2017/05/10
中山道六十九次・街道歩き【第11回: 高崎→安中】(その2)
この先の並榎町で烏川を国道18号線豊岡バイパスの「君が代橋」で渡ります。
「君が代橋」という名は、明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸の時に馬車でここに架けられた木橋を渡られたことを記念して,命名されたものです。ここに保存されている君が代橋の親柱は、昭和6年に木橋から鉄橋に架け替えられた時のもので、昭和52年(1977年)より10年の歳月をかけて3層構造のインターチェンジが建設され、君が代橋も新たに架け替えられた折、ここに移設されたものです。
江戸時代、君が代橋ができる前までは、この少し上流のところから対岸に向けて渡し船が出ていました。
それにしても、この橋、国道17号倉賀野バイパスと国道18号、国道354号という3本の国道が合流していてインターチェンジのような複雑な構造になっていて、初めてだとガイドさんに連れていって貰わないと、歩いて渡ることはまず無理です。
君が代橋を渡る途中で、左手向こうの山の上に高崎観音が小さく見えます。標高190mの観音山の山頂に立つ大観音(白衣観音)像で、正式名称は『高崎白衣大観音(たかさきびゃくえだいかんのん)』、通称「高崎観音」、高崎市民は単に「観音様」と呼んでいるようです。この高崎観音は昭和11年(1936年)、実業家の井上保三郎さんが私財を投げうって建立した鉄筋コンクリート製の観音像で、高さ41.8メートル、重さは5,985トン。建立当時は世界最大の観音像でした。内部は9層に分かれていて、20体の仏像が安置されています。今や高崎の観光名所の一つになっています。昭和初期に作られた観音像ですが、平成12年(2000年)に国の登録有形文化財に指定されました。
右には榛名山系の全貌が望めます。榛名山系中央部付近のちょこんと顔を出している富士山のような形をした山が榛名富士です。
また、右前方には美しい円錐形の山体(成層火山)をした浅間山(標高2,568m)の姿が見えます。浅間山は数十万年前から今に至るまで活発に活動を続けている活火山で、気象庁が常時観測をしている火山の一つです。気象庁は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、ランクAの活火山に指定しており、火山活動レベルに応じた入山規制が行われています。現在も浅間山は山頂直下のごく浅いところを震源とする体に感じない火山性地震が多い状態が続いており、また、二酸化硫黄の放出が増加していることから火山活動が高まっていると判断され、平成27年6月11日15時30分、噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)から2(火口周辺規制)に引き上げられ、今に至っています。よく見ると、この日も山頂付近から噴煙が上っているのが見えます。
中山道での人の往来が盛んだった天明3年(1783年)、浅間山は大噴火(天明噴火)を起こしました。4月に活動を再開し7月まで噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けたそうです。この浅間山の天明噴火により高崎宿を含む中山道筋には火山礫、火山砂、そして火山灰などが降り注ぎ、その被害は4月から7月までの長期に渡ったという記録が残っています。ちなみにその時、高崎宿では浅間山の火山礫や火山砂、火山灰の堆積は二尺(約66.7cm)にも及んだのだそうです。
東京の日本橋を出てからこの高崎までは国道17号線が並行する「現在の中山道」でしたが、高崎からしばらくは国道18号線が並行する「現在の中山道」になります。中山道街道歩きと言っても、「現在の中山道」である国道17号線を歩いた割合は全体の1割にも満たないほんの僅かで、たいていは国道17号線を突っ切って横切る、それも斜めに突っ切って横切ったり、高架下を通過したりという関係のしかたがほとんどでした。並行して伸びてはいるのですが、距離が離れていたり、間にJR高崎線の線路や川があったりで、沿道の風景や雰囲気はまるで別物でした。特に旧の中山道からはそこに息づく確かな歴史の重みと、そこに暮らす人々の日々の営みを強く感じます。国道17号線をクルマで走ったくらいで中山道のことをあれこれ語ってはいけませんよね。
また、ここまではだだっ広い関東平野をほぼまっすぐに奥へ奥へ(北へ北へ)と進んできた中山道ですが、ここからは大きく西へ進路を変え変え、目の前に立ちはだかる高い山々を峠道で超えていくことになります。加えて、このあたりから軽井沢宿にかけてが中山道でもっとも緯度の高いところ、すなわち、最も北に位置するところで、ここから先は西あるいは西南西に針路を変え、一路京の都を目指すことになります。ただし、周囲は山が迫ってきていて、これからが中山道の本番、幾つもの峠を越える山歩きが始まります。「The中山道」、「これぞ中山道」、「中山道街道歩きの醍醐味」と言えるのは、ここからですね。この日は微風で、恐れていた上州名物の“からっ風”の洗礼を浴びなくて済みました。気持ちよく安中宿を目指して歩を進めます。
