2016/07/27
中山道六十九次・街道歩き【第3回: 蕨→大宮】(その4)
ここまでが浦和宿で、宿場を抜けると旧中山道は浦和橋という跨線橋でJR宇都宮線(東北線)、高崎線、湘南新宿ライン、京浜東北線の線路が並んで走る広い線路帯を渡り、それらの線路の東側に出て、さらに線路に沿って北上します。この橋の手前にY字型に左に向かう道路があって、この道路が府中通り大山道の羽根倉の渡しルートで、ここがその追分(分岐点)だったようです。この追分に立ってみると、確かにそんな感じがしてきます。この細い道路を真っ直ぐ進むとJR北浦和駅西口に出ることは判っていたので、その時は「あぁ、なるほど、ここから北浦和駅前に出て、埼大通りを真っ直ぐ進んで羽根倉橋の方向に進むのね」って思ったのですが、帰宅してネットで調べてみると意外なことが判明しました。
さいたま市内の主要市街地の明治時代以降の地形図から地域の変化を示すとってもいいWebサイトがあります。
埼玉大学教育学部社会科教育講座人文地理学・谷謙二研究室HP
このWebサイトでは明治時代以降のさいたま市界隈の古地図を見ることができます。明治時代はまだまだ江戸時代とさほど地形や町の状況は変わっていないと思われますので、江戸時代の様子は明治時代の地図を見ると想像がつきます。それによると、浦和橋の手前でY字型に分岐した府中通り大山道の羽根倉の渡しルートは北西方向に大きく弧を描くようにカーブしながら延びているのが分かります。一部、現在の中山道、国道17号線のコースと重なりますが、またそこからY字型に分岐し、現在のJR与野本町駅方向に延びています。そこに描かれている地名は“下落合”と“本村”。エッ! 我が家の現住所はさいたま市中央区下落合ですが、所属している自治会は本村自治会といいます。すなわち、我が家のあるあたりは昔からの集落で、すぐ近くを浦和橋の手前でY字型に分岐した府中通り大山道の羽根倉の渡しルートが通過しているということなのです。
そう言えば、我が家から国道17号線に出ようとすると、途中に常に赤信号が点滅している交差点があります。この交差点も斜めに道路が横切っているため、交通量は少ないものの見通しが極めて悪く、クルマに乗る時はもちろん、歩いて横断する時も常に一旦停止のうえ左右を確認し、神経を尖らせて渡っているのですが、どうもその斜めに横切る道路が府中通り大山道の羽根倉の渡しルートのようなのです。なるほど、そのコースならこのあたり一帯で一番標高が高いところを通ることができます。埼玉大学の谷謙二先生の研究室の古地図によると、北浦和駅付近を含め、浦和橋の追分から我が家の周辺に至るまでの一帯の西側はかつては一面の田圃だった低地で、府中通り大山道のような東西に延びる道路らしい道路は地図上に一つも見当たりません。浦和橋のたもとから与野本町に至るこの道路は、一見、大きく迂回しているように見えるコースなのですが、荒川の氾濫を恐れて、少しでも標高の高いところを羽根倉の渡しのところまで結ぼうとすると、こういうコースになるのですね。そう言えば、このコース沿いには古い神社や寺院が幾つも立ち並んでいて、JR与野本町駅付近には庚申堂まであります。なるほどぉ~~。ちなみに、我が家からこの道路が通っているところまでは僅か50メートルほどしか離れていないのですが、そこは低く見積もっても我が家から2メートルは高いところを通っています(地形から推察するに、どうも我が家の建っているところは街道から一段下がった田圃だったところのようです)。しかもその道路はそのあたりで一番標高の高いところの“尾根線”を伝って通っているようで、我が家から見るとその道路の向こう側約100メートルのところに現在の中山道(国道17号線)が通っているのですが、その国道17号線に向かっては緩やかに下っていっています(国道17号線が通っているところは、おそらく我が家より低い)。これは昔の街道(旧街道)の特徴とも言えるものです。
