2016/12/26
鉄研機関誌「せのはち」(その9)
JR広島駅からはJR西日本のローカル電車で、ちょっと広島市の郊外に行ってみることにしました。私が選んだ路線は可部線。広島からは可部線だけでなく呉線や芸備線といった魅力的な沿線風景を持つローカル線が出ているのですが、今回は迷わず可部線を選びました。可部線は広島市西区の横川駅から同市安佐北区の可部駅に至るJR西日本の鉄道路線です。路線長は14.0 km。全区間電化されてはいますが、単線です。また、横川駅が起点ではありますが、現在、すべての列車は広島駅を起点に運転されており、一部の列車は広島駅を越えて山陽本線・呉線方面へも乗り入れています。
この可部線、古くは大日本軌道広島支社線が軽便鉄道規格で開業した路線だったのですが、その後数回所有者が変わり、買収時の所有者は広浜鉄道と呼ばれる私鉄でした。昭和5年(1930年)に今の線路幅に改軌したうえで電化され、その広浜鉄道が営業していた区間を昭和11年(1936年)に国有化して国鉄の可部線としたもので、広浜鉄道という名称が示すように、元々は中国山地を抜けて広島と山陰地方の島根県浜田市を結ぼうと計画された路線でした。国が買収した当時、現在のように横川駅と可部駅の区間が開業していて、国鉄もその広浜鉄道の計画を引き継いで実現しようとしたのか、昭和29年(1954年)には可部駅から加計駅までを延伸開業(延伸区間は非電化)。その後、昭和44年(1969年)には加計駅からさらに奥の三段峡駅まで延伸しました。
三段峡は太田川上流の支流である柴木川にある長さ約16km渓谷で、国の特別名勝に指定されているくらい美しい渓谷美を誇る景勝地です。私が大学在学中、三段峡は広島にある大学の学生たちの間では合ハイ(合同ハイキング)の聖地のようなところで、女子の数が圧倒的に少ない南千田キャンパスに隔離(?)されて女子学生との接点を渇望していた主として広大の工学部の学生達は、競って市内の女子大学や短大の学生さんを誘っては、可部線で三段峡に行ったものでした。私も可部駅でディーゼルカーに乗り換えて、何度か三段峡にまで行きました。もちろん、下心ありありの合ハイで、そして、すべて撃沈していますが…。(当時、女子学生とお知り合いになるチャンスは、合ハイの他にダンスパーティー、通称“ダンパ”が盛んに行われていましたが、私はもっぱら合ハイでした。)
平成15年(2003年)、赤字のためその非電化区間の可部駅~ 三段峡駅間の46.2kmが廃止。国有化当時の横川駅~可部駅間の14.0kmの短いローカル鉄道路線に戻ってしまいました。可部駅~ 三段峡駅間は太田川を上流に向かって遡っていく車窓から見える渓谷美が大変に美しい路線だったのですが、車窓の渓谷美が美しいということは人口が少ない過疎の地域を走るということ。道路網が整備されて瀬戸内海側の広島から、日本海に面した山陰の島根県浜田市を鉄道で結ぶ必要性が乏しくなったのでは、存続させるのを諦めたのは仕方がないことです。
私が乗り込んだのは鉄道マニアの間では「カフェオレ電車」と呼ばれる元の“広島色”の塗装の113系電車です。私、この塗装の113系(115系)、何気に気に入っていたのですが、今ではすっかり少数派になってしまいました。絶滅する前に写真が撮れて、よかったです。
私が可部線に乗って終点の可部駅まで行ってみようと思ったのは、2年前の平成26年(2014年) 8月20日に、その可部線沿線の広島市安佐南区で、局地的な集中豪雨による大規模な土砂災害が住宅地を襲い、死者76名、負傷者68名の人的被害が出たほか、住家の全壊179棟、半壊217棟、一部損壊190棟、床上浸水1,086棟、床下浸水3,097棟という大きな被害が出たからです。広島市は私にとっては学生時代を過ごした想い出の街ですから、土地勘があります。また、大きな被害が発生した場所の一つに安佐南区の緑井というところがあり、ここには昔、親しかった友人が住んでいたので、40年近く前のことですが、遊びに行ったこともあります。そのため、私にとっては他の場所で起きた自然災害以上に身近に感じられるものがあるのは確かなことです。
