2017/04/21
中山道六十九次・街道歩き【第10回: 新町→高崎】(その4)
昼食をいただいた「倉賀野古商家おもてなし館」を後にして、街道歩きの再開です。「倉賀野古商家おもてなし館」を出てすぐのところに太鼓橋跡です。太鼓橋は、かつてここ中町と下町の境にあった五貫堀に架かっていた橋です。当初は板橋だったのですが、増水のたびに流出したので、享保2年(1717年)に倉賀野宿内の飯盛旅籠屋が200両という大金を出して、石橋に架け替えました。しかし、実際には飯盛女から強制的にお金を出させたのではないかと言われています。
この太鼓橋跡のすぐ先のところの交差点を左に曲がって少し行くと倉賀野河岸跡です。倉賀野河岸からは倉賀野?江戸を繋ぐ烏川、利根川経由の通船があり、それらの船は倉賀野河岸で荷揚げをして宿場をより潤わせていました。江戸への下り荷としては米、煙草、雑穀、絹、綿などがあり、江戸からの上り荷としては塩、藍、お茶、糠、海産物、陶器、小間物などがありました。
船は浅い川でも進むことのできる船底が平らな高瀬船が使われ、寛政12年(1800年)の記録によると、小舟や艀(はしけ)、江戸まで行く大船など119艘が運航していました。横浜が貿易港として開港すると、輸出用の生糸、のし糸、繭、蚕種などが倉賀野河岸から船で運ばれていたのですが、明治17年(1884年)に鉄道(日本鉄道本線:現在のJR高崎線)が開通すると、その役目を終えていくことになりました。
「中山道倉賀野宿」と刻まれた石碑の横に、男女一対形の道祖神が祀られています。
左側にあるスーパー、「ベイシアマート」の駐車場にひっそりと石碑が立っており、ここが倉賀野の勅使河原本陣があったところなのだそうです。皇女和宮が降嫁の際、この倉賀野宿勅使河原本陣で昼食を摂られたという記録が残っています。
倉賀野宿の中心部に入っていきます。格調高く大きな古い建物が目に付きます。
スーパーの先、倉賀野駅前交差点に倉賀野仲町山車倉という建物があり、その前に「御伝馬人足継立場跡」の石碑が建っています。おそらくここが問屋場があった跡であろうと思われます。
倉賀野駅入口交差点の先の右手の連子格子の二階建て木造家屋があります。旅籠風の古い建物で、ここが脇本陣だった須賀喜太郎家で、建物は明治23年の築造といわれていますが、門は江戸時代からのものといわれています。向かいの民家の前に脇本陣跡の石碑が建っています。こちらはもう1軒の脇本陣だった須賀庄兵衛脇本陣のあったところのようですが、当時の建物は完全に失われています。
須賀喜太郎脇本陣の隣には高札場の跡があります。これは復元されたもので、新しい札が掛かっています。札には正徳元年(1711年)に出されたキリシタン禁制定書が掲示されています。「定 きりしたん宋門ハ累年の御禁制たり 自然不審の者有らば申出べし 御ほうびとして ばてれんの訴人 銀五百枚……」
その高札場の後ろに一本の樅(もみ)の木が立っていて、面白い案内板が立っています。その伝説が書かれているのですが、それによると、安政3年(1855年)、倉賀野宿は大火に見舞われ、一面の焼け野原と化したのですが、ただ1軒だけ焼け残った旧家があったそうなのです。どこからか大天狗が現れてきて防火に努めたから焼け残ったのだとか。その家では昔から山岳信仰の古峯様を信仰していたので、古峯の天狗が助けたのだと信じられ、この樅の木はその伝説に由来するのだそうです。残念ながら、その当時の樅の木は枯れてしまい、今の木は後年植え替えられたものなのだそうです。
この旧中山道の標識のあるあたりの左手奥に倉賀野城址があります。倉賀野城は、治承年間(1177年?1181年)に児玉党の支流である秩父高俊が、利根川と烏川、中山道(当時は東山道)と交通の要衝であった倉賀野の地に館を造り、倉賀野氏を称した(倉賀野高俊)ことに始まります。南北朝時代に館を改修し、城を築きました。
戦国時代、倉賀野氏は関東管領であった上杉憲政に仕えたのですが、上杉憲政が家臣の離叛等により越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに亡命すると、新たに相模国から来て上野国を支配した後北条氏が倉賀野城を中心に領国支配を行なっていたとされています。その後、上杉謙信が上野国に侵攻すると、倉賀野氏は上杉謙信に従い、倉賀野城も箕輪城(高崎市)の支城として機能しました。
