2016/08/19
大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭 (その7)
翌17日、午前7時に目を覚ましました。窓の障子を開けて外を見ると、小雨が降っています。鴨川の畔の遊歩道を傘をさした方が何人も犬を連れて散歩しています。オネエがすっ飛んできて、「エッチャン、大変! 雨が降ってる! アレっ!? エッチャン、もう起きてたの?」 思い起こしてみると、これまで7回開催してきた『大人の修学旅行』では、2日目の朝は毎回オネエに叩き起こされていたのですが、今回は初めてオネエが叩き起こしに来る前に目を覚ますことができました。
「おはよう。うん、雨が降ってるね。ちょっと待って」大気の不安定な状態が続き、昨夜もメチャメチャ湿度が高かったので、今日は明け方に雨が降ることは十分予想ができていました。問題はこの雨がいつまで降り続くかです。スマートフォンで弊社ハレックスの「HalexDream!」にアクセスし、今後の雨域の移り変わりを予測してみました。「うん、これからしばらくは降るけど、たぶん午前9時過ぎには小雨になり、楽観的かもしれないけれど、その後昼過ぎくらいまでやむと思うよ。」私は気象予報士ではないのですが、弊社の「HalexDream!」の出している予想を信じて、そうオネエに伝えました。「レジェンドと呼ばれる域にまで達した“晴れ男”がここにいるのだから、大丈夫!」って、なんら科学的根拠もない安心材料も一言添えて(笑)
オネエはお化粧もバッチリ済ませて、いつでも出発できる準備が整っている感じです。「あれっ⁉︎ もうお風呂に入ってきたの?」「入ってきたわよ。」「お風呂に入れるのって朝は7時からじゃあなかったっけ?」「鶴清さんにお願いして特別に6時に入れるようにしたの。」‥‥さすがはオネエです。前日は大変な人出の中、祇園祭の宵山見物に出掛けたので、実は汗でグチャグチャになっていたんです。メガネが曇ってしまうくらい湿度が高かったですからね。鶴清に戻ってきてお風呂で汗を流せばいいものを、そのまま二次会に突入しちゃったので、汗を流さずじまいで寝ちゃったのでした。「じゃあ、朝風呂に入って、サッパリしてくるわ。」 朝風呂に浸かってすべての身体の細胞を目覚めさせる‥‥、これも私の中では基本日本式旅館を利用する『大人の修学旅行』の密かな楽しみの一つになっているんです。極楽極楽‥‥‥‥。
朝風呂でサッパリ汗を流し、宴会場で全員揃っての朝食をいただいて、出発の準備をします。タクシーを午前9時20分に呼んでいるということで、鶴清の出発は午前9時20分にしたのですが、午前7時に比べると小降りにはなったものの、午前9時を過ぎてもまだ雨はやまずに降り続いています。祇園祭のハイライトである山鉾巡行は午前9時に四条烏丸をスタートするので、気の毒なことに雨の中でのスタートになった筈です。空を見上げると、空は徐々に明るくなってきています。再び弊社の「HalexDream!」で気象庁の降雨レーダーの観測情報を確認してみると、大きな固まりの降雨帯は西から東に移動していっており、鶴清のある京都市東山区はまもなく雨域をはずれるって予想でした。なので、私は「大丈夫! 我々が出発する9時20分にはこの雨は止む! 一応折りたたみの傘を持っていくことを勧めるけど、その後我々が京都にいる間は雨は降らない!」と断言しちゃいました。
皆さん、半信半疑だったようですが、私達が鶴清を出発した午前9時20分には雨はピタリとやみ、面目躍如って感じでした。ふぅ〜〜〜‥‥、予想が的中してよかった。
2台の観光ワゴンタクシーに分乗して、私達10名は伏見区にある醍醐寺を目指しました。前述のようにこの日は祇園祭のハイライトである山鉾巡行が行われるので、多くの人はそれを見物に行くのですが、午前中はそのウラを突いて醍醐寺見学に行き、午前11時半頃に京都市内中心部に戻って、正規の山鉾巡行が終わり、御池通りから新町通りを通って各山鉾が帰っていくところを見物しようという作戦を立てたのでした。さすがは京都の街を知り尽くした京都在住のオネエが立てた大胆な作戦です。ふつうの人にはこんな大胆な旅程は思いつきません。で、結果としてこの作戦は大正解でした。タクシーは順調すぎるくらいに順調に南へ走ります。反対車線は渋滞している個所もあります。
