2017/06/30
全国の越智さん大集合!(その10)
大山祇神社では「元亨2年(1322年)の兵火」という文字をよく見ます。本殿も拝殿も総門もこの「元亨2年(1322年)の兵火」で焼失していますし、神社の周囲を鬱蒼と繁って取り囲んでいたとされる楠の巨木群もこの「元亨2年(1322年)の兵火」で大きな被害を受けたとされています。兵火ということはなんらかの戦闘により発生した火災ということです。これだけの被害を受けているわけですから、元亨2年(1322年)に大三島で起きた戦闘はかなり大きな規模の戦闘だったと思われます。ネット等でいろいろと調べてみたのですが、元亨2年(1322年)の前後に「◯◯の乱」と呼ぶような大きな戦闘が起きたという記録は出ておりません。大山祇神社の関連を調べてみても、「兵火により焼失」という記述のみで、いったい誰と誰のどういう戦闘による兵火だったのかについては記載がありません。ここもちょっとミステリーを感じる部分です。大山祇神社に問い合わせてみれば教えていただけるとは思いますが、それでは面白くないので、ここはちょっと推理を働かせてみました(記載がないこと自体が、何かを隠しているように思えますから)。
元亨2年(1322年)といえば、河野通有率いる伊予の水軍衆が大活躍した元寇の「弘安の役」が1281年のことですので、それから41年後。元寇は外国からの侵略を防ぐための防衛戦争だったため、勝利したと言っても、単純に敵を追い払っただけのことで、新たに領土が増えたわけでもありません。被害の大きさに加えて、活躍した武家(御家人)達もその活躍に見合った恩賞が与えられず、世の中全体に不満が満ち溢れていた頃です。そもそも、元寇の時、御家人たちは鎌倉幕府(北条執権家)の命令に従って戦いましたが、戦の準備を各自で行ったため、多くの御家人が商人に土地を質入れして金を借り、その金で武具を揃えたりしたわけです。ところが、元寇の恩賞は出ず、借りた金も返せないため、土地も戻ってきません。まさに御家人諸君たちには踏んだり蹴ったりということになってしまいました。これでは各地で治安が悪化し、世の中は荒廃するだけ荒廃していただろうと容易に想像できます。
ここでかの有名な後醍醐天皇が即位します。文保2年(1318年)のことです。後醍醐天皇は政治意欲旺盛な天皇で、即位後、さっそく院政を廃止し、かつて朝廷にあった記録書という役所を再興して、民の訴えを聞きながら自ら政治をみました。天皇は、「延喜・天暦の治」と呼ばれるかつての天皇親政の時代を理想としていました。しかし、政権は鎌倉幕府が握っているため、なかなか思い通りにならないことも多く、かつ幕府の政治は明らかに間違ったものであったため、後醍醐天皇は、幕府討伐を企てます。これで発生したのが元亨4年(1324年)の「正中の変」と、元徳3年(1331年)の「元弘の変」です。後醍醐天皇は捕らえられていったん隠岐へ流されるのですが、その後、脱出。ついに元弘3年(1333年)、新田義貞が鎌倉を攻め落としたことで鎌倉幕府は滅亡。翌年の建武元年(1334年)、後醍醐天皇による「建武の新政」がスタートします。
また、弘安の役で大活躍して「河野氏中興の祖」と呼ばれている河野通有がなくなったのは元亨年間(1321年~1323年)。河野氏の系譜では応長元年(1311年)に死去したとされていますが、それから10年経た元亨元年(1321年)に六波羅探題から河野対馬前司(通有)に対して伊予の海上警備を命じる文書が出ているとする説もあり、この頃にはまだ健在であった可能性が高いとされています。いずれにせよ、かつての英雄も最晩年か亡くなった直後ですので、後継の座を巡って一族の間でなんらかの内紛が生じていたのではないか…と推測することもできます。
また、『古気候学』の世界で「1300年イベント」と呼ばれている事象があります。私は気象情報会社におりますので、1322年と聞いて、この「1300年イベント」のことが真っ先に頭に浮かびました。この「1300年イベント」とは、1300年を挟んで1250年から1350年までの約100年間の間に地球規模の大きな気候変動が起きて、世界各地に様々な社会的な変動をもたらしたことを指す古気候学における総称です。
