2017/03/22
中山道六十九次・街道歩き【第9回: 本庄→新町】(その7)
金久保八幡神社のほど近くに矢印と「金窪城址」と書かれた石柱があります。金窪城の築城年代は定かではありません。治承年間(1177年~1181年)に武蔵七党の1つ丹党の庶流である加治家李により築城されたとする伝承がありますが、確証はありません。異説としては元弘年間(1331年~1334年)に新田義貞により築城され、その家臣である新田四天王の1人、畑時能が居城したともいわれています。
その後、経緯は不明ですが、室町中期の寛正年間(1460年~1466年)には斎藤別当実盛の子孫を称する斎藤盛光が居城したとされています。天正10年(1582年)6月、滝川一益と北条氏邦の間で行われた「神流川の戦い」(その8で後述)において城主の斎藤一族は揃って討死にし、城は焼失して斎藤氏は没落してしまいました。「神流川の戦い」は、実際には両軍が神流川を挟んで対峙したしたわけではなく、最大の主戦場はこの金窪城周辺の金窪原であったとされています。
「神流川の戦い」に最終的に勝利した後北条氏は金窪城を上州との境目の城として重要視し、鉢形城の支城としたのですが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めにおいて、前田・上杉連合軍の前に鉢形城と共に落城してしまいました。徳川家康の関東入国後は武田信玄の弟である武田信実(長篠の戦で戦死)の嫡子・川窪信俊が武蔵国比企・賀美郡に所領を与えられ、金窪城址に陣屋を設けました。元禄11年(1698年)、川窪信俊の孫である武田信貞(川窪から復姓)が、丹波国に加増転封されるとその金窪城址にあった陣屋も廃止となりました。
江戸時代に整備された中山道は金窪村を横断し、神流川を渡って新町宿へと通じていました。しかし、、新町宿を通るルートは承応2年(1653年)に整備されたもので、それまでの街道(東山道)はこのあたりで北に折れ、金窪城の西を北上して角渕(現在の玉村町)へと渡っていました。中山道が整備され、新町宿が成立した後のこのルートは「三国街道」と呼ばれていました。三国街道(みくにかいどう)は、中山道の高崎宿(群馬県高崎市)から分かれ、北陸街道の寺泊(新潟県長岡市寺泊)へ至る街道のことですが、このルートがその越後の国へと至る現在の三国街道の旧路と重なるものだったのではないか…と推測されています。
「三国道入口」と刻まれた石碑が立っています。上述のように中山道が整備される前までの旧の東山道のルートが三国街道と呼ばれていたのだとすると、ここがその街道(東山道)の入り口だったのではないか…と思われます。「皇紀2600年記念」という文字も刻まれています。「皇紀2600年」とは神武天皇が即位してから2600年目ということで、昭和15年(1940年)がこれにあたります。この年、日本は国を挙げて様々な記念行事や記念事業を行いました。この石碑もその事業の一環として建てられたものではないかと思われますが、なにげにそれよりも新しくできたもののように思えるのは私だけでしょうか。なんらかの事情で、最近、復元したものなのかもしれません。
陽雲寺への参道の入り口です。この寺院は元弘3年(1333年)、新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願し不動堂を造立したことから、かつては新田勝軍不動堂などと称されました。天文9年(1540年)、当時の金窪城主であった斉藤定盛が諸堂を修復し、寺名を祟栄寺と改めたのですが、天正10年(1582年)、その8で後述する神流川の合戦の戦火で焼失してしまいました。その後再建され、武田信玄の弟である武田信実(長篠の戦で戦死)の嫡子・川窪信俊が養母である信玄の正室・三條の方を伴って入封。夫人は仏門に帰依し、この寺の境内に居住し元和4年(1618年)97歳の天寿をこの寺で全うしたといわれています。夫人の法号である陽雲院をとり寺名を陽雲寺と改め、今では武田家ゆかりの寺となっています。寺には新田義貞の家臣であった畑晴能、元金窪城主であった畑時能の供養塔、信玄の正室・三條の方の墓所、元禄銘のある銅鐘(国指定の重要美術品)もあります。時間の関係で、今回、陽雲寺には立ち寄れませんでした。
畑時能(はたときよし)の首塚です。畑時能は新田義貞を支える家臣で、新田四天王の1人と謳われた勇猛な武将でした。南北朝時代に、一時期、金窪城を居城としていました。延元3年/建武5年(1338年)、新田義貞が藤島の戦いで討ち死にした後も南朝方として戦いを続けたのですが、越前の伊知地(現福井県勝山市伊知地)で戦死してしまいます。しかし、家臣の児玉光信が畑時能の首を持ち帰り、この金窪の地で供養を行いました。この畑時能の首塚の近くに旧中山道の説明板が立っています。
畑時能の首塚のむこうに、遠く上毛三山の1つ、赤城山の山容が見えます。この赤城山の山容を見ると、上州・群馬県が近づいてきたのだな…と実感します。
中山道脇に立派な慰霊碑が立っています。大東亜戦争以前の様々な戦争でお亡くなりになったこのあたり一帯出身の兵隊さんを一堂に祀った慰霊塔のようです。
屋根の上にもう一つの小さな屋根(櫓)が乗った上州特有の「上州櫓(やぐら)造り」と呼ばれる農家の建物がところどころにあります。この上州櫓造りの建物は生糸の原料となる繭を生産するため蚕の養殖(養蚕)を行なっていた建物です。屋根の上に乗った小さな櫓は、換気のためのものと思われます。
しばらく歩くと右側に阿弥陀堂と「勅使河原の一里塚跡」碑が立っています。この一里塚は江戸・日本橋から23里目の一里塚で、武蔵国の最北端の一里塚。また、このあたりの地名をとって、別名「勝場一里塚」とも呼ばれています。
すぐ先で国道17号に合流します。埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線と国道17号は埼玉県児玉郡上里町勅使河原交差点〜群馬県高崎市新町という県境付近間で重複します。