君が代橋を渡り終えると、すぐに階段になった歩道を下りて、さらに国道18号線豊岡バイパスの下を潜り国道18号線の反対側に出ます。
国道18号線豊岡バイパスの下を潜り抜けてすぐ右手に「萬日堂」があります。この「萬日堂」に納められている「みかえり阿弥陀像」は、室町時代に作られたものだと言われていて、高崎市の文化財に指定されています。「みかえり阿弥陀」というと京都の永観堂の「みかえり阿弥陀像」が有名ですが、案内板によると、全国に5体しかなく、関東ではここにしかないものなのだそうです。
江戸時代、君が代橋ができる前までは、渡し船で烏川を渡っていたということを書きましたが、対岸の船着き場がこの「萬日堂」が建つあたりにありました。なので、ここから旧中山道の再開です。
「萬日堂」を出ると、すぐに国道18号線豊岡バイパスから分岐した国道406号線のルートになります。
下豊岡の石神社(しゃくじんじゃ)です。古代の人々は大自然の力に対し、その偉大さに恐怖心さえ抱き、これを鎮めるために神として仰ぎました。この神社は、石を神として崇拝することから興った石神信仰の1つです。石を神として崇拝する石神社はこの高崎の下豊岡だけでなく全国各地にあり、東京にも石神井公園があることで有名な石神井もその1つです。
さらに国道406号線のルートを辿り、次に下豊岡町西のY字になった三叉路を左に行きます。ここからは群馬県道26号高崎安中渋川線で、途中国道18号線と重複する区間があるものの、しばらくは基本この群馬県道26号高崎安中渋川線が旧中山道になります。ちなみに右にまっすぐ進む道路(国道406号線)が草津を経由して信州に向かう信州街道です。
すぐ先には小さな八坂神社の社殿があり、その脇に「信州道分去(わかさ)れ道標」が建ち、ここが中山道と信州街道の追分(分岐点)であることを示しています。道標は2つ建っていて、自然石の道標のほうには「右はるなみち くさつみち」という文字が刻まれています。また、角柱の「下豊岡の道しるべ」と呼ばれる道標のほうには「草津温泉」「左中仙道」と文字が刻まれています。この角柱の道標は江戸時代末期に作られたものと推定され、おそらく草津温泉をはじめとした温泉地への案内表示だと思われます。
この追分を右に行く信州街道、現在は国道406号線となっています。この国道406号線は、高崎市・君が代橋西交差点を起点として群馬県吾妻郡長野原町や長野県上田市の菅平高原、長野市を経由して長野県大町市に至る国道で、群馬県内区間では草津街道、長野県に入ると長野街道などとも呼ばれていますが、総じて「信州街道」と呼ばれています。「信州街道」は、高崎から榛名山南麓を通り、大戸関所の先の須賀尾で「草津街道」と分かれ、鳥居峠を越えて信州須坂・飯山を経て、北国街道(中山道追分宿から分岐して、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する五街道に次ぐ重要な役割を果たした街道)へ通じる中山道の脇往還として主要な街道でした。北国街道筋から江戸へ至るのに中山道を経由するより10里ほど短く、割合に平坦な谷間を通るコースであることから、飯山・須坂・松代3藩ほか、北信地方との人とモノの輸送路として重要な役割を果たしました。一方、「草津街道」は、8代将軍徳川吉宗が草津の湯を江戸まで運ばせた「献湯」の道という記録もあります。
この信州街道(現在の国道406号線)ですが、群馬県吾妻郡長野原町から東へは群馬県沼田市に至る国道145号線が分岐して伸びています。また、長野県上田市の菅平口からは南西方向に上田市街に向かう国道144号線が分岐して伸びています(群馬県吾妻郡長野原町?長野県上田市菅平口間は国道406号線との重複区間)。この国道145号線と国道144号線ですが、昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』で描かれた真田一族にとって極めて重要な道路でした。真田一族は真田信繁(幸村)の父・昌幸の父・幸隆(すなわち信繁の祖父)が信濃国小県(ちいさがた)郡真田郷(現在の上田市真田町)にある洗馬城、そして真田本城(別名・松尾城)を拠点として真田氏を称したことに始まるとされています。