1257年の5月から10月の間に起きたインドネシアのサマラス火山の大噴火と、1315年から5年間ほど繰り返し続いたニュージーランドのカハロア火山の大噴火という2つの巨大火山の噴火により、そこから吹き上げられた大量の火山灰によって、地球全体が覆われ、1315年から1317年にかけてヨーロッパで著しい気温低下とそれに伴う大飢饉が起きたと記録に残されています。ヨーロッパ北部では大規模な飢饉が起き、特に1315年から1317年の大飢饉や黒死病(ペスト)の大流行により人口が激減。それまでの数百年間に渡るヨーロッパの繁栄と成長に急激に歯止めがかかり、それがヨーロッパから全世界にかけて起こる様々な激動に繋がりました。人口の減少とともに各地で社会不安と地域的騒乱が発生し、フランスやイングランドでは、大規模な農民蜂起が起こるなど、都市や農村での民衆暴動や党派的抗争が頻発しました。
1200年代後半、第5代皇帝クビライに率いられてユーラシア大陸全土を征服し一大帝国を築き上げたモンゴル帝国も、クビライの死後、後継者争いから内部分裂が相次ぎ、徐々に帝国としての統制力を失っていったのですが、そのモンゴル帝国の安定にトドメを刺したのが、著しい気温低下という異常気象による大飢饉とペストの大流行をはじめとする疫病、さらには自然災害の続発でした。後継者争いから政権の分裂がさらに激しく行われるようになり、1351年に起こった“紅巾の乱”によって経済の中心地であった江南の地を失い、1368年、ついに紅巾党の首領の1人であった朱元璋のうち立てた明王朝によって中国の地を追われることになります。
この「1300年イベント」に関しては【晴れ時々ちょっと横道】の第8回に書いておりますので、そちらをお読みください。
『気候で読み解く日本の歴史』続編
元亨2年(1322年)とはまさにその真っ只中の年で、前年の元亨元年(1321年)には全国的な大飢饉が発生したという記録が残っています。大三島の大山祇神社の元亨2年(1322年)の兵火もそういう中で起きた出来事だったわけです。大山祇神社としてもどちらかと言うと詳細を隠しておきたい理由があったのかもしれません。なんと言っても大山祇神社の御祭神である大山祇神は日本総鎮守、そして“山の神”“海の神”、すなわち「自然を司る神」ってことですから。天変地異から人々を守ることがお仕事で、直接ではなくても天変地異に端を発した兵火で被害を受けたとは言いにくいところがあるでしょうからね。大山祇神にも詮索されたくない“大人の事情”ってものもあるでしょうから。誤解のないように言っておきますが、これはあくまでも私の勝手な推測です。
ここでtsunaguプロジェクトの大橋理事長から非常に興味深いお話を聞かせていただきました。
神社において神域と現世を隔てる結界の役割を持つのが注連縄(しめなわ)ですが、大山祇神社の注連縄は伊勢神宮や出雲大社など一般の神社とは縄を編む向きが反対だということのようなのです。注連縄は縄を編む向きにより、左綯え(ひだりなえ)と右綯え(みぎなえ)の2通りがあります。左綯えは時計回りに縄を編み、右綯えはその逆で藁束を星々が北極星を周るのと同じ回転方向(反時計回り)で螺旋状に撚り合わせて縄の形を作ります。よくよく見ると大山祇神社の注連縄は通常とは編む向きが“逆”の右綯え。ここでも“逆”が出てきます。左綯えは天上にある太陽の巡行で火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで太陽の巡行に逆行し水(女性)を表しているとされています。神社に祀られている神様には男性の神様(男神)と女性の神様(女神)がいて、縄を編む方向を使い分ける場合があるということらしいのですが、もしかして大山祇神は女神ってこと? 大山祇神がお亡くなりになった後のお姿(本地仏)を表した大通智勝仏のところでも、男神だと伝わっている大山祇神って、本当は女神だったのではないか…との疑問を持ったってことを書きましたが、いよいよ謎が深まってきました。
さらにさらに、神社の向きも通常の神社の“逆”だということのようなのです。通常、神社は朝陽が本殿と拝殿の前方方向から昇ってくるように配置するのがふつうなのですが、この大山祇神社はその“逆”で、本殿の背後から昇ってくるように配置されているのだとか。しかも、秋分の日と春分の日の年に2回だけ、本殿の真後ろから朝陽が昇り、その朝陽の光が本殿と拝殿と御神木である「乎知命御手植の楠」を結んだ線の上を通り、総門、そして大鳥居まで射すように配置されているのだそうです。へぇ~~~。そう言えば、確かに大山祇神社は東を背にして建っています。ここでも“逆”が出てきます。この日、大山祇神社では幾つもの“逆”に遭遇しました。この“逆”はいったい何を意味しているのでしょうか? 謎がさらに深まります。