今度は大都市広島で悲劇が…
広島大規模土砂災害から1年
やはり気象情報会社の社長としては気になりますので、せっかく広島に来たのですから、ここを訪れないわけにはいきません。そこで、あれから2年が経過した今、土砂災害の被災地はどういう状態になっているのかを自分の目で確かめたくて、可部線に乗ってみることを選びました。
可部線の4両編成の電車は広島駅を出た後、山陽本線を下り、2つ目の停車駅である横川駅から可部線の区間に入ります。新幹線高架橋下にある横川駅で山陽本線と分かれるとすぐに鉄橋で太田川を渡り、太田川の西岸(右岸)に出て三滝駅に停車します。対岸は同じくJR西日本の芸備線の沿線です。可部線は元々は私鉄の路線を国が買収して国有化した路線であるということは前述のとおりです。そのため、各駅間の距離は短く、横川駅~可部駅間14.0kmの中に11もの駅があります。これは私鉄が敷いた線路を国が買収して国有化した路線の特徴とも言えるものです。駅間の距離が短いため、電車は発車して加速するとすぐに減速といった感じで、こまめに停車していきます。
安芸長東駅、下祇園駅、古市橋駅、大町駅と停まり、いよいよ次が緑井駅、2年前の土砂災害で大きな被害が出たあたりです。私はあの時の大雨で崩壊した山々が間近に見える進行方向左の窓側の席に予め座っていたので、あの時の土砂災害の痕跡を探そうと窓ガラスに顔をくっ付けるようにして外の風景を眺めていたのですが、可部線の沿線にはそうしたものは一つも見当たらず、ちょっと見た感じでは完全に復旧・復興して極々平穏な日常生活が戻っているようでした。ただ、近くの山のほうに目をやると、あちこちで山肌が崩れた山の姿がありました。
前述の広島高等師範学校山岳部第一歌「山男の歌」の3番の歌詞「♪広島の山は低くとも…」に謳われているようにこのあたりの山は低いのですが、「マサ土(真砂土)」と呼ばれる花崗岩が風化してできた砂のような土でできているため崩れやすいのです。広島市の中心市街地は太田川が運んできた土砂が河口付近に堆積し、そこにできた三角州の上にできた街なんです。その土砂がどこから運ばれてきたのかというと太田川の上流から中流域にかけてのあたり。すなわち、このあたりなんです。近くの山の崩れている山肌をよく見ると、「マサ土」特有の薄茶色い土が露出しています。粘土質が多いと黒っぽい土の色になるので、これはまさに砂ですね。このあたりはそうした太田川沿いの低い山々が住宅街のすぐ近くまで迫っています。
あの崩れた山肌の土砂がこのあたりの住宅街を襲ってきたのですね。山がすぐそこに迫っているような地形だけに、崩れた土砂が一気に襲ってきたのではないか…と容易に想像がつきます。事前に避難をしていなかったら、ひとたまりもなかっただろうと思います。
梅林駅です。平成26年8月に起きた豪雨ではこの梅林駅の構内に土砂が流入。梅林駅と隣(可部側)の上八木駅の間では線路が冠水。上八木駅とさらに1駅先(可部側)の中島駅間では法(のり)面2箇所が崩壊し、始発から全線が運休となる大きな被害を受けました。今は駅や沿線はその時の被害の様子は想像できないくらいに復旧・復興がなされています。
可部線は単線なので、この梅林駅で上り広島行きの電車がやって来るのを待って、しばらく停車します。やって来た上りの電車は鉄道マニアの間では“広島色”と呼ばれる濃黄色一色に塗られた4両編成の113系電車です。元々の“広島色”は私が乗ってきた電車の塗装だったのですが、最近はコストダウンを図るために濃黄色一色の“新広島色”に塗り替えた車両が徐々に増えてきているようです。いくらコストダウンのためとはいえ、この色は、なぁ~~んかねぇ~~~。
