2017/07/05
中山道六十九次・街道歩き【第13回: 松井田(五料)→軽井沢】(その1)
5月27日(土)。中山道六十九次街道歩きの【第13回】はいよいよ中山道最大の難所と言われている碓氷峠を越えます。正直、これまでは京都・三条大橋まで…というよりも、まずは関東地方を抜けて碓氷峠を越えるところまで歩いてみようと思い、この碓氷峠越えを1つの目標にしてきたようなところがあります。その碓氷峠をついに越える時がやってきました。
さすがに首都圏から遠く離れてきたので、往復に要する時間がかかりすぎるため、今回のツアーからは1泊2日となります。今回はいつものさいたま新都心駅発のコースが満杯で、キャンセル待ちでも入れなかったので、東京・池袋駅西口発のコースに加えさせていただきました。どうもこの中山道街道歩き、埼玉県在住の方からの人気が高いようで、さいたま新都心駅発のコースは発売後すぐに満杯になる状態が続いています。なので、これまでの回ですっかり顔馴染みになった方の姿は見掛けませんが、まぁ~、それはそれで新鮮でいいです。
午前8時、池袋駅西口を出た観光バスは練馬ICで関越自動車道に入り、一路、北へ向かいます。私の『晴れ男伝説』はこの日も健在で、低気圧が日本列島の南岸を通過した影響で関東地方でも久し振りにまとまった雨が降った前日までの天気とは一転し、東京地方は朝から太陽が眩しく照り付け、青空が広がっています。こりゃあ暑い1日になりそうです。今回は碓氷峠という難所を越えるので、今回だけはどうしても晴れて欲しい…と願っていたのですが、その願いはどうにか天に通じたようです。よしっ!!
この日のスタートポイントは前回【第12回】でゴールだった五料です。目の前には奇怪な形をした妙義山の山容が間近に広がっています。東京は晴れていましたが、こちら群馬県と長野県の県境付近はまだ空には一面に雲がかかっています。でもまぁ~、低気圧が東の海上に抜けていったので、午後からは徐々に天気も回復して、晴れ間も覗いてくるでしょう。
前回【第12回】でも簡単にご紹介しましたが、五料は松井田宿と碓氷関所のちょうど中間地点にあたり、旧中山道を往来する大名や公家達の休息所として使われた間の宿(あいのしゅく)です。この日はこの五料を出発して碓氷の関所を通って坂本宿まで歩きます。坂本宿に到着後は安中市内のホテルに宿泊。翌日(5月28日)はいよいよ坂本宿から中山道最大の難所の1つ碓氷峠を越えて軽井沢宿 に至ります。
この日も関越自動車道、上信越自動車道は行楽シーズン真っ盛りということで混雑しており、スタートポイントの五料に到着した時には既に時計の針は午前11時を回っていました。
この日のスタートポイントは前回【第12回】のゴールだった五料の高札場跡です。五料は松井田宿と坂本宿の間の“間の宿(あいのしゅく)”だったところなのですが、享保元年(1801年)の記録によると家数は226軒もあり、それなりの街並みの集落だったようです。このうち68軒は農業・養蚕・猟師の合間に商売をしていたのだそうです。五料の特産品は多く、安中の北部からこのあたりにかけて点在する梅林から生産される上質な梅の実を使って生産される梅干しはその1つだったそうです。
その五料の高札場跡からJR信越本線の線路を「お東踏切」で渡った先に「五料の茶屋本陣」跡が復元されています。中山道の松井田宿と坂本宿の間には、碓氷の関所を控えて五料村と横川村の2箇所に茶屋本陣が設けられました。そのうちの五料村では、山を背にして東西に大きな茶屋本陣が2軒並んでおり、両家とも中島姓。西側が本家で「お西」、東側が分家で「お東」と地元の人から呼ばれていたのだそうです。両家の先祖は共に天文年間(1532年~1555年)に諏訪但馬守が松井田西城を築城した時の重臣・中島伊豆直賢だと伝えられていて、以来その両中島家が1年交代で五料の名主を務め、また、両家は1年交代で茶屋本陣を務めていたそうです。建物は文化3年(1808年)に一度大火で焼失した後、同年にわずか10ヶ月で再建されたものです。現在はどちらの建物も安中市に寄贈され、中山道が主要街道として大いに賑わった頃が偲ばれる貴重な歴史遺産として一般に公開されています。街道歩きに先立ち、まずは「五料の茶屋本陣」の見学を行いました。
「五料の茶屋本陣」の入り口は「お西」のほうにあります。ここで、五料の茶屋本陣の説明を受けました。説明していただいた女性はただの地元の観光ボランティアガイドさんではなくて、この五料茶屋本陣「お西」の娘さん。すなわち、この立派なお宅で生まれ育ったお方です。説明の中では「私が産まれたのは、この部屋です」…なぁ~んて言葉も出てきます。五料茶屋本陣「お西」と「お東」のことを知り尽くした方で、上品な口調の中に歴史に裏打ちされた名家の誇りと愛を感じます。素晴らしい!!