私達を乗せた観光ワゴンタクシーは意外なほど交通量の少ない道路を順調に走り、山科区に入りました。見えてきた道路標識の地名が「小野」。ここは平安時代前期の女流歌人で六歌仙の一人と称された小野小町ゆかりの場所とされています。小野小町はクレオパトラ、楊貴妃と並んで“世界三大美女”と称される絶世の美女としても知られていますが、実は詳しい系譜についてはまったく謎に包まれたままの女性です。生誕地に関しても全国各地に幾つかの伝承があるのですが、この京都市山科区小野は、かつて小野氏が栄えた土地とされていて、小野一族である小野小町もここの出身で、晩年もこの地で過ごしたとの有力な説があります。この山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の随心院には、卒塔婆小町像や文塚などの小野小町にゆかりの史跡も残っているのだそうです。
ちなみに、小野小町の生誕地に関しては現在の秋田県湯沢市小野であるという有力な説もあり、米の品種の「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車の愛称の「こまち」はこの秋田県湯沢市生誕説に由来するものです。さすがは、“世界三大美女”と称される絶世の美女です。町興しに全国で引っ張りだこです。小野小町は、小倉百人一首に参議篁(さんぎたかむら)として登場する小野篁(おののたかむら)の息子で出羽郡司も務めた小野良真の娘とされていて、父親が“転勤族”だったことから、全国各地に生誕地にまつわる伝承が散らばっているのではないかと推察します。
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」 from 百人一首(古今集)
ご自分でこのように歌に詠われているくらいなので、さぞやお美しかったのでしょうね。“世界三大美女”と称されるほどの美女に、一目、お会いしてみたいものです。
この小野小町生誕の伝承に興味を持ったので、ネットで山科区の観光案内を調べてみると、山科区には京都最古の天皇陵である天智天皇陵(御廟野古墳)や、平安京に遷都された直後の延暦16年(西暦797年)に桓武天皇から征夷大将軍に任じられて蝦夷の討伐を果たした坂上田村麻呂の墓もあるようです。さらには本能寺の変で織田信長を倒した後、山崎の戦いにて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れた明智光秀が、居城の坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの農民に竹槍で襲撃されて命を落としたとされる終焉の地と胴塚、供養塔もあるのだそうです。また、忠臣蔵で有名な四十七士のリーダー・大石内蔵助は討入り前にこの京都山科にある岩屋寺に隠れ住んでいたのだそうです。さすがは古都京都、平安時代の前からの長い長い歴史の様々な痕跡、それも小学校や中学校の教科書に載っているような歴史上超〜〜ぉ著名な方々の痕跡がいっぱい残されています。
私の頭の中ではザ・ベンチャーズが作曲して渚ゆう子さんが歌った名曲『京都の恋(原題:Kyoto Doll、1970年)』と『京都慕情(原題:Reflections in A Palace Lake、1970年)』が何度もリフレインしています。私の世代で京都を題材にした楽曲といえば、この2曲です。ちなみに、ザ・ベンチャーズは昨年2015年のジャパンツアーをもって、結成メンバーでリズムギター担当のドン・ウィルソンがツアーからの引退を正式に表明。今年も来日して全国で公演を行っていますが、今年のジャパンツアー2016からはボブ・スポルディングがリズムギターを担当し、新たにベーシストとしてボブ・スポルディングの息子であるイアン・スポルディングを迎えています。テケテケ・サウンドは今年も健在のようです。
ザ・ベンチャーズ Japan Tour 2015(その1)
ザ・ベンチャーズ Japan Tour 2015(その2)
その山科区から伏見区に入ってすぐのあたりに目的地の醍醐寺はあります。「鶴清」を出て、ほんの20分ほどで醍醐寺の駐車場に到着しました。駐車場も余裕があります。
醍醐寺は、京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山の寺院です。山号も醍醐山と称し、本尊は薬師如来。創建は貞観16年(874年)、真言宗の宗祖・弘法大師の孫弟子にあたる理源大師・聖宝が笠取山の山頂付近に草庵を結び、准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山。聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けたとされています。真言宗醍醐派の総本山らしく伏見区東方に広がる醍醐山に200万坪以上の広大な境内をもつ大寺院で、古都京都の文化財としてユネスコの世界文化遺産の1つに登録されている寺院です。今年のNHKの大河ドラマ『真田丸』でも取り上げられましたが、豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られています。
