2016/10/24
中山道六十九次・街道歩き【第5回: 桶川→鴻巣】(その6)
鴻神社の少し先にある加美交差点のあたりで鴻巣宿は終わります。そして、この加美交差点で道は大きくY字型に2つに分かれます。旧中山道はここで左側に進みます。Y字型の三叉路を右方向に進むのが埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線で、その埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線をそのまま真っ直ぐ進むと、すぐ次の神明交差点のところで国道17号線(現在の中山道)と合流します。さいたま市の北浦和駅東口交差点からずっと埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線を通ってきた旧中山道ですが、この加美交差点でサヨナラです。旧中山道はこの加美交差点からは埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に入ります。なかなか現在の中山道、国道17号線とは合流しません。
埼玉県道365号鎌塚鴻巣線は加美交差点で分岐後、すぐにJR高崎線の踏切を渡ります。旧中山道は埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に入り、日本橋を発って以来はじめて街道の雰囲気がガラリと変わり、一気にのどかさが感じられるようになります。街道の右左には多くの寺院や神社が点在します。JR高崎線や国道17号線と並行しているとは言っても、距離が離れているので、雰囲気は静かです。
旧中山道と言ってもここからは左右に歩道もない細い道路になります。安全のため、道路の端を長い一列になって進みます。
私は前を歩く妻に向かって「う~~ん、メチャメチャ“ポイ”なぁ~~」とか「渋い!」をしきりと連発するのですが、妻は「ポイって何?」とか「どこが渋いの? そもそも、渋いって何?」などとまったく取り合ってくれません。ここまで感性が違うと、それ以上の会話には発展しないので、まぁ~私の独り言のようなものです。(結婚して30年以上経った夫婦ですが、この感性の違いはなかなか埋まりません。逆に感性がここまで違うと、お互いマイペースでいられるから、かえって楽っちゃ楽です。)
ちなみに、鉄道マニア用語(一部のマニアに限られますが‥‥)で“◯◯っポイ”とは、“限りなく◯◯の雰囲気を醸し出している”という意味で、この場合は、「旧中山道っぽい」という意味です。また、同じく鉄道マニア用語で“渋い”とは、“うまく表現ができないけど、実に味わい深い趣きがある”というような意味で使う形容詞です。
「このなんとも言えない微妙な(緩やかな)S字カーブ、旧街道っぽくないか? 少し先に見える次の交差点。その交差点に左右から来て交差する道路をよく見ると、交差点に向かって気づかないほど緩やかな上り坂になっていて、その交差点を過ぎると、その先は今度は緩やかな下り坂になっている。すなわち、この道路がこのあたりで一番標高の高いところを通っているってことなんだ。標高の差は極々僅かなんだけどね。それがなんとも旧街道っぽくて実に味わい深い! この風景を眺めていると、昔の風景が頭の中でイメージできる」とか、「比較的交通量の少ない道路なんだけど、沿道には時々ビックリするくらい大きな家(このあたりの名主と思しき農家)が建っている。そこが旧街道、それも旧中山道っぽくて、実に味わい深くないか?」‥‥と私は言いたいのですが、長くなるので大胆にバッサリと短縮して「う~~ん、ポイなぁ~」とか「渋い!」になっちゃうんです。これじゃあ妻でなくても意味が分かりませんよね(笑)
その埼玉県道365号鎌塚鴻巣線の歩道を、黙々と40分ほど歩きます。箕田源氏発祥の地といわれる箕田(みた)集落に入りました。
氷川八幡神社です。この氷川八幡神社は渡辺綱を祀る八幡社と箕田郷27ヶ村の鎮守として崇敬されていた氷川神社が、明治6年合祀された神社です。境内に箕田源氏の由来を記した「箕田碑」があります。鴻巣宿の北に位置する箕田郷(現埼玉県鴻巣市箕田地区)は、嵯峨源氏の流れを汲む箕田源氏(みだげんじ)の発祥地と伝えられています。この箕田の氷川八幡神社は、古くは綱八幡とも称し、平安時代中期の武将で、羅生門の鬼(酒呑童子)退治で活躍した「源頼光の四天王」の1人である渡辺綱(わたなべのつな:源綱とも)を祀る神社だといわれています。