「お西」の建物の中は大きく3つに分けられ、一番西側が茶屋本陣としての区画で、大名や公家などが休息のために利用しました。表の間、次の間、上段の間に分かれており、上段の間からは北側にある池や山を眺めることができます。また、明治11年(1878年)9月には明治天皇の北陸東海御巡幸の際に御小休所となったので、その時に大々的に改修を行いました。上段の間には格調が高そうな豪華な床の間があります。茶屋とは言え、さすがに公家や参勤交代の大名が利用した本陣です。下々の庶民にはちょっと近づきがたいほどの豪華さがあります。
表の間、次の間といった建物の中央部分は村の名主としての仕事を行う区画で、北側と東側が住居としての個人的な空間でした。
五料の名主も務めた家らしく、入り口の広い玄関部分には、当時、農作業や養蚕業等で使用していた農機具等が無造作に展示されています。
左側は皇女和宮が徳川家に降嫁した際の行列の様子を描いた絵図、右側は明治天皇の北陸東海御巡幸の際の行列の様子を描いた絵図です。
2階は資料展示室となっていて、生活道具や古文書、またこのあたりの地域から出土した古代土器などの大変貴重な品々が展示されています。この檜の柱(桁)は文化3年(1808年)に大火で焼失した後、同年に再建された時のものです。わずか10ヶ月で再建したため、かなり荒削りな柱ですが、それがかえって言いようのない重厚な趣を呈しています。
碓氷の関所を通行するための「通行手形」です。
五料村の名主として消防の仕事もしていたので、火消しの纏も残っています。右側は消防用のポンプのようです。
その他、実に様々なものが展示されています。
これは、高札です。茶屋本陣の前の高札場に実際に掲げられていた高札のようです。
私的にはこういうものに好奇心がくすぐられます。昔のラジオや電話機です。これは江戸時代の物ではなく、昭和の初期に使われていたもののようです。右端の電話機は「3号磁石式黒電話機」と呼ばれるもので、自動式ではないのでダイヤルがありません。横に付いたハンドルで電話機に内蔵された発電機を回して相手(交換手など)を呼び出し、手動で接続してもらっていました。発電機の役割は相手側の電話機のベルを鳴らすだけなので、通話のためには別途電話局等から給電される電気を使用していました。私が日本電信電話公社(現在のNTT)に入社した前年(1977年)に全国ダイヤル即時化が完了したので、急激に姿を消していった電話機で、久方ぶりに「3号磁石式黒電話機」を見させていただきました。
真ん中のラジオは真空管を使ったラジオです。私が子供の頃はまだまだこの真空管式のラジオが全盛でした。
このあたりの地域から出土した古代土器や古代の刀剣等も展示されています。中にはこのあたりでは採れない黒曜石で出来た矢尻等の展示もあって、古く縄文時代の昔からこの中山道(当時は東山道)を通って人々の行き来とモノの交易が活発に行われていたことを示す証拠になっています。
これは第二次世界大戦時に大日本帝国海軍の主力戦闘機であった零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に搭載されていた「九九式二〇ミリ機関砲徹甲弾」の弾丸(実弾)です。説明書きによると、中部太平洋の某孤島に出征した松井田町出身の方が終戦時に秘かに袋の中に入れて持ち帰り、長らく想い出の品として文鎮として使用していたのですが、後世に記念の品として残してほしいと、この五料の茶屋本陣に寄贈したもののようです。ゼロ戦には1発当たっただけで敵戦闘機を撃墜することが可能であると言われた20ミリ機関砲の徹甲弾があったということは私も本で読んだ知識として知ってはいましたが、実物を見るのは初めてのことです。20ミリ機関砲ということは弾丸の直径が20ミリ(2cm)ということ。かなりぶっとい弾丸で、こりゃあ破壊力がありそうです。
