2017/06/09

全国の越智さん大集合!(その1)

【プロローグ】
私の「越智」という苗字、愛媛県内では極々一般的な苗字で、「越智」はたいてい「おち」と正しく呼んでいただけるのですが、これが愛媛県から一歩外に出るとそうはいかなくなるのです。私は生まれは愛媛県ですが、転勤族の子供だったので小学校高学年時は高知県安芸市、中学校高校時代は香川県の丸亀市で過ごしました。同じ四国内と言っても、高知県や香川県では「越智」は一気に珍しい難読苗字になるようで、「なんと読むのですか?」と何度も訊かれました。もっとも、高知県には高岡郡越知町という地名のところがあるので、なんとか「おち」と呼んではいただけましたが、反対に漢字表記になると「越知」と書かれることのほうが多かったです。

首都圏に出てくると、もうメチャクチャ。今から39年前に私が上京した当時は、何度「これ、なんと読むのですか?」と質問されたことか…。読み方を訊いていただけるのはまだマシなほうで、「こしち」や「こしとも」から始まって、「こしじ」「こえじ」「こえち」「こすち」「えつとも」「えつち」、果ては「エッチ」と勝手に解釈して呼んでくれる人が続出して、ウンザリしたものでした。発熱して病院に診察を受けに行った時、いくら待っても名前が呼ばれず、私の後から受付をされた方が次々と診察室に呼ばれるのを見て、「“おち”ですが、診察の順番はまだでしょうか?」とフゥフゥ言いながら受付に訊きに行ったことも一度や二度のことではありません。そういう時はたいてい「こしち」に始まる別の名称で既に呼ばれていて、私が返事をしなかったので次の順番の人が呼ばれた…ってことのようでした。なので、私は結婚した時に妻には「ごめん、“越智”は“こしち”“こしとも”“こしじ”“こえじ”“こえち”“こすち”“えつとも”“えつち”“エッチ”といろいろと間違って呼ばれることが多々あると思うから、そこは我慢してね。加えて、病院等で“こしち”…等々って呼ばれたら自分のことだったりすることがあるから、注意してね」って伝えたほどです。これは子供達にも伝えています。

最近は「愛をこめて花束を」や「タマシイレボリューション」「輝く月のように」といった代表曲を持ち、身長153cm(公称)という小柄の体からほとばしるパワフルな歌声で知られるシンガーの『Superfly』の「越智志帆」さんや、テレビ番組のプロデューサーとして活躍されている「おちまさと(越智真人)」さん、東京6区選出の自民党衆議院議員の「越智隆雄」さん等々、全国区で活躍される“越智さん”が徐々に増えてきていただけたおかげで以前ほどではなくなったものの、それでも「なんと読むのですか?」と訊ねられたり「珍しい苗字ですね」と言われることは、今でも時々あります。

おまけに、カナ表記(読み)だとたった2文字のシンプルな苗字なのですが、それが漢字表記だと12画+12画の計24画になるという無駄に画数が多い苗字なのです。小学生の頃、習字で半紙の左横に縦に名前を書く時、苗字と名前のバランスがうまく取れずに、常に苦戦しました。さらに、名前を書くのに時間を要するので、学校の試験の時などスタートダッシュでほんのちょっとですが出遅れることにもなります。これは我が家の子供達もそうだったようで、よくブゥブゥと文句を聞かされました。現在、3歳9ヶ月と0歳10ヶ月の2人の孫がいるのですが、彼等からもいずれ同じ文句を聞かされることになるんだろうな…と思っています(プロデューサーのおちまさとさんが敢えて平仮名表記にしているのも、分かる気がします。私もサインする時は平仮名ですから)。

また、私の妻は「智子」という名前なのですが、私と結婚して越智姓に変わったことで、「越智智子」と、“智”の字が2つ連なる可哀想なことになってしまいました。妻からは「ふつう名前に使うことが多い漢字を、苗字に、それも名前に連なる下のほうに使うのは“反則”で、“事故”のようなものだわ!」って冗談で言われたこともあります。その時は「ごめん」としか言い返せませんでしたが…(笑)。なので、結婚以来、妻は公式文書以外は“とも子”と敢えて平仮名表記で名前を書くこともあるようです。

このように「越智」って苗字は、愛媛県外だと意外と“面倒臭い苗字”なんです(笑)