この小県郡真田郷は上田市街の少し北東方向にあります。平成の大合併により現在は上田市に編入されていますが、それまでは長野県小県郡真田町でした。この真田町は国道144号線沿いにあります。その国道144号線を 南西方向に進んだところに上田市街地があり、真田昌幸が徳川家康に臣従した1583年に本拠地を上田に移し、上田城を築城します。いっぽう、国道144号線、国道145号線を東北東方向に進むと上州「沼田」です。真田一族の本拠といえば信州上田ということになるのですが、実はキーポイントとなるのがこの上州は「沼田」です。この沼田は上杉氏と後北条氏で散々取り合っていた土地なのですが、真田昌幸が武田勝頼存命時代に北条領であった沼田城を調略でもって制圧し武田領となります。武田氏が滅び織田氏が撤退した後、そのまま真田領となりました。つまり、沼田は真田昌幸が自分で切り取って手にした土地、ということになります。地図を見ると、この上田と沼田は国道144号線と国道145号線を使うとほぼ真っ直ぐに繋がっていて、意外なほど距離も短いのです。
途中には真田信繁が幼少期を過ごしたという天険の山城・岩櫃城址(群馬県吾妻郡東吾妻町)や1590年の豊臣秀吉による小田原(後北条氏)征伐の誘因となったことで有名な名胡桃城址(群馬県利根郡みなかみ町)等、『真田丸』の初期に登場してきた場所があります。「天正壬午の乱」という、本能寺の変の後、持ち主がいなくなった旧武田領(甲斐、信濃、上野)をめぐる近隣諸大名の争いが『真田丸』の前半のハイライトで、「信濃は日本国の真ん中ですから」と堺雅人さん演じる主人公・真田信繁に言われ、大泉洋さん演じる信繁の兄・真田信幸は、「ここが日本の東西を結ぶ要の土地だからこそ、上杉も北条も徳川も手に入れようと躍起になるのだ」と悟る場面があります。地図を見ると、まさにそのとおりのところで、今でこそ3桁の番号をふられた国道にすぎませんが、その昔、信州街道は日本国において、戦略上、極めて重要な交通路だったのだということが分かります。まさにこの国道144号線と国道145号線の沿線は真田の本拠地、「真田ワールド」ってところです。地図を眺めてみると、この信州街道(国道144号線と国道145号線)が当時は戦略上極めて重要な道路であったのかが分かります。なるほどぉ~。
また、信州街道の大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町)は、あの国定忠治が関所破りの大罪を犯したところで、磔(はりつけ)の極刑に処されたところでもあります。
余談が長くなりました。追分を左に行く旧中山道のほうに話を戻します。
……(その3)に続きます。
「君が代橋」という名は、明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸の時に馬車でここに架けられた木橋を渡られたことを記念して,命名されたものです。ここに保存されている君が代橋の親柱は、昭和6年に木橋から鉄橋に架け替えられた時のもので、昭和52年(1977年)より10年の歳月をかけて3層構造のインターチェンジが建設され、君が代橋も新たに架け替えられた折、ここに移設されたものです。
江戸時代、君が代橋ができる前までは、この少し上流のところから対岸に向けて渡し船が出ていました。
それにしても、この橋、国道17号倉賀野バイパスと国道18号、国道354号という3本の国道が合流していてインターチェンジのような複雑な構造になっていて、初めてだとガイドさんに連れていって貰わないと、歩いて渡ることはまず無理です。
君が代橋を渡る途中で、左手向こうの山の上に高崎観音が小さく見えます。標高190mの観音山の山頂に立つ大観音(白衣観音)像で、正式名称は『高崎白衣大観音(たかさきびゃくえだいかんのん)』、通称「高崎観音」、高崎市民は単に「観音様」と呼んでいるようです。この高崎観音は昭和11年(1936年)、実業家の井上保三郎さんが私財を投げうって建立した鉄筋コンクリート製の観音像で、高さ41.8メートル、重さは5,985トン。建立当時は世界最大の観音像でした。内部は9層に分かれていて、20体の仏像が安置されています。今や高崎の観光名所の一つになっています。昭和初期に作られた観音像ですが、平成12年(2000年)に国の登録有形文化財に指定されました。
右には榛名山系の全貌が望めます。榛名山系中央部付近のちょこんと顔を出している富士山のような形をした山が榛名富士です。
また、右前方には美しい円錐形の山体(成層火山)をした浅間山(標高2,568m)の姿が見えます。浅間山は数十万年前から今に至るまで活発に活動を続けている活火山で、気象庁が常時観測をしている火山の一つです。気象庁は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、ランクAの活火山に指定しており、火山活動レベルに応じた入山規制が行われています。現在も浅間山は山頂直下のごく浅いところを震源とする体に感じない火山性地震が多い状態が続いており、また、二酸化硫黄の放出が増加していることから火山活動が高まっていると判断され、平成27年6月11日15時30分、噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)から2(火口周辺規制)に引き上げられ、今に至っています。よく見ると、この日も山頂付近から噴煙が上っているのが見えます。