こちらはアプト式で鉄道が敷設された信越本線の碓氷峠区間専用に日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が明治45年(1912年)にドイツのAEGおよびエスリンゲン社から輸入したアプト式直流用電気機関車10000形の絵です。この10000形電気機関車は日本国有鉄道が初めて導入した電気機関車で、その後、EC40形電気機関車と車両形式が改められました。現在、実機は軽井沢にある旧軽井沢駅舎記念館に静態保存されています。鉄道マニアとしては垂涎の絵です。
「お西」で実際に使われていた生活用品が幾つも展示されています。漆塗りのお櫃など、茶屋本陣で使われた道具らしく、どれも立派なものばかりです。
次に「お東」のほうを見学しました。「お東」は西南を正面として、間口13間半、奥行7間、総2階建、切妻造りで、「お西」とほぼ同じ構造になっています。茶屋本陣が東西二軒隣合わせで並び建ち、しかも昔ながらの形態を維持していることは全国的にも珍しい事例です。「お東」は明治天皇の御小休所になることがなかったので、江戸時代の様式を隅々まで残しています。
東本陣の東隣には杉木立があり、石畳みが敷かれた参道らしきものが信越本線の線路方向へ延びています。その杉木立の中に石塔や石祠が数基建っているのが見えます。その先に小さな鳥居が建っているので、線路が分断する前はこのあたり一帯の鎮守の神社として祀られていたんでしょうね、きっと。
「お東」の内部です。
「お東」も「お西」と同じような内部構造をしています。左側の写真の奥、右側の写真は“上段の間”です。
“上段の間”に掛軸が掛けられています。この書をしたためたのは初代群馬県令(県知事)を務めた楫取素彦(かとり もとひこ)です。平成27年(2015年)に放映されたNHK大河ドラマ『花燃ゆ』は井上真央さん演じる吉田松陰の末妹で久坂玄瑞の妻となる杉文(後の久坂美和→楫取美和)が主人公のドラマでしたが、その文が再婚する相手が大沢たかおさん演じる長州藩士・楫取素彦でした。凄い達筆です。
この立派な屏風絵は高崎藩士で高名な文化人だった矢島群芳(1798年~1869年)って方が描かれた『四季花鳥図』です。元々は上段の間の襖絵として飾られたものだそうです。
入り口を入ってすぐのところに風呂場があります。竹の簀の子(すのこ)の下が湯船になっています。随分と大きい湯船です。「お西」でも同じ位置に風呂場がありましたが、規模はこの「お東」の約半分の大きさでした。それにしても、入り口を入ってすぐのこんなところに風呂場を設けるなんて…。現代人には考えられないことですよね。
これは馬屋です。馬屋も入り口を入ってすぐのところにあります。2つ並んでいます(「お西」は1つ)。家の中に馬屋を設けるなんて…。それだけ馬が大事にされていたってことですね。そうそう、写真を撮るのを忘れてしまいましたが、馬屋の隣は台所になっていました。これも現代人には考えられないことですよね。
「お西」「お東」とも茶屋本陣であり、名主の役宅でもあり、そのうえ同年代に建てられた建物であるため、その大きさや構造もほぼ同じです。しかし、よく見ると微妙に幾つかの相違点があります。一番大きな相違点は、「お東」には表側中央に「村玄関」があるということです。この村玄関は村の名主の役宅としての玄関ということで、五料の村の人々はこちらの玄関を使って名主様を訪れていました。
「お東」の茶屋本陣としての玄関はこちらです。この玄関を上がると、すぐに式台(玄関の間)、次の間を経て、上段の間に行くことができます。なるほどぉ~。
漆喰壁の蔵もどこか上品です。