醍醐寺は山深い醍醐山(笠取山)の頂上一帯(上醍醐と呼びます)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後、第60代の醍醐天皇(在位:西暦897年〜930年)がこの醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その後も第61代朱雀天皇(在位:西暦930年〜946年)、第62代村上天皇(在位:西暦946年〜967年)からも引き続き手厚い庇護を受けたことから、その圧倒的な財力によって醍醐山(笠取山)の麓の広大な平地に次々に堂や塔が建立され、天暦5年(西暦951年)には今に残る五重塔が完成。大伽藍「下醍醐」が発展することになりました。その後、応仁の乱などの戦乱で下醍醐は荒廃し、一時は五重塔のみが残されただけになったのですが、豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設されたりなどして徐々に復興され、今日のような姿となりました。
世界遺産 京都 醍醐寺公式HP
実は愛媛県今治市にある私の家の菩提寺、龍門山無量寺が真言宗醍醐派に属する寺院で、真言宗でありながら総本山は高野山ではなく、京都の醍醐寺であるということを数年前に知りました。調べてみると、この真言宗醍醐派は古義真言宗に属する修験道の一派で、高野山を総本山とする真言宗の主流とはちょっと異なる趣きを持つ宗派だということを知り、大いに興味を惹かれました。なので、我が家の菩提寺である無量寺の住職も修行をしたというその総本山醍醐寺にいつかは行ってみたいと思ってるんだ‥‥とオネエに何度か言っていたこともあり、今回、オネエが数ある京都の見どころの中から選んで見学のコースに組み込んでくれたのでした。ありがたいことです。山鉾巡行を観ずに醍醐寺を見学に来ている人って少ないようで、この日の醍醐寺は人も疎ら。非常に落ち着いた雰囲気で、総本山醍醐寺を楽しむことができました。
総門です。
同じ醍醐寺の敷地内ではありますが、修験者の霊場(道場)である山深い醍醐山の頂上一帯の「上醍醐」と麓にある「下醍醐」の間は険しい山道で隔てられ、「上醍醐」にまで行くには徒歩でゆうに1時間半は要するそうなので、今回は時間の都合もあり「下醍醐」だけの見学に終わりましたが、それでもこの醍醐寺が世界文化遺産に登録されるにふさわしい素晴らしいところであることは十分にわかりました。
まず訪れたのは醍醐寺の塔頭の一つである三宝院です。いただいたパンフレットによると、三宝院は醍醐寺の第14世座主である勝覚僧正が平安時代の永久3年(1115年)に創建したもので、その後、鳥羽法皇の御願寺になります。
ちなみに、この鳥羽法皇、平安時代の末期に皇位継承問題や摂関家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変「保元の乱」(西暦1156年)が勃発する原因を作った法皇です。保元の乱の3年後、今度は平治の乱が起き、平清盛を中心とする平氏が隆盛を極めることになるのですが、その平氏も1180年から1185年にかけて起こった「治承・寿永の乱」、いわゆる「源平の乱」で後白河法皇&源頼朝側が最終的に勝利し、滅亡することになります。このあたり、昨日訪れた宇治、さらには五条大橋などとも繋がり、いろいろと当時の政治的な背景などもイメージできて、なかなか楽しいです。
室町時代には3代将軍・足利義満(在職:1368年〜1394年)の猶子である満済准后(醍醐寺第73世座主)が三宝院を醍醐寺の中心的な役割を担う本坊にしました。満済准后の活躍は醍醐寺だけに止まらず、公武の調整を図りながら室町幕府の義満、第4代将軍の義持(在職:1394年〜1423年)、第6代将軍の義教(在職:1428年〜1441年)という3人の将軍の補佐を行いました。その影響力は絶大で、第6代将軍・義教をなんとクジ引きで争いなく誕生させるなど、安定した室町時代を陰で支えたことで知られています。室町幕府の第3代将軍・足利義満といえば、鹿苑寺(金閣寺)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いたことで知られていますが、その陰で醍醐寺の補佐があったわけです。しかし、満済准后没後には京都を中心に応仁の乱(西暦1467年〜1477年)が起こり、醍醐寺はもちろん、三宝院も大きな被害を受け、それ以降、本格的な復興を遂げることができずに130以上の時間が経過しました。
