2016/10/28
中山道六十九次・街道歩き【第6回: 鴻巣→熊谷】(その2)
昼食を終えて、中山道街道歩きの再開です。吹上に着く頃には雨はあがっていたのですが、午後になると西の空に青空が覗くようになってきました。雨合羽をリュックサックにしまって、随分と動きやすくなりました。通気性の悪い雨合羽を脱ぐと快適です。雨合羽の下でグッショリと汗をかいたので、Tシャツも着替えて心機一転、さぁ〜これから約10kmを歩きます。
前述のように、西の空には青空が覗き始めているのですが、南の空を見ると、黒い雲がかかっています。HalexDream!で確認すると、鴻巣あたりは本降りの雨のようです。ほんの数kmしか離れていないのに、この吹上は曇りに天気は変わっています。HalexDream!で今後の雨雲の動きの予想を確認すると、鴻巣あたりにかかっている雨雲はそのまま東に移動するようなので、この吹上から北にはやって来ないようです。この先もやって来そうな雨雲は確認できないので、もう雨合羽は必要なさそうです。「晴れ男のレジェンド」は今回も健在のようです。心の中で「よっしゃ!」と小さくガッツポーズをしちゃいました٩( ‘ω’ )و
吹上は正規の宿場ではなく“間の宿”ではあったのですが、「お休み本陣」や、宿屋、料理茶屋といた「立場」の施設があり、中山道を往来した諸大名やお公家さん達に利用されました。明治天皇もその「お休み本陣」で休憩されたことがあるようで、宿場の中ほど右奥の家の中に徳富蘇峰の手による「明治天皇御駐輦址碑」が建てられています。
吹上本町交差点です。ここで埼玉県道66号行田東松山線と交わります。この埼玉県道66号行田東松山線、ここから北へ向かっては忍道とか館林道、南へ向かっては松山道と呼ばれているのですが、かつての千人同心街道の一部となっています。中山道はこの吹上(本町交差点)を追分として北は終点・日光東照宮へ、南は八王子宿付近の八王子千人町に繋がる千人同心街道と交わっていて、交通の要衝でもありました。吹上は“間の宿”で、幕府公認の正規の宿場ではなかったのですが、それでも街道筋で重要視されて“間の宿”として賑わったのは、上記の鴻巣宿~熊谷宿の間の距離に加えて、ここが中山道と千人同心街道が交差する追分だったことがあるようです。
千人同心街道は、江戸時代に八王子千人同心が日光勤番のために整備した甲州街道の八王子宿から日光へ至る、40里(約160km)の脇往還に属する旧街道のことです。沿道では「日光道」などと呼ばれたりしていましたが、正規の「日光街道」と区別するために「千人同心街道」、「日光火の番街道」、「八王子街道」、「館林道」、「日光脇街道」などとも呼ばれました。八王子からは川越、松山(現在の埼玉県東松山市)を通り、ここ吹上から忍道を通り、行田を抜けて日光に向かいました。細い街道ではあるのですが、徳川家康の遺骸を駿府の久能山から日光東照宮へ移した際に利用した由緒ある道筋でもあるのだそうです。
八王子千人同心は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことです。徳川家康の江戸入府に伴い、1600年(慶長5年)に発足。甲斐武田家滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織され、甲州街道の宿場である八王子を拠点として甲州街道方面から江戸への侵攻、すなわち甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持を主な任務としました。しかしながら、甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となりました。その八王子千人同心が日光勤番に向かうために整備された街道が千人同心街道ってことです。
ちなみに、この八王子千人同心、平素は農業を営み、平時は農民の姿をしていましたが、武士として日光勤番にあたる時には、直参御家人の戦時装束である陣笠・手甲・脚絆・帯刀し長柄を持った姿で旅をしていたそうです。江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを多数輩出しました。天然理心流と言えば新撰組局長の近藤勇。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、八王子千人同心の中には習う者も多くいたようです。また、千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川幕府の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされていて、幕末期、八王子千人同心の中から新撰組に参加するものが何人も現れることになります。
