2017/03/10
中山道六十九次・街道歩き【第9回: 本庄→新町】(その2)
【第8回】の最後に書きましたが、本庄宿は元々が城下町であったため、道が入り組んで細かいことが特徴の一つで、近年になって道路整備が行われるまで、複雑な町の造りが交通事故の多さに繋がっていたと言われています。また、本庄宿は、宿場町としては規模が大きかったため、何度か大きな火災被害を受けており、宿場町として栄えた当時の面影を残す建物はほとんどありません。むしろ、商業都市として栄えた明治期の近代建築の方が目立ちます。本庄宿の蔵作りは街道沿いの正面ではなく、店先を一つ下がった部分に建設されているのが特徴です。これらは隣家の蔵と繋がり、蔵の帯とも言うべき家並みを作っています。その理由は、火事になった時、その蔵の帯が防火帯の役目を果たしたからです。商家の資産を保管していたこうした蔵々が火災の時に盾となったというわけです。これも宿場町として栄えた当時の建物が少ない理由の一つになっています。本庄駅入口交差点付近に蔵造りの家が残っています。
旧中仙道に入ると、ところどころで、こんな昭和レトロを感じさせる古い町並みがあります。
おやおや、歩道にはこんな可愛い絵タイルが……。古い街並みに実に味があります。
看板に「創業永禄三年」と書かれてある『戸谷八商店』です。永禄3年といえば西暦1560年。今から457年も前の戦国時代真っ只中で、戦国時代の転換点として重要なある戦いが行われた年です。それが「桶狭間の戦い」。尾張国桶狭間において、兵力僅か3千兵の尾張国の織田信長軍が、上洛途上であった駿河国の戦国大名・今川義元軍2万5千兵の本陣を奇襲した有名な「桶狭間の戦い」はこの永禄3年(1560年)に起こりました。その当時からこの『戸谷八商店』は瀬戸物屋さんだったのでしょうか?
「戸谷八郎左衛門」と当主の名前が書かれた表札が、実に渋いです。
『戸谷八商店』の向かいに「岸屋」の看板を掲げた、葬祭ホール運営会社があります。今は葬祭ホール運営会社ですが、元々は創業が元禄2年(1689年)という『回船問屋岸谷』でした。元禄といえば300年以上昔。家業は変われど、商家として脈々とこの本庄の地に息づいて存続しているのですね。素晴らしい!左手に残る大きな倉庫(蔵)が回船問屋であった名残でしょうか。
昭和9年(1934年)に建てられたちょっとレトロな感じの「仲町郵便局舎」です。東諸井家11代目当主・諸井恒平が諸井家住宅の前に建てた旧本庄郵便局で、国の登録有形文化財に指定されています。
その「仲町郵便局舎」の奥に(旧)諸井家住宅があります。秩父セメント株式会社を設立し、「セメント王」とも呼ばれ日本の近代化に大いに貢献した諸井恒平(前述の旧本庄郵便局も建てました)を輩出した東諸井家代々の住居で、この建物は明治13年(1880年)頃に建てられたと考えられています(明治10年頃に本庄宿で大火があり、仲町のほとんどが焼失したため)。洋風に似せた建築形式で、洋風というよりも和風の色彩が濃い感じの素晴らしい建物なのだそうですが、残念ながら通りからは立派な屋根くらいしか見ることができません。10代目東諸井家当主・諸井泉衛から3代にわたり、83年間、東諸井家はこの本庄で郵便局長として活動していました。この(旧)諸井家住宅は現在、埼玉県の有形文化財に指定されています。
本庄宿には2軒の本陣があったというのは前述のとおりですが、そのうちの1軒、田村本陣の門が本庄市歴史民族資料館の前に移設されています。
