2016/08/12

大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭 (その4)

京阪電鉄京阪本線の電車を清水五条(きよみずごじょう)駅で降りました。清水五条駅はその駅名のとおり国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されている清水寺の最寄り駅です(と言っても徒歩20分以上かかりますが…)。そして駅前を五条通(国道1号線)が通り、すぐ近くに鴨川に架かる五条大橋があります。

この清水五条駅も似たようなところがありますが、京都市内中心部の地名は基本的に「◯◯三条」や「△△五条」というように、通りの名称に一条・二条……という漢数字の入ったこれまた通りの名称の組み合わせで表現されます。これは延暦13年(西暦794年)に桓武天皇がこの地に入京なされて、京都に日本の首都(平安京)が置かれた当時からのものです。平安京は唐の都・長安城を意識して作られた計画都市です。

平安京は現在の京都市街中心部にあたる東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された平らな土地に建設された都城都市でした。都の北端の中央に大内裏(天皇がお住まいになる皇居)を設け、そこから市街の中心に向かって南北方向に朱雀大路というメインストリートを通し、その左右に左京・右京(内裏側からみての左右になる)を置くという構造で、この都市構造は基本的に奈良の平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものです。

都城都市内は東西南北に碁盤の目のように走る大路・小路によって40丈(約120メートル)四方の「町」に整然とした町割りが行われていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する4×4=16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれていました。現在の京都市中心部も平安京当時の街路をほぼそのままに残しているため基本的にこの地名の名称の付け方を踏襲しています。ただ、東西方向の「条」は今も街路の名称として残っていますが、南北方向の 「坊」のほうは現代になって「通り」の名称に代わっています。

東西方向の町割りの「条」ですが、これは平安京時代に平安京の都城の南北方向5.2kmをおおよそ八等分し、北限の通りを「一条」として、それぞれの等分線に数字を振り、一条〜九条としたものです。ちなみに、平安京の都城の北限は内裏(皇居)の北側、南限は羅生門になります。当時は条ごとの区切りでもある道幅の広い「大路」が大通りとして特別扱いされ、南北の町割りの基準線になっていました。道幅は町ごとの区切りである小路でも4丈(約12メートル)、条ごと区切りである大路では8丈(約24メートル)以上もありました。さらに、都城を東西に分かつ中心線(メインストリート)となる朱雀大路に至っては28丈(約84メートル)もの道幅があり、日本の首都として綿密な都市計画の上で建設された大規模都市だったことが窺えます。

このように、京都は予め立てられた都市計画に基づき「碁盤の目」のように整然と建設された計画都市であったために、今も東西方向の通りを北側から「◯条」に、南北方向の通りを「◯◯通り」と呼ぶように統一されています。その南北方向の通りをもう少し細かい単位の「町」で表現しているのが最近の京都市中心部の地名で、従って、「京都市下京区木屋町五条上ル」というような地名表示になるわけです。

ちなみに、平安京の都城の北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅南方、東寺の南側を通る九条通です。また都城の東限の東京極大路は現在の寺町通にあたり、西限の西京極大路の推定地はJR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線です。さらに、前述のように右京と左京は、内裏から南、すなわち北から南に市街を見た時の左右による呼称で、南北方向に真っ直ぐ伸びる中央の大通り・朱雀大路(現在の千本通り)を中心に右が右京、左が左京です。このため右京は西側、左京は東側となります(なので、北方向を上に描く一般的な地図では、右と左が反対となります)。現在では京都市街地の中心が烏丸通りに移っているため、昔の定義はそのままでは通用しませんが、名残として地名として残っています。

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地下駅である清水五条駅で降りて、地上に出ました。清水五条駅は「五條駅(のちに五条駅に改称)」として1910年に京阪電鉄京阪本線の終着駅として開業。当初は五条通の南側の琵琶湖疏水の上に駅舎が造られていましたが、1915年に京阪本線が三条駅まで延伸開業したことに伴い途中駅となり、1987年にそれまで鴨川と琵琶湖疏水に挟まれた堤防の上を走っていた京阪本線の七条駅〜三条駅間が地下線化されたことに伴い、現在のような地下駅化されました。そして2008年、駅名を「五条」から現在の「清水五条」に改称しました。

