2017/04/12
中山道六十九次・街道歩き【第10回: 新町→高崎】(その1)
2月12日(日)、『中山道六十九次・街道歩き』の第10回、倉賀野宿→高崎宿を歩いてきました。
この日の前日(2月11日)、中国地方や近畿地方の日本海側を中心に雪が降り続き、鳥取市で11日昼すぎに積雪が平年の約10倍にあたる91センチに達し、昭和59年以来、33年ぶりに90センチを超える記録的な大雪となりました。10日午前0時から12日の夕方にかけての各地の最大の積雪は、兵庫県豊岡市で平年の約5倍の80センチ、鳥取県倉吉市で平年の約15倍の61センチ、京都府舞鶴市で平年の約8倍の54センチ、松江市で平年の約13倍の25センチなどといずれも平年を大幅に上回りました。鳥取県では山陰自動車道や国道9号線で多くの車が立往生したほか、JR山陰線の普通列車が乗客を乗せたまま22時間にわたって動けなくなるなど、大きな影響が出ました。また、静岡県内の新東名高速道路でも、11日の午前中、積雪や路面の凍結のため車が次々に動けなくなり、およそ1,000台の車が立往生しました。
関東地方も前々日の10日には東京の都心で小雪が舞ったりもしましたが、それ以上のことにはならず、12日は朝から快晴。このところ3回ほど曇り、午後から小雨…という中での街道歩きが続いたので、これほどの快晴の中を歩くのは久し振りのことです。ですが、気になるのが風と気温。埼玉県さいたま市でもいささか強い北からの風が吹いているので、北関東にある高崎あたりはもっと強いのではないでしょうか。なんと言っても上州名物の“からっ風”ですから。気温も2月らしい気温なので、強い“からっ風”を受けると体感気温はもっと下がると予想されますから。
いつものように午前8時にJRさいたま新都心駅集合で、そこから観光バスに乗り、途中、JR北本駅で埼玉県北部から参加する方々を拾い、関越自動車道を使って北上。午前10時ちょうど頃に前回第9回のゴールだった新町宿と倉賀野宿のほぼ中間にある「柳瀬の船渡し場跡」に到着しました。柳瀬の船渡し場跡近くにあるコンビニの駐車場で観光バスを降り、準備体操の後、出発です。この日の参加者は36名。何度かご一緒したお馴染みの方が何人もいらっしゃいます。出発にあたり旅行会社のスタッフの方から使い捨ての簡易カイロが渡されました。私もそうですが、おそらく皆さん、自宅を出る前に簡易カイロを下着に貼り付けていると思いますし、リュックサックの中にも忍ばせていると思います。それでもこの時期の街道歩きに使い捨ての簡易カイロは必需品です。ポケットに入れて、スマホでの写真撮影用に手の指を温めるために使わせていただきました。
ここが前回第9回のゴールでした。ここから旧中山道に戻ります。旧中山道はここで右折するのですが、その先は関東地方随一の一級河川利根川水系の支流・烏川の高い土手に阻まれています。一瞬ここが本当に中山道なの?…って思うのですが、その土手の手前に旧中山道の案内標識があります。昔はここに「柳瀬の船渡し場」があり、対岸まで船渡しにより渡河していました。
烏川、別名を柳瀬川と言います。前述のように利根川の支流なのですが、支流とは思えないくらい広い川幅の河川です。さすがは関東地方随一の河川、利根川水系です。この「柳瀬の船渡し」、当初は両岸の村の船の所有者が相対で渡し賃を決めていたため、決まった船賃というものは定められていなかったそうなのですが、宝暦9年(1750年)、新町宿と倉賀野宿で馬船(馬を運べる船)5艘と主に旅客専用の平田船2艘を用意し、渡し賃が1人10文、荷駄1駄につき14文、武士は無賃と定められたのだそうです。