中山道での人の往来が盛んだった天明3年(1783年)、浅間山は大噴火(天明噴火)を起こしました。4月に活動を再開し7月まで噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けたそうです。この浅間山の天明噴火により高崎宿を含む中山道筋には火山礫、火山砂、そして火山灰などが降り注ぎ、その被害は4月から7月までの長期に渡ったという記録が残っています。ちなみにその時、高崎宿では浅間山の火山礫や火山砂、火山灰の堆積は二尺(約66.7cm)にも及んだのだそうです。
東京の日本橋を出てからこの高崎までは国道17号線が並行する「現在の中山道」でしたが、高崎からしばらくは国道18号線が並行する「現在の中山道」になります。中山道街道歩きと言っても、「現在の中山道」である国道17号線を歩いた割合は全体の1割にも満たないほんの僅かで、たいていは国道17号線を突っ切って横切る、それも斜めに突っ切って横切ったり、高架下を通過したりという関係のしかたがほとんどでした。並行して伸びてはいるのですが、距離が離れていたり、間にJR高崎線の線路や川があったりで、沿道の風景や雰囲気はまるで別物でした。特に旧の中山道からはそこに息づく確かな歴史の重みと、そこに暮らす人々の日々の営みを強く感じます。国道17号線をクルマで走ったくらいで中山道のことをあれこれ語ってはいけませんよね。
また、ここまではだだっ広い関東平野をほぼまっすぐに奥へ奥へ(北へ北へ)と進んできた中山道ですが、ここからは大きく西へ進路を変え変え、目の前に立ちはだかる高い山々を峠道で超えていくことになります。加えて、このあたりから軽井沢宿にかけてが中山道でもっとも緯度の高いところ、すなわち、最も北に位置するところで、ここから先は西あるいは西南西に針路を変え、一路京の都を目指すことになります。ただし、周囲は山が迫ってきていて、これからが中山道の本番、幾つもの峠を越える山歩きが始まります。「The中山道」、「これぞ中山道」、「中山道街道歩きの醍醐味」と言えるのは、ここからですね。この日は微風で、恐れていた上州名物の“からっ風”の洗礼を浴びなくて済みました。気持ちよく安中宿を目指して歩を進めます。
君が代橋を渡り終えると、すぐに階段になった歩道を下りて、さらに国道18号線豊岡バイパスの下を潜り国道18号線の反対側に出ます。
国道18号線豊岡バイパスの下を潜り抜けてすぐ右手に「萬日堂」があります。この「萬日堂」に納められている「みかえり阿弥陀像」は、室町時代に作られたものだと言われていて、高崎市の文化財に指定されています。「みかえり阿弥陀」というと京都の永観堂の「みかえり阿弥陀像」が有名ですが、案内板によると、全国に5体しかなく、関東ではここにしかないものなのだそうです。
江戸時代、君が代橋ができる前までは、渡し船で烏川を渡っていたということを書きましたが、対岸の船着き場がこの「萬日堂」が建つあたりにありました。なので、ここから旧中山道の再開です。
「萬日堂」を出ると、すぐに国道18号線豊岡バイパスから分岐した国道406号線のルートになります。
下豊岡の石神社(しゃくじんじゃ)です。古代の人々は大自然の力に対し、その偉大さに恐怖心さえ抱き、これを鎮めるために神として仰ぎました。この神社は、石を神として崇拝することから興った石神信仰の1つです。石を神として崇拝する石神社はこの高崎の下豊岡だけでなく全国各地にあり、東京にも石神井公園があることで有名な石神井もその1つです。
さらに国道406号線のルートを辿り、次に下豊岡町西のY字になった三叉路を左に行きます。ここからは群馬県道26号高崎安中渋川線で、途中国道18号線と重複する区間があるものの、しばらくは基本この群馬県道26号高崎安中渋川線が旧中山道になります。ちなみに右にまっすぐ進む道路(国道406号線)が草津を経由して信州に向かう信州街道です。
すぐ先には小さな八坂神社の社殿があり、その脇に「信州道分去(わかさ)れ道標」が建ち、ここが中山道と信州街道の追分(分岐点)であることを示しています。道標は2つ建っていて、自然石の道標のほうには「右はるなみち くさつみち」という文字が刻まれています。また、角柱の「下豊岡の道しるべ」と呼ばれる道標のほうには「草津温泉」「左中仙道」と文字が刻まれています。この角柱の道標は江戸時代末期に作られたものと推定され、おそらく草津温泉をはじめとした温泉地への案内表示だと思われます。