【大山祇神社・宝物館】
ツアーの最後に大山祇神社の宝物館を見学しました。この宝物館には、日本に現存する「甲冑」で国宝と国の重要文化財に指定されている武具類の約4割が収蔵されています。中には武蔵坊弁慶が奉納したと伝わる薙刀(重要文化財)や、源義経が奉納した「赤糸威鎧」(国宝)、源頼朝が奉納した「紫綾威鎧」(国宝)など、誰しもが学校で一度は習ったことのあるような歴史上の重要人物や武将の奉納品が展示されています。護良親王が奉納した太刀である「牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵」(国宝)や、平重盛が奉納した「螺鈿飾太刀」(重要文化財)、山中鹿之助が奉納した大太刀(重要文化財)、武蔵坊弁慶が奉納したと伝わる薙刀などは迫力がありすぎて、「スゲェ~!」と溜め息が漏れるだけです。(写真は愛媛新聞社提供)
『瀬戸内のジャンヌ・ダルク』として有名な太祝安用の娘・鶴姫が着用したものと伝えられている「紺糸裾素懸威胴丸」(重要文化財)も展示されています。胸の部分がふっくらとしていて、反対にウェストの部分をキュッと絞ったその形状は、女性用らしい優美な姿で、明らかに女性用のものです。この胴丸は現存している日本で唯一の女性用胴丸と言われています。鶴姫はこの胴丸を着用して、船団の先頭に立ち、水軍の荒くれども達を指揮していたのでしょうか…。(写真は愛媛新聞社提供)
また、越智氏族、とりわけ今治市朝倉が本籍地である私にとって関係の深い歴史上の人物から奉納されたものも展示されています。それが斉明天皇(第37代天皇)が奉納したとされる「禽獣葡萄鏡」。これも国宝に認定されています。
この手の資料館の場合には、本物は大切にしまっておいて、模造品(レプリカ)が展示されていることがふつうですが、ここ大山祇神社の宝物館は全てが昔のままの「本物」の展示です。ちなみに、この大山祇神社の宝物館に奉納されている武具類は、単に戦勝祈願で奉納されたものではなく、その多くは戦勝御礼で戦いの後に奉納されたものだそうです。すなわち、実際に戦いで使用されたものばかりで、よく見ると、刀剣類には刀身に戦いの中でついたであろう刃こぼれがあるものもあります。おそらく血がついたまま奉納された武具類も多かったのではないでしょうか。考えてみれば、このような武士の命ともいうべき高価で重要なものをただ戦勝祈願の目的だけで気前よく神社に奉納するとは考えられず、戦いの後で、すなわち使った後で奉納したというのは理にかなっています。戦いに勝利した後でヘトヘトに疲れきっているのに、これら重いものを持って家に帰るというのも面倒臭いですしね。
とにかく、ここ大山祇神社は武具類や武将たちが好きな人にはたまらないお薦めスポットです。
【エピローグ】
楽しく、そして内容が極めて濃い2日間の『全国の越智さん大集合! 越智氏ゆかりの地を巡るツアー』が終わりました。自らの家が「越智」という“面倒臭い苗字”であることから興味を持ち、その苗字に隠された謎の解明と、自らの先祖を探してみたいという思いから参加したツアーでしたが、やはり越智家は“面倒臭い名称”を持つなんとも不思議な、さりとて大いに誇りが持てる氏族である…ということを改めて再認識できた2日間でした。
さすがに2000年という越智氏族の途方もなく長い歴史を僅か2日間のツアーに参加しただけで完全に解明できる筈もなく、新たな謎が次から次へと出てきて、さらに謎が深まったというのが正直な感想です。ただ、解明に向けて大きな一歩を踏み出したのは確かなことで、今回のツアーに参加したことでヒントを幾つもいただけたので、これから時間をかけてそれらの謎を徐々に解明していけばいいって感じでいます。なにより、大まかにでも越智氏族の歴史が時系列として掴めたのは大きな成果でした。
そして、自らが乎致命(おちのみこと)から始まり、この東予地域一帯を支配した古代血縁集団「越智氏族」の末裔の一員であることに大きな誇りが持てました。解明するために2000年という途方もなく長い歴史の振り返りが必要で、さらには古事記や日本書記といった日本の古代神話にまで遡る必要がある“面倒臭い苗字”の家って、世の中にそうそうないですからね。さらに面白くなってきたって感じです。また、研究テーマが1つ増えました。それは今回のツアーに参加された皆さん全員が同じお気持ちなのではないでしょうか。
