2017/07/26
中山道六十九次・街道歩き【第13回: 松井田(五料)→軽井沢】(その10)
一つ家跡から数分歩くと「陣馬が原」と呼ばれる古戦場跡に到着します。古くは、太平記に新田方と足利方の合戦がこの場所で行われたと記されおり、また戦国時代になると武田方と上杉方の合戦が行われた場所でもあります。こんな狭いところなのにねぇ~。古代から、旅人以外にも多くの兵士が行き交い、戦ったこの道なのですが、今は街道を旅する一部のマニアだけが通る道となってしまっています。
また、このあたりは子持山(こもちやま、山頂の標高1,107メートル)の頂上付近にあたります。
陣馬が原で道は「追分」になっていて、道は二手に分かれます。真っ直ぐ行く道は、幕末、皇女和宮が降嫁する際に造られた「和宮道」で、比較的広く安全な道になっています。本来の旧中山道は看板の出ている場所を左の林の中に入って行く細い道のほうです。当然そちらの道を進んで行くのですが、落ち葉が敷き詰められた平坦な道で、これまで来た道に比べるとそんなに難しい道ではありません。ちなみに、Y字に分岐する陣馬が原の追分を真っ直ぐ進む「和宮道」の道幅があれば、十分バスは走行することができます。おそらくあの廃バスは和宮道のほうを行ったのではないでしょうか??
そうそう、「安政遠足マラソン」は和宮道のほうを使って、碓氷峠頂上にある熊野神社を目指すのだそうです。ここから先の区間だけが、旧中山道とは違ったコースになっているのだそうです。
陣馬が原で私達と同じような格好をした20名ばかりの団体さんを追い越しました。聞くと早朝に東京都杉並区を出てやってきた団体さんで、坂本宿から軽井沢宿を目指しているのだそうです。この陣馬が原で休憩して、お弁当を召し上がっていました。
左側の細い道を進みます。この道が旧中山道なのか…と思うのですが、ちゃんと「中山道」の案内表示が出ています。
まもなくチョロチョロと流れる小川が道を横切っているところに出ますが、ここが「化粧水跡」といわれる場所です。峠を登る人々が一息入れ、水に映った己の姿を整えたと言われる水場です。
さらに先に進みます。
その先に人馬の労をねぎらう休憩所だった「人馬施行所跡」があります。谷沿いの崖に案内板が立っています。その案内板によると、この「人馬施行所」は、文政11年(1828年)、江戸呉服橋の与兵衛という商人が安中藩から間口17間,奥行き20間の土地を借りて、この笹沢の清流が流れるほとりに人馬が休める休憩所を造ったところなのだそうです。“施行”という文字からすると、ここでボランティアで人と馬が休める施設を運営していたということなのでしょうね。先ほどの「山中茶屋跡」とは違い、主として旅費の乏しい旅人のための茶屋だったようです。 江戸呉服橋の与兵衛という人物は、きっとここ中山道を通ってやってくる各地の名産品を販売して、たいそうな財をなした人だったんでしょうね。たぶん、現代でいうところの、企業のCSR(corporate social responsibility:企業が倫理的観点から事業活動を通じて、自主的に社会に貢献する責任)活動ってやつですね。
人馬施行所跡の左側を下ったところに笹沢という細い川が流れているのですが、この笹沢には橋がなく、飛び石伝いにトントンと渡っていきます。この日はこれで渡れましたが、大雨の時にはここを渡れるかどうか分かりません。
笹沢を渡ると、熊笹の中の人一人がやっと通れるほどの細い急勾配の道をジグザグに登っていきます。なるほど、それで先ほど渡った細い川は“笹沢”と呼ばれているのですね。ここが「長坂」と呼ばれる急斜面の坂です。なるほど、「和宮道」はこの急坂を避けるために設けられたのですね。納得です。山肌を巻くように長坂をドンドン(ただ黙々と)登ります。ここまで登ってきて疲れた身体には結構キツい登り坂が30分ほど続きます。まもなく碓氷峠のサミット(頂)なので、最後の“胸突き八丁”という感じです。ウォーキングリーダーさんからも「峠までもうちょっとです。頑張って!」という激励の声がかかります。
熊笹が生い茂る区間を過ぎても、旧中山道は急な登り坂が続き、大汗をかいてしまいます。