で、府中通り大山道の羽根倉の渡しルートのJR与野本町駅付近から羽根倉の渡しまでのルートを谷謙二研究室HPの古地図と実際の地形から推察してみると、さらにビックリすることに気付きました。私は、昨年、今住んでいる中央区下落合の家に引っ越してくるまで、同じさいたま市中央区(旧与野市)内でも上峰というところに住んでいました。上峰という地名の通り、中央区内では一番標高が高い(と言ってもせいぜい標高10メートルほどですが…)ところです。そこから子供達はJR与野本町駅近くの与野本町小学校に通っていたのですが、どうもその通学路が「府中通り大山道の羽根倉の渡しルート」の道だったようなのです。
これまではいくらクルマがほとんど通らないからと言って、広い歩道が整備されたほとんど真っ直ぐな道路ではなく、その表通りから一本奥に入ったクネクネしてちょっとした勾配もある細い道を何故通学路に使うのか…、それも少し迂回させてまで…と不思議に思っていたのですが、その通学路こそが江戸時代から続く由緒正しい道路、「府中通り大山道」だったのですね。そう言えば、その当時の我が家の最寄りのバス停の名称は「陣屋」という、いかにも旧街道沿いにありそうな名称でした。27年間住んでも気付きませんでしたが、昔はその近くに陣屋敷があったのかもしれません。そう言えば、敷地の広い大きな家はありました。建物は比較的新しかったですが…。これで点が線に繋がりました。驚くとともに、大いに納得しちゃいました。こういうことを子供達は知っているのかしらん。こういうことはちゃんと教えないといけませんね。
話を旧中山道に戻します。浦和橋でJRの広い線路帯を渡り、旧中山道(県道65号線)を進みます。浦和橋を渡ってすぐの線路わきに笹岡稲荷の赤い鳥居が見えます。
すぐに北浦和駅東口交差点に着きます。この北浦和駅東口交差点のところが追分になっていて、ここから右(東方向)に折れる県道65号線が、実は物凄い道路なんです。浦和駅西口交差点から北浦和駅東口交差点までは旧中山道だったのですが、北浦和駅東口交差点を右折して5km弱走ったさいたま市見沼区東宮下交差点から幸手市南の志手橋交差点までは同じく五街道の一つである日光街道の脇往還である日光御成道、さらにその幸手市の志手橋交差点から先の幸手市内中心部の区間は日光街道(奥州街道)ともなるのです。
第1回でも書きましたが、日光御成道は徳川家の歴代将軍が日光東照宮に参拝する折に交通量が多い日光街道(奥州街道)を避けるために使用した街道のことで、中山道の本郷追分(東大の本郷キャンパス付近)を起点として岩淵宿、川口宿、岩槻宿を経て埼玉県内を北上します。埼玉県内は主に県道105号さいたま鳩ヶ谷線が日光御成道となります。日光御成道は別名を岩槻街道といい、その岩槻街道が現在は東北自動車道と並走する国道122号線の東京都区内から埼玉県さいたま市岩槻区までの区間の愛称になっているので勘違いしがちなのですが、実際はその国道122号線と並行して伸びる県道105号さいたま鳩ヶ谷線が日光御成道、正真正銘の岩槻街道だった道路なのです(正確に言うと、県道105号線が以前は国道122号線だったのですが、交通量の増加に伴って新たに作ったバイパス道路が現在の岩槻街道、国道122号線で、そのバイパスの開通とともに県道に“格下げ”されたってわけです。このように、現在の国道が必ずしも昔の街道だったわけではありません)。
前述のように県道65号線はその県道105号線とさいたま市見沼区東宮下交差点で合流し、そこから幸手宿の手前の幸手市志手橋交差点までが日光御成道、その幸手市志手橋交差点で今度は日本橋を出てすぐに中山道と分かれた日光街道(奥州街道)と合流し、そこから幸手市内中心部を抜けた内国府間交差点までの間は日光街道の道筋となります(その先は国道4号線です。幸手市志手橋交差点と内国府間交差点までの間も国道4号線と並行しており、現在の国道4号線が幸手市内を避けて整備された時に、もともとの日光街道のうち埼玉県内区間が県道65号線に組み込まれたというわけです)。なので、この県道65号線、たかが埼玉県の県道と侮るなかれ。五街道のうち、2つ(奥州街道を含めると3つ)の街道の道筋を含むなかなか歴史的に由緒正しき道路なのです。(ちなみに、埼玉県随一の進学校である県立浦和高校がこの県道65号線沿いにあることから、さいたま市民は北浦和駅東口交差点から先の県道65号線のことを“浦高通り”と通称で呼んでいます。どこまでの区間を“浦高通り”と呼ぶのかは不明ですが‥‥)