加えて、俗にいう“血の繋がり”というものを改めて実感した2日間でした。参加された皆さんは全員が「乎致命(おちのみこと)」を祖とする古代氏族の末裔ということで、すぐに近しい親戚のような雰囲気になっちゃいましたからね。まぁ~、越智氏族の一員である以上、古ぅ~~くには何らかの血縁関係があるのは間違いないことでしょうから、親戚ではあるのですが…。こんな文字通りアットホームな雰囲気のツアーって、これまで経験のないものでした。
それは私一人だけが感じたものではなかったようです。私と同じく埼玉県から参加した若い女性は、翌日仕事があるからと大三島ICのところにある高速バスの停留所のところで1人先に観光バスを降り、高速バスで福山に出て、新幹線で埼玉に帰ったのですが、随分と名残惜しそうでした。目には涙さえ浮かべて…(あっ、汗かも)。彼女とは「越智の会 関東支部」を作ろうという話で大いに盛り上がっちゃいましたので、私の家族を含め、長いお付き合いができればいいな…と思っています。もちろん、今回ご一緒した皆さん全員とも。加えて、この輪をもっともっと広げていければ…とも思っています。「越智の謎」はあまりにも深すぎて、その解明はとても私一人ではできそうもありませんから。
皆さんもご自身のルーツに興味を持たれて、調べてみられてはいかがでしょう。今年の3月までNHK総合テレビジョンで放送された『ファミリーヒストリー』という番組がありました。また、4月からはその後継番組である古舘伊知郎さん司会の『人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!』も始まりました。自分の苗字に興味を持って、その謎に迫ることはブームになりつつあるように思えます。
『人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!』公式HP
このツアーを企画していただいたtsunaguプロジェクトの大橋理事長と宮根事務局長に改めて感謝いたします。
それにしても、大山祇神社で遭遇した幾つもの“逆”の謎が大いに気になります。大山祇神の謎を解くキーワードが“逆”ってことのようです。
なお、この『全国の越智さん大集合!』の様子は、地元愛媛県のローカル民放局・テレビ愛媛の4月17日(月)の夕方のニュースの中で約3分に渡って取り上げられ、私もインタビューで2回も登場しました。
……(追記編)に続きます。
元亨2年(1322年)といえば、河野通有率いる伊予の水軍衆が大活躍した元寇の「弘安の役」が1281年のことですので、それから41年後。元寇は外国からの侵略を防ぐための防衛戦争だったため、勝利したと言っても、単純に敵を追い払っただけのことで、新たに領土が増えたわけでもありません。被害の大きさに加えて、活躍した武家(御家人)達もその活躍に見合った恩賞が与えられず、世の中全体に不満が満ち溢れていた頃です。そもそも、元寇の時、御家人たちは鎌倉幕府(北条執権家)の命令に従って戦いましたが、戦の準備を各自で行ったため、多くの御家人が商人に土地を質入れして金を借り、その金で武具を揃えたりしたわけです。ところが、元寇の恩賞は出ず、借りた金も返せないため、土地も戻ってきません。まさに御家人諸君たちには踏んだり蹴ったりということになってしまいました。これでは各地で治安が悪化し、世の中は荒廃するだけ荒廃していただろうと容易に想像できます。
ここでかの有名な後醍醐天皇が即位します。文保2年(1318年)のことです。後醍醐天皇は政治意欲旺盛な天皇で、即位後、さっそく院政を廃止し、かつて朝廷にあった記録書という役所を再興して、民の訴えを聞きながら自ら政治をみました。天皇は、「延喜・天暦の治」と呼ばれるかつての天皇親政の時代を理想としていました。しかし、政権は鎌倉幕府が握っているため、なかなか思い通りにならないことも多く、かつ幕府の政治は明らかに間違ったものであったため、後醍醐天皇は、幕府討伐を企てます。これで発生したのが元亨4年(1324年)の「正中の変」と、元徳3年(1331年)の「元弘の変」です。後醍醐天皇は捕らえられていったん隠岐へ流されるのですが、その後、脱出。ついに元弘3年(1333年)、新田義貞が鎌倉を攻め落としたことで鎌倉幕府は滅亡。翌年の建武元年(1334年)、後醍醐天皇による「建武の新政」がスタートします。
