2016/07/22

中山道六十九次・街道歩き【第3回: 蕨→大宮】(その2)

 市の境界から少し行ったところの辻2丁目交差点の右側にある辻一里塚公園に隣接して「一里塚の跡」の碑があります。当時の辻周辺は湿地帯で通行が困難であったようで、水難除けに「水の神弁財天」も一緒に祀ってあります。

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 その先で東京外環自動車道の下を横断して進みます。東京外環自動車道の下を抜けるところから約300mほど西側の住宅街の奥まったところに、木曽名所図会に「辻村に熊野権現のやしろあり」と詠われた由緒ある熊野神社があります。

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 道なりに進み、突き当りの六辻水辺公園前の丁字路を右折して進み、六辻交差点で再び国道17号線に出ます。実はこのあたりに息子の嫁の実家があり、何度も訪れて、よく見知った光景です。そう言えば、息子の嫁から、熊野神社のお祭りの時期が近づいてくると近隣の自治会総出でのお手伝いがあって、大変なんですよ‥‥と聞いたことがあります。なるほど、近隣では至るところに熊野神社の幟が翻っています。こうやって地域コミュニティの活性化のために神社の祭りが今も活用されていることに、羨ましさを感じてしまいます。これが健全な日本の街というものです。こういう行事が今に残っているのも、旧中山道沿いの街という歴史の古さからなのでしょうね。

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 この六辻の交差点、旧中山道と現在の中山道(国道17号線)が斜めに交差しています。なるほどぉ〜、この細いほうの道路が旧中山道なのですね。「街道歩き」をやってみると、この斜めに道路が交差する交差点というのが、古くからあった旧街道と近年になって新しく作られた道路との交差点であることの大きな特徴であるように思います。すなわち、昔からあった道を突っ切るように、ドォーン!と比較的真っ直ぐな道路を横切らせたことでできた交差点ということで、たいていは幅の広い大きな道路に対して斜めに交差する細い道路のほうが旧街道になっています。これが旧街道を見つける大きなヒントということですね。

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 この六辻交差点の左角にある交番の敷地に、六辻村道路元標が立っています。国道17号線を横断し、国道17号線を横断して東側に出て、次の信号を左折し、すぐの分かれ道は右手を進み、次の信号を直進します。その先の信号から緩い上り坂が始まり、坂の途中の横断歩道橋手前に「焼米坂」の標識があります。

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 この坂の名称は昔ここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋数軒があって、いつしかその名物に由来して「焼米坂」と呼ばれるようになり、地名として定着していったとのことのようです。 当時の焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたもののことです。これは保存食として古くからあった調理法のようで、そのまま、もしくは、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食します。旅人の携帯食として、たいへん重宝がられたようです。また、江戸方から京方(上方)へ向かっては急勾配で大宮台地の上に登ることになるため、僅か200メートル足らずのこの坂道が当時の旅人にとってはかなりの難所であったと伝えられています。この焼米坂の下をJR武蔵野線が通っています。なるほどぉ~、ここを旧中山道は通っていたのですね。旧中山道は大宮台地の尾根線、すなわち、一番標高が高いところを選んで延びているように思えます。ちなみに、現在の中山道である国道17号線からはかなりコースが東側に外れています。

 “乗り鉄”の私は、鉄道の在来線、それも昭和の初期以前に開通した在来線は“地形に忠実に走るから好きだ”‥‥ってずっと言ってきたのですが、地形に忠実に走るってことで言うと、昔の街道こそがその言葉に相応しいと思います。鉄道マニア、それも“乗り鉄”を趣味にしている人にとっては、私がそうであるように、旧街道歩きはまったく違和感なく入り込める趣味であるように思えます。

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 この浦和周辺は大宮台地の南側に位置する地域です。大宮台地の西側一帯には荒川低地があり、広大な河川敷を有する荒川の本流が流れていて、この荒川の本流に対して鴨川や鴻沼川、霧敷川といった幾つもの支流が合流する地点にあたります。大宮台地と接する地点では浅い谷が発達していますが、これは支流にあたる小さな河川が大宮台地を侵食することで形成されたものです。広い関東平野の中心部にあたる浦和をはじめとしたさいたま市には山と呼べるほどの山はほとんどなく、地形は概ね平坦なところなのですが、この大宮台地と荒川の本流をはじめとして幾つもの小さな河川による侵食によって形成された低地が複雑に幾重にも組み合わさっているため、実は微妙に登ったり下ったりする起伏がいっぱいあり、純粋に平坦なところというところはほとんどないような地形なんです。このため、微妙な勾配の坂が多いのがこのあたりの道路の特徴です。ただ、大宮台地の崖線が分かるところもありますが、焼米坂のような急勾配の坂は珍しく、勾配は概ね緩やかです。

