2017/01/16
中山道六十九次・街道歩き【第7回: 熊谷→深谷】(その4)
道路上に市の境を示す大きな標識もなかったので気付きませんでしたが、いつの間にやら深谷市に入っていました。自動販売機に深谷市のイメージキャラクターである「ふっかちゃん」が描かれています。
ふっかちゃん公式HP
この「ふっかちゃん」、一昨年(2015年)開催された「ゆるキャラグランプリ2015」では、大激戦の末、愛媛県のイメージアップキャラクターである「みきゃん」に次いで、第3位でした(優勝したのは浜松市のマスコットキャラクター「出世大名家康くん」でした)。
深谷市の歴史は1456年(康正2年)に上杉房顕が櫛引台地の北端部付近に深谷城を築き、その周辺に城下町が形成されたことに始まります。江戸時代には中山道の宿場(深谷宿)が置かれ、最盛期には旅籠が約80軒並ぶなど宿場町としても発展しました。また、深谷は第一国立銀行の創立に携わり、近代日本経済の基礎を築いた渋沢栄一の生誕地としても知られています。
用水路の上を通過する小さな橋のたもとに道標が建っています。かなり古い道標のようで、刻まれている文字は残念ながら判読不能です。
籠原を過ぎたあたりで、沿道の街並みが明らかに懐かしい感じに変わっていきます。“The田舎”って感じです。私の故郷四国の田舎で昔よく見かけたような商店が、今も営業をしています。JR高崎線は終点が籠原だったり、籠原で前寄りの5両を切り離す電車がほとんどです。電車もそうですが、熊谷の1駅先の籠原って沿線の風景も切り替わる、そういうところなのかもしれません。
深谷市の東方町ニ丁目交差点から旧中山道は埼玉県道263号弁財深谷線に変わります。
深谷市は埼玉県下有数の農業地帯で、特に、深谷といえば“深谷ねぎ”があまりにも有名です。“深谷ねぎ”とは、埼玉県深谷市を中心とした地域で栽培されている根深ネギの総称のことです。深谷市はネギの生産量日本一の市であり、“深谷ねぎ”は全国的なネギのブランドとして定着しています。誤解されやすいのですが、深谷ネギはネギの品種の名称ではなく、あくまでも深谷地方で栽培されたネギの総称で、品種的には根深ネギに属し、細かい品種は多数存在します。
深谷市以外で栽培されたネギも“深谷ねぎ”の名称で販売されている。そのため、深谷市では「少し贅沢深谷ねぎ」というロゴマークと文字を商標登録し、“深谷ねぎ”のブランド力向上の取り組みを行っているそうです。「少し贅沢深谷ねぎ」のロゴが入った深谷ねぎは、太さ、形などが特に優れたものだけが厳選され、一部の高級スーパーに出荷されています。“深谷ねぎ”の特徴は、繊維のきめが細かく柔らかいこと、糖度が高く甘いこと、白根の部分が長く、皮を剥くと白く美しいことなどが挙げられます。特に、糖度10~15度前後の甘みがあるのが特徴で、その糖度はミカンなどの果物に匹敵します。冬の“深谷ねぎ”は特に甘いため、“深谷ねぎ”を使ったすき焼きに砂糖は入れないという人もいるくらいです。しかし、近年は産地の拡大により味や質にバラツキが出ていると言われています。深谷市では、特に品質のいいものを生産している農家に「深谷ねぎ」の名称を許可したいと考えているそうです。
この“深谷ねぎ”、昔からここ深谷の名産品であったかというと、必ずしもそういうわけではないようです。“深谷ねぎ”の歴史は明治時代に始まります(と言うことは、中山道が栄えた江戸時代にはなかった作物ということです)。深谷市周辺は幕末から明治初期にかけて藍栽培が盛んで、また蚕種の一大産地でした。特に養蚕は盛んで、昭和の初期には耕地の約64%が桑畑であったといわれています。“深谷ねぎ”は明治初期に藍の価格が暴落したことをきっかけに明治30年頃から新しい作物として本格的に栽培が始まりました。しかし、深谷は成長に応じて土を盛り上げる必要があるのですが、利根川流域の土は度重なる利根川の氾濫がもたらした栄養価の高い肥沃な土ではあるのですが、同時に粘度が異常に高く、そうした耕作には体力が必要となるので、“深谷ねぎ”の栽培に適した少しでも粘度の低い土壌の土地を求めて深谷市南部に移り住んだ農家もあったそうです。
大正初期、今度はネギの相場が暴落しました。その際、八基(やつもと)村(現在の深谷市八基)の農業指導者・渋沢治太郎は、深谷町の乾物問屋「永徳屋商店」に依頼して、北海道・東北地方へ『深谷ねぎ』の商標を付けて出荷しました。これが深谷ネギの名称の始まりであるといわれています。その後、昭和4年の経済恐慌による蚕の繭価暴落を受け、大規模な耕地の作物転換を図り、“深谷ねぎ”が大規模に生産されるようになったといわれています。