摂津源氏の源頼光に仕え、大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話等で有名な「頼光四天王」筆頭の渡辺綱(わたなべのつな)は、この武蔵国足立郡箕田郷(現埼玉県鴻巣市)の生まれなのだそうです。正式な名前は源綱(みなもとのつな)。仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住したことから、渡辺綱と称し、渡辺氏の祖となりました。渡部綱は晩年この箕田郷に戻り、この地で72歳で亡くなったそうです。
ちなみに、渡部綱は武蔵守となって下向した渡辺綱の先々代・源仕(わたなべのつがう)が当地に居を定め、その子であり、渡部綱の父親の源宛(みなもとあづる)の時代になって「箕田源氏」を名乗ったとされています。境内にある前述の「箕田碑」は宝暦9年(1759年)の建立で、箕田源氏の由緒と武蔵武士の本源地であることが記されています。氷川八幡神社に近接している宝持寺は、渡辺綱が父・源宛と祖父・源仕の追善のために建てた古刹と伝えられています。
JR鴻巣駅から西に1kmほど行った埼玉県立鴻巣高校のすぐ南側にあるこんもりとした林の中に清和源氏の祖である源経基の居館跡があります。現在は「城山ふるさとの森」という名称の公園になっています。ちなみに、清和源氏は東国の武士団を支配下に置いて武門の棟梁としての地位を固め、源頼朝の代に鎌倉幕府を開き武家政権を確立したほか、足利将軍家として武家政権を主宰し、権勢を誇りました。その源流がここ鴻巣の地にあったのですね。
氷川八幡の先で武蔵水路に架かる中宿橋を渡ります。武蔵水路は、利根川の水を荒川に導くための導水路です。全長は14.5km。埼玉県行田市にある利根大堰で利根川から取水され、ほぼ真南に流下した後、鴻巣市糠田で荒川に注ぎます。完成したのは1967年で、この水路で荒川に通された水はさいたま市の秋ヶ瀬取水堰から朝霞浄水場、大久保浄水場を経て、それぞれ東京都、埼玉県の広範な地域に上水道として供給され、首都圏の生活を広く支えています。東京都水道局の約4割、埼玉県企業局の約8割の給水エリアの水道水を送っているのだそうです。なるほどぉ〜、利根川水系の水って、この武蔵水路を通し、さらには荒川を通して首都圏に送られているのですね。そして、秋ヶ瀬取水堰や大久保浄水場のあたりの荒川の土手は、以前の私の週末毎のウォーキングコースでした。ここって、首都圏に暮らす人々にとって、それほど重要な場所だったんですね。改めて、なるほどぉ〜〜。
その武蔵水路に架かる中宿橋を渡って数分歩くと行田方面への追分け(分岐点)になっている「箕田の追分」です。この箕田の追分で道は二手に分かれます。右方向は行田へ向かう忍道(おしどう)で、行田を経て、前述の日光裏街道経由で日光東照宮へ行く道です。この道は有名な埼玉古墳群の横を通り、行田の忍城へ繋がっています。途中、石田三成が忍城を水攻めするために築いた石田堤の跡も残っています。
この石田堤、豊臣秀吉による関東平定の一環として小田原方の成田氏長居城である武蔵国・忍城を石田三成らが攻めた忍城の戦いにおいて、水攻めのために忍城の周囲を総延長28km(現埼玉県行田市・鴻巣市内)に渡って築いた堤のことで、この総延長28kmに及ぶ堤をわずか1週間で作り上げたと言われています。現在は行田市堤根地区から鴻巣市袋地区にかけて、約250 mが残存していて、埼玉県指定の史跡となっています。かねてから是非一度その石田堤を見に行きたいと思っているのですが、最寄り駅のJR吹上駅から直線距離でも2 kmほどあり、今回も断念し、またの機会とすることにしました。
また、埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)は県名発祥の地とされる「埼玉」の地にあり、稲荷山古墳や二子山古墳等、前方後円墳8基と円墳1基という9基の大型古墳が残る全国有数の大型古墳群です。古墳群は5世紀末から7世紀にかけて成立したと考えられていて、現在は国の史跡として整備がなされています。この埼玉古墳群には子供達が小さかった頃に連れて行った記憶がありますが、このところ私自身が大いに歴史に興味を持ってきたので、前述の石田堤と併せて、近日中に改めて是非訪れてみようと思っています。
