2017/06/02
中山道六十九次・街道歩き【第12回: 安中→松井田(五料)】(その5)
国道18号線の向かい側に「妙義道常夜燈」が建っています。この常夜燈は、文化5年(1808年)に、この近辺の郷原集落の人達が結成した「妙義講」の信仰の証として建てたものです。現在は国道18号線の南側にありますが、元はここから北東へ50メートルほど行ったところにあり、そこが中山道から妙義神社へ通じる「妙義道」との追分(分岐点)になっていました。この常夜燈は台座を含めて5メートルほどもあり、露盤の四面と笠の正面には十六弁の菊(八重菊)の紋章が刻まれていて、この紋章は妙義神社の紋章と同じです。
旧中山道はここで右折して国道18号線を進むのかと思うのですが、そうではありません。国道18号線にぶちあたるほんのちょっと手前に右折して奈落の底に落ちるように大きく下る暗く長い下り坂があって、そこが旧中山道です。この坂、大坂(逢坂とも)と呼ばれ、京都方面からやって来る旅人には「大坂(逢坂)までが山の中。そこから先は平坦」と言われた最後の急坂でした。と言うことは、私達は江戸からやって来たので、ここまでは比較的平坦な道を歩いて来たのですが、反対にここからアップダウンの激しい区間に入ると言うことを意味しています。旧中山道の本当の意味での醍醐味はここからのようです。
奈落の底に落ちるように長く急な坂道を下り切ったところで左折します。この辺りは琵琶窪と呼ばれ、かつては崖沿いの危険な道だったそうです。確かに進行方向左手は切り立った崖になった薄暗い小道で、途中左側にある石碑群は、逢坂の神明と呼ばれていたそうです。
マジかよ!?!(◎_◎;) 私、ヘビが大嫌い、いや、大の苦手なんです。ましてや“まむし”なんて……。
しばらく琵琶窪を歩き、今度は急な登り坂を登ります。
中山道の宿場の風景を描いた浮世絵の名作『木曽海道六拾九次』は江戸時代の浮世絵師、渓斎英泉(けいさいえいせん)と傑作『東海道五十三次絵』を描いた歌川広重が合作したもので、このうち松井田宿の絵は歌川広重が描いたものです(下の右側の写真)。この絵に描かれた坂は下の写真で奥に下っていく坂であったと言われています。当時はこの坂が旧中山道だったのですが、実は斜面の崩落などでこの先で消滅してしまっているそうで、その後、ルートの変更が行われたのだそうです。新ルートは写真でいうと右手前から左手奥に進むルートです。
長い急坂を登り切ったあたりで、国道18号線の下を大坂(逢坂)地下道で潜ります。この上は元々は崖地で、人の往来ができない地形だったので、旧中山道はこのように急な坂を下って登るルートにせざるを得なかったようなのですが、近年土木工事技術が進んで、崖を削ったり埋めたりすることが比較的容易にできるようになったことで、国道を通すことができたのだろうと推察します。大坂(逢坂)地下道の両側にある石垣等を見る限り、ここは山と山の間を人工的に土で埋めることで国道を通したんだろうな…と推察されます。
国道18号線の下を潜り抜け、今度は国道18号線の南側を並行するように進みます。国道18号線の下を大坂(逢坂)地下道で抜けてすぐのあたりに郷原村の戸長役場跡があったそうなのですが、現在は何も残っていません。路傍の花が綺麗で、癒されます。
石塔石仏群があります。
江戸の昔も中山道はきっとこうだったんだろうな…と思えるような光景の道が続きます。
赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる妙義山は安中市・富岡市・下仁田町にまたがり、白雲山(標高1,081メートル)、金洞山(標高1,104メートル)、金鶏山(標高856メートル)の三山で象徴される表妙義と、谷急山(標高1,162メートル)、烏帽子岩(標高1,105メートル)、赤岩岳、丁須の頭、御獄山などの山々で構成される裏妙義とを総称しての呼び名で、妙義荒佐久高原国定公園の一部となっています。幾つものピーク(山頂)から成り、最高峰は表妙義稜線上の相馬岳で、また妙義山系全体の最高峰は裏妙義に聳える谷急山となっています。