ここでマウンテンバイクを駆って狭い悪路の長坂を下ってくる若い女性とすれ違いました。今日、2台目のマウンテンバイクです。マウンテンバイクの愛好者にとっては、この碓氷峠の坂はいつかは征服してみたい聖地のようなところなのかもしれません。それにしても、あの座頭ころがしの急斜面や、柱状節理から崩れた岩がゴロゴロしている刎石坂の急斜面をマウンテンバイクに乗って下っていくのでしょうか。十分に気を付けて…と声を掛けて送り出しました。
足許もかなり悪い山道の連続です。あのマウンテンバイクの女性は、この道を通ってきたのですね。凄すぎます。
長坂を登りきり、ようやく平坦になったところに「長坂道」の案内板が立っています。案内板には「中山道をしのぶ古いみちである」と記されています。
今、気がつきましたが、碓氷峠の行く先々にある案内板は、どうも京から江戸方向へ向かう旅人への案内という印象です。「座頭ころがし」も「一里塚」もそうでしたが、坂本宿から登ってくると、そこを通り過ぎた後に、その案内板が設けられているようです。
先ほど座頭ころがし(釜場)の急坂の手前の堀切跡のところで、戦国時代後期に豊臣秀吉の軍勢が小田原の後北条氏を攻めた際、碓氷峠の麓の松井田に城を構え、中山道経由で進軍してくる豊臣勢を迎え撃つ後北条家の重臣・大道寺政繁との間でこの碓氷峠の山中でも激しい戦闘が繰り広げられたということを書きました。その際に、豊臣軍が布陣したとされる山城の跡が、碓氷峠の熊野神社から東へ約250メートルのところの旧中山道沿いで発見されたというニュースを、先日、目にしました。碓氷峠の熊野神社から東へ約250メートルというと、特定こそできませんが、まさにこのあたりですね。
山城は長さ約200メートル、幅約100メートルの楕円状で、遺構の残存状態は良く、最高部の高さ約5メートルの“土塁”や、平均で幅約7メートル、深さ約3メートルの“空堀”が残っているのだそうです。空堀などに囲まれた平地の“郭”には、出入り口を土塁で守る“枡形(ますがた)虎口”という遺構もあるのだそうです。城に登ってきた敵兵が斜面で横へ移動するのを防ぐ“竪堀”が6本も確認され、松井田城攻略のための一時的な軍事拠点であったにもかかわらず、なかなか本格的なものだったようです。それにしても、この時代の我が国の土木建築技術は現代人が想像する以上に進んでいたようです。まぁ~、大河である荒川だって利根川だって、流れを付け替えちゃうくらいですからね。
この山城に昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』で話題となった真田昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)、上杉景勝、前田利家といった武将達が布陣したわけですね。様々な旗指物が立ち並ぶその山城の光景が思い浮かびます。残念ながら、その豊臣勢の山城があったとされる場所までは分かりませんでした。
心臓の鼓動が速くなり、大汗をかいてそろそろ休憩がしたいなぁ~と思ったちょうどその頃に「熊野神社」の標識が見えてきてホッとしました。
平坦になった道を100メートルほど歩くと、この長坂の急斜面の坂を避けて大きく迂回してきた和宮道との合流点(追分)に到着します。ここまで来ると、もう碓氷峠の頂上にある熊野神社はすぐそこです。
右から来た和宮道と合流した場所に、明治維新で廃棄された神宮寺の「仁王門跡碑」や小さな祠などの「石塔群」が散在しています。仁王門は元々は熊野神社の神宮寺の入口にあったもので、明治元年(1868年)に明治新政府から出された神仏判然令により神宮寺は廃寺となり、その時に仁王門も廃棄されてしまいました。仁王様自体は今も熊野神社の神楽殿に保存されているそうです。
熊野神社への標識の所を右折します。和宮道との合流点の付近には「思婦石」が建っています。この「思婦石」、別名を「日本武尊をしのぶ歌碑」とも言われており、群馬郡室田の国学者・関橋守の作で安政4年(1857年)に建立された歌碑です。歌碑は「日本武尊」の故事を詠ったものだそうです。
「ありし代に かえりみしてふ碓氷山 今も恋しき 吾妻路の空」
「仁王門跡」や「思婦石」の傍らに鼻曲山への道標があります。何やら登山道があるらしいのですが、「鼻曲山」ですか…。どんなに臭い山なのでしょうか? (ちなみに鼻曲山とは浅間高原の東辺を区切って、南北に延びている尾根上の一峰で山頂の標高は1,654メートル。その山容が曲がった鼻によく似ていることから“鼻曲山”と呼ばれているのだそうです。)