また、弘安の役で大活躍して「河野氏中興の祖」と呼ばれている河野通有がなくなったのは元亨年間(1321年~1323年)。河野氏の系譜では応長元年(1311年)に死去したとされていますが、それから10年経た元亨元年(1321年)に六波羅探題から河野対馬前司(通有)に対して伊予の海上警備を命じる文書が出ているとする説もあり、この頃にはまだ健在であった可能性が高いとされています。いずれにせよ、かつての英雄も最晩年か亡くなった直後ですので、後継の座を巡って一族の間でなんらかの内紛が生じていたのではないか…と推測することもできます。
また、『古気候学』の世界で「1300年イベント」と呼ばれている事象があります。私は気象情報会社におりますので、1322年と聞いて、この「1300年イベント」のことが真っ先に頭に浮かびました。この「1300年イベント」とは、1300年を挟んで1250年から1350年までの約100年間の間に地球規模の大きな気候変動が起きて、世界各地に様々な社会的な変動をもたらしたことを指す古気候学における総称です。
1257年の5月から10月の間に起きたインドネシアのサマラス火山の大噴火と、1315年から5年間ほど繰り返し続いたニュージーランドのカハロア火山の大噴火という2つの巨大火山の噴火により、そこから吹き上げられた大量の火山灰によって、地球全体が覆われ、1315年から1317年にかけてヨーロッパで著しい気温低下とそれに伴う大飢饉が起きたと記録に残されています。ヨーロッパ北部では大規模な飢饉が起き、特に1315年から1317年の大飢饉や黒死病(ペスト)の大流行により人口が激減。それまでの数百年間に渡るヨーロッパの繁栄と成長に急激に歯止めがかかり、それがヨーロッパから全世界にかけて起こる様々な激動に繋がりました。人口の減少とともに各地で社会不安と地域的騒乱が発生し、フランスやイングランドでは、大規模な農民蜂起が起こるなど、都市や農村での民衆暴動や党派的抗争が頻発しました。
1200年代後半、第5代皇帝クビライに率いられてユーラシア大陸全土を征服し一大帝国を築き上げたモンゴル帝国も、クビライの死後、後継者争いから内部分裂が相次ぎ、徐々に帝国としての統制力を失っていったのですが、そのモンゴル帝国の安定にトドメを刺したのが、著しい気温低下という異常気象による大飢饉とペストの大流行をはじめとする疫病、さらには自然災害の続発でした。後継者争いから政権の分裂がさらに激しく行われるようになり、1351年に起こった“紅巾の乱”によって経済の中心地であった江南の地を失い、1368年、ついに紅巾党の首領の1人であった朱元璋のうち立てた明王朝によって中国の地を追われることになります。
この「1300年イベント」に関しては【晴れ時々ちょっと横道】の第8回に書いておりますので、そちらをお読みください。
『気候で読み解く日本の歴史』続編
元亨2年(1322年)とはまさにその真っ只中の年で、前年の元亨元年(1321年)には全国的な大飢饉が発生したという記録が残っています。大三島の大山祇神社の元亨2年(1322年)の兵火もそういう中で起きた出来事だったわけです。大山祇神社としてもどちらかと言うと詳細を隠しておきたい理由があったのかもしれません。なんと言っても大山祇神社の御祭神である大山祇神は日本総鎮守、そして“山の神”“海の神”、すなわち「自然を司る神」ってことですから。天変地異から人々を守ることがお仕事で、直接ではなくても天変地異に端を発した兵火で被害を受けたとは言いにくいところがあるでしょうからね。大山祇神にも詮索されたくない“大人の事情”ってものもあるでしょうから。誤解のないように言っておきますが、これはあくまでも私の勝手な推測です。
ここでtsunaguプロジェクトの大橋理事長から非常に興味深いお話を聞かせていただきました。