追分の真ん中には「中山道碑」や説明板が建てられています。その左手には箕田地蔵堂があり、地蔵堂の中には穏やかなお顔の石造りの地蔵様が鎮座されています。
旧中山道はこの箕田の追分を左を行くのですが、この日は右の忍道方向へ。すぐにJR北鴻巣駅で、この日はこのJR北鴻巣駅がゴールでした。
鴻巣宿から次の熊谷宿までは4里6丁(約16.8km)。ふつうに歩けばただひたすら歩いて5時間ほどかかる距離です。中高年ばかりのこのツアーで、丸々5時間、ただひたすら街道を歩かせるというのは酷というものです。いっぽう、その手前の桶川宿から鴻巣宿までがおよそその半分の2里3丁(約8.3km)なので、その2区間を合わせれば約25km。それをほぼ等分に割ったくらいの場所にあるのが、箕田の追分とこのJR北鴻巣駅だというわけです。JR北鴻巣駅がこの場所にあったからこそのコース設定と言えようかと思います。約25kmの半分とは言え、12kmを越えています。それに見学のための途中の立ち寄り等も加えると、相当の距離を歩きました。
自宅に帰ってスマホの万歩計機能で確認してみると、この日歩いた歩数は26,332歩、歩いた距離は19.43kmでした。これは過去5回の中山道六十九次・街道歩きの中で最高(最長)でした。およそ2ヶ月ぶりの街道歩きだったことに加え、うっかりしてふだん履いているスニーカーで歩いたこともあって、相当に疲れてしまいました。このスニーカーは1回目の街道歩きでこの靴じゃあダメだと思い、2回目以降は街道歩き専用に購入したウォーキングシューズを履いていたのですが、うっかりしていました。おかげで、数日間、脚が筋肉痛で痛かったです。
この移動距離だったため、途中、北本の「馬室原一里塚」や鴻巣の「勝願寺」などの見どころをパスしてしまいましたが、これは仕方のないことですね。今回は私達のグループの中から途中リタイヤの方も出たりして、中高年には相当キツイ強行軍だったので、これ以上を求めるのは難しいと思います。近くに石田堤や忍城跡、埼玉(さきたま)古墳群などの見どころもありますので、いずれ近いうちに日を改めて訪れたいと思っています。その時に「馬室原一里塚」や「勝願寺」も訪れるつもりです。
さぁ~て、次回第6回は、この北鴻巣から熊谷宿を目指します。
――――――――〔完結〕――――――――
埼玉県道365号鎌塚鴻巣線は加美交差点で分岐後、すぐにJR高崎線の踏切を渡ります。旧中山道は埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に入り、日本橋を発って以来はじめて街道の雰囲気がガラリと変わり、一気にのどかさが感じられるようになります。街道の右左には多くの寺院や神社が点在します。JR高崎線や国道17号線と並行しているとは言っても、距離が離れているので、雰囲気は静かです。
旧中山道と言ってもここからは左右に歩道もない細い道路になります。安全のため、道路の端を長い一列になって進みます。
私は前を歩く妻に向かって「う~~ん、メチャメチャ“ポイ”なぁ~~」とか「渋い!」をしきりと連発するのですが、妻は「ポイって何?」とか「どこが渋いの? そもそも、渋いって何?」などとまったく取り合ってくれません。ここまで感性が違うと、それ以上の会話には発展しないので、まぁ~私の独り言のようなものです。(結婚して30年以上経った夫婦ですが、この感性の違いはなかなか埋まりません。逆に感性がここまで違うと、お互いマイペースでいられるから、かえって楽っちゃ楽です。)
ちなみに、鉄道マニア用語(一部のマニアに限られますが‥‥)で“◯◯っポイ”とは、“限りなく◯◯の雰囲気を醸し出している”という意味で、この場合は、「旧中山道っぽい」という意味です。また、同じく鉄道マニア用語で“渋い”とは、“うまく表現ができないけど、実に味わい深い趣きがある”というような意味で使う形容詞です。