横川駅を出てから可部線はずっと太田川の西側(右岸)を走っていたのですが、上八木駅を出て次の中島駅の間で鉄橋を渡り、電車は太田川の東側(左岸)に出ます。その後は太田川の東側(左岸)を太田川に沿って走ります。このあたりは平成26年8月に起きた豪雨では前述のように線路が冠水したり、法(のり)面が崩壊するなどの大きな被害が出たところです。
八木駅の次の停車駅が終点の可部駅です。可部駅は可部線の終点ではあるのですが、線路はその先も続いています。これが平成15年(2003年)に赤字のために廃止となった可部駅~ 三段峡駅間の線路です。可部駅と1駅先の河戸駅までの間の約1.3kmは広島市とJR西日本の協定の関係でほとんどそのままの形で線路が残されています(その先の区間は線路・枕木が一部を除いてほぼ全線で撤去されているそうです)。可部駅~ 河戸駅間は、昭和40年代の住宅建設ラッシュの中で住宅団地が多く造成され、住宅が多く建てられている区間です。そのため可部線の可部駅以北の部分廃止が具体化する以前から、この区間は地元住民による熱心な電化延伸運動が存在していました。その運動がついに実を結び、現在、可部線は可部駅から河戸駅までの電化・延伸が予定されて、来年(2017年)春の開業に向けて着々と工事が進んでいるようです。
可部駅の改札口には『地域の皆様と共に「KABE」を乗り超えていきます。』という看板が掲げられています。なるほど「KABE」を“壁”に引っ掛けたのですね。錆びた線路が再び輝きを取り戻すのですね。延伸開業される日が楽しみです。
可部駅は中国山地の山深く低い山々に囲まれたところにあります。このあたりも平成26年8月に起きた豪雨により土砂災害が発生した箇所で、駅のすぐ近くの山の山肌にもその爪痕が幾つも残っています。駅前にこの付近の山々を散策するハイカー向けに近くの見どころを紹介する地図が掲示されていたのですが、それを見ても、このあたりがいかに山の中で、山がすぐそこまで迫った地形であるかが分かります(中国山地なので、さほど高く急峻な山はありませんが…)。そうした中でも太田川水系の河川に沿ったところだけが標高が低く、そこに鉄道や道路がひかれ、人々が集中して暮らしているわけです。防災を考えるにあたっては、こうした地形を十分に分かった上で論じないといけません。
JR西日本でも広島支社管内で運行されている電車は、昔から首都圏や京阪神地区で新型車両が投入されたことによって余剰になった車両が転用されてきたものがほとんどでした。ハッキリ言うと“都会のお古”。鉄道マニア的にはそれもまぁ〜味があっていい…って見方もあるにはありますが、首都圏や京阪神地区で散々使ってきてガタガタになった車両の再利用です。性能的に見劣りがする以上に経年劣化が激しく、広島の“大いなる田舎”色を際立たせる1つの要因になっていたようなところがありました。私が学生時代、この可部線(横川駅~可部駅間の電化区間)には、終戦後、社会復興に伴う急激な輸送量増大に対処するために資材不足の中で大量生産され、首都圏や関西圏の電車運転線区に緊急に投入された旧型国電72系が山手線電車と同じウグイス色の車体の前面にオレンジ色の警戒色を入れた少々ダサい色調の塗装が施されて、最後のお勤めに励んでいました。
現在はさすがに可部線でもそうした旧型国電はすべて姿を消し、113系という車両が主力となって運行されています。この113系電車、かつては東海道本線や山陽本線の各駅停車用の花形電車ではあったのですが、いかんせん製造が開始されたのは昭和38年(1963年) 、JRがまだ日本国有鉄道(国鉄)と呼ばれていた時代に製造された車両です。私が今回可部まで乗ってきた4両編成の車両も度重なる車体更新工事がなされた跡は見受けられるものの、さすがに老朽化が目立つことは否めません。