慶長年間(西暦1596年〜1615年)に入った頃、豊臣秀吉と親交のあった義演准后(醍醐寺第80世座主)は、慶長3年(1598年)の春、秀吉によって催された有名な「醍醐の花見」を契機に醍醐寺の復興を秀吉に願い出ました。秀吉は「醍醐の花見」以降にも紅葉狩り、また翌春には後陽成天皇の行幸を仰いでの花見を計画していたことから義演准后の願いを快く引き受けました。三宝院や伽藍の復興は秀吉亡き後も秀頼に引き継がれ、その援助のもと、復興は一気に進みました。特に、三宝院の庭園は秀吉自らが縄張りし、覇者の証とされた名石「藤戸石」を聚楽第から運び込むなどしており、天下人の庭として知られています。
三宝院の勅使門である「唐門」(国宝)です。この唐門は慶長4年(1599年)に後陽成天皇の行幸を仰いでの花見を催すために建立されたもので、平成22年(2010年)に約1年半をかけて創建当時の姿に復元されました。門全体が黒の漆塗りで、菊と桐の4つの大きな紋には金箔が施されています。
ここに描かれている八重菊を図案化した菊紋は一般に「菊の御紋」と呼ばれる16弁の花弁を持つ八重菊を描いた「十六八重表菊」紋で、日本の天皇および皇室を表す紋章です。いっぽう、桐の紋章は「五七桐」と呼ばれ、豊臣秀吉が用いた家紋です。この「五七桐」の紋章はもともと「十六八重表菊」紋とともに天皇家のみが使っていた格式のある紋章でした。室町幕府の初代将軍である足利尊氏が当時の後醍醐天皇からこの桐紋を恩賞として頂き、それ以降、時の権力者が使う紋章となったようです。現在の日本政府も豊臣秀吉が使っていたものと同じ「五七桐」の紋章を使っています。内閣総理大臣や内閣官房長官が記者会見をする時の机には、この「五七桐」の紋章が描かれていることに気づかれると思います。そうそう、現在の500円硬貨の裏面にもこの「五七桐」の紋章が刻印されています。
三宝院の唐門には外側に「十六八重表菊」紋、内側に「五七桐」紋が描かれていますが、これは天皇をお迎えして扉を開けた時に、「十六八重表菊」紋だけが見えるようにしたためなのだそうです。
唐門を通れるのは天皇陛下だけなのだそうで、私達一般庶民はその横にある門から中に入ります。そこで真っ先に目に入るのが大きな「しだれ(枝垂れ)桜」の木です。この三宝院の大玄関前にある「しだれ桜」は「太閤しだれ桜」と呼ばれています。桜の樹の寿命から考えて豊臣秀吉が「醍醐の花見」で愛でた桜の木そのものではありませんが、奥村土牛画伯の代表作「醍醐」のモデルになった桜の木です。今は7月なので葉っぱが繁っているだけですが、これだけ立派な「しだれ桜」だと、開花の時期はさぞや見事な美しさであろうということは、容易に想像できます。
国の重要文化財に指定されている大玄関です。写真の撮影が許可されているのは玄関前までです。ここで記念撮影。
玄関を入ると、葵の間、秋草の間、勅使の間と続きます。葵の間を飾る襖絵は京都三大祭りの一つ葵祭の風景です。秋草の間には秋の七草の襖絵が飾られています。それらの間の前を通る廊下を進んでいくと、国宝である表書院に出ます。この表書院は下段(27畳)、中段(18畳)、上段(15畳)の3つの間から成る大きな広間です。「下段の間」は別名「揚舞台の間」と言われ、畳を上げると能舞台になります。「中段・上段の間」は下段の揚舞台の間より一段高く、能や狂言を高い位置から鑑賞できるようになっています。どの間も立派な襖絵が飾られ、「上段の間」には、三宝院本堂に祀られていた阿弥陀如来坐像が安置されています。
この表書院の前の庭が豊臣秀吉自らが縄張りをし、覇者の証とされた名石「藤戸石」を聚楽第から運び込むなどして構築した「天下人の庭」です。「天下の庭」と呼ぶに相応しい立派な庭で、目に飛び込んできただけで、ハッと息を飲むほどです。現在、この庭園は国の特別名勝・特別史跡に指定されています。この庭に関しては昨年来写真撮影が可能になったそうなので、写真に撮ってきました。この三宝院の庭はJR東海さんの「そうだ京都、行こう。」キャンペーンをはじめ、京都への観光案内のポスターやCM映像などで何度も使われているので、ご覧になったことがある方も大勢いらっしゃるかと思います。