「このなんとも言えない微妙な(緩やかな)S字カーブ、旧街道っぽくないか? 少し先に見える次の交差点。その交差点に左右から来て交差する道路をよく見ると、交差点に向かって気づかないほど緩やかな上り坂になっていて、その交差点を過ぎると、その先は今度は緩やかな下り坂になっている。すなわち、この道路がこのあたりで一番標高の高いところを通っているってことなんだ。標高の差は極々僅かなんだけどね。それがなんとも旧街道っぽくて実に味わい深い! この風景を眺めていると、昔の風景が頭の中でイメージできる」とか、「比較的交通量の少ない道路なんだけど、沿道には時々ビックリするくらい大きな家(このあたりの名主と思しき農家)が建っている。そこが旧街道、それも旧中山道っぽくて、実に味わい深くないか?」‥‥と私は言いたいのですが、長くなるので大胆にバッサリと短縮して「う~~ん、ポイなぁ~」とか「渋い!」になっちゃうんです。これじゃあ妻でなくても意味が分かりませんよね(笑)
その埼玉県道365号鎌塚鴻巣線の歩道を、黙々と40分ほど歩きます。箕田源氏発祥の地といわれる箕田(みた)集落に入りました。
氷川八幡神社です。この氷川八幡神社は渡辺綱を祀る八幡社と箕田郷27ヶ村の鎮守として崇敬されていた氷川神社が、明治6年合祀された神社です。境内に箕田源氏の由来を記した「箕田碑」があります。鴻巣宿の北に位置する箕田郷(現埼玉県鴻巣市箕田地区)は、嵯峨源氏の流れを汲む箕田源氏(みだげんじ)の発祥地と伝えられています。この箕田の氷川八幡神社は、古くは綱八幡とも称し、平安時代中期の武将で、羅生門の鬼(酒呑童子)退治で活躍した「源頼光の四天王」の1人である渡辺綱(わたなべのつな:源綱とも)を祀る神社だといわれています。
摂津源氏の源頼光に仕え、大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話等で有名な「頼光四天王」筆頭の渡辺綱(わたなべのつな)は、この武蔵国足立郡箕田郷(現埼玉県鴻巣市)の生まれなのだそうです。正式な名前は源綱(みなもとのつな)。仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住したことから、渡辺綱と称し、渡辺氏の祖となりました。渡部綱は晩年この箕田郷に戻り、この地で72歳で亡くなったそうです。
ちなみに、渡部綱は武蔵守となって下向した渡辺綱の先々代・源仕(わたなべのつがう)が当地に居を定め、その子であり、渡部綱の父親の源宛(みなもとあづる)の時代になって「箕田源氏」を名乗ったとされています。境内にある前述の「箕田碑」は宝暦9年(1759年)の建立で、箕田源氏の由緒と武蔵武士の本源地であることが記されています。氷川八幡神社に近接している宝持寺は、渡辺綱が父・源宛と祖父・源仕の追善のために建てた古刹と伝えられています。
JR鴻巣駅から西に1kmほど行った埼玉県立鴻巣高校のすぐ南側にあるこんもりとした林の中に清和源氏の祖である源経基の居館跡があります。現在は「城山ふるさとの森」という名称の公園になっています。ちなみに、清和源氏は東国の武士団を支配下に置いて武門の棟梁としての地位を固め、源頼朝の代に鎌倉幕府を開き武家政権を確立したほか、足利将軍家として武家政権を主宰し、権勢を誇りました。その源流がここ鴻巣の地にあったのですね。
氷川八幡の先で武蔵水路に架かる中宿橋を渡ります。武蔵水路は、利根川の水を荒川に導くための導水路です。全長は14.5km。埼玉県行田市にある利根大堰で利根川から取水され、ほぼ真南に流下した後、鴻巣市糠田で荒川に注ぎます。完成したのは1967年で、この水路で荒川に通された水はさいたま市の秋ヶ瀬取水堰から朝霞浄水場、大久保浄水場を経て、それぞれ東京都、埼玉県の広範な地域に上水道として供給され、首都圏の生活を広く支えています。東京都水道局の約4割、埼玉県企業局の約8割の給水エリアの水道水を送っているのだそうです。なるほどぉ〜、利根川水系の水って、この武蔵水路を通し、さらには荒川を通して首都圏に送られているのですね。そして、秋ヶ瀬取水堰や大久保浄水場のあたりの荒川の土手は、以前の私の週末毎のウォーキングコースでした。ここって、首都圏に暮らす人々にとって、それほど重要な場所だったんですね。改めて、なるほどぉ〜〜。