ちなみに、同姓の越智さんって全国に何人くらいいらっしゃるのだろうと思ってネットで調べてみると、推定で約4万人。いろいろな調べ方があるので一概には言えませんが、苗字の人口ランキングでは総じて420位から470位くらいに位置しています。で、都道府県ごとの越智さんの分布を見ると愛媛県が60~70%を占め、愛媛県では村上、山本に次いで3番目に多い苗字になっています。逆に言うと、愛媛県内では3番目に多くても、県外だと約1万人に1人という極めて珍しい苗字だということが定量的にもお分りいただけるかと思います。

それにしても、この「越智」という愛媛県、それも東予の今治市周辺にだけ集中して多い摩訶不思議な苗字、この「越智」がいったい何を意味した苗字なのか、そしてなんで“越”を“お”と読むのか…先祖代々我が家に伝わる苗字ではありますが、考えてみれば、実に疑問だらけの苗字ではあります。

越智氏は古代に愛媛県今治市周辺で勢力を誇った地方豪族だということだけは地元で伝承されているものの、決して歴史の表舞台に登場することはなかった謎の一族のようです。これまでにも越智氏のことについて調べられた人は沢山いらっしゃるようですが、残念ながら、今もその謎は誰も解けておられないようです。なので、物凄く深い謎に包まれた「越智」を苗字にする者として、我が家のルーツを探ってみたいという思いは年齢を重ねるうちにだんだん強くなってきていました。

そうした中、3月の半ばに、私が毎月連載している愛媛新聞Onlineのコラムをかつて担当されていた愛媛新聞社東予支社のY営業部長から、「間違いなく越智さんの興味を引きそうなこんな記事が本紙に載っているのですが、ぜひこのイベントに参加なさってみてはいかがですか」というメールが届き、その記事を読んでみると、もうこれはなにはさておき行くしかあるまい…と、悩むこともなく、その場で即決で参加を決めたのでした。

そのイベントとは『全国の越智さん大集合! 越智氏ゆかりの地を巡るツアー』。現在越智を苗字にしている越智さんはもちろん、旧姓越智、母方が越智、ご先祖が越智、越智から分かれた名字かもしれない…など、越智氏にゆかりのある方を募集し、今治地域に点在する主な越智氏ゆかりの地を巡る旅行企画です。主催は今治市に本社のある株式会社せとうち観光社。今治市で特定非営利活動法人tsunaguプロジェクトの理事長を務めていらっしゃる大橋麻輝さんが企画したイベントです。ちなみに、この大橋麻輝さんは地元今治の歴史について調べているうちに、両親双方の祖母の苗字である越智氏に興味を持つようになり、9年ほど前から越智氏のルーツに関して本格的に調査をなさっておられます。

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『全国の越智さん大集合! 越智氏ゆかりの地を巡るツアー』は4月15日(土)と16日(日)の2日間で開催されました。前日の4月14日(金)の最終の飛行機で松山市にある実家に帰り、15日午前10時、集合場所であるJR今治駅前に着きました。駅前に停まっている観光バスには『全国の越智さん大集合! 越智氏ゆかりの地を巡るツアー』という表示が…。「おぉっ!」。さっそく受付の人に「越智ですが…」と名乗ると、「下のお名前でお願いします」。おお、そうかそうか。ついつい首都圏にいる感覚でいました。『全国の越智さん大集合!』だけに、参加者の圧倒的大多数は越智さん。「越智です」だけでは分りませんよね(笑)。



【大濱八幡大神社】
まずは越智氏族の発祥の地とされる今治市大浜にある大濱八幡大神社を訪れました。この大濱八幡大神社の主祭神は乎致命(おちのみこと:小千御子とも)。加えて、応神天皇(第15代天皇)と神功皇后(応神天皇の母)も祀られています。

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鳥居をくぐり大濱八幡大神社の中に入ると、その乎致命の石像が立っています。どことなく日本人離れした彫りの深いお顔をしておられます。おぉっ!このお方が私達越智氏族のご先祖様ですか!! 向いておられる方角は大三島の大山祇神社の方角のようです。石碑の下部には『伊豫國 小市國造(おちのくにのみやつこ) 乎致命』という文字が刻まれています。その碑文を揮毫したのは「越智氏族 初代内閣総理大臣 伊藤博文公 曾孫 伊藤博雅氏」。なんと!明治維新後、初代内閣総理大臣を務められた伊藤博文公も越智氏族だったのですね。