幕末、新撰組の前身である浪士組が将軍警護のため京へ上洛の途中、ここ本庄宿で大事件を起こしています。それが「芹沢鴨の大焚き火事件」です。
文久3年(1863年)2月8日、浪士組一行234名は江戸小石川の伝通院を出発し、中仙道を通って京都へ向かいました。江戸を出発して、2日目、浪士隊一行は、武州本庄宿に入りました。この浪士隊の上洛に際して、後に新撰組局長となる近藤勇は、取締役(幕府役人)の池田徳太郎の手伝い役として道中の宿舎割りを命じられ、本隊より一足先に宿所に先乗りして、各浪士の宿割りを決めておくことになっていました。
先発して本庄宿に到着した近藤勇は、一行234名の宿割りを始め、付いてきた沖田総司(後の新撰組一番隊組長)、永倉新八(後の新撰組二番隊組長)と3人で夕方までに何とか全員の部屋割りを完了したのですが、この時、水戸藩脱藩浪士・芹沢鴨の宿舎の予約を取り忘れてしまうという大チョンボを犯してしまいます。芹沢鴨は神道無念流の免許皆伝と剣の腕は確かで後に初代の新撰組筆頭局長になる人物なのですが、いかんせん無類の酒好き。昼間から常に 酒を飲み、酔っていないことはなかったと言われるくらいで、この上洛においても道中各所で言語に絶する我侭、横暴、狼籍ぶりを発揮して、山岡鉄太郎(鉄舟)など幕府から派遣された取締役達を辟易(へきえき)させていたほどの問題児でした。
あろう事か、よりにもよって、そんなジャイアン(問題児)芹沢鴨の宿舎の予約を取り忘れてしまったことに、取締役・池田徳太郎をはじめ近藤勇、沖田総司、永倉新八の3人とも、本隊の一行が到着するまで、全く気付かなかったのです。一行が到着して、いざ、隊士をそれぞれの宿舎へ案内をするという時になって芹沢鴨の宿舎がないことに気付いたのですが、時すでに遅しでした。
取締役の池田徳太郎と近藤勇は急いで芹沢鴨のところに行って平謝りに謝ったのですが、芹沢鴨はそっぽを向いて返事をしなかったといわれています。近藤勇はそれでも、大激怒する芹沢鴨の前に手をついて謝り続けました。すると、しまいに何を思ったか芹沢鴨は「宿無しも風流で、結構でござるよ」と言いました。続けて、「その代わり、宿無しには宿無しのやり方がござる。今夜は夜中じゅう篝火を焚かせて貰うことにするから、よろしく頼む。少々、大焚き火になるやも知れぬ故、驚き召されぬように!」(◎_◎;)
日が暮れると芹沢鴨はすぐに近くから手当たり次第に木材を集めてきて、本庄宿の路上にうず高く積み上げて、それに火をつけたのですからたまりません。上空に舞い上がった火の粉は本庄宿の宿場じゅうに降りかかりました。宿場の人達も、周りの百姓・町人達も驚いて家を飛び出してくると、水桶をさげてそれぞれの家の屋根に上り、朝まで火事にならないよう防いだのだそうです。その大焚き火の前で、芹沢は酒を煽りながら、仁王立ち。近藤勇はその芹沢鴨の前にぴたりと座り、「私の粗忽でございます。平に平にお許しくだされ」と謝り続けていたのだそうです。その芹沢鴨が大焚き火をしたのがこの田村本陣の門の前だったとも言われています。
この事件の当事者のうち永倉新八は戊辰戦争を生き残り、大正4年(1915年)に77歳で亡くなるのですが、彼が晩年書き残した『新選組顛末記』の中にこの本庄宿での「芹沢鴨の大焚き火事件」のことが記されているため、新撰組を取り上げた歴史小説では、必ずと言っていいくらい取り上げられる有名な逸話です。