船渡し場の跡は今は荒れ放題の河川敷となっていて、何も残っていません。これでは烏川を渡れないので、代わりに300メートルほど土手の上を歩いた先にある群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線の柳瀬橋という橋があるので、その橋を渡ります。この日は快晴で、土手の上からは上毛三山の赤城山、榛名山、妙義山、さらには真っ白に雪を被った浅間山の姿がクッキリ綺麗に見えます。
柳瀬橋を渡ります。利根川の支流と言っても柳瀬川(烏川)は川幅が広く、さすがに関東地方随一の大河である一級河川・利根川の支流です。川筋は風の通り道になっているので、橋の上はかなり強い北北東からの風が吹いています。これが上州名物の“からっ風”ですね。先ほど土手の上を歩いていた時には秒速6~7メートルほどと感じたのですが、橋の上では明らかに秒速10メートルを超えている感じです。ニットの帽子でなかったら、吹き飛ばされていたでしょう。柳瀬橋の方向から、幸い真っ正面から風を受けるのではなくて、左側から風を受ける感じなので、なんとか前へ進めます。真っ正面からこの風を受けていたら、途中でメゲちゃいそうです。ウォーキングリーダーさんがリュックサックに挿している目印の旗がバタバタとはためいています。前方には青空をバックに上毛三山の1つ榛名山の山容が綺麗に見え、私達を励ましてくれます。
柳瀬橋の上から下流方向を見たところです。柳瀬川の船渡しはあの辺りを結んでいたのですね。左にはこれまた上毛三山の1つ赤城山の山容が見えます。赤城山の上のほうは雪が降っているようです。
余談ですが、大日本帝国海軍の軍艦には旧国名(戦艦大和、戦艦武蔵等)、川の名前(戦艦信濃、巡洋艦利根等)、山の名前(巡洋戦艦金剛、巡洋戦艦比叡等)が付けられ、上毛三山のうち赤城は航空母艦に(真珠湾攻撃の際の南雲機動部隊の旗艦として活躍しました)、また榛名は巡洋戦艦に(常に最前線にあって主要海戦の多くに参加したにもかかわらず、最後まで生き延びた唯一の日本海軍の戦艦で、終戦を呉海軍工廠で修理中に迎えました)付けられました。いっぽうで、上毛三山のうち可哀想に妙義山だけは付けられていません。似た名称では重巡洋艦に妙高がありますが、こちらは新潟県にある妙高山にちなんで付けられた名称です。赤城や榛名に比べて、「妙義(みょうぎ)」はゴロが悪く、発音がしにくかったからでしょうか。
“からっ風”があまりに強いので、気分を紛らわせるためにそんなことを考えながら柳瀬橋を渡り終えました。ここで再び高崎市に入ります。
柳瀬橋を渡ったところの橋のたもとに国土交通省の岩鼻水位観測所があります。この日の烏川は水量も少なく水位も低いのですが、いったん雨が降ると、一気に水位が上がるのでしょうね。
ここからはまた烏川の土手の上を下流方向に向かって300メートルほど進みます。土手の上の道は細い道路なのですが、自動車も通る道になっています。私達が歩いている間にも前方から3台、後方から1台の乗用車が通り過ぎていきました。その都度、道路から外れて土手の草むらに待避して、クルマが通り過ぎるのを待ちます。この細い道にもかかわらず一方通行になっていないので、クルマがすれ違う時にはどうするのでしょうね?
