3丁目交差点から再び旧中山道を辿り、500mほどして再び国道17号線に出て、戸田橋が架かる船渡に向かいます。志村坂下から船渡の間の旧中山道の道筋は消えてしまっていて、今ではほとんど特定できないのだそうです。後述しますが、このあたりは明治末期から昭和の初期にかけて行われた荒川放水路(現在の荒川)の建設工事、さらにはその工事の一環として行われた新河岸川と隅田川の直結工事などで地形そのものが大きく変えられたので、旧中山道がどこを通っていたのかという痕跡はほとんど残っておりません。現在の道路はほとんどがそれらの大工事の後に作られた道路ですから。ところどころ旧中山道の痕跡が残っている道を歩き、そこを繋ぐように現在の中山道(国道17号線)を歩きます。荒川(戸田川)の渡しがあった場所まではほんの僅かな距離ですし、まっ、大きくは外れてはいないでしょうから。下の写真は旧中山道であると分かっている道路で、緩やかなカーブが江戸時代からの道路であったことを偲ばせます。右は現在の中山道(国道17号線)との合流部の写真です。赤いクルマが走っている道路が現在の中山道(国道17号線)です。
ちなみに、この辺りは江戸時代「志村原」と呼ばれる一面の原野で、徳川将軍家の鷹狩場に指定されていました。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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