和宮道と旧中山道の間の坂道を下ると、数字が並んだ「一つ家の歌碑」が建っているのだそうです。この碑は復元されたものだそうですが、元の碑はあの武蔵坊弁慶が爪で書いたのだそうです。
「八万三千八三六九三三四四 一八二四五十二四六百々億四百」
「やまみちは さむく さみしし ひとつやに よごとにしろくも もよおくしも (山道は 寒く 寂しし 一つ屋に 夜ごとに白雲 もよおくしも)」
旧中山道沿いの茶店しげの屋の駐車場奥にも、数字が並んだ「みくにふみの碑」が建てられているのだそうです。こちらは、
「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十」
「よしやよし なにはおくとも みくにふみ よくぞ よままし ふみ よまむひと (よしやよし 何は置くとも み国書 よくぞ読ままし 書読まむ人)」
もう暗号ですね。残念ながら、どちらもウォーキングリーダーさんから話を聞いただけで、団体行動ゆえ、見に行くことまではできませんでした。熊野神社まではもう一息ですから。
「熊出没注意!」の立て看板があります。まもなく熊野神社に着こうとするここで注意を呼び掛けますか?! それにしても、冗談ではなく、ここまで登ってきた区間は、熊も出てきそうな山の中の道でした。そう言えば、ここまでの途中で熊除けの鈴を鳴らしながら軽井沢方向から歩いてくる団体さんと何組かすれ違いました。といっても熊が突然出てきたらどう注意したらいいんでしょうねぇ~。やはり1人で中山道を歩くのは危険だということですね。ちなみに、私達は絶えずワイワイとお喋りをしながらここまで登ってきたので、熊除けの鈴は不要だったようです。
碓氷川の水源地を左眼下に見ながら、いよいよ中山道碓氷峠の頂上に到着しました。ここが本当の碓氷峠です。登山口から登り始めて約4時間。中山道最大の難所と呼ばれるに相応しい厳しい登り坂でした。名物「力餅」を売る茶屋が数軒並んでいます。右手前方には「安政遠足」のゴールでもある熊野神社。ここは群馬県と長野県の県境にあたり、茶屋の前には「上信国境碑」が建てられています。ここは上野(こうずけ)国・上州と信濃国・信州の国境。ここからは信州・長野県に入ります。また、ここは中央分水嶺となっていて、「日本分水嶺」の看板も出ています。ここに降る雨水は日本海側と太平洋側の異なる方向に流れる境界点でもあります。ついに、ついに関東地方を抜けました。本当に長かったです。
これまでの舗装されていない細い道とは一変して、碓氷峠の頂上は道路が舗装されている上に道幅も広く、乗用車がいっぱい走っています。赤い小洒落た車体の大型車がやって来ました。軽井沢駅前からこの碓氷峠の頂上を結ぶ定期路線バスのようです。日本有数の観光地である軽井沢を走る路線バスなので、レジャー気分を打ち出すためにちょっとレトロな感じのボンネットバスを使っています。これまで緑色とコゲ茶色、そして空の青色が主体の景色の中にいたので、このバスの車体の真紅はやたらと眩しい感じがします(>_<)。これまでとはまるで別世界って感じですから。ちょっと面喰らうところも正直あります。
茶屋の1つ「碓氷山荘」というお店に入り、昼食のお弁当をいただきました。お弁当には碓氷峠名物の「力餅」が入っていて、それもいただきました。1口サイズの餡子(あんこ)味で、他に“きなこ”や“ごま”の餅もあるのだそうです。疲れた身体には、まずは糖分補給! 甘い餡子の「力餅」は嬉しかったです。
……(その11)に続きます。
また、このあたりは子持山(こもちやま、山頂の標高1,107メートル)の頂上付近にあたります。
陣馬が原で道は「追分」になっていて、道は二手に分かれます。真っ直ぐ行く道は、幕末、皇女和宮が降嫁する際に造られた「和宮道」で、比較的広く安全な道になっています。本来の旧中山道は看板の出ている場所を左の林の中に入って行く細い道のほうです。当然そちらの道を進んで行くのですが、落ち葉が敷き詰められた平坦な道で、これまで来た道に比べるとそんなに難しい道ではありません。ちなみに、Y字に分岐する陣馬が原の追分を真っ直ぐ進む「和宮道」の道幅があれば、十分バスは走行することができます。おそらくあの廃バスは和宮道のほうを行ったのではないでしょうか??