妙義山は赤城山、榛名山と並んで上毛三山と呼ばれ、今から約300万年前に起きた本宿カルデラを形成した火山活動により地下から流れ出た溶岩体でできていて、その後、周囲の柔らかい堆積層が浸食・風化され、硬い溶岩の岩体のみが露出したことで、このような美しくも奇怪な形をした岩峰になったと考えられています。そのいっぽうで、妙義山系からは大量のアンモナイトなどの化石が出土されていて、このあたりの土地は約700万年前に海底が隆起して形成されたとも考えられています。太古の昔の日本列島は、いったいどんな形状をしていたのでしょうね。
いずれにしても、この妙義山系は多数の奇勝奇岩石門群をみることができ、この険しい岩峰の尖った荒々しい山容の奇観から「日本三大奇景」の一つに数えられており、また国の「名勝」に指定され、「日本百景」にも選定されています。素晴らしい光景です。
ちなみに、妙義山東面中腹には、白雲山を御神体とする荘厳な妙義神社が建立されています。江戸時代には火伏せや雷除けの霊験があると信じられていました。先ほどの郷原の追分から分岐する妙義道がこの妙義神社に向かう道でした。
左に妙義山、正面には雪化粧された浅間山の山頂が見える爽快な風景の中を先に進みます。
このあたりからの妙義山の眺望は素晴らしく、その美しくも奇怪な岩峰は、何故か妙に心を惹きつけます。昔の人もこのあたりで足を止め、妙義山の風景を眺めたことでしょうね。菜の花が見事に咲き誇っています。春になり、道端の草花をいろいろと楽しみながら歩くことができるようになりました。菜の花の向こうに妙義山…、妙に癒される光景です。大坂(逢坂)の急な坂を下って登ってきたので、この景色を見ながら、ここでしばし水分補給を兼ねた小休止です。
国道18号線から松井田交差点で分岐してきた群馬県道33号渋川松井田線が右から近づいてきて、合流。ここから先はこの群馬県道33号渋川松井田線が旧中山道で、松井田宿に向かっていきます。群馬県内の旧中山道は、現在の名称で言うと次から次に頻繁に県道名称が変わります。
途中、馬頭観音や庚申塔をいくつか見ながら、ただひたすら黙々と1kmほど歩きます。進行方向前方に浅間山や妙義山が見えます。旧中山道は微妙に緩く曲がりながら進むので、その都度前方に見える山が変わっていきます。素晴らしい道です。浅間山がかなり大きく見えるようになってきました。
……(その6)に続きます。
旧中山道はここで右折して国道18号線を進むのかと思うのですが、そうではありません。国道18号線にぶちあたるほんのちょっと手前に右折して奈落の底に落ちるように大きく下る暗く長い下り坂があって、そこが旧中山道です。この坂、大坂(逢坂とも)と呼ばれ、京都方面からやって来る旅人には「大坂(逢坂)までが山の中。そこから先は平坦」と言われた最後の急坂でした。と言うことは、私達は江戸からやって来たので、ここまでは比較的平坦な道を歩いて来たのですが、反対にここからアップダウンの激しい区間に入ると言うことを意味しています。旧中山道の本当の意味での醍醐味はここからのようです。
奈落の底に落ちるように長く急な坂道を下り切ったところで左折します。この辺りは琵琶窪と呼ばれ、かつては崖沿いの危険な道だったそうです。確かに進行方向左手は切り立った崖になった薄暗い小道で、途中左側にある石碑群は、逢坂の神明と呼ばれていたそうです。
マジかよ!?!(◎_◎;) 私、ヘビが大嫌い、いや、大の苦手なんです。ましてや“まむし”なんて……。
しばらく琵琶窪を歩き、今度は急な登り坂を登ります。
中山道の宿場の風景を描いた浮世絵の名作『木曽海道六拾九次』は江戸時代の浮世絵師、渓斎英泉(けいさいえいせん)と傑作『東海道五十三次絵』を描いた歌川広重が合作したもので、このうち松井田宿の絵は歌川広重が描いたものです(下の右側の写真)。この絵に描かれた坂は下の写真で奥に下っていく坂であったと言われています。当時はこの坂が旧中山道だったのですが、実は斜面の崩落などでこの先で消滅してしまっているそうで、その後、ルートの変更が行われたのだそうです。新ルートは写真でいうと右手前から左手奥に進むルートです。