そうした中、昨年(2015年)からJR西日本の広島近郊地区の山陽本線や呉線といった路線で運行を開始した新型車両が227系電車です。JR西日本がなんと広島エリア向け専用の新型車両として開発した車両で、銀色のステンレス車体には鮮やかな赤色がシンボルカラーとして加えられています。可部駅で広島に戻る電車を待っていると、入線してきたのがこの2両の短い編成の227系電車でした。227系は可部線でも運用されているのですね。嬉しくはあるのですが、この最新鋭車両と沿線のひなびた風景との間のギャップに、若干、戸惑いを感じてしまいます。
その227系電車に乗って広島駅まで戻ってきました。私が広島駅のホームに降り立ってほどなく、隣のホームに芸備線の列車が入線してきました。2両編成のディーゼルカーで三次行きの普通列車です。2両編成の1両は朱色一色、もう1両はディーゼルカーの“広島色”と呼ばれた黄色と白のツートンカラーの車両です。最近は113系電車と同様、コストダウンを目的として朱色一色の塗装に戻されているようです。この塗装変更はかつて見慣れた塗装への変更なので、納得。
この芸備線は広島駅を出た後、しばらくは太田川の東側(左岸)を太田川の堤防に沿って北上し(太田川の西側(右岸)を北上していくのが可部線)、玖村駅~下深川駅間で太田川から分かれて支流である三篠川(みささがわ)に沿ったルートに変わり(太田川から分かれる地点の太田川を挟んで対岸にあるのが可部線の上八木駅です)、向原駅の北側で「泣き別れ」と呼ばれる中央分水界を超えるまでしばらく三篠川沿いを走ります。中央分水嶺を超えると、今度は江の川(広島県内での呼び名は可愛川)沿いを走り、広島県北部の都市・三次に至ります(芸備線の終点は岡山県新見市にある備中神代駅です)。
三篠川に沿って中国山地を分水嶺を越えて分け入っていく路線なので、ここも大変ひなびた沿線風景が楽しめる路線です。しかも単線非電化の「Theローカル線」。今、目の前に停まっているのは国鉄時代の昭和52年(1977年)から昭和57年(1982年)にかけてに製造されたキハ47形と呼ばれる旧式のディーゼルカー。不足気味の鉄分を補給するにはうってつけの路線です。ホームに停車中のディーゼルカーから聞こえてくるカラカラカラカラ…というディーゼルエンジン独特のアイドリング音を聴きながら、次に広島に来る機会があれば、是非この芸備線の列車に乗ってみたいと思いました。
広島駅の新幹線口に出ると、長距離バスや定期観光バスの乗り場に、真っ赤な車体のオープントップの大型バスが停まっていました。『めいぷるスカイ』という愛称の広島市内の定期観光バスなのですが、車体後部に「Carp 感動をありがとう!」という文字が描かれていることから、おそらく広島東洋カープの優勝パレードで選手が乗って、選手らを一目見ようと沿道に詰めかけたファンに手を振った時にも使われた車体なのでしょう。11月5日に行われたプロ野球の広島東洋カープの25年ぶりのセ・リーグ優勝を祝うパレードには、主催者発表によると広島の市内中心部を貫く「平和大通り」の約3kmのパレードの沿道に約31万3千人のファンが詰めかけ、優勝の喜びを分かちあったということのようです。
阪神タイガースファンとしては羨ましい感じがします。還暦を迎えたこともあり、いっそここでフリーエージェント(FA)宣言をして、来年から広島カープファンに転向しようかとも思っちゃいます。
後輩の皆さんにお誘いいただいたおかげで、40年前の学生時代を懐かしく思い出すことができる素晴らしい時間を過ごすことができました。大学時代の4年間だけ住んだだけですが、貴重な青春時代を過ごしたということで、この広島の街には思い出がいっぱいいっぱい詰まっていると思います。週末を利用した1泊2日の旅行でしたが、還暦を迎えた年の終わりに、本当に思い出に残るいい旅行をすることができました。