ちなみに、芹沢鴨は京都でも「大和屋焼き討ち事件」を起こすのですが、この暴挙が結果的に芹沢鴨自身を破滅へと追い込み、京都守護職・会津藩の密命を帯びた新撰組の土方歳三・沖田総司・藤堂平助らによって暗殺されることになります。よっぽど火が好きだったんでしょうね。
この田村本陣の本陣門の奥に本庄市歴史民族資料館があります。資料館本体は、明治16年(1883年)に本庄警察署として建てられた洋風建築形式の建物であり、宿内では初めての本格的な洋風建築物でした。昭和10年(1935年)に警察署新庁舎が完成したため警察庁舎としての役割を終えましたが、その後も本庄消防団本部、簡易裁判所、区検察庁、本庄公民館、本庄図書館として利用されました。建物は明治44年(1911年)に大改修されて、その後も窓の改修等が行われましたが、昭和55年(1980年)に建築当初の姿に復元され、本庄市歴史民俗資料館に生まれ変わり、現在に至っています。
建物の構造は木造2階建て瓦葺き、漆喰塗りの大壁造りで、正面2階のベランダにはコリント式の列柱を配しています。ヨーロッパの代表的な建築様式の1つであるコリント式の柱は、上部にアカンサス(ハアザミ:ギリシャの国花)の葉を彫刻し、本来は大理石等の石材でできていますが、この本庄市歴史民俗資料館のベランダの柱はヨーロッパの様式を模して、木柱に彫刻を施したもので、明治期における我が国の洋風建築の姿を現在に残す貴重な例となっています。また、ベランダの奥にある窓には、上部に半円形をした飾り窓を設けて採光を図るなど、モダンな設計が採用されています。
明治16年というと明治維新からそれほど時間も経っていません。そんな僅かの期間で、しかも東京からかなり離れたこの本庄の地にこれだけモダンな洋風建築形式の建物が造られていたということに驚かされます。昭和55年(1980年)になり本庄市歴史民俗資料館に生まれ変わり、現在に至っています。明治期の現存する洋風建築物としては埼玉県内でも最古級のものであり、埼玉県の有形文化財に指定されています。
この本庄市歴史民俗資料館の前で、観光ボランティアガイドさんの説明を受けました。この観光ボランティアガイドさん、【第7回】の深谷宿の説明にはじまって、【第8回】でも本庄宿の説明をしていただいた方です。この観光ボランティアガイドさんの説明はこれまで聴いた各地の観光ボランティアガイドさんの説明とはいささか異なり、深谷市や本庄市付近の地形と土壌の話が中心で、理系の私にとってはとっても興味深いものだったのですが、今回の【第9回】では本庄宿というよりも本庄市の歴史に焦点を当てた説明でした。話術が上手く、話しに惹き込まれます。
……(その3)に続きます。
旧中仙道に入ると、ところどころで、こんな昭和レトロを感じさせる古い町並みがあります。
おやおや、歩道にはこんな可愛い絵タイルが……。古い街並みに実に味があります。
看板に「創業永禄三年」と書かれてある『戸谷八商店』です。永禄3年といえば西暦1560年。今から457年も前の戦国時代真っ只中で、戦国時代の転換点として重要なある戦いが行われた年です。それが「桶狭間の戦い」。尾張国桶狭間において、兵力僅か3千兵の尾張国の織田信長軍が、上洛途上であった駿河国の戦国大名・今川義元軍2万5千兵の本陣を奇襲した有名な「桶狭間の戦い」はこの永禄3年(1560年)に起こりました。その当時からこの『戸谷八商店』は瀬戸物屋さんだったのでしょうか?