清水五条駅を地上に出たところを五条通(国道1号線)が通っていて、すぐ五条大橋の東詰です。五条大橋の下を流れる川が鴨川。鴨川は淀川水系の一級河川で、京都市北部にある桟敷ヶ岳を源流とし、途中、貴船川や鞍馬川、高野川などと合流し大きな流れとなり、そのまま京都市中心部(平安京)の東端に沿って南下、九条付近で高瀬川と合流し、伏見区で保津峡、嵐山を経て平安京の西端に沿って南下してきた桂川に注ぎます。その桂川は今度は大阪府との境で木津川、宇治川と合流し、淀川と名称を変えて大阪湾に流れ込みます。さすがに京都です。歴史小説等でお馴染みの地名、河川の名称が次々と出てきます。

現在の五条大橋付近の鴨川には古くから、洛中(平安京中心部)から鴨川を渡って東岸、特に清水寺への参詣のための通行手段として橋が架けられていました。当時は木橋で、鴨川中州を介して二つの橋に分かれていたということのようです。天正18年(1590年)、方広寺大仏殿(東山大仏)の造営にあたって、豊臣秀吉の命により三条大橋とともに石柱の橋に改修され、その後何度か架け替えられ、現在の橋は五条通拡幅工事にともない、昭和34年(1959年)に架け替えられたものです。この五条大橋は武蔵坊弁慶と牛若丸(のちの源義経)が出会った場所であるともいわれていて(諸説ありますが‥‥)、橋の西詰には牛若丸と弁慶の石像があります。

さすがに古都京都です。1000年以上前からの歴史がいたるところに遺されています。京都は関東地方に比べて、其処此処(そこここ)に遺されている歴史が一時代前って感じです。特に、源義経。先ほど訪れた宇治でも源義経と源義仲(木曽義仲)軍が戦った「宇治川の合戦」跡を見ましたが、もしかしたら、京都で一番の歴史上のヒーローと言えば、源義経なのかもしれません。

で、ここ五条大橋で後に腹心となる武蔵坊弁慶と出逢った源義経が大活躍した「治承・寿永の乱」、俗にいう「源平の乱」の後、朝廷から征夷大将軍に任命された兄の源頼朝は関東の鎌倉の地に幕府を開き、歴史の流れの主流は関東地方に移っていくことになります。

この『おちゃめ日記』に連載していますが、現在、私は街道歩きにハマり、中山道六十九次を歩いています。江戸(東京)の日本橋を出て、目指しているのは京都の三条大橋。まだまだ埼玉県内をポチポチ歩いている段階なので(すなわち、武蔵の国を出ていないので)、先はまだまだ長いのですが、それでも皇女和宮の降嫁の行列や埼玉県桶川市の祇園祭をはじめ、京都と江戸(東京)の繋がりを物語る歴史を強く感じています。歴史、特に歴史を流れとして眺めてみるって面白いですね。中学高校時代、私は社会科、特に歴史を大の苦手科目にしていたのですが、それって、この“流れ”で歴史を読み解くってことができていなかったからだ‥‥ということに、この年齢になって気付きます。

それと、リアル版『ブラタモリ』とも言える街道歩きをやっているおかげか、現在の風景から昔の風景を類推し、頭の中でイメージとして再現するという訓練を徐々に積みつつありますので、今回の京都でもそれを活かして、楽しめています。歴史探訪って楽しいですね。日本は旧石器時代から繋がる長い長い歴史を持ち、その歴史が21世紀の今の時代にも、大きな時代の流れとして一度も途切れず、脈々と受け継がれている世界でも他に類を見ない素晴らしい国です。この日本に生まれ、生活していることをもっと楽しまないといけないな‥‥って思っています。

五条大橋を渡ります。バンタローから不意に「エッチャン、牛若丸の役をやるから、そこ(欄干)の上に立て! 俺が弁慶の役で、ここで待ち受けるから」と振られたのですが、すぐさま「ヤダッ!」って返しました。五条大橋の下を流れる鴨川は、宇治川ほど流れは速くないものの、水量が少なく、川底の石が見えます。この高さから落下したら無事では済みませんからね(笑) ワイワイガヤガヤ言いながら五条大橋を東詰から西詰に渡りました。

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……(その5)に続きます。