2016/10/05
中山道六十九次・街道歩き【第5回: 桶川→鴻巣】(その3)
桶川宿を出て、旧中山道(県道164号鴻巣桶川さいたま線)を北本へ向かいます。埼玉県もこのあたりまで来ると武蔵野特有のケヤキ(欅)の森があちこちに残っています。このあたりのケヤキは並木として植えたというよりも、自生のケヤキでしょうか。ほどなく北本市に入ります。
立体交差で圏央道を横切ります(旧中山道の下を圏央道が横切っています)。圏央道(首都圏中央連絡自動車道)は、神奈川県横浜市金沢区から東京都・埼玉県・茨城県を経由し千葉県木更津市に至る、東京都心からおおむね半径40~60kmの位置を環状に結ぶ高規格幹線道路です。この道路ができたおかげで、東名高速道路、中央自動車道、関越自動車道、東北自動車道が繋がり、埼玉県の住民にとっては随分と便利になりました。さらに今年度中には現在工事中の残された区間の工事が終わり、常磐自動車道や東関東自動車道まで繋がることから、ますます便利になります。
圏央道の上を越えて、さらに北へ進みます。途中、お屋敷のような立派な家屋に「売り家」の表示が出ていて、歩いている皆さんの口から「凄い!」「へぇ~~~~!」という声が上がりました。この立派過ぎる家、いったいお幾らぐらいするのでしょう? 歴史を感じさせる古い家なので、購入したとしても相当手を入れないといけないでしょうから、かなり高くつきそうです。
交差点向こう側に「北本宿碑」と説明板があります。北本には江戸幕府による宿駅整備以前の慶長7年(1602年)までは中山道の宿場が置かれ、「鴻巣宿」と呼ばれ賑わっていました。「鴻巣宿」は慶長7年(1602年)に市宿新田(いちじゅくしんでん:現在の鴻巣市)の地に移され、これにより、それまでの鴻巣宿は「元の鴻巣」との意味から「本鴻巣村(もとこうのすむら)」と呼ばれるようになり、さらに、元の宿場であることから「本宿村(もとじゅくむら)」と呼ばれるようになりました。この「本宿村」は明治12年(1879年)に「北本宿村」に改称された後、明治22年(1889年)に中丸村大字北本宿となり、昭和3年(1928年)に国鉄(旧日本鉄道、現JR)高崎線の駅が開設された際に「北本宿」が駅名として採用され、昭和18年(1943年)に成立した新しい村の村名にもなりました。北本宿とは文字通り“北の本宿”という意味で、武蔵国(現在の埼玉県)浦和にあった地名の本宿と区別するため、その浦和よりも北に位置していたことから、北本宿と呼ばれるようになったのだということのようです。この北本宿村は昭和34年(1959年)の町制施行の際に“宿”をとって北本町に改称され、同時に国鉄高崎線の駅名も「北本」に変更となりました。
宿場が置かれていたと言っても街道沿いに旅籠等はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二ヶ所には立場が置かれていて、人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の宿場へと向かいました。この宿場の移設に関しては明確な理由は定かではありませんが、熊谷宿と桶川宿の間に宿を設けるには、現在の北本地域では桶川に近すぎたためとの説や、徳川家康の鷹狩り用の休憩地として現在の鴻巣市に鴻巣御殿が建てられたことから、その鴻巣御殿周辺を宿場として新たに開発したためとする説があるようです。
JR北本駅の手前にある多聞寺です。多聞寺は万治4年(1661年)に開山された真言宗の寺院です。
この多聞寺の境内には樹齢推定400年といわれるムクロジ(無患子)の巨木があり、埼玉県の天然記念物となっています。ムクロジの実は、茶色の殻を剥くと黒い玉が現れるのですが、この黒い玉が今は懐かしい羽根突きの黒玉になりました。羽子板は鴻巣の特産品の1つなのですが、このムロクジの実がきっかけの1つだったのかもしれません。
ちょうどサルスベリがピンク色の花を咲かせていました。
多聞寺の裏には天神社という神社もあり、昔はそこにちょっとした市が立っていたのだそうです。明治政府が打ち出した「神仏分離」や「廃仏毀釈」の考え方により、寺院と神社が明確に分けられる前までは、こうして寺院と神社が同居するのは極々普通だったようです。