「唐門」を内側から見たところです。ここが天皇陛下がおみえになる時の通路ってことなのですね。
……(その8)に続きます。
「おはよう。うん、雨が降ってるね。ちょっと待って」大気の不安定な状態が続き、昨夜もメチャメチャ湿度が高かったので、今日は明け方に雨が降ることは十分予想ができていました。問題はこの雨がいつまで降り続くかです。スマートフォンで弊社ハレックスの「HalexDream!」にアクセスし、今後の雨域の移り変わりを予測してみました。「うん、これからしばらくは降るけど、たぶん午前9時過ぎには小雨になり、楽観的かもしれないけれど、その後昼過ぎくらいまでやむと思うよ。」私は気象予報士ではないのですが、弊社の「HalexDream!」の出している予想を信じて、そうオネエに伝えました。「レジェンドと呼ばれる域にまで達した“晴れ男”がここにいるのだから、大丈夫!」って、なんら科学的根拠もない安心材料も一言添えて(笑)
オネエはお化粧もバッチリ済ませて、いつでも出発できる準備が整っている感じです。「あれっ⁉︎ もうお風呂に入ってきたの?」「入ってきたわよ。」「お風呂に入れるのって朝は7時からじゃあなかったっけ?」「鶴清さんにお願いして特別に6時に入れるようにしたの。」‥‥さすがはオネエです。前日は大変な人出の中、祇園祭の宵山見物に出掛けたので、実は汗でグチャグチャになっていたんです。メガネが曇ってしまうくらい湿度が高かったですからね。鶴清に戻ってきてお風呂で汗を流せばいいものを、そのまま二次会に突入しちゃったので、汗を流さずじまいで寝ちゃったのでした。「じゃあ、朝風呂に入って、サッパリしてくるわ。」 朝風呂に浸かってすべての身体の細胞を目覚めさせる‥‥、これも私の中では基本日本式旅館を利用する『大人の修学旅行』の密かな楽しみの一つになっているんです。極楽極楽‥‥‥‥。
朝風呂でサッパリ汗を流し、宴会場で全員揃っての朝食をいただいて、出発の準備をします。タクシーを午前9時20分に呼んでいるということで、鶴清の出発は午前9時20分にしたのですが、午前7時に比べると小降りにはなったものの、午前9時を過ぎてもまだ雨はやまずに降り続いています。祇園祭のハイライトである山鉾巡行は午前9時に四条烏丸をスタートするので、気の毒なことに雨の中でのスタートになった筈です。空を見上げると、空は徐々に明るくなってきています。再び弊社の「HalexDream!」で気象庁の降雨レーダーの観測情報を確認してみると、大きな固まりの降雨帯は西から東に移動していっており、鶴清のある京都市東山区はまもなく雨域をはずれるって予想でした。なので、私は「大丈夫! 我々が出発する9時20分にはこの雨は止む! 一応折りたたみの傘を持っていくことを勧めるけど、その後我々が京都にいる間は雨は降らない!」と断言しちゃいました。
皆さん、半信半疑だったようですが、私達が鶴清を出発した午前9時20分には雨はピタリとやみ、面目躍如って感じでした。ふぅ〜〜〜‥‥、予想が的中してよかった。
2台の観光ワゴンタクシーに分乗して、私達10名は伏見区にある醍醐寺を目指しました。前述のようにこの日は祇園祭のハイライトである山鉾巡行が行われるので、多くの人はそれを見物に行くのですが、午前中はそのウラを突いて醍醐寺見学に行き、午前11時半頃に京都市内中心部に戻って、正規の山鉾巡行が終わり、御池通りから新町通りを通って各山鉾が帰っていくところを見物しようという作戦を立てたのでした。さすがは京都の街を知り尽くした京都在住のオネエが立てた大胆な作戦です。ふつうの人にはこんな大胆な旅程は思いつきません。で、結果としてこの作戦は大正解でした。タクシーは順調すぎるくらいに順調に南へ走ります。反対車線は渋滞している個所もあります。
私達を乗せた観光ワゴンタクシーは意外なほど交通量の少ない道路を順調に走り、山科区に入りました。見えてきた道路標識の地名が「小野」。ここは平安時代前期の女流歌人で六歌仙の一人と称された小野小町ゆかりの場所とされています。小野小町はクレオパトラ、楊貴妃と並んで“世界三大美女”と称される絶世の美女としても知られていますが、実は詳しい系譜についてはまったく謎に包まれたままの女性です。生誕地に関しても全国各地に幾つかの伝承があるのですが、この京都市山科区小野は、かつて小野氏が栄えた土地とされていて、小野一族である小野小町もここの出身で、晩年もこの地で過ごしたとの有力な説があります。この山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の随心院には、卒塔婆小町像や文塚などの小野小町にゆかりの史跡も残っているのだそうです。