またまた脇道に逸れちゃいました。再び中山道に話を戻します。旧中山道はこの県道65号線と分かれて北浦和駅東口交差点を直進します。ここからは県道164号鴻巣桶川さいたま線となります。この北浦和駅東口交差点から鴻巣市の神明町交差点に至る県道164号線がまさに旧中山道で、沿線には、中山道の宿場、大宮宿・上尾宿・桶川宿・鴻巣宿が置かれ、古くから栄えた道でした。ちなみに、現在、国道17号線は公式愛称として「中山道」と呼ばれていますが、さいたま市界隈ではちょっと違っています。さいたま市に住む住民達の間では、この旧中山道(県道164号線)のことを“旧”を付けずに単に「中山道」と呼び、現在の中山道である国道17号線のことは、国道を省略して「17号(じゅうななごう)」と呼ぶのが一般的です。
ちなみに、この区間には荒川を笹目橋を使って渡る「新大宮バイパス」と呼ばれる東京都練馬区とさいたま市北区を結ぶ国道17号線のバイパス道路が旧中山道、国道17号線と並行して走っていて、その新大宮バイパスの上には首都高速道路5号池袋線と埼玉大宮線も走っています(さいたま市北区から鴻巣市の区間に大宮バイパスと呼ばれる道路が既にあったことから、その道路と区別するために、あくまでも“新大宮バイパス”です)。現在の我が家は国道17号線の近くにありますが、去年ここに引っ越してくるまでは新大宮バイパス近くにありました。この3本の道路は2kmほどの幅の間を西から新大宮バイパス、国道17号線、旧中山道とほぼ等間隔に並んで走っているのですが、道路の歴史というか、沿線開発された時代の違いから、街の雰囲気がまるで違っています。
一番最後に開発された新大宮バイパス沿いには大型のマンション群や新興住宅街、郊外型の大型ショッピングセンターなどが立ち並び、良く言えばカジュアルな感じがします(特に特徴もない、実にアッサリとした首都近郊の町って感じの意味です)。県庁や市役所、区役所といった行政機関や繁華街があって、都市として発達し賑やかなのが国道17号線沿い。この両道路の沿線は基本的に生活圏が同じなので、まぁ〜地域としては一括りに捉えてもいい感じはしますが、これらとまさに一線を画すのが旧中山道(県道164号線)沿いの街の雰囲気です。国道17号線と旧中山道との間には、JR東北本線(宇都宮線)と高崎線、京浜東北線、湘南新宿ラインといった何本もの線路が束になって伸びる広い線路帯が横たわっています。その広い線路帯を跨ぐ跨線橋の数も限られているため、人の交流も必ずしも多いとは言えず、同じさいたま市と言っても生活圏がまるで違っているのです。
私はさいたま市中央区(旧与野市)に28年間住んでいるのですが、この生活圏の違いから広い線路帯を越えて旧中山道沿いの街のほうに来ることは滅多にありません。最近はさいたま新都心駅が開業し、旧中山道沿いのさいたま新都心駅近くに大型商業施設の「コクーンシティ(COCOON CITY)」ができたので、シネマコンプレックスの「MOVIXさいたま」も入っているこのコクーンシティに時々来るようになりましたが、それ以前は1年に一度か二度、何かの用事で来るくらいでした。で、この旧中山道沿いの街の雰囲気は、一言で言えば、歴史を感じさせる実に落ち着いた雰囲気とでも表現すればよろしいかと思います。旧中山道も多くの人が押し寄せるコクーンシティの周辺を除けばさほど交通量も多くないので、街全体に静かな感じを受けます。ところどころに古い大きな民家や商店があったりして、ここが江戸時代以前から街道沿いとして栄えた街であることを感じさせ、庶民の私にとっては、少し敷居が高いなぁ〜って感じさえしちゃいます。
首都圏の中にあっていまいちダサさ(田舎臭さ?)があって、存在感が薄いと言われる埼玉県ではありますが(“ダサい”という言葉自体が“ダメな埼玉”の略だという説もあるくらいです)、この旧中山道沿いの落ち着いた雰囲気の街並みといい、小江戸と言われる川越の街並みといい、歴史を感じさせる誇れるものがいっぱい残っている素晴らしい街であるように私は思います。今回、さいたま市内の旧中山道を歩いてみて、私はさいたま市に住んでよかったなぁ〜って、改めて思いました。この埼玉県さいたま市が多分私にとっての終(つい)の棲家になるでしょうから、そう思えたことが嬉しいですね。