旧中山道(埼玉県県道164号鴻巣桶川さいたま線)はまっすぐ進むのですが、徳川家康が中山道を整備した慶長年間の頃までの初期の中山道(当時は東山道と呼ばれていました)は現在のJR北本駅前を斜め左へ入り、JR高崎線の踏切をいったん渡り、しばらく線路の西側に沿って行き、再び線路を渡って旧中山道に合流するコースを通っていました。このルートのことは「古中山道」と呼ばれています。
「古中山道」を進むと、JR高崎線の踏切を渡ってすぐの畑の中のちょっと小高くなったところに一里塚があります。それが「馬室原(まむろはら)一里塚」。江戸の日本橋から11番目の一里塚です。中山道の道筋が変わり、畑の中に取り残されたような感じで残っています。案内板によると、この一里塚は旧中山道が整備された慶長17年(1612年)に築かれたものだそうです。この一里塚は、当時の中山道の道路を挟み両側に築かれた一対のうちの西側のもので、旧中山道の道筋が分かる貴重な資料になっています。明治維新以降、交通手段の変化と発達に伴い、一里塚のほとんどが取り壊されて現存する例は少ないのですが、片方だけでも残っているのは嬉しい限りです。なお、東側の塚は明治16年(1883年)の高崎線敷設の際に取り壊されたのだそうです。廃線跡にも興味のある鉄道マニアの私としては、是非ここに立ち寄ってみたいと思っていたのですが、この日のコースは時間の関係上からか、残念ながらそこには立ち寄りませんでした。日を改めて、いつか行ってみたいと思っています。
旧中山道をさらに先に進んだところに、寛永元年(1624年)に建立されたという勝林寺があります。境内には馬の顔が刻まれた珍しい2基を含め、6基の馬頭観音が並んでいます。中山道を挟み、その勝林寺の斜め向かいに東間浅間神社があります。かなり大きい境内を持つ神社ですが、不審火により本殿は全焼したそうで、広い境内の奥に小高く土盛りされた塚の頂に立派な拝殿が残っているだけです。神社の入口に、猿田彦尊が祀られた庚申堂があります。
この東間浅間神社で、お昼のお弁当をいただきました。
……(その4)に続きます。
立体交差で圏央道を横切ります(旧中山道の下を圏央道が横切っています)。圏央道(首都圏中央連絡自動車道)は、神奈川県横浜市金沢区から東京都・埼玉県・茨城県を経由し千葉県木更津市に至る、東京都心からおおむね半径40~60kmの位置を環状に結ぶ高規格幹線道路です。この道路ができたおかげで、東名高速道路、中央自動車道、関越自動車道、東北自動車道が繋がり、埼玉県の住民にとっては随分と便利になりました。さらに今年度中には現在工事中の残された区間の工事が終わり、常磐自動車道や東関東自動車道まで繋がることから、ますます便利になります。
圏央道の上を越えて、さらに北へ進みます。途中、お屋敷のような立派な家屋に「売り家」の表示が出ていて、歩いている皆さんの口から「凄い!」「へぇ~~~~!」という声が上がりました。この立派過ぎる家、いったいお幾らぐらいするのでしょう? 歴史を感じさせる古い家なので、購入したとしても相当手を入れないといけないでしょうから、かなり高くつきそうです。
交差点向こう側に「北本宿碑」と説明板があります。北本には江戸幕府による宿駅整備以前の慶長7年(1602年)までは中山道の宿場が置かれ、「鴻巣宿」と呼ばれ賑わっていました。「鴻巣宿」は慶長7年(1602年)に市宿新田(いちじゅくしんでん:現在の鴻巣市)の地に移され、これにより、それまでの鴻巣宿は「元の鴻巣」との意味から「本鴻巣村(もとこうのすむら)」と呼ばれるようになり、さらに、元の宿場であることから「本宿村(もとじゅくむら)」と呼ばれるようになりました。この「本宿村」は明治12年(1879年)に「北本宿村」に改称された後、明治22年(1889年)に中丸村大字北本宿となり、昭和3年(1928年)に国鉄(旧日本鉄道、現JR)高崎線の駅が開設された際に「北本宿」が駅名として採用され、昭和18年(1943年)に成立した新しい村の村名にもなりました。北本宿とは文字通り“北の本宿”という意味で、武蔵国(現在の埼玉県)浦和にあった地名の本宿と区別するため、その浦和よりも北に位置していたことから、北本宿と呼ばれるようになったのだということのようです。この北本宿村は昭和34年(1959年)の町制施行の際に“宿”をとって北本町に改称され、同時に国鉄高崎線の駅名も「北本」に変更となりました。