ちなみに、小野小町の生誕地に関しては現在の秋田県湯沢市小野であるという有力な説もあり、米の品種の「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車の愛称の「こまち」はこの秋田県湯沢市生誕説に由来するものです。さすがは、“世界三大美女”と称される絶世の美女です。町興しに全国で引っ張りだこです。小野小町は、小倉百人一首に参議篁(さんぎたかむら)として登場する小野篁(おののたかむら)の息子で出羽郡司も務めた小野良真の娘とされていて、父親が“転勤族”だったことから、全国各地に生誕地にまつわる伝承が散らばっているのではないかと推察します。
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」 from 百人一首(古今集)
ご自分でこのように歌に詠われているくらいなので、さぞやお美しかったのでしょうね。“世界三大美女”と称されるほどの美女に、一目、お会いしてみたいものです。
この小野小町生誕の伝承に興味を持ったので、ネットで山科区の観光案内を調べてみると、山科区には京都最古の天皇陵である天智天皇陵(御廟野古墳)や、平安京に遷都された直後の延暦16年(西暦797年)に桓武天皇から征夷大将軍に任じられて蝦夷の討伐を果たした坂上田村麻呂の墓もあるようです。さらには本能寺の変で織田信長を倒した後、山崎の戦いにて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れた明智光秀が、居城の坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの農民に竹槍で襲撃されて命を落としたとされる終焉の地と胴塚、供養塔もあるのだそうです。また、忠臣蔵で有名な四十七士のリーダー・大石内蔵助は討入り前にこの京都山科にある岩屋寺に隠れ住んでいたのだそうです。さすがは古都京都、平安時代の前からの長い長い歴史の様々な痕跡、それも小学校や中学校の教科書に載っているような歴史上超〜〜ぉ著名な方々の痕跡がいっぱい残されています。
私の頭の中ではザ・ベンチャーズが作曲して渚ゆう子さんが歌った名曲『京都の恋(原題:Kyoto Doll、1970年)』と『京都慕情(原題:Reflections in A Palace Lake、1970年)』が何度もリフレインしています。私の世代で京都を題材にした楽曲といえば、この2曲です。ちなみに、ザ・ベンチャーズは昨年2015年のジャパンツアーをもって、結成メンバーでリズムギター担当のドン・ウィルソンがツアーからの引退を正式に表明。今年も来日して全国で公演を行っていますが、今年のジャパンツアー2016からはボブ・スポルディングがリズムギターを担当し、新たにベーシストとしてボブ・スポルディングの息子であるイアン・スポルディングを迎えています。テケテケ・サウンドは今年も健在のようです。
ザ・ベンチャーズ Japan Tour 2015(その1)
ザ・ベンチャーズ Japan Tour 2015(その2)
その山科区から伏見区に入ってすぐのあたりに目的地の醍醐寺はあります。「鶴清」を出て、ほんの20分ほどで醍醐寺の駐車場に到着しました。駐車場も余裕があります。
醍醐寺は、京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山の寺院です。山号も醍醐山と称し、本尊は薬師如来。創建は貞観16年(874年)、真言宗の宗祖・弘法大師の孫弟子にあたる理源大師・聖宝が笠取山の山頂付近に草庵を結び、准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山。聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けたとされています。真言宗醍醐派の総本山らしく伏見区東方に広がる醍醐山に200万坪以上の広大な境内をもつ大寺院で、古都京都の文化財としてユネスコの世界文化遺産の1つに登録されている寺院です。今年のNHKの大河ドラマ『真田丸』でも取り上げられましたが、豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られています。