 これまで日本陸上競技連盟主催の国際大会代表選考レースとして横浜市で開催されてきた「横浜国際女子マラソン」の後継の大会として、『さいたま国際マラソン』という42.195kmのフルマラソン規格の大会が昨年より開催されているのですが、この『さいたま国際マラソン』、このような地形のさいたま市内を走るので、アップダウンを何度も何度も繰り返すことから好タイムはなかなか期待できそうにない難コースだと言われています。このため、好タイムを狙う選手の皆さんからは敬遠されているようです。

 この焼米坂に代表されるように旧中山道が通っているコースをみると、大宮台地の上の比較的標高の高いところ(と言っても、せいぜい10m程度でたいした標高ではありませんが‥)を辿っているように思います。暴れ川である荒川は出水期には毎年のように氾濫を繰り返したので、それを避けて、こういう高台を辿るコースになっているのでしょう。28年間も住んでこのあたりの地形を知っているだけに、それがよく分かります。

 このように台地はあっても基本的には平坦な地形ですので、その平坦な地形を活かして、この周辺では戦前までは農業が盛んに行われていました。特に北浦和周辺はサツマイモの紅赤という品種の発祥地として名高いのですが、現在では完全に住宅地となって、その面影はすっかり姿を消しています。旧中山道沿線や現在の中山道である国道17号線沿線の農地は大幅に減ってしまってほとんど残っていませんが、新大宮バイパスのさらに西側の荒川沿いには今も田圃や畑が数多く残っています。また、旧中山道の東側に少し入った見沼区や緑区周辺にも田園風景が広がっています。

 また、浦和周辺は古来より水に恵まれたところで、昔は良質なウナギ(鰻)を水揚げする名所としても有名なところでした。大宮台地の先端部においては古来より湧水が豊富で、無数の池が形成されていて、このあたりは上谷沼という湿地帯でした。このため、この周辺では荒川をはじめとして、多くの沼地や池、川で川魚やウナギをたいそう水揚げすることができたようです。そういう豊富な食材を調理して、中山道沿いで売り始め、中山道を行く旅人に出したのが始まりで、やがてそのお店が宿(旅籠)など営むようになったのだそうです。こういう歴史的背景もあり、ウナギは浦和宿の名物で、ここ浦和がウナギの蒲焼きの発祥地であるとも言われています。今でもさいたま市内、特に浦和区には多くのウナギ料理店があり、江戸時代から優に200年以上の歴史を持つ山崎屋さんや小島屋さんといったウナギの名店が今も残っています。写真は仲町にある山崎屋さんです。そろそろ土用の丑の日、ウナギの蒲焼きを食べに行きたいところです。店の前には蒲焼きを焼く香ばしい匂いがほのかに漂っています。

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 ちなみに、埼玉県庁の裏手(東側)に別所沼というちょっとした沼(池)があり、現在は公園として整備されているのですが、浦和宿で出されたウナギは主にこの別所沼で獲れたウナギだったそうです。ウナギに関しては蕨宿のところでも書きましたが、この界隈を越えて京方(上方)に向かう旅人は、ここを出るとしばらくの間、ウナギを食せる店が無くなってしまいます。また、江戸に向かう旅人の中には、戸田の渡しを越えればいよいよ目的地の江戸に到着するということで、ここでウナギを食べて精をつけてから江戸入りしようとする人が多かったようです。そのため、ここでウナギを食べていく客が多く、蕨宿と浦和宿はともにウナギで有名な宿場町になったようです。

 焼米坂を登りきってしばらく歩いた途中左側に関元屋という商店があります。この関元屋商店は元々は材木商だったのですが、現在は米穀店。現在の建物は大正5年(1916年)頃に建築されたと伝えられています。お店の外にあり、今も残っている井戸は「お助け井戸」と呼ばれ、関東大震災や東京大空襲で東京から逃げ延びてきた人々の喉を潤したと言われています。