元亀元年(1570年)、甲斐国の武田信玄により倉賀野城が落城すると武田信玄の家臣であった金井秀景が城主となると倉賀野秀景と名を改め、甲斐武田家滅亡後は織田信長の武将・滝川一益に従ったのですが、本能寺の変後に今度は後北条氏の北条氏直に従い、豊臣秀吉による小田原征伐では後北条方として小田原城に籠城しました。小田原城落城とともに倉賀野城も開城し、そのまま廃城となりました。今回は時間の関係で立ち寄るのはパスしました。
高札場から進み、左手の横町に入ったところにあるのが、倉賀野神社の参門です。倉賀野神社はこの少し奥にあります。昔は飯玉大明神と呼ばれ、大同2年(807年)の創始だそうで、重厚な鳥居と銅版葺きの屋根が印象的なのだそうです。現在の倉賀野神社は倉賀野氏の祖である倉賀野高俊が建長5年(1253年)に社殿を造営し、以降倉賀野氏の氏神として信仰されてきました。江戸時代は倉賀野宿と近郊七ヶ郷の総鎮守として崇拝され、境内社・冠稲荷(かんむりいなり)神社は飯盛女達の信仰が篤かったと言われています。ここも今回は時間の関係で立ち寄るのはパスしました。
倉賀野神社から200mほど先に安楽寺という寺院があります。安楽寺の境内には室町時代のものと思われる板碑があります。この板碑、板状の石で作られた卒塔婆のことで、板仏(いたほとけ)あるいは平仏と呼ばれることもありますが、正式には板石卒塔婆と呼ばれるものだそうです。安楽寺に伝えられる板碑は将棋の駒の型をした珍しい形をしています。風化が激しく年号が読めませんが、風化の具合から想像するに、相当古いものと思われます。板石卒塔婆は鎌倉時代から室町時代にかけて作られたのですが、江戸時代になるとその風習は廃れたそうなので、少なくとも室町時代以前に作られたものと思われます。安楽寺の本堂裏手には群馬県指定史跡の安楽寺古墳があります。この古墳は7世紀後半に造られたとみられる直径約30m、高さ約4mの円墳です。
この安楽寺付近に倉賀野宿の京方の西木戸がありました。すなわち、ここまでが倉賀野宿でした。
……(その5)に続きます。
この太鼓橋跡のすぐ先のところの交差点を左に曲がって少し行くと倉賀野河岸跡です。倉賀野河岸からは倉賀野?江戸を繋ぐ烏川、利根川経由の通船があり、それらの船は倉賀野河岸で荷揚げをして宿場をより潤わせていました。江戸への下り荷としては米、煙草、雑穀、絹、綿などがあり、江戸からの上り荷としては塩、藍、お茶、糠、海産物、陶器、小間物などがありました。
船は浅い川でも進むことのできる船底が平らな高瀬船が使われ、寛政12年(1800年)の記録によると、小舟や艀(はしけ)、江戸まで行く大船など119艘が運航していました。横浜が貿易港として開港すると、輸出用の生糸、のし糸、繭、蚕種などが倉賀野河岸から船で運ばれていたのですが、明治17年(1884年)に鉄道(日本鉄道本線:現在のJR高崎線)が開通すると、その役目を終えていくことになりました。
「中山道倉賀野宿」と刻まれた石碑の横に、男女一対形の道祖神が祀られています。
左側にあるスーパー、「ベイシアマート」の駐車場にひっそりと石碑が立っており、ここが倉賀野の勅使河原本陣があったところなのだそうです。皇女和宮が降嫁の際、この倉賀野宿勅使河原本陣で昼食を摂られたという記録が残っています。
倉賀野宿の中心部に入っていきます。格調高く大きな古い建物が目に付きます。
スーパーの先、倉賀野駅前交差点に倉賀野仲町山車倉という建物があり、その前に「御伝馬人足継立場跡」の石碑が建っています。おそらくここが問屋場があった跡であろうと思われます。
倉賀野駅入口交差点の先の右手の連子格子の二階建て木造家屋があります。旅籠風の古い建物で、ここが脇本陣だった須賀喜太郎家で、建物は明治23年の築造といわれていますが、門は江戸時代からのものといわれています。向かいの民家の前に脇本陣跡の石碑が建っています。こちらはもう1軒の脇本陣だった須賀庄兵衛脇本陣のあったところのようですが、当時の建物は完全に失われています。