この追分を右に行く信州街道、現在は国道406号線となっています。この国道406号線は、高崎市・君が代橋西交差点を起点として群馬県吾妻郡長野原町や長野県上田市の菅平高原、長野市を経由して長野県大町市に至る国道で、群馬県内区間では草津街道、長野県に入ると長野街道などとも呼ばれていますが、総じて「信州街道」と呼ばれています。「信州街道」は、高崎から榛名山南麓を通り、大戸関所の先の須賀尾で「草津街道」と分かれ、鳥居峠を越えて信州須坂・飯山を経て、北国街道(中山道追分宿から分岐して、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する五街道に次ぐ重要な役割を果たした街道)へ通じる中山道の脇往還として主要な街道でした。北国街道筋から江戸へ至るのに中山道を経由するより10里ほど短く、割合に平坦な谷間を通るコースであることから、飯山・須坂・松代3藩ほか、北信地方との人とモノの輸送路として重要な役割を果たしました。一方、「草津街道」は、8代将軍徳川吉宗が草津の湯を江戸まで運ばせた「献湯」の道という記録もあります。
この信州街道(現在の国道406号線)ですが、群馬県吾妻郡長野原町から東へは群馬県沼田市に至る国道145号線が分岐して伸びています。また、長野県上田市の菅平口からは南西方向に上田市街に向かう国道144号線が分岐して伸びています(群馬県吾妻郡長野原町?長野県上田市菅平口間は国道406号線との重複区間)。この国道145号線と国道144号線ですが、昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』で描かれた真田一族にとって極めて重要な道路でした。真田一族は真田信繁(幸村)の父・昌幸の父・幸隆(すなわち信繁の祖父)が信濃国小県(ちいさがた)郡真田郷(現在の上田市真田町)にある洗馬城、そして真田本城(別名・松尾城)を拠点として真田氏を称したことに始まるとされています。
この小県郡真田郷は上田市街の少し北東方向にあります。平成の大合併により現在は上田市に編入されていますが、それまでは長野県小県郡真田町でした。この真田町は国道144号線沿いにあります。その国道144号線を 南西方向に進んだところに上田市街地があり、真田昌幸が徳川家康に臣従した1583年に本拠地を上田に移し、上田城を築城します。いっぽう、国道144号線、国道145号線を東北東方向に進むと上州「沼田」です。真田一族の本拠といえば信州上田ということになるのですが、実はキーポイントとなるのがこの上州は「沼田」です。この沼田は上杉氏と後北条氏で散々取り合っていた土地なのですが、真田昌幸が武田勝頼存命時代に北条領であった沼田城を調略でもって制圧し武田領となります。武田氏が滅び織田氏が撤退した後、そのまま真田領となりました。つまり、沼田は真田昌幸が自分で切り取って手にした土地、ということになります。地図を見ると、この上田と沼田は国道144号線と国道145号線を使うとほぼ真っ直ぐに繋がっていて、意外なほど距離も短いのです。
途中には真田信繁が幼少期を過ごしたという天険の山城・岩櫃城址(群馬県吾妻郡東吾妻町)や1590年の豊臣秀吉による小田原(後北条氏)征伐の誘因となったことで有名な名胡桃城址(群馬県利根郡みなかみ町)等、『真田丸』の初期に登場してきた場所があります。「天正壬午の乱」という、本能寺の変の後、持ち主がいなくなった旧武田領(甲斐、信濃、上野)をめぐる近隣諸大名の争いが『真田丸』の前半のハイライトで、「信濃は日本国の真ん中ですから」と堺雅人さん演じる主人公・真田信繁に言われ、大泉洋さん演じる信繁の兄・真田信幸は、「ここが日本の東西を結ぶ要の土地だからこそ、上杉も北条も徳川も手に入れようと躍起になるのだ」と悟る場面があります。地図を見ると、まさにそのとおりのところで、今でこそ3桁の番号をふられた国道にすぎませんが、その昔、信州街道は日本国において、戦略上、極めて重要な交通路だったのだということが分かります。まさにこの国道144号線と国道145号線の沿線は真田の本拠地、「真田ワールド」ってところです。地図を眺めてみると、この信州街道(国道144号線と国道145号線)が当時は戦略上極めて重要な道路であったのかが分かります。なるほどぉ~。
また、信州街道の大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町)は、あの国定忠治が関所破りの大罪を犯したところで、磔(はりつけ)の極刑に処されたところでもあります。
余談が長くなりました。追分を左に行く旧中山道のほうに話を戻します。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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