旧中山道は吹上本町交差点で急角度に左折します。この吹上本町にある不思議な急カーブ。直角を通り越して、ほぼ60度くらいの鋭角で左に曲がるのですが、これは元荒川が何度も氾濫を繰り返して、蛇行のルートを変えたので、結果としてこのような急カーブになったのだそうです。この先の榎戸堰公園で地元の観光ボランティアガイドさんから説明を受けた時に、江戸時代の吹上の絵地図を見せていただいたのですが(右の写真)、その絵地図にもこの急カーブは描かれていました(絵地図にはここまで急なカーブには描かれていませんが…)。元々は現在の道路(埼玉県道307号福田鴻巣線)のように中山道(東山道)はその先もまっすぐ伸びていたようなのですが、氾濫による蛇行ルートの変更により元荒川がそのすぐ先を通るようになり、その元荒川を避けるように異常なまでの急カーブで曲がるようになったということのようです。それにしてもこのお宅の角部屋の内部が気になります。
間の宿吹上の中心部にあり、この奥にあるのが東曜寺です。真言宗豊山派の寺院ですが、この寺の門前は中山道と千人同心街道が重複していたこともあって、立場や料理茶屋などが軒を並べていたそうです。加賀百万石の藩主前田家の参勤交代の行列がここで休憩していた際、八王子千人同心の一行が通れずに一触即発の事態になりました。加賀百万石と言っても前田家はあくまでも外様大名。かたや八王子千人同心は徳川幕府直轄の武士団だけに、八王子千人同心のほうに優先権はあります。そこで、機転を利かせた当時の住職が、道を塞いでいた前田家の一行を境内に招き入れ、茶でもてなし、八王子千人同心の一行は道を通ることができたという逸話も残されているのだそうです。
左折してほどなく吹上神社があります。この吹上神社の祭神は大山咋命、倉稲魂命、大物主命、菅原道真で、前身は近江国大津の日枝大社(山王社)を奉奏する日枝社。宝暦6年7月火災により焼失。その後再建年月不詳。明治40年、稲荷社、八坂社、氷川社、琴平社、天神社の五社を合祀し、現在の名前になったと、神社の入り口に立つ縁起の表示に書かれています。
吹上神社の前を通って住宅街の中を進んで行きます。神社の先をJR高崎線に平行しばらく歩くと、陸橋にあたります。ここはかつての中山道が鉄道の開通によって分断された地点で、この先はJR高崎線の線路となってしまうのですが、踏切がないため、陸橋で向こう側に渡らないと先には進めません。陸橋の下に「吹上間(あい)の宿」の石碑と説明板があります。ここは忍道と松山道との追分で、立場茶屋があった所で、説明板によると前述のように「吹上が重視されたのは日光東照宮を警護する武士達の日光火の番道(忍道、松山道)と中山道が町の中央で交差したこと、そして熊谷宿と鴻巣宿の距離が長かったため、中間に休憩する場所として立場を設置することが必要だったこと」が書かれています。
陸橋の上から見ると、中山道の繋がりが良く分かります。
……(その3)に続きます。
前述のように、西の空には青空が覗き始めているのですが、南の空を見ると、黒い雲がかかっています。HalexDream!で確認すると、鴻巣あたりは本降りの雨のようです。ほんの数kmしか離れていないのに、この吹上は曇りに天気は変わっています。HalexDream!で今後の雨雲の動きの予想を確認すると、鴻巣あたりにかかっている雨雲はそのまま東に移動するようなので、この吹上から北にはやって来ないようです。この先もやって来そうな雨雲は確認できないので、もう雨合羽は必要なさそうです。「晴れ男のレジェンド」は今回も健在のようです。心の中で「よっしゃ!」と小さくガッツポーズをしちゃいました٩( ‘ω’ )و
吹上は正規の宿場ではなく“間の宿”ではあったのですが、「お休み本陣」や、宿屋、料理茶屋といた「立場」の施設があり、中山道を往来した諸大名やお公家さん達に利用されました。明治天皇もその「お休み本陣」で休憩されたことがあるようで、宿場の中ほど右奥の家の中に徳富蘇峰の手による「明治天皇御駐輦址碑」が建てられています。
吹上本町交差点です。ここで埼玉県道66号行田東松山線と交わります。この埼玉県道66号行田東松山線、ここから北へ向かっては忍道とか館林道、南へ向かっては松山道と呼ばれているのですが、かつての千人同心街道の一部となっています。中山道はこの吹上(本町交差点)を追分として北は終点・日光東照宮へ、南は八王子宿付近の八王子千人町に繋がる千人同心街道と交わっていて、交通の要衝でもありました。吹上は“間の宿”で、幕府公認の正規の宿場ではなかったのですが、それでも街道筋で重要視されて“間の宿”として賑わったのは、上記の鴻巣宿~熊谷宿の間の距離に加えて、ここが中山道と千人同心街道が交差する追分だったことがあるようです。
千人同心街道は、江戸時代に八王子千人同心が日光勤番のために整備した甲州街道の八王子宿から日光へ至る、40里(約160km)の脇往還に属する旧街道のことです。沿道では「日光道」などと呼ばれたりしていましたが、正規の「日光街道」と区別するために「千人同心街道」、「日光火の番街道」、「八王子街道」、「館林道」、「日光脇街道」などとも呼ばれました。八王子からは川越、松山(現在の埼玉県東松山市)を通り、ここ吹上から忍道を通り、行田を抜けて日光に向かいました。細い街道ではあるのですが、徳川家康の遺骸を駿府の久能山から日光東照宮へ移した際に利用した由緒ある道筋でもあるのだそうです。