幹事の皆さん、そして後輩の皆さんに感謝感謝です。
――――――――〔完結〕――――――――
この可部線、古くは大日本軌道広島支社線が軽便鉄道規格で開業した路線だったのですが、その後数回所有者が変わり、買収時の所有者は広浜鉄道と呼ばれる私鉄でした。昭和5年(1930年)に今の線路幅に改軌したうえで電化され、その広浜鉄道が営業していた区間を昭和11年(1936年)に国有化して国鉄の可部線としたもので、広浜鉄道という名称が示すように、元々は中国山地を抜けて広島と山陰地方の島根県浜田市を結ぼうと計画された路線でした。国が買収した当時、現在のように横川駅と可部駅の区間が開業していて、国鉄もその広浜鉄道の計画を引き継いで実現しようとしたのか、昭和29年(1954年)には可部駅から加計駅までを延伸開業(延伸区間は非電化)。その後、昭和44年(1969年)には加計駅からさらに奥の三段峡駅まで延伸しました。
三段峡は太田川上流の支流である柴木川にある長さ約16km渓谷で、国の特別名勝に指定されているくらい美しい渓谷美を誇る景勝地です。私が大学在学中、三段峡は広島にある大学の学生たちの間では合ハイ(合同ハイキング)の聖地のようなところで、女子の数が圧倒的に少ない南千田キャンパスに隔離(?)されて女子学生との接点を渇望していた主として広大の工学部の学生達は、競って市内の女子大学や短大の学生さんを誘っては、可部線で三段峡に行ったものでした。私も可部駅でディーゼルカーに乗り換えて、何度か三段峡にまで行きました。もちろん、下心ありありの合ハイで、そして、すべて撃沈していますが…。(当時、女子学生とお知り合いになるチャンスは、合ハイの他にダンスパーティー、通称“ダンパ”が盛んに行われていましたが、私はもっぱら合ハイでした。)
平成15年(2003年)、赤字のためその非電化区間の可部駅~ 三段峡駅間の46.2kmが廃止。国有化当時の横川駅~可部駅間の14.0kmの短いローカル鉄道路線に戻ってしまいました。可部駅~ 三段峡駅間は太田川を上流に向かって遡っていく車窓から見える渓谷美が大変に美しい路線だったのですが、車窓の渓谷美が美しいということは人口が少ない過疎の地域を走るということ。道路網が整備されて瀬戸内海側の広島から、日本海に面した山陰の島根県浜田市を鉄道で結ぶ必要性が乏しくなったのでは、存続させるのを諦めたのは仕方がないことです。
私が乗り込んだのは鉄道マニアの間では「カフェオレ電車」と呼ばれる元の“広島色”の塗装の113系電車です。私、この塗装の113系(115系)、何気に気に入っていたのですが、今ではすっかり少数派になってしまいました。絶滅する前に写真が撮れて、よかったです。
私が可部線に乗って終点の可部駅まで行ってみようと思ったのは、2年前の平成26年(2014年) 8月20日に、その可部線沿線の広島市安佐南区で、局地的な集中豪雨による大規模な土砂災害が住宅地を襲い、死者76名、負傷者68名の人的被害が出たほか、住家の全壊179棟、半壊217棟、一部損壊190棟、床上浸水1,086棟、床下浸水3,097棟という大きな被害が出たからです。広島市は私にとっては学生時代を過ごした想い出の街ですから、土地勘があります。また、大きな被害が発生した場所の一つに安佐南区の緑井というところがあり、ここには昔、親しかった友人が住んでいたので、40年近く前のことですが、遊びに行ったこともあります。そのため、私にとっては他の場所で起きた自然災害以上に身近に感じられるものがあるのは確かなことです。
今度は大都市広島で悲劇が…
広島大規模土砂災害から1年