約30分間の見学の後、昼食。昼食は五料の先の横川名物の「おぎのやの峠の釜飯」!! やっぱ、碓氷峠を越えるとなると、この峠の釜飯は食べないといけません。鉄板の定番ですd(^_^o) 五料茶屋本陣さんのご厚意で、この日は茶屋本陣の敷地内でお弁当を食べてもいいということでしたので、私は「お西」の“縁側(?)”に腰掛けて、見事に掃き清められた美しい日本庭園を見ながら峠の釜飯をいただきました。茶屋本陣を利用できるのは大名や公家などのやんごとなき地位の方々に限られていたので、そういう方々がこうやってここに腰掛けてお弁当を食べたかどうかはわかりませんが、これはちょっとした贅沢というものです。
その至福の時を打ち破るようにピョー~ッという汽笛が鳴って、目の前をJR信越本線の下り電車が通り過ぎていきました。短い4両編成の211系直流近郊型電車で、終点の横川駅はまもなくです。かつては首都東京と日本海側の越前・越中・越後といった地方を結ぶ鉄道の大動脈であった国鉄の信越本線も、北陸新幹線(開業当初は長野新幹線)の開通と同時に横川駅と軽井沢駅の間の碓氷峠越えの区間が廃止され、現在は横川駅が終点となっています。
また、現在、その高崎駅~横川駅の区間を走っている211系直流近郊形電車は、昭和37年(1962年)から20年以上の長きにわたって製造されてきた111・113系と115系直流近郊型電車を置き換えることを目的に、昭和60年(1985年)にフルモデルチェンジして導入された軽量ステンレス製車体の電車で、全盛期には間に2階建グリーン車も組み込んだ10両や15両といった長大編成で東海道本線や宇都宮線(東北本線)、高崎線といった首都圏近郊区間で活躍したのですが、導入開始から既に30年以上が経過し、今やその地位を最新鋭のE231系やE233系直流近郊型電車に奪われ、4両の短い編成になって、このようなローカル線区間で第2のご奉公で頑張っています。ローカル線区間と言っても、この五料の茶屋本陣の前を通っているのは信越本線。複線で電化された堂々たる区間です。短い編成になったと言っても、似合います。
現在放映中の平成29年NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・井伊直虎(いい なおとら)は、初代の高崎藩主となった井伊直正の養母にあたるということは既に書いたとおりですが、その初代高崎藩主・井伊直正の嫡男の井伊直勝が分家して、慶長19年(1614年)、初代の上野安中藩主となりました。安中藩の藩主は井伊直勝の後、嫡男の直好が継いだのですが、その井伊直好が、その後、三河西尾藩主、さらには遠江掛川藩の藩主に移封されたので井伊家が藩主を務めたのは2代だけで、その後は水野家、堀田家、内藤家、板倉家…と目まぐるしく譜代大名で藩主が代わったのですが、安中藩下にあったこの五料の名主を務めていた茶屋本陣・中島家もその井伊家の家臣団の1人だったようです。武勇を誇った井伊家と言えば、“井伊の赤揃え”、戦場で目立つ赤い鎧兜が有名ですが、「お西」にはその赤揃えの鎧兜が伝わっているそうなので、運が良ければその“井伊の赤揃え”が見られるのかな…と思ったのですが、残念ながら、ただいまここに出張中でした。
昨年(平成28年)のNHK大河ドラマ『真田丸』で取り上げられた真田家が本拠とした信州小県(ちいさがた)はこれから街道歩きで通っていきますし、この旧中山道は、このところNHK大河ドラマづいているようです。
……(その2)に続きます。
さすがに首都圏から遠く離れてきたので、往復に要する時間がかかりすぎるため、今回のツアーからは1泊2日となります。今回はいつものさいたま新都心駅発のコースが満杯で、キャンセル待ちでも入れなかったので、東京・池袋駅西口発のコースに加えさせていただきました。どうもこの中山道街道歩き、埼玉県在住の方からの人気が高いようで、さいたま新都心駅発のコースは発売後すぐに満杯になる状態が続いています。なので、これまでの回ですっかり顔馴染みになった方の姿は見掛けませんが、まぁ~、それはそれで新鮮でいいです。