……(その5)に続きます。
さいたま市内の主要市街地の明治時代以降の地形図から地域の変化を示すとってもいいWebサイトがあります。
埼玉大学教育学部社会科教育講座人文地理学・谷謙二研究室HP
このWebサイトでは明治時代以降のさいたま市界隈の古地図を見ることができます。明治時代はまだまだ江戸時代とさほど地形や町の状況は変わっていないと思われますので、江戸時代の様子は明治時代の地図を見ると想像がつきます。それによると、浦和橋の手前でY字型に分岐した府中通り大山道の羽根倉の渡しルートは北西方向に大きく弧を描くようにカーブしながら延びているのが分かります。一部、現在の中山道、国道17号線のコースと重なりますが、またそこからY字型に分岐し、現在のJR与野本町駅方向に延びています。そこに描かれている地名は“下落合”と“本村”。エッ! 我が家の現住所はさいたま市中央区下落合ですが、所属している自治会は本村自治会といいます。すなわち、我が家のあるあたりは昔からの集落で、すぐ近くを浦和橋の手前でY字型に分岐した府中通り大山道の羽根倉の渡しルートが通過しているということなのです。
そう言えば、我が家から国道17号線に出ようとすると、途中に常に赤信号が点滅している交差点があります。この交差点も斜めに道路が横切っているため、交通量は少ないものの見通しが極めて悪く、クルマに乗る時はもちろん、歩いて横断する時も常に一旦停止のうえ左右を確認し、神経を尖らせて渡っているのですが、どうもその斜めに横切る道路が府中通り大山道の羽根倉の渡しルートのようなのです。なるほど、そのコースならこのあたり一帯で一番標高が高いところを通ることができます。埼玉大学の谷謙二先生の研究室の古地図によると、北浦和駅付近を含め、浦和橋の追分から我が家の周辺に至るまでの一帯の西側はかつては一面の田圃だった低地で、府中通り大山道のような東西に延びる道路らしい道路は地図上に一つも見当たりません。浦和橋のたもとから与野本町に至るこの道路は、一見、大きく迂回しているように見えるコースなのですが、荒川の氾濫を恐れて、少しでも標高の高いところを羽根倉の渡しのところまで結ぼうとすると、こういうコースになるのですね。そう言えば、このコース沿いには古い神社や寺院が幾つも立ち並んでいて、JR与野本町駅付近には庚申堂まであります。なるほどぉ~~。ちなみに、我が家からこの道路が通っているところまでは僅か50メートルほどしか離れていないのですが、そこは低く見積もっても我が家から2メートルは高いところを通っています(地形から推察するに、どうも我が家の建っているところは街道から一段下がった田圃だったところのようです)。しかもその道路はそのあたりで一番標高の高いところの“尾根線”を伝って通っているようで、我が家から見るとその道路の向こう側約100メートルのところに現在の中山道(国道17号線)が通っているのですが、その国道17号線に向かっては緩やかに下っていっています(国道17号線が通っているところは、おそらく我が家より低い)。これは昔の街道(旧街道)の特徴とも言えるものです。
で、府中通り大山道の羽根倉の渡しルートのJR与野本町駅付近から羽根倉の渡しまでのルートを谷謙二研究室HPの古地図と実際の地形から推察してみると、さらにビックリすることに気付きました。私は、昨年、今住んでいる中央区下落合の家に引っ越してくるまで、同じさいたま市中央区(旧与野市)内でも上峰というところに住んでいました。上峰という地名の通り、中央区内では一番標高が高い(と言ってもせいぜい標高10メートルほどですが…)ところです。そこから子供達はJR与野本町駅近くの与野本町小学校に通っていたのですが、どうもその通学路が「府中通り大山道の羽根倉の渡しルート」の道だったようなのです。