やはり気象情報会社の社長としては気になりますので、せっかく広島に来たのですから、ここを訪れないわけにはいきません。そこで、あれから2年が経過した今、土砂災害の被災地はどういう状態になっているのかを自分の目で確かめたくて、可部線に乗ってみることを選びました。
可部線の4両編成の電車は広島駅を出た後、山陽本線を下り、2つ目の停車駅である横川駅から可部線の区間に入ります。新幹線高架橋下にある横川駅で山陽本線と分かれるとすぐに鉄橋で太田川を渡り、太田川の西岸(右岸)に出て三滝駅に停車します。対岸は同じくJR西日本の芸備線の沿線です。可部線は元々は私鉄の路線を国が買収して国有化した路線であるということは前述のとおりです。そのため、各駅間の距離は短く、横川駅~可部駅間14.0kmの中に11もの駅があります。これは私鉄が敷いた線路を国が買収して国有化した路線の特徴とも言えるものです。駅間の距離が短いため、電車は発車して加速するとすぐに減速といった感じで、こまめに停車していきます。
安芸長東駅、下祇園駅、古市橋駅、大町駅と停まり、いよいよ次が緑井駅、2年前の土砂災害で大きな被害が出たあたりです。私はあの時の大雨で崩壊した山々が間近に見える進行方向左の窓側の席に予め座っていたので、あの時の土砂災害の痕跡を探そうと窓ガラスに顔をくっ付けるようにして外の風景を眺めていたのですが、可部線の沿線にはそうしたものは一つも見当たらず、ちょっと見た感じでは完全に復旧・復興して極々平穏な日常生活が戻っているようでした。ただ、近くの山のほうに目をやると、あちこちで山肌が崩れた山の姿がありました。
前述の広島高等師範学校山岳部第一歌「山男の歌」の3番の歌詞「♪広島の山は低くとも…」に謳われているようにこのあたりの山は低いのですが、「マサ土(真砂土)」と呼ばれる花崗岩が風化してできた砂のような土でできているため崩れやすいのです。広島市の中心市街地は太田川が運んできた土砂が河口付近に堆積し、そこにできた三角州の上にできた街なんです。その土砂がどこから運ばれてきたのかというと太田川の上流から中流域にかけてのあたり。すなわち、このあたりなんです。近くの山の崩れている山肌をよく見ると、「マサ土」特有の薄茶色い土が露出しています。粘土質が多いと黒っぽい土の色になるので、これはまさに砂ですね。このあたりはそうした太田川沿いの低い山々が住宅街のすぐ近くまで迫っています。
あの崩れた山肌の土砂がこのあたりの住宅街を襲ってきたのですね。山がすぐそこに迫っているような地形だけに、崩れた土砂が一気に襲ってきたのではないか…と容易に想像がつきます。事前に避難をしていなかったら、ひとたまりもなかっただろうと思います。
梅林駅です。平成26年8月に起きた豪雨ではこの梅林駅の構内に土砂が流入。梅林駅と隣(可部側)の上八木駅の間では線路が冠水。上八木駅とさらに1駅先(可部側)の中島駅間では法(のり)面2箇所が崩壊し、始発から全線が運休となる大きな被害を受けました。今は駅や沿線はその時の被害の様子は想像できないくらいに復旧・復興がなされています。
可部線は単線なので、この梅林駅で上り広島行きの電車がやって来るのを待って、しばらく停車します。やって来た上りの電車は鉄道マニアの間では“広島色”と呼ばれる濃黄色一色に塗られた4両編成の113系電車です。元々の“広島色”は私が乗ってきた電車の塗装だったのですが、最近はコストダウンを図るために濃黄色一色の“新広島色”に塗り替えた車両が徐々に増えてきているようです。いくらコストダウンのためとはいえ、この色は、なぁ~~んかねぇ~~~。
横川駅を出てから可部線はずっと太田川の西側(右岸)を走っていたのですが、上八木駅を出て次の中島駅の間で鉄橋を渡り、電車は太田川の東側(左岸)に出ます。その後は太田川の東側(左岸)を太田川に沿って走ります。このあたりは平成26年8月に起きた豪雨では前述のように線路が冠水したり、法(のり)面が崩壊するなどの大きな被害が出たところです。