この岩鼻樋管と表示のある取水バルブ(樋管とは、用水の流入や内水の排除のために堤防を貫通して設置される暗渠のことです)のあたりが対岸の「柳瀬の船渡し場跡」のあったところです。ここで土手を降りて、旧中山道・街道歩きに戻ります。
こちら側にも旧道が消失する地点に古びた旧中山道の道路標識があり、ここから旧商家や民家が密集する細い路地を進みます。このあたりは岩鼻と呼ばれる集落です。
岩鼻交差点近くにある「北向子育観音堂」です。道路沿いの木造の山門をくぐると、小さな観音堂があります。ここの観音様の特徴は頬杖えをした如意輪観音様であることです。観音堂の中を覗くと、ひっそりとした御堂の中では、頬杖した如意輪観音様が微笑んでいらっしゃいました。中は暗いのと、ガラスの格子戸越しになるので、写真の撮影は断念しました。観音堂入り口の欄間がとても立派で、龍が彫り込まれています。
……(その2)に続きます。
この日の前日(2月11日)、中国地方や近畿地方の日本海側を中心に雪が降り続き、鳥取市で11日昼すぎに積雪が平年の約10倍にあたる91センチに達し、昭和59年以来、33年ぶりに90センチを超える記録的な大雪となりました。10日午前0時から12日の夕方にかけての各地の最大の積雪は、兵庫県豊岡市で平年の約5倍の80センチ、鳥取県倉吉市で平年の約15倍の61センチ、京都府舞鶴市で平年の約8倍の54センチ、松江市で平年の約13倍の25センチなどといずれも平年を大幅に上回りました。鳥取県では山陰自動車道や国道9号線で多くの車が立往生したほか、JR山陰線の普通列車が乗客を乗せたまま22時間にわたって動けなくなるなど、大きな影響が出ました。また、静岡県内の新東名高速道路でも、11日の午前中、積雪や路面の凍結のため車が次々に動けなくなり、およそ1,000台の車が立往生しました。
関東地方も前々日の10日には東京の都心で小雪が舞ったりもしましたが、それ以上のことにはならず、12日は朝から快晴。このところ3回ほど曇り、午後から小雨…という中での街道歩きが続いたので、これほどの快晴の中を歩くのは久し振りのことです。ですが、気になるのが風と気温。埼玉県さいたま市でもいささか強い北からの風が吹いているので、北関東にある高崎あたりはもっと強いのではないでしょうか。なんと言っても上州名物の“からっ風”ですから。気温も2月らしい気温なので、強い“からっ風”を受けると体感気温はもっと下がると予想されますから。
いつものように午前8時にJRさいたま新都心駅集合で、そこから観光バスに乗り、途中、JR北本駅で埼玉県北部から参加する方々を拾い、関越自動車道を使って北上。午前10時ちょうど頃に前回第9回のゴールだった新町宿と倉賀野宿のほぼ中間にある「柳瀬の船渡し場跡」に到着しました。柳瀬の船渡し場跡近くにあるコンビニの駐車場で観光バスを降り、準備体操の後、出発です。この日の参加者は36名。何度かご一緒したお馴染みの方が何人もいらっしゃいます。出発にあたり旅行会社のスタッフの方から使い捨ての簡易カイロが渡されました。私もそうですが、おそらく皆さん、自宅を出る前に簡易カイロを下着に貼り付けていると思いますし、リュックサックの中にも忍ばせていると思います。それでもこの時期の街道歩きに使い捨ての簡易カイロは必需品です。ポケットに入れて、スマホでの写真撮影用に手の指を温めるために使わせていただきました。
ここが前回第9回のゴールでした。ここから旧中山道に戻ります。旧中山道はここで右折するのですが、その先は関東地方随一の一級河川利根川水系の支流・烏川の高い土手に阻まれています。一瞬ここが本当に中山道なの?…って思うのですが、その土手の手前に旧中山道の案内標識があります。昔はここに「柳瀬の船渡し場」があり、対岸まで船渡しにより渡河していました。
烏川、別名を柳瀬川と言います。前述のように利根川の支流なのですが、支流とは思えないくらい広い川幅の河川です。さすがは関東地方随一の河川、利根川水系です。この「柳瀬の船渡し」、当初は両岸の村の船の所有者が相対で渡し賃を決めていたため、決まった船賃というものは定められていなかったそうなのですが、宝暦9年(1750年)、新町宿と倉賀野宿で馬船(馬を運べる船)5艘と主に旅客専用の平田船2艘を用意し、渡し賃が1人10文、荷駄1駄につき14文、武士は無賃と定められたのだそうです。