午前8時、池袋駅西口を出た観光バスは練馬ICで関越自動車道に入り、一路、北へ向かいます。私の『晴れ男伝説』はこの日も健在で、低気圧が日本列島の南岸を通過した影響で関東地方でも久し振りにまとまった雨が降った前日までの天気とは一転し、東京地方は朝から太陽が眩しく照り付け、青空が広がっています。こりゃあ暑い1日になりそうです。今回は碓氷峠という難所を越えるので、今回だけはどうしても晴れて欲しい…と願っていたのですが、その願いはどうにか天に通じたようです。よしっ!!
この日のスタートポイントは前回【第12回】でゴールだった五料です。目の前には奇怪な形をした妙義山の山容が間近に広がっています。東京は晴れていましたが、こちら群馬県と長野県の県境付近はまだ空には一面に雲がかかっています。でもまぁ~、低気圧が東の海上に抜けていったので、午後からは徐々に天気も回復して、晴れ間も覗いてくるでしょう。
前回【第12回】でも簡単にご紹介しましたが、五料は松井田宿と碓氷関所のちょうど中間地点にあたり、旧中山道を往来する大名や公家達の休息所として使われた間の宿(あいのしゅく)です。この日はこの五料を出発して碓氷の関所を通って坂本宿まで歩きます。坂本宿に到着後は安中市内のホテルに宿泊。翌日(5月28日)はいよいよ坂本宿から中山道最大の難所の1つ碓氷峠を越えて軽井沢宿 に至ります。
この日も関越自動車道、上信越自動車道は行楽シーズン真っ盛りということで混雑しており、スタートポイントの五料に到着した時には既に時計の針は午前11時を回っていました。
この日のスタートポイントは前回【第12回】のゴールだった五料の高札場跡です。五料は松井田宿と坂本宿の間の“間の宿(あいのしゅく)”だったところなのですが、享保元年(1801年)の記録によると家数は226軒もあり、それなりの街並みの集落だったようです。このうち68軒は農業・養蚕・猟師の合間に商売をしていたのだそうです。五料の特産品は多く、安中の北部からこのあたりにかけて点在する梅林から生産される上質な梅の実を使って生産される梅干しはその1つだったそうです。
その五料の高札場跡からJR信越本線の線路を「お東踏切」で渡った先に「五料の茶屋本陣」跡が復元されています。中山道の松井田宿と坂本宿の間には、碓氷の関所を控えて五料村と横川村の2箇所に茶屋本陣が設けられました。そのうちの五料村では、山を背にして東西に大きな茶屋本陣が2軒並んでおり、両家とも中島姓。西側が本家で「お西」、東側が分家で「お東」と地元の人から呼ばれていたのだそうです。両家の先祖は共に天文年間(1532年~1555年)に諏訪但馬守が松井田西城を築城した時の重臣・中島伊豆直賢だと伝えられていて、以来その両中島家が1年交代で五料の名主を務め、また、両家は1年交代で茶屋本陣を務めていたそうです。建物は文化3年(1808年)に一度大火で焼失した後、同年にわずか10ヶ月で再建されたものです。現在はどちらの建物も安中市に寄贈され、中山道が主要街道として大いに賑わった頃が偲ばれる貴重な歴史遺産として一般に公開されています。街道歩きに先立ち、まずは「五料の茶屋本陣」の見学を行いました。
「五料の茶屋本陣」の入り口は「お西」のほうにあります。ここで、五料の茶屋本陣の説明を受けました。説明していただいた女性はただの地元の観光ボランティアガイドさんではなくて、この五料茶屋本陣「お西」の娘さん。すなわち、この立派なお宅で生まれ育ったお方です。説明の中では「私が産まれたのは、この部屋です」…なぁ~んて言葉も出てきます。五料茶屋本陣「お西」と「お東」のことを知り尽くした方で、上品な口調の中に歴史に裏打ちされた名家の誇りと愛を感じます。素晴らしい!!