須賀喜太郎脇本陣の隣には高札場の跡があります。これは復元されたもので、新しい札が掛かっています。札には正徳元年(1711年)に出されたキリシタン禁制定書が掲示されています。「定 きりしたん宋門ハ累年の御禁制たり 自然不審の者有らば申出べし 御ほうびとして ばてれんの訴人 銀五百枚……」
その高札場の後ろに一本の樅(もみ)の木が立っていて、面白い案内板が立っています。その伝説が書かれているのですが、それによると、安政3年(1855年)、倉賀野宿は大火に見舞われ、一面の焼け野原と化したのですが、ただ1軒だけ焼け残った旧家があったそうなのです。どこからか大天狗が現れてきて防火に努めたから焼け残ったのだとか。その家では昔から山岳信仰の古峯様を信仰していたので、古峯の天狗が助けたのだと信じられ、この樅の木はその伝説に由来するのだそうです。残念ながら、その当時の樅の木は枯れてしまい、今の木は後年植え替えられたものなのだそうです。
この旧中山道の標識のあるあたりの左手奥に倉賀野城址があります。倉賀野城は、治承年間(1177年?1181年)に児玉党の支流である秩父高俊が、利根川と烏川、中山道(当時は東山道)と交通の要衝であった倉賀野の地に館を造り、倉賀野氏を称した(倉賀野高俊)ことに始まります。南北朝時代に館を改修し、城を築きました。
戦国時代、倉賀野氏は関東管領であった上杉憲政に仕えたのですが、上杉憲政が家臣の離叛等により越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに亡命すると、新たに相模国から来て上野国を支配した後北条氏が倉賀野城を中心に領国支配を行なっていたとされています。その後、上杉謙信が上野国に侵攻すると、倉賀野氏は上杉謙信に従い、倉賀野城も箕輪城(高崎市)の支城として機能しました。
元亀元年(1570年)、甲斐国の武田信玄により倉賀野城が落城すると武田信玄の家臣であった金井秀景が城主となると倉賀野秀景と名を改め、甲斐武田家滅亡後は織田信長の武将・滝川一益に従ったのですが、本能寺の変後に今度は後北条氏の北条氏直に従い、豊臣秀吉による小田原征伐では後北条方として小田原城に籠城しました。小田原城落城とともに倉賀野城も開城し、そのまま廃城となりました。今回は時間の関係で立ち寄るのはパスしました。
高札場から進み、左手の横町に入ったところにあるのが、倉賀野神社の参門です。倉賀野神社はこの少し奥にあります。昔は飯玉大明神と呼ばれ、大同2年(807年)の創始だそうで、重厚な鳥居と銅版葺きの屋根が印象的なのだそうです。現在の倉賀野神社は倉賀野氏の祖である倉賀野高俊が建長5年(1253年)に社殿を造営し、以降倉賀野氏の氏神として信仰されてきました。江戸時代は倉賀野宿と近郊七ヶ郷の総鎮守として崇拝され、境内社・冠稲荷(かんむりいなり)神社は飯盛女達の信仰が篤かったと言われています。ここも今回は時間の関係で立ち寄るのはパスしました。
倉賀野神社から200mほど先に安楽寺という寺院があります。安楽寺の境内には室町時代のものと思われる板碑があります。この板碑、板状の石で作られた卒塔婆のことで、板仏(いたほとけ)あるいは平仏と呼ばれることもありますが、正式には板石卒塔婆と呼ばれるものだそうです。安楽寺に伝えられる板碑は将棋の駒の型をした珍しい形をしています。風化が激しく年号が読めませんが、風化の具合から想像するに、相当古いものと思われます。板石卒塔婆は鎌倉時代から室町時代にかけて作られたのですが、江戸時代になるとその風習は廃れたそうなので、少なくとも室町時代以前に作られたものと思われます。安楽寺の本堂裏手には群馬県指定史跡の安楽寺古墳があります。この古墳は7世紀後半に造られたとみられる直径約30m、高さ約4mの円墳です。
この安楽寺付近に倉賀野宿の京方の西木戸がありました。すなわち、ここまでが倉賀野宿でした。
……(その5)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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