その武蔵水路に架かる中宿橋を渡って数分歩くと行田方面への追分け(分岐点)になっている「箕田の追分」です。この箕田の追分で道は二手に分かれます。右方向は行田へ向かう忍道(おしどう)で、行田を経て、前述の日光裏街道経由で日光東照宮へ行く道です。この道は有名な埼玉古墳群の横を通り、行田の忍城へ繋がっています。途中、石田三成が忍城を水攻めするために築いた石田堤の跡も残っています。
この石田堤、豊臣秀吉による関東平定の一環として小田原方の成田氏長居城である武蔵国・忍城を石田三成らが攻めた忍城の戦いにおいて、水攻めのために忍城の周囲を総延長28km(現埼玉県行田市・鴻巣市内)に渡って築いた堤のことで、この総延長28kmに及ぶ堤をわずか1週間で作り上げたと言われています。現在は行田市堤根地区から鴻巣市袋地区にかけて、約250 mが残存していて、埼玉県指定の史跡となっています。かねてから是非一度その石田堤を見に行きたいと思っているのですが、最寄り駅のJR吹上駅から直線距離でも2 kmほどあり、今回も断念し、またの機会とすることにしました。
また、埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)は県名発祥の地とされる「埼玉」の地にあり、稲荷山古墳や二子山古墳等、前方後円墳8基と円墳1基という9基の大型古墳が残る全国有数の大型古墳群です。古墳群は5世紀末から7世紀にかけて成立したと考えられていて、現在は国の史跡として整備がなされています。この埼玉古墳群には子供達が小さかった頃に連れて行った記憶がありますが、このところ私自身が大いに歴史に興味を持ってきたので、前述の石田堤と併せて、近日中に改めて是非訪れてみようと思っています。
追分の真ん中には「中山道碑」や説明板が建てられています。その左手には箕田地蔵堂があり、地蔵堂の中には穏やかなお顔の石造りの地蔵様が鎮座されています。
旧中山道はこの箕田の追分を左を行くのですが、この日は右の忍道方向へ。すぐにJR北鴻巣駅で、この日はこのJR北鴻巣駅がゴールでした。
鴻巣宿から次の熊谷宿までは4里6丁(約16.8km)。ふつうに歩けばただひたすら歩いて5時間ほどかかる距離です。中高年ばかりのこのツアーで、丸々5時間、ただひたすら街道を歩かせるというのは酷というものです。いっぽう、その手前の桶川宿から鴻巣宿までがおよそその半分の2里3丁(約8.3km)なので、その2区間を合わせれば約25km。それをほぼ等分に割ったくらいの場所にあるのが、箕田の追分とこのJR北鴻巣駅だというわけです。JR北鴻巣駅がこの場所にあったからこそのコース設定と言えようかと思います。約25kmの半分とは言え、12kmを越えています。それに見学のための途中の立ち寄り等も加えると、相当の距離を歩きました。
自宅に帰ってスマホの万歩計機能で確認してみると、この日歩いた歩数は26,332歩、歩いた距離は19.43kmでした。これは過去5回の中山道六十九次・街道歩きの中で最高(最長)でした。およそ2ヶ月ぶりの街道歩きだったことに加え、うっかりしてふだん履いているスニーカーで歩いたこともあって、相当に疲れてしまいました。このスニーカーは1回目の街道歩きでこの靴じゃあダメだと思い、2回目以降は街道歩き専用に購入したウォーキングシューズを履いていたのですが、うっかりしていました。おかげで、数日間、脚が筋肉痛で痛かったです。
この移動距離だったため、途中、北本の「馬室原一里塚」や鴻巣の「勝願寺」などの見どころをパスしてしまいましたが、これは仕方のないことですね。今回は私達のグループの中から途中リタイヤの方も出たりして、中高年には相当キツイ強行軍だったので、これ以上を求めるのは難しいと思います。近くに石田堤や忍城跡、埼玉(さきたま)古墳群などの見どころもありますので、いずれ近いうちに日を改めて訪れたいと思っています。その時に「馬室原一里塚」や「勝願寺」も訪れるつもりです。
さぁ~て、次回第6回は、この北鴻巣から熊谷宿を目指します。
――――――――〔完結〕――――――――
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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