神社において神域と現世を隔てる結界の役割を持つのが注連縄(しめなわ)ですが、大山祇神社の注連縄は伊勢神宮や出雲大社など一般の神社とは縄を編む向きが反対だということのようなのです。注連縄は縄を編む向きにより、左綯え(ひだりなえ)と右綯え(みぎなえ)の2通りがあります。左綯えは時計回りに縄を編み、右綯えはその逆で藁束を星々が北極星を周るのと同じ回転方向(反時計回り)で螺旋状に撚り合わせて縄の形を作ります。よくよく見ると大山祇神社の注連縄は通常とは編む向きが“逆”の右綯え。ここでも“逆”が出てきます。左綯えは天上にある太陽の巡行で火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで太陽の巡行に逆行し水(女性)を表しているとされています。神社に祀られている神様には男性の神様(男神)と女性の神様(女神)がいて、縄を編む方向を使い分ける場合があるということらしいのですが、もしかして大山祇神は女神ってこと? 大山祇神がお亡くなりになった後のお姿(本地仏)を表した大通智勝仏のところでも、男神だと伝わっている大山祇神って、本当は女神だったのではないか…との疑問を持ったってことを書きましたが、いよいよ謎が深まってきました。
さらにさらに、神社の向きも通常の神社の“逆”だということのようなのです。通常、神社は朝陽が本殿と拝殿の前方方向から昇ってくるように配置するのがふつうなのですが、この大山祇神社はその“逆”で、本殿の背後から昇ってくるように配置されているのだとか。しかも、秋分の日と春分の日の年に2回だけ、本殿の真後ろから朝陽が昇り、その朝陽の光が本殿と拝殿と御神木である「乎知命御手植の楠」を結んだ線の上を通り、総門、そして大鳥居まで射すように配置されているのだそうです。へぇ~~~。そう言えば、確かに大山祇神社は東を背にして建っています。ここでも“逆”が出てきます。この日、大山祇神社では幾つもの“逆”に遭遇しました。この“逆”はいったい何を意味しているのでしょうか? 謎がさらに深まります。
【大山祇神社・宝物館】
ツアーの最後に大山祇神社の宝物館を見学しました。この宝物館には、日本に現存する「甲冑」で国宝と国の重要文化財に指定されている武具類の約4割が収蔵されています。中には武蔵坊弁慶が奉納したと伝わる薙刀(重要文化財)や、源義経が奉納した「赤糸威鎧」(国宝)、源頼朝が奉納した「紫綾威鎧」(国宝)など、誰しもが学校で一度は習ったことのあるような歴史上の重要人物や武将の奉納品が展示されています。護良親王が奉納した太刀である「牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵」(国宝)や、平重盛が奉納した「螺鈿飾太刀」(重要文化財)、山中鹿之助が奉納した大太刀(重要文化財)、武蔵坊弁慶が奉納したと伝わる薙刀などは迫力がありすぎて、「スゲェ~!」と溜め息が漏れるだけです。(写真は愛媛新聞社提供)
『瀬戸内のジャンヌ・ダルク』として有名な太祝安用の娘・鶴姫が着用したものと伝えられている「紺糸裾素懸威胴丸」(重要文化財)も展示されています。胸の部分がふっくらとしていて、反対にウェストの部分をキュッと絞ったその形状は、女性用らしい優美な姿で、明らかに女性用のものです。この胴丸は現存している日本で唯一の女性用胴丸と言われています。鶴姫はこの胴丸を着用して、船団の先頭に立ち、水軍の荒くれども達を指揮していたのでしょうか…。(写真は愛媛新聞社提供)
また、越智氏族、とりわけ今治市朝倉が本籍地である私にとって関係の深い歴史上の人物から奉納されたものも展示されています。それが斉明天皇(第37代天皇)が奉納したとされる「禽獣葡萄鏡」。これも国宝に認定されています。
この手の資料館の場合には、本物は大切にしまっておいて、模造品(レプリカ)が展示されていることがふつうですが、ここ大山祇神社の宝物館は全てが昔のままの「本物」の展示です。ちなみに、この大山祇神社の宝物館に奉納されている武具類は、単に戦勝祈願で奉納されたものではなく、その多くは戦勝御礼で戦いの後に奉納されたものだそうです。すなわち、実際に戦いで使用されたものばかりで、よく見ると、刀剣類には刀身に戦いの中でついたであろう刃こぼれがあるものもあります。おそらく血がついたまま奉納された武具類も多かったのではないでしょうか。考えてみれば、このような武士の命ともいうべき高価で重要なものをただ戦勝祈願の目的だけで気前よく神社に奉納するとは考えられず、戦いの後で、すなわち使った後で奉納したというのは理にかなっています。戦いに勝利した後でヘトヘトに疲れきっているのに、これら重いものを持って家に帰るというのも面倒臭いですしね。