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 歩道橋を過ぎ、さいたま市南区と浦和区の境界道(進行方向左側が南区)を進み、次の信号辺りから下り坂となり、さらに次の信号で浦和区に入ります。ここからは浦和区高砂の浦和駅西口交差点までは県道213号曲本さいたま線になります。浦和区との境界から少し行ったところの右側に調(つき)神社があります(地元では“つきのみやじんじゃ”と呼ばれることもあります)。現在の社殿は本殿と拝殿が一体となった権現造りの堂々たる建物で、安政6年(1869年)に建立されたものなのだそうです。また、それまで使用された旧本殿も移設され、境内社の稲荷神社の社殿として現在も使用されています(劣化を防ぐため、今はガラス張りの小屋の中に置かれています)。

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 調神社に残る「調宮縁起」(社伝)によると、調神社の由緒は神代にあるということで、約2000年前に第10代の崇神天皇の勅命により創建された古社ということのようです。平安時代中期の延喜5年(905年)に醍醐天皇が編纂を命じた法典「延喜式神名帳」にも武蔵國四十四座のうちの1社と記載されています。“調”は租庸調の“調”、すなわち“貢ぎ物”のことで、伊勢神宮に収める武蔵野国の調べ物(年貢)はいったんここに集められ、朝廷に届けられたことから「調神社」と呼ばれるようになったとのことです。なので、“調”の運搬の妨げとなるような鳥居や門は、この神社にはありません。(ちなみに、東京都調布市の“調”も同じ意味です。)

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 また、中世の頃から、“調”が“月”と同じ読みであることから「月待信仰」と結びつき、兎(ウサギ)を神使(神の使い)とみなす兎信仰が行われるようになりました。このあたり、庚申信仰における猿(サル)とよく似ています。参道入口の両側には、鳥居や狛犬のかわりに「うさぎ石像」が置かれており、境内の入り口を守護しています。また、“調(つき)”は(運勢の)“ツキ”に通じるとも言われています。

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 境内の社叢はケヤキやムクノキの古木林を形成しており、「調神社の境内林」としてさいたま市の天然記念物に指定されています。ちなみに、我が家の正月の初詣は、大勢の人出で大混雑する大宮氷川神社を避けて、たいていこの調神社に出掛けています。また、子供達の七五三もここ調神社でした。この日もお宮参りをしている家族連れがいらっしゃいました。

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 調神社では、浦和市の観光ボランティアの方々による解説がありました。それによると、調神社には前述の鳥居がないことやウサギ(兎)を使姫にすることに加えて次のような七不思議が伝わっているのだそうです。

不思議1.鳥居が無いこと
……倭姫命の命で、調物の運搬の妨げとなる神門・鳥居を除いたことによるといわれています。

不思議2.松が無いこと
……当地には姉神・弟神の2人の神がいらっしゃったのですが、そのうち弟神は大宮に行ってしまい姉神がいくら待っても帰ってこなかったため、姉神がもう“待つ”ことは嫌いだと言ったことに由来して、松の木がないのだそうです。また、姉神が待っている時に境内の松の葉で目を突いたため、それ以来、松の木を植えることを禁じたとも言われています。

不思議3.御手洗池の片目魚
……かつて境内にあった(現在は消滅)御手洗池(ひょうたん池とも)と呼ばれた池に魚を放つと、その魚は何故か片目になるのだそうです。

不思議4.兎(ウサギ)を神使とすること

不思議5.日蓮聖人駒繋ぎのケヤキ
……佐渡島に流罪途中の日蓮聖人が、当地で難産に苦しんでいた女性のためケヤキ(欅)に駒を繋いで安産祈祷をしたことに由来し、調神社にはケヤキの樹が多いのだそうです。

不思議6.蝿(ハエ)がいないこと

不思議7.蚊(カ)がいないこと

特に不思議6と不思議7、蝿がいない?! 蚊がいない?! 木々が鬱蒼と生い茂る神社の境内、それもウナギが名物と言われる湿地帯が近隣にあるこの神社の境内で蝿や蚊がいないのだとすると、これは本当に不思議なことです。凄い!!

 調神社裏手にある調公園(つきのみやこうえん)で、お昼のお弁当をいただきました。木陰でいただくお弁当ってのも街道歩きっぽくていいものです。

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……(その3)に続きます。