立派な長い参道を持つ熊野大神社です。由来によると延長5年(927年)にこの地に枇杷の木を棟木にして小社を建て、上野国碓井郡熊野本宮より奉遷し、東方と号したのだそうです。現在の本殿は上野台の領主、秋元但馬守景朝長朝が、天正年間に寄進したものなのだそうです。参道は約300メートルほどあります。ウォーキングリーダーさんの説明を聴くと由緒正しき神社のようで、興味を惹かれますが、残念ながら時間の関係で前を素通りします。
深谷宿に入る手前にある「木曽御嶽山遥拝所」です。遥拝所とは遠く離れた所から神仏などを遥かに拝むために設けられた場所のことで、ここでは木曽御嶽山をご神体として祀っています。木曽御嶽信仰は、覚明・普寛を開祖とする江戸時代後期に成立した木曽御嶽山に対する信仰で、木曽御嶽山を死後の魂の安住の場とする信仰です。その「木曽御嶽山遥拝所」で、深谷市の観光ボランティアガイドさんの説明を聴きました。
この深谷市の観光ボランティアガイドさんの説明は、これまで聴いた各地の観光ボランティアガイドさんの説明とはいささか異なり、深谷市の地形と土壌の話が中心でした。最初に「深谷を知るためには、深谷を形成している地形と、その土壌を知らないといけません」と切り出され、「世の中の最底辺のインフラは地形と気象」がモットーの理系の私としては、オッ!と思っちゃいました。その説明の要約を以下に示します。
深谷市は、埼玉県北部の利根川と荒川に挟まれた地域に位置しています。市の北部には、利根川や小山川により運ばれてきた粘土質の土壌によって妻沼低地(海抜約30〜40メートルの沖積低地)が形成され、また、中部から南部にかけては荒川によって形成された洪積台地の櫛引台地(荒川の左岸、海抜約50 〜100メートル)や江南台地(荒川の右岸、海抜約50〜80メートル)が広がります。その境目に深谷断層帯という活断層が通っていて、土壌がまったく異なります。妻沼低地の土壌が粘土質が主体なのに対して、櫛引台地や江南台地の土壌は砂のようなサラッサラッの土壌です。この砂の元は浅間山の噴火で噴出された火山灰なのだそうです。櫛引台地の北部には第三紀層の残丘である仙元山(標高98.0メートル)が、また市の南西端、寄居町との境には鐘撞堂山(標高330.2メートル)が聳えています。
気候はやや内陸的で、寒暖の差が大きく、夏は太平洋高気圧による季節風などの影響で暑く、冬は乾燥した北風(からっ風)が吹きますが、晴天の日が年間を通して多い地域でもあります。
この土壌と気候が深谷の特産品となった“深谷ねぎ”と“煉瓦(レンガ)”の生産に深く結びついているのだという説明でした。特に肥沃な成分を多く含む強い粘土質の土壌、これが“煉瓦”の生産に適していましたし、それに加えて冬期の乾燥した“からっ風”、これが糖度の高い“深谷ねぎ”の生産に適しているのだそうです。なるほどぉ~~、そういうことか。まさに、「世の中の最底辺のインフラは地形と気象」…です。
観光ボランティアガイドさんの説明を聴き、再び深谷宿を目指して街道歩きを続けます。
このあたりの旧中山道沿いには、江戸末期の安政年間には、松と杉、あわせて400本ほどの並木がずらぁ~~っと立ち並んでいました。現在の並木は、中山道の拡幅整備に伴い、イチョウ、クロマツ、ケヤキを植栽して復元したもので、昭和59年(1984年)、深谷市の「ふるさとの並木道」に指定されています。復元されたものとはいえ、見事な並木道です。
旧中山道はやがて国道17号と交叉して深谷宿へ入ることになるのですが、この交差点にあるのが「見返りの松」です。後述のように深谷宿は熊谷宿とは対照的に遊女のいる街として大いに栄えたのですが、深谷に泊まった旅人が江戸に向かう時、この松が植えてあるあたりで宿場のほうを振り返って前夜契りを交わした女性との別れを惜しんだといわれていることから「見返りの松」と呼ばれるようになったのだそうです。しかし残念なことに排気ガスに負けてしまったのか、平成18年2月に枯死してしまったそうで、国道事務所の手で現在の二代目が植えられました。枯れてしまった初代の松の木は樹齢300年とも500年ともいわれた大層立派な松の木だったのだそうです。
東京から77km、そして、私が住むさいたま市からは54km、ここまで随分と歩いてきたものです。