醍醐寺は山深い醍醐山(笠取山)の頂上一帯(上醍醐と呼びます)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後、第60代の醍醐天皇(在位:西暦897年〜930年)がこの醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その後も第61代朱雀天皇(在位:西暦930年〜946年)、第62代村上天皇(在位:西暦946年〜967年)からも引き続き手厚い庇護を受けたことから、その圧倒的な財力によって醍醐山(笠取山)の麓の広大な平地に次々に堂や塔が建立され、天暦5年(西暦951年)には今に残る五重塔が完成。大伽藍「下醍醐」が発展することになりました。その後、応仁の乱などの戦乱で下醍醐は荒廃し、一時は五重塔のみが残されただけになったのですが、豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設されたりなどして徐々に復興され、今日のような姿となりました。
世界遺産 京都 醍醐寺公式HP
実は愛媛県今治市にある私の家の菩提寺、龍門山無量寺が真言宗醍醐派に属する寺院で、真言宗でありながら総本山は高野山ではなく、京都の醍醐寺であるということを数年前に知りました。調べてみると、この真言宗醍醐派は古義真言宗に属する修験道の一派で、高野山を総本山とする真言宗の主流とはちょっと異なる趣きを持つ宗派だということを知り、大いに興味を惹かれました。なので、我が家の菩提寺である無量寺の住職も修行をしたというその総本山醍醐寺にいつかは行ってみたいと思ってるんだ‥‥とオネエに何度か言っていたこともあり、今回、オネエが数ある京都の見どころの中から選んで見学のコースに組み込んでくれたのでした。ありがたいことです。山鉾巡行を観ずに醍醐寺を見学に来ている人って少ないようで、この日の醍醐寺は人も疎ら。非常に落ち着いた雰囲気で、総本山醍醐寺を楽しむことができました。
総門です。
同じ醍醐寺の敷地内ではありますが、修験者の霊場(道場)である山深い醍醐山の頂上一帯の「上醍醐」と麓にある「下醍醐」の間は険しい山道で隔てられ、「上醍醐」にまで行くには徒歩でゆうに1時間半は要するそうなので、今回は時間の都合もあり「下醍醐」だけの見学に終わりましたが、それでもこの醍醐寺が世界文化遺産に登録されるにふさわしい素晴らしいところであることは十分にわかりました。
まず訪れたのは醍醐寺の塔頭の一つである三宝院です。いただいたパンフレットによると、三宝院は醍醐寺の第14世座主である勝覚僧正が平安時代の永久3年(1115年)に創建したもので、その後、鳥羽法皇の御願寺になります。
ちなみに、この鳥羽法皇、平安時代の末期に皇位継承問題や摂関家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変「保元の乱」(西暦1156年)が勃発する原因を作った法皇です。保元の乱の3年後、今度は平治の乱が起き、平清盛を中心とする平氏が隆盛を極めることになるのですが、その平氏も1180年から1185年にかけて起こった「治承・寿永の乱」、いわゆる「源平の乱」で後白河法皇&源頼朝側が最終的に勝利し、滅亡することになります。このあたり、昨日訪れた宇治、さらには五条大橋などとも繋がり、いろいろと当時の政治的な背景などもイメージできて、なかなか楽しいです。
室町時代には3代将軍・足利義満(在職:1368年〜1394年)の猶子である満済准后(醍醐寺第73世座主)が三宝院を醍醐寺の中心的な役割を担う本坊にしました。満済准后の活躍は醍醐寺だけに止まらず、公武の調整を図りながら室町幕府の義満、第4代将軍の義持(在職:1394年〜1423年)、第6代将軍の義教(在職:1428年〜1441年)という3人の将軍の補佐を行いました。その影響力は絶大で、第6代将軍・義教をなんとクジ引きで争いなく誕生させるなど、安定した室町時代を陰で支えたことで知られています。室町幕府の第3代将軍・足利義満といえば、鹿苑寺(金閣寺)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いたことで知られていますが、その陰で醍醐寺の補佐があったわけです。しかし、満済准后没後には京都を中心に応仁の乱(西暦1467年〜1477年)が起こり、醍醐寺はもちろん、三宝院も大きな被害を受け、それ以降、本格的な復興を遂げることができずに130以上の時間が経過しました。