八王子千人同心は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことです。徳川家康の江戸入府に伴い、1600年(慶長5年)に発足。甲斐武田家滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織され、甲州街道の宿場である八王子を拠点として甲州街道方面から江戸への侵攻、すなわち甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持を主な任務としました。しかしながら、甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となりました。その八王子千人同心が日光勤番に向かうために整備された街道が千人同心街道ってことです。
ちなみに、この八王子千人同心、平素は農業を営み、平時は農民の姿をしていましたが、武士として日光勤番にあたる時には、直参御家人の戦時装束である陣笠・手甲・脚絆・帯刀し長柄を持った姿で旅をしていたそうです。江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを多数輩出しました。天然理心流と言えば新撰組局長の近藤勇。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、八王子千人同心の中には習う者も多くいたようです。また、千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川幕府の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされていて、幕末期、八王子千人同心の中から新撰組に参加するものが何人も現れることになります。
旧中山道は吹上本町交差点で急角度に左折します。この吹上本町にある不思議な急カーブ。直角を通り越して、ほぼ60度くらいの鋭角で左に曲がるのですが、これは元荒川が何度も氾濫を繰り返して、蛇行のルートを変えたので、結果としてこのような急カーブになったのだそうです。この先の榎戸堰公園で地元の観光ボランティアガイドさんから説明を受けた時に、江戸時代の吹上の絵地図を見せていただいたのですが(右の写真)、その絵地図にもこの急カーブは描かれていました(絵地図にはここまで急なカーブには描かれていませんが…)。元々は現在の道路(埼玉県道307号福田鴻巣線)のように中山道(東山道)はその先もまっすぐ伸びていたようなのですが、氾濫による蛇行ルートの変更により元荒川がそのすぐ先を通るようになり、その元荒川を避けるように異常なまでの急カーブで曲がるようになったということのようです。それにしてもこのお宅の角部屋の内部が気になります。
間の宿吹上の中心部にあり、この奥にあるのが東曜寺です。真言宗豊山派の寺院ですが、この寺の門前は中山道と千人同心街道が重複していたこともあって、立場や料理茶屋などが軒を並べていたそうです。加賀百万石の藩主前田家の参勤交代の行列がここで休憩していた際、八王子千人同心の一行が通れずに一触即発の事態になりました。加賀百万石と言っても前田家はあくまでも外様大名。かたや八王子千人同心は徳川幕府直轄の武士団だけに、八王子千人同心のほうに優先権はあります。そこで、機転を利かせた当時の住職が、道を塞いでいた前田家の一行を境内に招き入れ、茶でもてなし、八王子千人同心の一行は道を通ることができたという逸話も残されているのだそうです。
左折してほどなく吹上神社があります。この吹上神社の祭神は大山咋命、倉稲魂命、大物主命、菅原道真で、前身は近江国大津の日枝大社(山王社)を奉奏する日枝社。宝暦6年7月火災により焼失。その後再建年月不詳。明治40年、稲荷社、八坂社、氷川社、琴平社、天神社の五社を合祀し、現在の名前になったと、神社の入り口に立つ縁起の表示に書かれています。
吹上神社の前を通って住宅街の中を進んで行きます。神社の先をJR高崎線に平行しばらく歩くと、陸橋にあたります。ここはかつての中山道が鉄道の開通によって分断された地点で、この先はJR高崎線の線路となってしまうのですが、踏切がないため、陸橋で向こう側に渡らないと先には進めません。陸橋の下に「吹上間(あい)の宿」の石碑と説明板があります。ここは忍道と松山道との追分で、立場茶屋があった所で、説明板によると前述のように「吹上が重視されたのは日光東照宮を警護する武士達の日光火の番道(忍道、松山道)と中山道が町の中央で交差したこと、そして熊谷宿と鴻巣宿の距離が長かったため、中間に休憩する場所として立場を設置することが必要だったこと」が書かれています。
陸橋の上から見ると、中山道の繋がりが良く分かります。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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