「お西」の建物の中は大きく3つに分けられ、一番西側が茶屋本陣としての区画で、大名や公家などが休息のために利用しました。表の間、次の間、上段の間に分かれており、上段の間からは北側にある池や山を眺めることができます。また、明治11年(1878年)9月には明治天皇の北陸東海御巡幸の際に御小休所となったので、その時に大々的に改修を行いました。上段の間には格調が高そうな豪華な床の間があります。茶屋とは言え、さすがに公家や参勤交代の大名が利用した本陣です。下々の庶民にはちょっと近づきがたいほどの豪華さがあります。
表の間、次の間といった建物の中央部分は村の名主としての仕事を行う区画で、北側と東側が住居としての個人的な空間でした。
五料の名主も務めた家らしく、入り口の広い玄関部分には、当時、農作業や養蚕業等で使用していた農機具等が無造作に展示されています。
左側は皇女和宮が徳川家に降嫁した際の行列の様子を描いた絵図、右側は明治天皇の北陸東海御巡幸の際の行列の様子を描いた絵図です。
2階は資料展示室となっていて、生活道具や古文書、またこのあたりの地域から出土した古代土器などの大変貴重な品々が展示されています。この檜の柱(桁)は文化3年(1808年)に大火で焼失した後、同年に再建された時のものです。わずか10ヶ月で再建したため、かなり荒削りな柱ですが、それがかえって言いようのない重厚な趣を呈しています。
碓氷の関所を通行するための「通行手形」です。
五料村の名主として消防の仕事もしていたので、火消しの纏も残っています。右側は消防用のポンプのようです。
その他、実に様々なものが展示されています。
これは、高札です。茶屋本陣の前の高札場に実際に掲げられていた高札のようです。
私的にはこういうものに好奇心がくすぐられます。昔のラジオや電話機です。これは江戸時代の物ではなく、昭和の初期に使われていたもののようです。右端の電話機は「3号磁石式黒電話機」と呼ばれるもので、自動式ではないのでダイヤルがありません。横に付いたハンドルで電話機に内蔵された発電機を回して相手(交換手など)を呼び出し、手動で接続してもらっていました。発電機の役割は相手側の電話機のベルを鳴らすだけなので、通話のためには別途電話局等から給電される電気を使用していました。私が日本電信電話公社(現在のNTT)に入社した前年(1977年)に全国ダイヤル即時化が完了したので、急激に姿を消していった電話機で、久方ぶりに「3号磁石式黒電話機」を見させていただきました。
真ん中のラジオは真空管を使ったラジオです。私が子供の頃はまだまだこの真空管式のラジオが全盛でした。
このあたりの地域から出土した古代土器や古代の刀剣等も展示されています。中にはこのあたりでは採れない黒曜石で出来た矢尻等の展示もあって、古く縄文時代の昔からこの中山道(当時は東山道)を通って人々の行き来とモノの交易が活発に行われていたことを示す証拠になっています。
これは第二次世界大戦時に大日本帝国海軍の主力戦闘機であった零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に搭載されていた「九九式二〇ミリ機関砲徹甲弾」の弾丸(実弾)です。説明書きによると、中部太平洋の某孤島に出征した松井田町出身の方が終戦時に秘かに袋の中に入れて持ち帰り、長らく想い出の品として文鎮として使用していたのですが、後世に記念の品として残してほしいと、この五料の茶屋本陣に寄贈したもののようです。ゼロ戦には1発当たっただけで敵戦闘機を撃墜することが可能であると言われた20ミリ機関砲の徹甲弾があったということは私も本で読んだ知識として知ってはいましたが、実物を見るのは初めてのことです。20ミリ機関砲ということは弾丸の直径が20ミリ(2cm)ということ。かなりぶっとい弾丸で、こりゃあ破壊力がありそうです。