これまではいくらクルマがほとんど通らないからと言って、広い歩道が整備されたほとんど真っ直ぐな道路ではなく、その表通りから一本奥に入ったクネクネしてちょっとした勾配もある細い道を何故通学路に使うのか…、それも少し迂回させてまで…と不思議に思っていたのですが、その通学路こそが江戸時代から続く由緒正しい道路、「府中通り大山道」だったのですね。そう言えば、その当時の我が家の最寄りのバス停の名称は「陣屋」という、いかにも旧街道沿いにありそうな名称でした。27年間住んでも気付きませんでしたが、昔はその近くに陣屋敷があったのかもしれません。そう言えば、敷地の広い大きな家はありました。建物は比較的新しかったですが…。これで点が線に繋がりました。驚くとともに、大いに納得しちゃいました。こういうことを子供達は知っているのかしらん。こういうことはちゃんと教えないといけませんね。
話を旧中山道に戻します。浦和橋でJRの広い線路帯を渡り、旧中山道(県道65号線)を進みます。浦和橋を渡ってすぐの線路わきに笹岡稲荷の赤い鳥居が見えます。
すぐに北浦和駅東口交差点に着きます。この北浦和駅東口交差点のところが追分になっていて、ここから右(東方向)に折れる県道65号線が、実は物凄い道路なんです。浦和駅西口交差点から北浦和駅東口交差点までは旧中山道だったのですが、北浦和駅東口交差点を右折して5km弱走ったさいたま市見沼区東宮下交差点から幸手市南の志手橋交差点までは同じく五街道の一つである日光街道の脇往還である日光御成道、さらにその幸手市の志手橋交差点から先の幸手市内中心部の区間は日光街道(奥州街道)ともなるのです。
第1回でも書きましたが、日光御成道は徳川家の歴代将軍が日光東照宮に参拝する折に交通量が多い日光街道(奥州街道)を避けるために使用した街道のことで、中山道の本郷追分(東大の本郷キャンパス付近)を起点として岩淵宿、川口宿、岩槻宿を経て埼玉県内を北上します。埼玉県内は主に県道105号さいたま鳩ヶ谷線が日光御成道となります。日光御成道は別名を岩槻街道といい、その岩槻街道が現在は東北自動車道と並走する国道122号線の東京都区内から埼玉県さいたま市岩槻区までの区間の愛称になっているので勘違いしがちなのですが、実際はその国道122号線と並行して伸びる県道105号さいたま鳩ヶ谷線が日光御成道、正真正銘の岩槻街道だった道路なのです(正確に言うと、県道105号線が以前は国道122号線だったのですが、交通量の増加に伴って新たに作ったバイパス道路が現在の岩槻街道、国道122号線で、そのバイパスの開通とともに県道に“格下げ”されたってわけです。このように、現在の国道が必ずしも昔の街道だったわけではありません)。
前述のように県道65号線はその県道105号線とさいたま市見沼区東宮下交差点で合流し、そこから幸手宿の手前の幸手市志手橋交差点までが日光御成道、その幸手市志手橋交差点で今度は日本橋を出てすぐに中山道と分かれた日光街道(奥州街道)と合流し、そこから幸手市内中心部を抜けた内国府間交差点までの間は日光街道の道筋となります(その先は国道4号線です。幸手市志手橋交差点と内国府間交差点までの間も国道4号線と並行しており、現在の国道4号線が幸手市内を避けて整備された時に、もともとの日光街道のうち埼玉県内区間が県道65号線に組み込まれたというわけです)。なので、この県道65号線、たかが埼玉県の県道と侮るなかれ。五街道のうち、2つ(奥州街道を含めると3つ)の街道の道筋を含むなかなか歴史的に由緒正しき道路なのです。(ちなみに、埼玉県随一の進学校である県立浦和高校がこの県道65号線沿いにあることから、さいたま市民は北浦和駅東口交差点から先の県道65号線のことを“浦高通り”と通称で呼んでいます。どこまでの区間を“浦高通り”と呼ぶのかは不明ですが‥‥)