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乎致命の石碑の後ろに刻まれている大濱八幡大神社神裔氏族誌と乎致命顕彰文によると、乎致命は『古事記』や『日本書紀』に登場する饒速日命(にぎはやひのみこと)から数えて10代目にあたります。その乎致命は7歳の時に応神天皇(在位:西暦270年~310年)に伊予国 小市国(おちのくに)の国造(くにのみやつこ)に任命され、この大濱八幡大神社のある場所に館を構えられました。南海に武威を示し、東予地方を開拓し、徳を施し、内外に皇威を輝かされた…と書かれています。

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ちなみに、越智氏族略系図の一番先頭に出てくる饒速日命(にぎはやひのみこと)は、別名、櫛玉命(くしたまのみこと)。天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫で、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子。天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から地上(高千穂峰)に天降ったという天孫降臨で知られる瓊々杵尊(ににぎのみこと)の兄で、物部氏、穂積氏、熊野国造らの祖神と言われています。ついでに書くと、瓊々杵尊の妻が大三島の大山祇神社に祀られている大山祇神の娘である木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)です。このあたり、『古事記』や『日本書紀』を真剣に読み解かないと、とても理解できそうにありません。

また、「乎致命」の石像の背面に刻まれた越智氏族略系図の先頭の部分には、宇摩、出石(大洲市)、喜多、高縄…といった今も愛媛県に残る地名が幾つも読み取れます。現代ではほとんど誰も意識してはおられないと思いますが、もしかしたら愛媛県というところは神話の世界に遡るメチャメチャ古い歴史が眠っているところなのかもしれません。なんと言っても、日本最古の歴史書である『古事記』に「伊予ノ国を愛比売(えひめ)と謂い…」と書かれており、県名自体が神名から付けられた“姫神の国”なのですから。

応神天皇の時代、3世紀の後半というのはちょうど中国で歴史書『三国志』が編纂された頃で、日本はその『三国志』の中の『魏志倭人伝』で倭國と呼ばれ、女王・卑弥呼が支配する邪馬台国(邪馬壹国)を中心とした国が存在していたとされる時代です。すなわち、乎致命は邪馬台国の卑弥呼と同時代に生きた人物というわけです。なので、私達越智氏族の祖とされる乎致命について調べることは、卑弥呼や邪馬台国の謎を解き明かすことに浪漫を感じるのと同じレベルの歴史の浪漫を感じます。ましてや自分自身の先祖とされる方なので、私なんぞは駆け出したいくらいの興奮さえ覚えてしまいます。先ほど“面倒臭い苗字”と書きましたが、越智姓で本当によかったぁ~って思えてきます。乎致命の石像を見るだけでこんなに興奮を味わえるわけですから。

そして、この大濱八幡大神社は乎致命から9代後の小千高輪(おちのたかなわ)が今から約1400年前にその乎致命の屋敷跡に創建し、祖神として乎致命を祀った神社だということです。越智氏族はこの乎致命を先祖とした血縁集団の名称なので、この大濱八幡宮が越智氏族発祥の地とされているわけです。

乎致命については、いくつかの時代にその名前が登場してくるため、どれが本当の乎致命なのか、研究する人によってその解釈は大きく異なっているようです。たとえば、しまなみ海道の途中にある大三島の大山祇神社には、今から約2600年前、乎致命が植えて神を祀ったとされる大山祇神社のシンボル『乎致命お手植えの楠』があります。今から2600年前と言えば、弥生時代。そして、今年2017年は皇紀2677年。初代天皇の神武天皇が即位し、日本国が建国された頃ということになります。

また、ある説では乎致命(小千御子)が登場するのは孝霊天皇(第7代天皇)の御代(紀元前290年~紀元前215年)とする説もあるようです。孝霊天皇の第3皇子・彦狭島命(ひこさしまのみこと)。この彦狭島命は父である孝霊天皇の命で、伊予の国を統治し、伊予皇子という別名を持ち、愛媛県伊予郡松前町にある伊予神社の主祭神でもあります。その彦狭島命の第三子が乎致命(小千御子)、その小千国(おちのくに)の国造に任命されて、この地に着任したという説です。

いずれにしろ2000年前後も昔のことで、明確な記録が残っていないため、何が本当のことなのかは分かりませんが、少なくとも乎致命が越智氏族の祖であることだけは確かなようです。



……(その2)に続きます。