こちらはアプト式で鉄道が敷設された信越本線の碓氷峠区間専用に日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が明治45年(1912年)にドイツのAEGおよびエスリンゲン社から輸入したアプト式直流用電気機関車10000形の絵です。この10000形電気機関車は日本国有鉄道が初めて導入した電気機関車で、その後、EC40形電気機関車と車両形式が改められました。現在、実機は軽井沢にある旧軽井沢駅舎記念館に静態保存されています。鉄道マニアとしては垂涎の絵です。
「お西」で実際に使われていた生活用品が幾つも展示されています。漆塗りのお櫃など、茶屋本陣で使われた道具らしく、どれも立派なものばかりです。
次に「お東」のほうを見学しました。「お東」は西南を正面として、間口13間半、奥行7間、総2階建、切妻造りで、「お西」とほぼ同じ構造になっています。茶屋本陣が東西二軒隣合わせで並び建ち、しかも昔ながらの形態を維持していることは全国的にも珍しい事例です。「お東」は明治天皇の御小休所になることがなかったので、江戸時代の様式を隅々まで残しています。
東本陣の東隣には杉木立があり、石畳みが敷かれた参道らしきものが信越本線の線路方向へ延びています。その杉木立の中に石塔や石祠が数基建っているのが見えます。その先に小さな鳥居が建っているので、線路が分断する前はこのあたり一帯の鎮守の神社として祀られていたんでしょうね、きっと。
「お東」の内部です。
「お東」も「お西」と同じような内部構造をしています。左側の写真の奥、右側の写真は“上段の間”です。
“上段の間”に掛軸が掛けられています。この書をしたためたのは初代群馬県令(県知事)を務めた楫取素彦(かとり もとひこ)です。平成27年(2015年)に放映されたNHK大河ドラマ『花燃ゆ』は井上真央さん演じる吉田松陰の末妹で久坂玄瑞の妻となる杉文(後の久坂美和→楫取美和)が主人公のドラマでしたが、その文が再婚する相手が大沢たかおさん演じる長州藩士・楫取素彦でした。凄い達筆です。
この立派な屏風絵は高崎藩士で高名な文化人だった矢島群芳(1798年~1869年)って方が描かれた『四季花鳥図』です。元々は上段の間の襖絵として飾られたものだそうです。
入り口を入ってすぐのところに風呂場があります。竹の簀の子(すのこ)の下が湯船になっています。随分と大きい湯船です。「お西」でも同じ位置に風呂場がありましたが、規模はこの「お東」の約半分の大きさでした。それにしても、入り口を入ってすぐのこんなところに風呂場を設けるなんて…。現代人には考えられないことですよね。
これは馬屋です。馬屋も入り口を入ってすぐのところにあります。2つ並んでいます(「お西」は1つ)。家の中に馬屋を設けるなんて…。それだけ馬が大事にされていたってことですね。そうそう、写真を撮るのを忘れてしまいましたが、馬屋の隣は台所になっていました。これも現代人には考えられないことですよね。
「お西」「お東」とも茶屋本陣であり、名主の役宅でもあり、そのうえ同年代に建てられた建物であるため、その大きさや構造もほぼ同じです。しかし、よく見ると微妙に幾つかの相違点があります。一番大きな相違点は、「お東」には表側中央に「村玄関」があるということです。この村玄関は村の名主の役宅としての玄関ということで、五料の村の人々はこちらの玄関を使って名主様を訪れていました。
「お東」の茶屋本陣としての玄関はこちらです。この玄関を上がると、すぐに式台(玄関の間)、次の間を経て、上段の間に行くことができます。なるほどぉ~。
漆喰壁の蔵もどこか上品です。