八木駅の次の停車駅が終点の可部駅です。可部駅は可部線の終点ではあるのですが、線路はその先も続いています。これが平成15年(2003年)に赤字のために廃止となった可部駅~ 三段峡駅間の線路です。可部駅と1駅先の河戸駅までの間の約1.3kmは広島市とJR西日本の協定の関係でほとんどそのままの形で線路が残されています(その先の区間は線路・枕木が一部を除いてほぼ全線で撤去されているそうです)。可部駅~ 河戸駅間は、昭和40年代の住宅建設ラッシュの中で住宅団地が多く造成され、住宅が多く建てられている区間です。そのため可部線の可部駅以北の部分廃止が具体化する以前から、この区間は地元住民による熱心な電化延伸運動が存在していました。その運動がついに実を結び、現在、可部線は可部駅から河戸駅までの電化・延伸が予定されて、来年(2017年)春の開業に向けて着々と工事が進んでいるようです。
可部駅の改札口には『地域の皆様と共に「KABE」を乗り超えていきます。』という看板が掲げられています。なるほど「KABE」を“壁”に引っ掛けたのですね。錆びた線路が再び輝きを取り戻すのですね。延伸開業される日が楽しみです。
可部駅は中国山地の山深く低い山々に囲まれたところにあります。このあたりも平成26年8月に起きた豪雨により土砂災害が発生した箇所で、駅のすぐ近くの山の山肌にもその爪痕が幾つも残っています。駅前にこの付近の山々を散策するハイカー向けに近くの見どころを紹介する地図が掲示されていたのですが、それを見ても、このあたりがいかに山の中で、山がすぐそこまで迫った地形であるかが分かります(中国山地なので、さほど高く急峻な山はありませんが…)。そうした中でも太田川水系の河川に沿ったところだけが標高が低く、そこに鉄道や道路がひかれ、人々が集中して暮らしているわけです。防災を考えるにあたっては、こうした地形を十分に分かった上で論じないといけません。
JR西日本でも広島支社管内で運行されている電車は、昔から首都圏や京阪神地区で新型車両が投入されたことによって余剰になった車両が転用されてきたものがほとんどでした。ハッキリ言うと“都会のお古”。鉄道マニア的にはそれもまぁ〜味があっていい…って見方もあるにはありますが、首都圏や京阪神地区で散々使ってきてガタガタになった車両の再利用です。性能的に見劣りがする以上に経年劣化が激しく、広島の“大いなる田舎”色を際立たせる1つの要因になっていたようなところがありました。私が学生時代、この可部線(横川駅~可部駅間の電化区間)には、終戦後、社会復興に伴う急激な輸送量増大に対処するために資材不足の中で大量生産され、首都圏や関西圏の電車運転線区に緊急に投入された旧型国電72系が山手線電車と同じウグイス色の車体の前面にオレンジ色の警戒色を入れた少々ダサい色調の塗装が施されて、最後のお勤めに励んでいました。
現在はさすがに可部線でもそうした旧型国電はすべて姿を消し、113系という車両が主力となって運行されています。この113系電車、かつては東海道本線や山陽本線の各駅停車用の花形電車ではあったのですが、いかんせん製造が開始されたのは昭和38年(1963年) 、JRがまだ日本国有鉄道(国鉄)と呼ばれていた時代に製造された車両です。私が今回可部まで乗ってきた4両編成の車両も度重なる車体更新工事がなされた跡は見受けられるものの、さすがに老朽化が目立つことは否めません。
そうした中、昨年(2015年)からJR西日本の広島近郊地区の山陽本線や呉線といった路線で運行を開始した新型車両が227系電車です。JR西日本がなんと広島エリア向け専用の新型車両として開発した車両で、銀色のステンレス車体には鮮やかな赤色がシンボルカラーとして加えられています。可部駅で広島に戻る電車を待っていると、入線してきたのがこの2両の短い編成の227系電車でした。227系は可部線でも運用されているのですね。嬉しくはあるのですが、この最新鋭車両と沿線のひなびた風景との間のギャップに、若干、戸惑いを感じてしまいます。