慶長年間(西暦1596年〜1615年)に入った頃、豊臣秀吉と親交のあった義演准后(醍醐寺第80世座主)は、慶長3年(1598年)の春、秀吉によって催された有名な「醍醐の花見」を契機に醍醐寺の復興を秀吉に願い出ました。秀吉は「醍醐の花見」以降にも紅葉狩り、また翌春には後陽成天皇の行幸を仰いでの花見を計画していたことから義演准后の願いを快く引き受けました。三宝院や伽藍の復興は秀吉亡き後も秀頼に引き継がれ、その援助のもと、復興は一気に進みました。特に、三宝院の庭園は秀吉自らが縄張りし、覇者の証とされた名石「藤戸石」を聚楽第から運び込むなどしており、天下人の庭として知られています。
三宝院の勅使門である「唐門」(国宝)です。この唐門は慶長4年(1599年)に後陽成天皇の行幸を仰いでの花見を催すために建立されたもので、平成22年(2010年)に約1年半をかけて創建当時の姿に復元されました。門全体が黒の漆塗りで、菊と桐の4つの大きな紋には金箔が施されています。
ここに描かれている八重菊を図案化した菊紋は一般に「菊の御紋」と呼ばれる16弁の花弁を持つ八重菊を描いた「十六八重表菊」紋で、日本の天皇および皇室を表す紋章です。いっぽう、桐の紋章は「五七桐」と呼ばれ、豊臣秀吉が用いた家紋です。この「五七桐」の紋章はもともと「十六八重表菊」紋とともに天皇家のみが使っていた格式のある紋章でした。室町幕府の初代将軍である足利尊氏が当時の後醍醐天皇からこの桐紋を恩賞として頂き、それ以降、時の権力者が使う紋章となったようです。現在の日本政府も豊臣秀吉が使っていたものと同じ「五七桐」の紋章を使っています。内閣総理大臣や内閣官房長官が記者会見をする時の机には、この「五七桐」の紋章が描かれていることに気づかれると思います。そうそう、現在の500円硬貨の裏面にもこの「五七桐」の紋章が刻印されています。
三宝院の唐門には外側に「十六八重表菊」紋、内側に「五七桐」紋が描かれていますが、これは天皇をお迎えして扉を開けた時に、「十六八重表菊」紋だけが見えるようにしたためなのだそうです。
唐門を通れるのは天皇陛下だけなのだそうで、私達一般庶民はその横にある門から中に入ります。そこで真っ先に目に入るのが大きな「しだれ(枝垂れ)桜」の木です。この三宝院の大玄関前にある「しだれ桜」は「太閤しだれ桜」と呼ばれています。桜の樹の寿命から考えて豊臣秀吉が「醍醐の花見」で愛でた桜の木そのものではありませんが、奥村土牛画伯の代表作「醍醐」のモデルになった桜の木です。今は7月なので葉っぱが繁っているだけですが、これだけ立派な「しだれ桜」だと、開花の時期はさぞや見事な美しさであろうということは、容易に想像できます。
国の重要文化財に指定されている大玄関です。写真の撮影が許可されているのは玄関前までです。ここで記念撮影。
玄関を入ると、葵の間、秋草の間、勅使の間と続きます。葵の間を飾る襖絵は京都三大祭りの一つ葵祭の風景です。秋草の間には秋の七草の襖絵が飾られています。それらの間の前を通る廊下を進んでいくと、国宝である表書院に出ます。この表書院は下段(27畳)、中段(18畳)、上段(15畳)の3つの間から成る大きな広間です。「下段の間」は別名「揚舞台の間」と言われ、畳を上げると能舞台になります。「中段・上段の間」は下段の揚舞台の間より一段高く、能や狂言を高い位置から鑑賞できるようになっています。どの間も立派な襖絵が飾られ、「上段の間」には、三宝院本堂に祀られていた阿弥陀如来坐像が安置されています。
この表書院の前の庭が豊臣秀吉自らが縄張りをし、覇者の証とされた名石「藤戸石」を聚楽第から運び込むなどして構築した「天下人の庭」です。「天下の庭」と呼ぶに相応しい立派な庭で、目に飛び込んできただけで、ハッと息を飲むほどです。現在、この庭園は国の特別名勝・特別史跡に指定されています。この庭に関しては昨年来写真撮影が可能になったそうなので、写真に撮ってきました。この三宝院の庭はJR東海さんの「そうだ京都、行こう。」キャンペーンをはじめ、京都への観光案内のポスターやCM映像などで何度も使われているので、ご覧になったことがある方も大勢いらっしゃるかと思います。
「唐門」を内側から見たところです。ここが天皇陛下がおみえになる時の通路ってことなのですね。
……(その8)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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