船渡し場の跡は今は荒れ放題の河川敷となっていて、何も残っていません。これでは烏川を渡れないので、代わりに300メートルほど土手の上を歩いた先にある群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線の柳瀬橋という橋があるので、その橋を渡ります。この日は快晴で、土手の上からは上毛三山の赤城山、榛名山、妙義山、さらには真っ白に雪を被った浅間山の姿がクッキリ綺麗に見えます。
柳瀬橋を渡ります。利根川の支流と言っても柳瀬川(烏川)は川幅が広く、さすがに関東地方随一の大河である一級河川・利根川の支流です。川筋は風の通り道になっているので、橋の上はかなり強い北北東からの風が吹いています。これが上州名物の“からっ風”ですね。先ほど土手の上を歩いていた時には秒速6~7メートルほどと感じたのですが、橋の上では明らかに秒速10メートルを超えている感じです。ニットの帽子でなかったら、吹き飛ばされていたでしょう。柳瀬橋の方向から、幸い真っ正面から風を受けるのではなくて、左側から風を受ける感じなので、なんとか前へ進めます。真っ正面からこの風を受けていたら、途中でメゲちゃいそうです。ウォーキングリーダーさんがリュックサックに挿している目印の旗がバタバタとはためいています。前方には青空をバックに上毛三山の1つ榛名山の山容が綺麗に見え、私達を励ましてくれます。
柳瀬橋の上から下流方向を見たところです。柳瀬川の船渡しはあの辺りを結んでいたのですね。左にはこれまた上毛三山の1つ赤城山の山容が見えます。赤城山の上のほうは雪が降っているようです。
余談ですが、大日本帝国海軍の軍艦には旧国名(戦艦大和、戦艦武蔵等)、川の名前(戦艦信濃、巡洋艦利根等)、山の名前(巡洋戦艦金剛、巡洋戦艦比叡等)が付けられ、上毛三山のうち赤城は航空母艦に(真珠湾攻撃の際の南雲機動部隊の旗艦として活躍しました)、また榛名は巡洋戦艦に(常に最前線にあって主要海戦の多くに参加したにもかかわらず、最後まで生き延びた唯一の日本海軍の戦艦で、終戦を呉海軍工廠で修理中に迎えました)付けられました。いっぽうで、上毛三山のうち可哀想に妙義山だけは付けられていません。似た名称では重巡洋艦に妙高がありますが、こちらは新潟県にある妙高山にちなんで付けられた名称です。赤城や榛名に比べて、「妙義(みょうぎ)」はゴロが悪く、発音がしにくかったからでしょうか。
“からっ風”があまりに強いので、気分を紛らわせるためにそんなことを考えながら柳瀬橋を渡り終えました。ここで再び高崎市に入ります。
柳瀬橋を渡ったところの橋のたもとに国土交通省の岩鼻水位観測所があります。この日の烏川は水量も少なく水位も低いのですが、いったん雨が降ると、一気に水位が上がるのでしょうね。
ここからはまた烏川の土手の上を下流方向に向かって300メートルほど進みます。土手の上の道は細い道路なのですが、自動車も通る道になっています。私達が歩いている間にも前方から3台、後方から1台の乗用車が通り過ぎていきました。その都度、道路から外れて土手の草むらに待避して、クルマが通り過ぎるのを待ちます。この細い道にもかかわらず一方通行になっていないので、クルマがすれ違う時にはどうするのでしょうね?
この岩鼻樋管と表示のある取水バルブ(樋管とは、用水の流入や内水の排除のために堤防を貫通して設置される暗渠のことです)のあたりが対岸の「柳瀬の船渡し場跡」のあったところです。ここで土手を降りて、旧中山道・街道歩きに戻ります。
こちら側にも旧道が消失する地点に古びた旧中山道の道路標識があり、ここから旧商家や民家が密集する細い路地を進みます。このあたりは岩鼻と呼ばれる集落です。
岩鼻交差点近くにある「北向子育観音堂」です。道路沿いの木造の山門をくぐると、小さな観音堂があります。ここの観音様の特徴は頬杖えをした如意輪観音様であることです。観音堂の中を覗くと、ひっそりとした御堂の中では、頬杖した如意輪観音様が微笑んでいらっしゃいました。中は暗いのと、ガラスの格子戸越しになるので、写真の撮影は断念しました。観音堂入り口の欄間がとても立派で、龍が彫り込まれています。
……(その2)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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