「戸谷八郎左衛門」と当主の名前が書かれた表札が、実に渋いです。
『戸谷八商店』の向かいに「岸屋」の看板を掲げた、葬祭ホール運営会社があります。今は葬祭ホール運営会社ですが、元々は創業が元禄2年(1689年)という『回船問屋岸谷』でした。元禄といえば300年以上昔。家業は変われど、商家として脈々とこの本庄の地に息づいて存続しているのですね。素晴らしい!左手に残る大きな倉庫(蔵)が回船問屋であった名残でしょうか。
昭和9年(1934年)に建てられたちょっとレトロな感じの「仲町郵便局舎」です。東諸井家11代目当主・諸井恒平が諸井家住宅の前に建てた旧本庄郵便局で、国の登録有形文化財に指定されています。
その「仲町郵便局舎」の奥に(旧)諸井家住宅があります。秩父セメント株式会社を設立し、「セメント王」とも呼ばれ日本の近代化に大いに貢献した諸井恒平(前述の旧本庄郵便局も建てました)を輩出した東諸井家代々の住居で、この建物は明治13年(1880年)頃に建てられたと考えられています(明治10年頃に本庄宿で大火があり、仲町のほとんどが焼失したため)。洋風に似せた建築形式で、洋風というよりも和風の色彩が濃い感じの素晴らしい建物なのだそうですが、残念ながら通りからは立派な屋根くらいしか見ることができません。10代目東諸井家当主・諸井泉衛から3代にわたり、83年間、東諸井家はこの本庄で郵便局長として活動していました。この(旧)諸井家住宅は現在、埼玉県の有形文化財に指定されています。
本庄宿には2軒の本陣があったというのは前述のとおりですが、そのうちの1軒、田村本陣の門が本庄市歴史民族資料館の前に移設されています。
幕末、新撰組の前身である浪士組が将軍警護のため京へ上洛の途中、ここ本庄宿で大事件を起こしています。それが「芹沢鴨の大焚き火事件」です。
文久3年(1863年)2月8日、浪士組一行234名は江戸小石川の伝通院を出発し、中仙道を通って京都へ向かいました。江戸を出発して、2日目、浪士隊一行は、武州本庄宿に入りました。この浪士隊の上洛に際して、後に新撰組局長となる近藤勇は、取締役(幕府役人)の池田徳太郎の手伝い役として道中の宿舎割りを命じられ、本隊より一足先に宿所に先乗りして、各浪士の宿割りを決めておくことになっていました。
先発して本庄宿に到着した近藤勇は、一行234名の宿割りを始め、付いてきた沖田総司(後の新撰組一番隊組長)、永倉新八(後の新撰組二番隊組長)と3人で夕方までに何とか全員の部屋割りを完了したのですが、この時、水戸藩脱藩浪士・芹沢鴨の宿舎の予約を取り忘れてしまうという大チョンボを犯してしまいます。芹沢鴨は神道無念流の免許皆伝と剣の腕は確かで後に初代の新撰組筆頭局長になる人物なのですが、いかんせん無類の酒好き。昼間から常に 酒を飲み、酔っていないことはなかったと言われるくらいで、この上洛においても道中各所で言語に絶する我侭、横暴、狼籍ぶりを発揮して、山岡鉄太郎(鉄舟)など幕府から派遣された取締役達を辟易(へきえき)させていたほどの問題児でした。
あろう事か、よりにもよって、そんなジャイアン(問題児)芹沢鴨の宿舎の予約を取り忘れてしまったことに、取締役・池田徳太郎をはじめ近藤勇、沖田総司、永倉新八の3人とも、本隊の一行が到着するまで、全く気付かなかったのです。一行が到着して、いざ、隊士をそれぞれの宿舎へ案内をするという時になって芹沢鴨の宿舎がないことに気付いたのですが、時すでに遅しでした。
取締役の池田徳太郎と近藤勇は急いで芹沢鴨のところに行って平謝りに謝ったのですが、芹沢鴨はそっぽを向いて返事をしなかったといわれています。近藤勇はそれでも、大激怒する芹沢鴨の前に手をついて謝り続けました。すると、しまいに何を思ったか芹沢鴨は「宿無しも風流で、結構でござるよ」と言いました。続けて、「その代わり、宿無しには宿無しのやり方がござる。今夜は夜中じゅう篝火を焚かせて貰うことにするから、よろしく頼む。少々、大焚き火になるやも知れぬ故、驚き召されぬように!」(◎_◎;)