その後、しばらくは国道17号を歩きます。
……(その8)に続きます。
その後、経緯は不明ですが、室町中期の寛正年間(1460年~1466年)には斎藤別当実盛の子孫を称する斎藤盛光が居城したとされています。天正10年(1582年)6月、滝川一益と北条氏邦の間で行われた「神流川の戦い」(その8で後述)において城主の斎藤一族は揃って討死にし、城は焼失して斎藤氏は没落してしまいました。「神流川の戦い」は、実際には両軍が神流川を挟んで対峙したしたわけではなく、最大の主戦場はこの金窪城周辺の金窪原であったとされています。
「神流川の戦い」に最終的に勝利した後北条氏は金窪城を上州との境目の城として重要視し、鉢形城の支城としたのですが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めにおいて、前田・上杉連合軍の前に鉢形城と共に落城してしまいました。徳川家康の関東入国後は武田信玄の弟である武田信実(長篠の戦で戦死)の嫡子・川窪信俊が武蔵国比企・賀美郡に所領を与えられ、金窪城址に陣屋を設けました。元禄11年(1698年)、川窪信俊の孫である武田信貞(川窪から復姓)が、丹波国に加増転封されるとその金窪城址にあった陣屋も廃止となりました。
江戸時代に整備された中山道は金窪村を横断し、神流川を渡って新町宿へと通じていました。しかし、、新町宿を通るルートは承応2年(1653年)に整備されたもので、それまでの街道(東山道)はこのあたりで北に折れ、金窪城の西を北上して角渕(現在の玉村町)へと渡っていました。中山道が整備され、新町宿が成立した後のこのルートは「三国街道」と呼ばれていました。三国街道(みくにかいどう)は、中山道の高崎宿(群馬県高崎市)から分かれ、北陸街道の寺泊(新潟県長岡市寺泊)へ至る街道のことですが、このルートがその越後の国へと至る現在の三国街道の旧路と重なるものだったのではないか…と推測されています。
「三国道入口」と刻まれた石碑が立っています。上述のように中山道が整備される前までの旧の東山道のルートが三国街道と呼ばれていたのだとすると、ここがその街道(東山道)の入り口だったのではないか…と思われます。「皇紀2600年記念」という文字も刻まれています。「皇紀2600年」とは神武天皇が即位してから2600年目ということで、昭和15年(1940年)がこれにあたります。この年、日本は国を挙げて様々な記念行事や記念事業を行いました。この石碑もその事業の一環として建てられたものではないかと思われますが、なにげにそれよりも新しくできたもののように思えるのは私だけでしょうか。なんらかの事情で、最近、復元したものなのかもしれません。
陽雲寺への参道の入り口です。この寺院は元弘3年(1333年)、新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願し不動堂を造立したことから、かつては新田勝軍不動堂などと称されました。天文9年(1540年)、当時の金窪城主であった斉藤定盛が諸堂を修復し、寺名を祟栄寺と改めたのですが、天正10年(1582年)、その8で後述する神流川の合戦の戦火で焼失してしまいました。その後再建され、武田信玄の弟である武田信実(長篠の戦で戦死)の嫡子・川窪信俊が養母である信玄の正室・三條の方を伴って入封。夫人は仏門に帰依し、この寺の境内に居住し元和4年(1618年)97歳の天寿をこの寺で全うしたといわれています。夫人の法号である陽雲院をとり寺名を陽雲寺と改め、今では武田家ゆかりの寺となっています。寺には新田義貞の家臣であった畑晴能、元金窪城主であった畑時能の供養塔、信玄の正室・三條の方の墓所、元禄銘のある銅鐘(国指定の重要美術品)もあります。時間の関係で、今回、陽雲寺には立ち寄れませんでした。
畑時能(はたときよし)の首塚です。畑時能は新田義貞を支える家臣で、新田四天王の1人と謳われた勇猛な武将でした。南北朝時代に、一時期、金窪城を居城としていました。延元3年/建武5年(1338年)、新田義貞が藤島の戦いで討ち死にした後も南朝方として戦いを続けたのですが、越前の伊知地(現福井県勝山市伊知地)で戦死してしまいます。しかし、家臣の児玉光信が畑時能の首を持ち帰り、この金窪の地で供養を行いました。この畑時能の首塚の近くに旧中山道の説明板が立っています。
畑時能の首塚のむこうに、遠く上毛三山の1つ、赤城山の山容が見えます。この赤城山の山容を見ると、上州・群馬県が近づいてきたのだな…と実感します。
中山道脇に立派な慰霊碑が立っています。大東亜戦争以前の様々な戦争でお亡くなりになったこのあたり一帯出身の兵隊さんを一堂に祀った慰霊塔のようです。
屋根の上にもう一つの小さな屋根(櫓)が乗った上州特有の「上州櫓(やぐら)造り」と呼ばれる農家の建物がところどころにあります。この上州櫓造りの建物は生糸の原料となる繭を生産するため蚕の養殖(養蚕)を行なっていた建物です。屋根の上に乗った小さな櫓は、換気のためのものと思われます。
しばらく歩くと右側に阿弥陀堂と「勅使河原の一里塚跡」碑が立っています。この一里塚は江戸・日本橋から23里目の一里塚で、武蔵国の最北端の一里塚。また、このあたりの地名をとって、別名「勝場一里塚」とも呼ばれています。
すぐ先で国道17号に合流します。埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線と国道17号は埼玉県児玉郡上里町勅使河原交差点〜群馬県高崎市新町という県境付近間で重複します。
その後、しばらくは国道17号を歩きます。
……(その8)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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