その227系電車に乗って広島駅まで戻ってきました。私が広島駅のホームに降り立ってほどなく、隣のホームに芸備線の列車が入線してきました。2両編成のディーゼルカーで三次行きの普通列車です。2両編成の1両は朱色一色、もう1両はディーゼルカーの“広島色”と呼ばれた黄色と白のツートンカラーの車両です。最近は113系電車と同様、コストダウンを目的として朱色一色の塗装に戻されているようです。この塗装変更はかつて見慣れた塗装への変更なので、納得。
この芸備線は広島駅を出た後、しばらくは太田川の東側(左岸)を太田川の堤防に沿って北上し(太田川の西側(右岸)を北上していくのが可部線)、玖村駅~下深川駅間で太田川から分かれて支流である三篠川(みささがわ)に沿ったルートに変わり(太田川から分かれる地点の太田川を挟んで対岸にあるのが可部線の上八木駅です)、向原駅の北側で「泣き別れ」と呼ばれる中央分水界を超えるまでしばらく三篠川沿いを走ります。中央分水嶺を超えると、今度は江の川(広島県内での呼び名は可愛川)沿いを走り、広島県北部の都市・三次に至ります(芸備線の終点は岡山県新見市にある備中神代駅です)。
三篠川に沿って中国山地を分水嶺を越えて分け入っていく路線なので、ここも大変ひなびた沿線風景が楽しめる路線です。しかも単線非電化の「Theローカル線」。今、目の前に停まっているのは国鉄時代の昭和52年(1977年)から昭和57年(1982年)にかけてに製造されたキハ47形と呼ばれる旧式のディーゼルカー。不足気味の鉄分を補給するにはうってつけの路線です。ホームに停車中のディーゼルカーから聞こえてくるカラカラカラカラ…というディーゼルエンジン独特のアイドリング音を聴きながら、次に広島に来る機会があれば、是非この芸備線の列車に乗ってみたいと思いました。
広島駅の新幹線口に出ると、長距離バスや定期観光バスの乗り場に、真っ赤な車体のオープントップの大型バスが停まっていました。『めいぷるスカイ』という愛称の広島市内の定期観光バスなのですが、車体後部に「Carp 感動をありがとう!」という文字が描かれていることから、おそらく広島東洋カープの優勝パレードで選手が乗って、選手らを一目見ようと沿道に詰めかけたファンに手を振った時にも使われた車体なのでしょう。11月5日に行われたプロ野球の広島東洋カープの25年ぶりのセ・リーグ優勝を祝うパレードには、主催者発表によると広島の市内中心部を貫く「平和大通り」の約3kmのパレードの沿道に約31万3千人のファンが詰めかけ、優勝の喜びを分かちあったということのようです。
阪神タイガースファンとしては羨ましい感じがします。還暦を迎えたこともあり、いっそここでフリーエージェント(FA)宣言をして、来年から広島カープファンに転向しようかとも思っちゃいます。
後輩の皆さんにお誘いいただいたおかげで、40年前の学生時代を懐かしく思い出すことができる素晴らしい時間を過ごすことができました。大学時代の4年間だけ住んだだけですが、貴重な青春時代を過ごしたということで、この広島の街には思い出がいっぱいいっぱい詰まっていると思います。週末を利用した1泊2日の旅行でしたが、還暦を迎えた年の終わりに、本当に思い出に残るいい旅行をすることができました。
幹事の皆さん、そして後輩の皆さんに感謝感謝です。
――――――――〔完結〕――――――――
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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