……(その5)に続きます。
ふっかちゃん公式HP
この「ふっかちゃん」、一昨年(2015年)開催された「ゆるキャラグランプリ2015」では、大激戦の末、愛媛県のイメージアップキャラクターである「みきゃん」に次いで、第3位でした(優勝したのは浜松市のマスコットキャラクター「出世大名家康くん」でした)。
深谷市の歴史は1456年(康正2年)に上杉房顕が櫛引台地の北端部付近に深谷城を築き、その周辺に城下町が形成されたことに始まります。江戸時代には中山道の宿場(深谷宿)が置かれ、最盛期には旅籠が約80軒並ぶなど宿場町としても発展しました。また、深谷は第一国立銀行の創立に携わり、近代日本経済の基礎を築いた渋沢栄一の生誕地としても知られています。
用水路の上を通過する小さな橋のたもとに道標が建っています。かなり古い道標のようで、刻まれている文字は残念ながら判読不能です。
籠原を過ぎたあたりで、沿道の街並みが明らかに懐かしい感じに変わっていきます。“The田舎”って感じです。私の故郷四国の田舎で昔よく見かけたような商店が、今も営業をしています。JR高崎線は終点が籠原だったり、籠原で前寄りの5両を切り離す電車がほとんどです。電車もそうですが、熊谷の1駅先の籠原って沿線の風景も切り替わる、そういうところなのかもしれません。
深谷市の東方町ニ丁目交差点から旧中山道は埼玉県道263号弁財深谷線に変わります。
深谷市は埼玉県下有数の農業地帯で、特に、深谷といえば“深谷ねぎ”があまりにも有名です。“深谷ねぎ”とは、埼玉県深谷市を中心とした地域で栽培されている根深ネギの総称のことです。深谷市はネギの生産量日本一の市であり、“深谷ねぎ”は全国的なネギのブランドとして定着しています。誤解されやすいのですが、深谷ネギはネギの品種の名称ではなく、あくまでも深谷地方で栽培されたネギの総称で、品種的には根深ネギに属し、細かい品種は多数存在します。
深谷市以外で栽培されたネギも“深谷ねぎ”の名称で販売されている。そのため、深谷市では「少し贅沢深谷ねぎ」というロゴマークと文字を商標登録し、“深谷ねぎ”のブランド力向上の取り組みを行っているそうです。「少し贅沢深谷ねぎ」のロゴが入った深谷ねぎは、太さ、形などが特に優れたものだけが厳選され、一部の高級スーパーに出荷されています。“深谷ねぎ”の特徴は、繊維のきめが細かく柔らかいこと、糖度が高く甘いこと、白根の部分が長く、皮を剥くと白く美しいことなどが挙げられます。特に、糖度10~15度前後の甘みがあるのが特徴で、その糖度はミカンなどの果物に匹敵します。冬の“深谷ねぎ”は特に甘いため、“深谷ねぎ”を使ったすき焼きに砂糖は入れないという人もいるくらいです。しかし、近年は産地の拡大により味や質にバラツキが出ていると言われています。深谷市では、特に品質のいいものを生産している農家に「深谷ねぎ」の名称を許可したいと考えているそうです。
この“深谷ねぎ”、昔からここ深谷の名産品であったかというと、必ずしもそういうわけではないようです。“深谷ねぎ”の歴史は明治時代に始まります(と言うことは、中山道が栄えた江戸時代にはなかった作物ということです)。深谷市周辺は幕末から明治初期にかけて藍栽培が盛んで、また蚕種の一大産地でした。特に養蚕は盛んで、昭和の初期には耕地の約64%が桑畑であったといわれています。“深谷ねぎ”は明治初期に藍の価格が暴落したことをきっかけに明治30年頃から新しい作物として本格的に栽培が始まりました。しかし、深谷は成長に応じて土を盛り上げる必要があるのですが、利根川流域の土は度重なる利根川の氾濫がもたらした栄養価の高い肥沃な土ではあるのですが、同時に粘度が異常に高く、そうした耕作には体力が必要となるので、“深谷ねぎ”の栽培に適した少しでも粘度の低い土壌の土地を求めて深谷市南部に移り住んだ農家もあったそうです。
大正初期、今度はネギの相場が暴落しました。その際、八基(やつもと)村(現在の深谷市八基)の農業指導者・渋沢治太郎は、深谷町の乾物問屋「永徳屋商店」に依頼して、北海道・東北地方へ『深谷ねぎ』の商標を付けて出荷しました。これが深谷ネギの名称の始まりであるといわれています。その後、昭和4年の経済恐慌による蚕の繭価暴落を受け、大規模な耕地の作物転換を図り、“深谷ねぎ”が大規模に生産されるようになったといわれています。