宿場が置かれていたと言っても街道沿いに旅籠等はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二ヶ所には立場が置かれていて、人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の宿場へと向かいました。この宿場の移設に関しては明確な理由は定かではありませんが、熊谷宿と桶川宿の間に宿を設けるには、現在の北本地域では桶川に近すぎたためとの説や、徳川家康の鷹狩り用の休憩地として現在の鴻巣市に鴻巣御殿が建てられたことから、その鴻巣御殿周辺を宿場として新たに開発したためとする説があるようです。
JR北本駅の手前にある多聞寺です。多聞寺は万治4年(1661年)に開山された真言宗の寺院です。
この多聞寺の境内には樹齢推定400年といわれるムクロジ(無患子)の巨木があり、埼玉県の天然記念物となっています。ムクロジの実は、茶色の殻を剥くと黒い玉が現れるのですが、この黒い玉が今は懐かしい羽根突きの黒玉になりました。羽子板は鴻巣の特産品の1つなのですが、このムロクジの実がきっかけの1つだったのかもしれません。
ちょうどサルスベリがピンク色の花を咲かせていました。
多聞寺の裏には天神社という神社もあり、昔はそこにちょっとした市が立っていたのだそうです。明治政府が打ち出した「神仏分離」や「廃仏毀釈」の考え方により、寺院と神社が明確に分けられる前までは、こうして寺院と神社が同居するのは極々普通だったようです。
旧中山道(埼玉県県道164号鴻巣桶川さいたま線)はまっすぐ進むのですが、徳川家康が中山道を整備した慶長年間の頃までの初期の中山道(当時は東山道と呼ばれていました)は現在のJR北本駅前を斜め左へ入り、JR高崎線の踏切をいったん渡り、しばらく線路の西側に沿って行き、再び線路を渡って旧中山道に合流するコースを通っていました。このルートのことは「古中山道」と呼ばれています。
「古中山道」を進むと、JR高崎線の踏切を渡ってすぐの畑の中のちょっと小高くなったところに一里塚があります。それが「馬室原(まむろはら)一里塚」。江戸の日本橋から11番目の一里塚です。中山道の道筋が変わり、畑の中に取り残されたような感じで残っています。案内板によると、この一里塚は旧中山道が整備された慶長17年(1612年)に築かれたものだそうです。この一里塚は、当時の中山道の道路を挟み両側に築かれた一対のうちの西側のもので、旧中山道の道筋が分かる貴重な資料になっています。明治維新以降、交通手段の変化と発達に伴い、一里塚のほとんどが取り壊されて現存する例は少ないのですが、片方だけでも残っているのは嬉しい限りです。なお、東側の塚は明治16年(1883年)の高崎線敷設の際に取り壊されたのだそうです。廃線跡にも興味のある鉄道マニアの私としては、是非ここに立ち寄ってみたいと思っていたのですが、この日のコースは時間の関係上からか、残念ながらそこには立ち寄りませんでした。日を改めて、いつか行ってみたいと思っています。
旧中山道をさらに先に進んだところに、寛永元年(1624年)に建立されたという勝林寺があります。境内には馬の顔が刻まれた珍しい2基を含め、6基の馬頭観音が並んでいます。中山道を挟み、その勝林寺の斜め向かいに東間浅間神社があります。かなり大きい境内を持つ神社ですが、不審火により本殿は全焼したそうで、広い境内の奥に小高く土盛りされた塚の頂に立派な拝殿が残っているだけです。神社の入口に、猿田彦尊が祀られた庚申堂があります。
この東間浅間神社で、お昼のお弁当をいただきました。
……(その4)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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