約30分間の見学の後、昼食。昼食は五料の先の横川名物の「おぎのやの峠の釜飯」!! やっぱ、碓氷峠を越えるとなると、この峠の釜飯は食べないといけません。鉄板の定番ですd(^_^o) 五料茶屋本陣さんのご厚意で、この日は茶屋本陣の敷地内でお弁当を食べてもいいということでしたので、私は「お西」の“縁側(?)”に腰掛けて、見事に掃き清められた美しい日本庭園を見ながら峠の釜飯をいただきました。茶屋本陣を利用できるのは大名や公家などのやんごとなき地位の方々に限られていたので、そういう方々がこうやってここに腰掛けてお弁当を食べたかどうかはわかりませんが、これはちょっとした贅沢というものです。
その至福の時を打ち破るようにピョー~ッという汽笛が鳴って、目の前をJR信越本線の下り電車が通り過ぎていきました。短い4両編成の211系直流近郊型電車で、終点の横川駅はまもなくです。かつては首都東京と日本海側の越前・越中・越後といった地方を結ぶ鉄道の大動脈であった国鉄の信越本線も、北陸新幹線(開業当初は長野新幹線)の開通と同時に横川駅と軽井沢駅の間の碓氷峠越えの区間が廃止され、現在は横川駅が終点となっています。
また、現在、その高崎駅~横川駅の区間を走っている211系直流近郊形電車は、昭和37年(1962年)から20年以上の長きにわたって製造されてきた111・113系と115系直流近郊型電車を置き換えることを目的に、昭和60年(1985年)にフルモデルチェンジして導入された軽量ステンレス製車体の電車で、全盛期には間に2階建グリーン車も組み込んだ10両や15両といった長大編成で東海道本線や宇都宮線(東北本線)、高崎線といった首都圏近郊区間で活躍したのですが、導入開始から既に30年以上が経過し、今やその地位を最新鋭のE231系やE233系直流近郊型電車に奪われ、4両の短い編成になって、このようなローカル線区間で第2のご奉公で頑張っています。ローカル線区間と言っても、この五料の茶屋本陣の前を通っているのは信越本線。複線で電化された堂々たる区間です。短い編成になったと言っても、似合います。
現在放映中の平成29年NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・井伊直虎(いい なおとら)は、初代の高崎藩主となった井伊直正の養母にあたるということは既に書いたとおりですが、その初代高崎藩主・井伊直正の嫡男の井伊直勝が分家して、慶長19年(1614年)、初代の上野安中藩主となりました。安中藩の藩主は井伊直勝の後、嫡男の直好が継いだのですが、その井伊直好が、その後、三河西尾藩主、さらには遠江掛川藩の藩主に移封されたので井伊家が藩主を務めたのは2代だけで、その後は水野家、堀田家、内藤家、板倉家…と目まぐるしく譜代大名で藩主が代わったのですが、安中藩下にあったこの五料の名主を務めていた茶屋本陣・中島家もその井伊家の家臣団の1人だったようです。武勇を誇った井伊家と言えば、“井伊の赤揃え”、戦場で目立つ赤い鎧兜が有名ですが、「お西」にはその赤揃えの鎧兜が伝わっているそうなので、運が良ければその“井伊の赤揃え”が見られるのかな…と思ったのですが、残念ながら、ただいまここに出張中でした。
昨年(平成28年)のNHK大河ドラマ『真田丸』で取り上げられた真田家が本拠とした信州小県(ちいさがた)はこれから街道歩きで通っていきますし、この旧中山道は、このところNHK大河ドラマづいているようです。
……(その2)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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