とにかく、ここ大山祇神社は武具類や武将たちが好きな人にはたまらないお薦めスポットです。
【エピローグ】
楽しく、そして内容が極めて濃い2日間の『全国の越智さん大集合! 越智氏ゆかりの地を巡るツアー』が終わりました。自らの家が「越智」という“面倒臭い苗字”であることから興味を持ち、その苗字に隠された謎の解明と、自らの先祖を探してみたいという思いから参加したツアーでしたが、やはり越智家は“面倒臭い名称”を持つなんとも不思議な、さりとて大いに誇りが持てる氏族である…ということを改めて再認識できた2日間でした。
さすがに2000年という越智氏族の途方もなく長い歴史を僅か2日間のツアーに参加しただけで完全に解明できる筈もなく、新たな謎が次から次へと出てきて、さらに謎が深まったというのが正直な感想です。ただ、解明に向けて大きな一歩を踏み出したのは確かなことで、今回のツアーに参加したことでヒントを幾つもいただけたので、これから時間をかけてそれらの謎を徐々に解明していけばいいって感じでいます。なにより、大まかにでも越智氏族の歴史が時系列として掴めたのは大きな成果でした。
そして、自らが乎致命(おちのみこと)から始まり、この東予地域一帯を支配した古代血縁集団「越智氏族」の末裔の一員であることに大きな誇りが持てました。解明するために2000年という途方もなく長い歴史の振り返りが必要で、さらには古事記や日本書記といった日本の古代神話にまで遡る必要がある“面倒臭い苗字”の家って、世の中にそうそうないですからね。さらに面白くなってきたって感じです。また、研究テーマが1つ増えました。それは今回のツアーに参加された皆さん全員が同じお気持ちなのではないでしょうか。
加えて、俗にいう“血の繋がり”というものを改めて実感した2日間でした。参加された皆さんは全員が「乎致命(おちのみこと)」を祖とする古代氏族の末裔ということで、すぐに近しい親戚のような雰囲気になっちゃいましたからね。まぁ~、越智氏族の一員である以上、古ぅ~~くには何らかの血縁関係があるのは間違いないことでしょうから、親戚ではあるのですが…。こんな文字通りアットホームな雰囲気のツアーって、これまで経験のないものでした。
それは私一人だけが感じたものではなかったようです。私と同じく埼玉県から参加した若い女性は、翌日仕事があるからと大三島ICのところにある高速バスの停留所のところで1人先に観光バスを降り、高速バスで福山に出て、新幹線で埼玉に帰ったのですが、随分と名残惜しそうでした。目には涙さえ浮かべて…(あっ、汗かも)。彼女とは「越智の会 関東支部」を作ろうという話で大いに盛り上がっちゃいましたので、私の家族を含め、長いお付き合いができればいいな…と思っています。もちろん、今回ご一緒した皆さん全員とも。加えて、この輪をもっともっと広げていければ…とも思っています。「越智の謎」はあまりにも深すぎて、その解明はとても私一人ではできそうもありませんから。
皆さんもご自身のルーツに興味を持たれて、調べてみられてはいかがでしょう。今年の3月までNHK総合テレビジョンで放送された『ファミリーヒストリー』という番組がありました。また、4月からはその後継番組である古舘伊知郎さん司会の『人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!』も始まりました。自分の苗字に興味を持って、その謎に迫ることはブームになりつつあるように思えます。
『人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!』公式HP
このツアーを企画していただいたtsunaguプロジェクトの大橋理事長と宮根事務局長に改めて感謝いたします。
それにしても、大山祇神社で遭遇した幾つもの“逆”の謎が大いに気になります。大山祇神の謎を解くキーワードが“逆”ってことのようです。
なお、この『全国の越智さん大集合!』の様子は、地元愛媛県のローカル民放局・テレビ愛媛の4月17日(月)の夕方のニュースの中で約3分に渡って取り上げられ、私もインタビューで2回も登場しました。
……(追記編)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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