日が暮れると芹沢鴨はすぐに近くから手当たり次第に木材を集めてきて、本庄宿の路上にうず高く積み上げて、それに火をつけたのですからたまりません。上空に舞い上がった火の粉は本庄宿の宿場じゅうに降りかかりました。宿場の人達も、周りの百姓・町人達も驚いて家を飛び出してくると、水桶をさげてそれぞれの家の屋根に上り、朝まで火事にならないよう防いだのだそうです。その大焚き火の前で、芹沢は酒を煽りながら、仁王立ち。近藤勇はその芹沢鴨の前にぴたりと座り、「私の粗忽でございます。平に平にお許しくだされ」と謝り続けていたのだそうです。その芹沢鴨が大焚き火をしたのがこの田村本陣の門の前だったとも言われています。
この事件の当事者のうち永倉新八は戊辰戦争を生き残り、大正4年(1915年)に77歳で亡くなるのですが、彼が晩年書き残した『新選組顛末記』の中にこの本庄宿での「芹沢鴨の大焚き火事件」のことが記されているため、新撰組を取り上げた歴史小説では、必ずと言っていいくらい取り上げられる有名な逸話です。
ちなみに、芹沢鴨は京都でも「大和屋焼き討ち事件」を起こすのですが、この暴挙が結果的に芹沢鴨自身を破滅へと追い込み、京都守護職・会津藩の密命を帯びた新撰組の土方歳三・沖田総司・藤堂平助らによって暗殺されることになります。よっぽど火が好きだったんでしょうね。
この田村本陣の本陣門の奥に本庄市歴史民族資料館があります。資料館本体は、明治16年(1883年)に本庄警察署として建てられた洋風建築形式の建物であり、宿内では初めての本格的な洋風建築物でした。昭和10年(1935年)に警察署新庁舎が完成したため警察庁舎としての役割を終えましたが、その後も本庄消防団本部、簡易裁判所、区検察庁、本庄公民館、本庄図書館として利用されました。建物は明治44年(1911年)に大改修されて、その後も窓の改修等が行われましたが、昭和55年(1980年)に建築当初の姿に復元され、本庄市歴史民俗資料館に生まれ変わり、現在に至っています。
建物の構造は木造2階建て瓦葺き、漆喰塗りの大壁造りで、正面2階のベランダにはコリント式の列柱を配しています。ヨーロッパの代表的な建築様式の1つであるコリント式の柱は、上部にアカンサス(ハアザミ:ギリシャの国花)の葉を彫刻し、本来は大理石等の石材でできていますが、この本庄市歴史民俗資料館のベランダの柱はヨーロッパの様式を模して、木柱に彫刻を施したもので、明治期における我が国の洋風建築の姿を現在に残す貴重な例となっています。また、ベランダの奥にある窓には、上部に半円形をした飾り窓を設けて採光を図るなど、モダンな設計が採用されています。
明治16年というと明治維新からそれほど時間も経っていません。そんな僅かの期間で、しかも東京からかなり離れたこの本庄の地にこれだけモダンな洋風建築形式の建物が造られていたということに驚かされます。昭和55年(1980年)になり本庄市歴史民俗資料館に生まれ変わり、現在に至っています。明治期の現存する洋風建築物としては埼玉県内でも最古級のものであり、埼玉県の有形文化財に指定されています。
この本庄市歴史民俗資料館の前で、観光ボランティアガイドさんの説明を受けました。この観光ボランティアガイドさん、【第7回】の深谷宿の説明にはじまって、【第8回】でも本庄宿の説明をしていただいた方です。この観光ボランティアガイドさんの説明はこれまで聴いた各地の観光ボランティアガイドさんの説明とはいささか異なり、深谷市や本庄市付近の地形と土壌の話が中心で、理系の私にとってはとっても興味深いものだったのですが、今回の【第9回】では本庄宿というよりも本庄市の歴史に焦点を当てた説明でした。話術が上手く、話しに惹き込まれます。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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