長い急坂を登り切ったあたりで、国道18号線の下を大坂(逢坂)地下道で潜ります。この上は元々は崖地で、人の往来ができない地形だったので、旧中山道はこのように急な坂を下って登るルートにせざるを得なかったようなのですが、近年土木工事技術が進んで、崖を削ったり埋めたりすることが比較的容易にできるようになったことで、国道を通すことができたのだろうと推察します。大坂(逢坂)地下道の両側にある石垣等を見る限り、ここは山と山の間を人工的に土で埋めることで国道を通したんだろうな…と推察されます。
国道18号線の下を潜り抜け、今度は国道18号線の南側を並行するように進みます。国道18号線の下を大坂(逢坂)地下道で抜けてすぐのあたりに郷原村の戸長役場跡があったそうなのですが、現在は何も残っていません。路傍の花が綺麗で、癒されます。
石塔石仏群があります。
江戸の昔も中山道はきっとこうだったんだろうな…と思えるような光景の道が続きます。
赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる妙義山は安中市・富岡市・下仁田町にまたがり、白雲山(標高1,081メートル)、金洞山(標高1,104メートル)、金鶏山(標高856メートル)の三山で象徴される表妙義と、谷急山(標高1,162メートル)、烏帽子岩(標高1,105メートル)、赤岩岳、丁須の頭、御獄山などの山々で構成される裏妙義とを総称しての呼び名で、妙義荒佐久高原国定公園の一部となっています。幾つものピーク(山頂)から成り、最高峰は表妙義稜線上の相馬岳で、また妙義山系全体の最高峰は裏妙義に聳える谷急山となっています。
妙義山は赤城山、榛名山と並んで上毛三山と呼ばれ、今から約300万年前に起きた本宿カルデラを形成した火山活動により地下から流れ出た溶岩体でできていて、その後、周囲の柔らかい堆積層が浸食・風化され、硬い溶岩の岩体のみが露出したことで、このような美しくも奇怪な形をした岩峰になったと考えられています。そのいっぽうで、妙義山系からは大量のアンモナイトなどの化石が出土されていて、このあたりの土地は約700万年前に海底が隆起して形成されたとも考えられています。太古の昔の日本列島は、いったいどんな形状をしていたのでしょうね。
いずれにしても、この妙義山系は多数の奇勝奇岩石門群をみることができ、この険しい岩峰の尖った荒々しい山容の奇観から「日本三大奇景」の一つに数えられており、また国の「名勝」に指定され、「日本百景」にも選定されています。素晴らしい光景です。
ちなみに、妙義山東面中腹には、白雲山を御神体とする荘厳な妙義神社が建立されています。江戸時代には火伏せや雷除けの霊験があると信じられていました。先ほどの郷原の追分から分岐する妙義道がこの妙義神社に向かう道でした。
左に妙義山、正面には雪化粧された浅間山の山頂が見える爽快な風景の中を先に進みます。
このあたりからの妙義山の眺望は素晴らしく、その美しくも奇怪な岩峰は、何故か妙に心を惹きつけます。昔の人もこのあたりで足を止め、妙義山の風景を眺めたことでしょうね。菜の花が見事に咲き誇っています。春になり、道端の草花をいろいろと楽しみながら歩くことができるようになりました。菜の花の向こうに妙義山…、妙に癒される光景です。大坂(逢坂)の急な坂を下って登ってきたので、この景色を見ながら、ここでしばし水分補給を兼ねた小休止です。
国道18号線から松井田交差点で分岐してきた群馬県道33号渋川松井田線が右から近づいてきて、合流。ここから先はこの群馬県道33号渋川松井田線が旧中山道で、松井田宿に向かっていきます。群馬県内の旧中山道は、現在の名称で言うと次から次に頻繁に県道名称が変わります。
途中、馬頭観音や庚申塔をいくつか見ながら、ただひたすら黙々と1kmほど歩きます。進行方向前方に浅間山や妙義山が見えます。旧中山道は微妙に緩く曲がりながら進むので、その都度前方に見える山が変わっていきます。素晴らしい道です。浅間山がかなり大きく見えるようになってきました。
……(その6)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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