またまた脇道に逸れちゃいました。再び中山道に話を戻します。旧中山道はこの県道65号線と分かれて北浦和駅東口交差点を直進します。ここからは県道164号鴻巣桶川さいたま線となります。この北浦和駅東口交差点から鴻巣市の神明町交差点に至る県道164号線がまさに旧中山道で、沿線には、中山道の宿場、大宮宿・上尾宿・桶川宿・鴻巣宿が置かれ、古くから栄えた道でした。ちなみに、現在、国道17号線は公式愛称として「中山道」と呼ばれていますが、さいたま市界隈ではちょっと違っています。さいたま市に住む住民達の間では、この旧中山道(県道164号線)のことを“旧”を付けずに単に「中山道」と呼び、現在の中山道である国道17号線のことは、国道を省略して「17号(じゅうななごう)」と呼ぶのが一般的です。
ちなみに、この区間には荒川を笹目橋を使って渡る「新大宮バイパス」と呼ばれる東京都練馬区とさいたま市北区を結ぶ国道17号線のバイパス道路が旧中山道、国道17号線と並行して走っていて、その新大宮バイパスの上には首都高速道路5号池袋線と埼玉大宮線も走っています(さいたま市北区から鴻巣市の区間に大宮バイパスと呼ばれる道路が既にあったことから、その道路と区別するために、あくまでも“新大宮バイパス”です)。現在の我が家は国道17号線の近くにありますが、去年ここに引っ越してくるまでは新大宮バイパス近くにありました。この3本の道路は2kmほどの幅の間を西から新大宮バイパス、国道17号線、旧中山道とほぼ等間隔に並んで走っているのですが、道路の歴史というか、沿線開発された時代の違いから、街の雰囲気がまるで違っています。
一番最後に開発された新大宮バイパス沿いには大型のマンション群や新興住宅街、郊外型の大型ショッピングセンターなどが立ち並び、良く言えばカジュアルな感じがします(特に特徴もない、実にアッサリとした首都近郊の町って感じの意味です)。県庁や市役所、区役所といった行政機関や繁華街があって、都市として発達し賑やかなのが国道17号線沿い。この両道路の沿線は基本的に生活圏が同じなので、まぁ〜地域としては一括りに捉えてもいい感じはしますが、これらとまさに一線を画すのが旧中山道(県道164号線)沿いの街の雰囲気です。国道17号線と旧中山道との間には、JR東北本線(宇都宮線)と高崎線、京浜東北線、湘南新宿ラインといった何本もの線路が束になって伸びる広い線路帯が横たわっています。その広い線路帯を跨ぐ跨線橋の数も限られているため、人の交流も必ずしも多いとは言えず、同じさいたま市と言っても生活圏がまるで違っているのです。
私はさいたま市中央区(旧与野市)に28年間住んでいるのですが、この生活圏の違いから広い線路帯を越えて旧中山道沿いの街のほうに来ることは滅多にありません。最近はさいたま新都心駅が開業し、旧中山道沿いのさいたま新都心駅近くに大型商業施設の「コクーンシティ(COCOON CITY)」ができたので、シネマコンプレックスの「MOVIXさいたま」も入っているこのコクーンシティに時々来るようになりましたが、それ以前は1年に一度か二度、何かの用事で来るくらいでした。で、この旧中山道沿いの街の雰囲気は、一言で言えば、歴史を感じさせる実に落ち着いた雰囲気とでも表現すればよろしいかと思います。旧中山道も多くの人が押し寄せるコクーンシティの周辺を除けばさほど交通量も多くないので、街全体に静かな感じを受けます。ところどころに古い大きな民家や商店があったりして、ここが江戸時代以前から街道沿いとして栄えた街であることを感じさせ、庶民の私にとっては、少し敷居が高いなぁ〜って感じさえしちゃいます。
首都圏の中にあっていまいちダサさ(田舎臭さ?)があって、存在感が薄いと言われる埼玉県ではありますが(“ダサい”という言葉自体が“ダメな埼玉”の略だという説もあるくらいです)、この旧中山道沿いの落ち着いた雰囲気の街並みといい、小江戸と言われる川越の街並みといい、歴史を感じさせる誇れるものがいっぱい残っている素晴らしい街であるように私は思います。今回、さいたま市内の旧中山道を歩いてみて、私はさいたま市に住んでよかったなぁ〜って、改めて思いました。この埼玉県さいたま市が多分私にとっての終(つい)の棲家になるでしょうから、そう思えたことが嬉しいですね。
……(その5)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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