立派な長い参道を持つ熊野大神社です。由来によると延長5年(927年)にこの地に枇杷の木を棟木にして小社を建て、上野国碓井郡熊野本宮より奉遷し、東方と号したのだそうです。現在の本殿は上野台の領主、秋元但馬守景朝長朝が、天正年間に寄進したものなのだそうです。参道は約300メートルほどあります。ウォーキングリーダーさんの説明を聴くと由緒正しき神社のようで、興味を惹かれますが、残念ながら時間の関係で前を素通りします。
深谷宿に入る手前にある「木曽御嶽山遥拝所」です。遥拝所とは遠く離れた所から神仏などを遥かに拝むために設けられた場所のことで、ここでは木曽御嶽山をご神体として祀っています。木曽御嶽信仰は、覚明・普寛を開祖とする江戸時代後期に成立した木曽御嶽山に対する信仰で、木曽御嶽山を死後の魂の安住の場とする信仰です。その「木曽御嶽山遥拝所」で、深谷市の観光ボランティアガイドさんの説明を聴きました。
この深谷市の観光ボランティアガイドさんの説明は、これまで聴いた各地の観光ボランティアガイドさんの説明とはいささか異なり、深谷市の地形と土壌の話が中心でした。最初に「深谷を知るためには、深谷を形成している地形と、その土壌を知らないといけません」と切り出され、「世の中の最底辺のインフラは地形と気象」がモットーの理系の私としては、オッ!と思っちゃいました。その説明の要約を以下に示します。
深谷市は、埼玉県北部の利根川と荒川に挟まれた地域に位置しています。市の北部には、利根川や小山川により運ばれてきた粘土質の土壌によって妻沼低地(海抜約30〜40メートルの沖積低地)が形成され、また、中部から南部にかけては荒川によって形成された洪積台地の櫛引台地(荒川の左岸、海抜約50 〜100メートル)や江南台地(荒川の右岸、海抜約50〜80メートル)が広がります。その境目に深谷断層帯という活断層が通っていて、土壌がまったく異なります。妻沼低地の土壌が粘土質が主体なのに対して、櫛引台地や江南台地の土壌は砂のようなサラッサラッの土壌です。この砂の元は浅間山の噴火で噴出された火山灰なのだそうです。櫛引台地の北部には第三紀層の残丘である仙元山(標高98.0メートル)が、また市の南西端、寄居町との境には鐘撞堂山(標高330.2メートル)が聳えています。
気候はやや内陸的で、寒暖の差が大きく、夏は太平洋高気圧による季節風などの影響で暑く、冬は乾燥した北風(からっ風)が吹きますが、晴天の日が年間を通して多い地域でもあります。
この土壌と気候が深谷の特産品となった“深谷ねぎ”と“煉瓦(レンガ)”の生産に深く結びついているのだという説明でした。特に肥沃な成分を多く含む強い粘土質の土壌、これが“煉瓦”の生産に適していましたし、それに加えて冬期の乾燥した“からっ風”、これが糖度の高い“深谷ねぎ”の生産に適しているのだそうです。なるほどぉ~~、そういうことか。まさに、「世の中の最底辺のインフラは地形と気象」…です。
観光ボランティアガイドさんの説明を聴き、再び深谷宿を目指して街道歩きを続けます。
このあたりの旧中山道沿いには、江戸末期の安政年間には、松と杉、あわせて400本ほどの並木がずらぁ~~っと立ち並んでいました。現在の並木は、中山道の拡幅整備に伴い、イチョウ、クロマツ、ケヤキを植栽して復元したもので、昭和59年(1984年)、深谷市の「ふるさとの並木道」に指定されています。復元されたものとはいえ、見事な並木道です。
旧中山道はやがて国道17号と交叉して深谷宿へ入ることになるのですが、この交差点にあるのが「見返りの松」です。後述のように深谷宿は熊谷宿とは対照的に遊女のいる街として大いに栄えたのですが、深谷に泊まった旅人が江戸に向かう時、この松が植えてあるあたりで宿場のほうを振り返って前夜契りを交わした女性との別れを惜しんだといわれていることから「見返りの松」と呼ばれるようになったのだそうです。しかし残念なことに排気ガスに負けてしまったのか、平成18年2月に枯死してしまったそうで、国道事務所の手で現在の二代目が植えられました。枯れてしまった初代の松の木は樹齢300年とも500年ともいわれた大層立派な松の木だったのだそうです。
東京から77km、そして、私が住むさいたま市からは54km、ここまで随分と歩いてきたものです。
……(その5)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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