そうそう、「安政遠足マラソン」は和宮道のほうを使って、碓氷峠頂上にある熊野神社を目指すのだそうです。ここから先の区間だけが、旧中山道とは違ったコースになっているのだそうです。
陣馬が原で私達と同じような格好をした20名ばかりの団体さんを追い越しました。聞くと早朝に東京都杉並区を出てやってきた団体さんで、坂本宿から軽井沢宿を目指しているのだそうです。この陣馬が原で休憩して、お弁当を召し上がっていました。
左側の細い道を進みます。この道が旧中山道なのか…と思うのですが、ちゃんと「中山道」の案内表示が出ています。
まもなくチョロチョロと流れる小川が道を横切っているところに出ますが、ここが「化粧水跡」といわれる場所です。峠を登る人々が一息入れ、水に映った己の姿を整えたと言われる水場です。
さらに先に進みます。
その先に人馬の労をねぎらう休憩所だった「人馬施行所跡」があります。谷沿いの崖に案内板が立っています。その案内板によると、この「人馬施行所」は、文政11年(1828年)、江戸呉服橋の与兵衛という商人が安中藩から間口17間,奥行き20間の土地を借りて、この笹沢の清流が流れるほとりに人馬が休める休憩所を造ったところなのだそうです。“施行”という文字からすると、ここでボランティアで人と馬が休める施設を運営していたということなのでしょうね。先ほどの「山中茶屋跡」とは違い、主として旅費の乏しい旅人のための茶屋だったようです。 江戸呉服橋の与兵衛という人物は、きっとここ中山道を通ってやってくる各地の名産品を販売して、たいそうな財をなした人だったんでしょうね。たぶん、現代でいうところの、企業のCSR(corporate social responsibility:企業が倫理的観点から事業活動を通じて、自主的に社会に貢献する責任)活動ってやつですね。
人馬施行所跡の左側を下ったところに笹沢という細い川が流れているのですが、この笹沢には橋がなく、飛び石伝いにトントンと渡っていきます。この日はこれで渡れましたが、大雨の時にはここを渡れるかどうか分かりません。
笹沢を渡ると、熊笹の中の人一人がやっと通れるほどの細い急勾配の道をジグザグに登っていきます。なるほど、それで先ほど渡った細い川は“笹沢”と呼ばれているのですね。ここが「長坂」と呼ばれる急斜面の坂です。なるほど、「和宮道」はこの急坂を避けるために設けられたのですね。納得です。山肌を巻くように長坂をドンドン(ただ黙々と)登ります。ここまで登ってきて疲れた身体には結構キツい登り坂が30分ほど続きます。まもなく碓氷峠のサミット(頂)なので、最後の“胸突き八丁”という感じです。ウォーキングリーダーさんからも「峠までもうちょっとです。頑張って!」という激励の声がかかります。
熊笹が生い茂る区間を過ぎても、旧中山道は急な登り坂が続き、大汗をかいてしまいます。
ここでマウンテンバイクを駆って狭い悪路の長坂を下ってくる若い女性とすれ違いました。今日、2台目のマウンテンバイクです。マウンテンバイクの愛好者にとっては、この碓氷峠の坂はいつかは征服してみたい聖地のようなところなのかもしれません。それにしても、あの座頭ころがしの急斜面や、柱状節理から崩れた岩がゴロゴロしている刎石坂の急斜面をマウンテンバイクに乗って下っていくのでしょうか。十分に気を付けて…と声を掛けて送り出しました。
足許もかなり悪い山道の連続です。あのマウンテンバイクの女性は、この道を通ってきたのですね。凄すぎます。
長坂を登りきり、ようやく平坦になったところに「長坂道」の案内板が立っています。案内板には「中山道をしのぶ古いみちである」と記されています。
今、気がつきましたが、碓氷峠の行く先々にある案内板は、どうも京から江戸方向へ向かう旅人への案内という印象です。「座頭ころがし」も「一里塚」もそうでしたが、坂本宿から登ってくると、そこを通り過ぎた後に、その案内板が設けられているようです。
先ほど座頭ころがし(釜場)の急坂の手前の堀切跡のところで、戦国時代後期に豊臣秀吉の軍勢が小田原の後北条氏を攻めた際、碓氷峠の麓の松井田に城を構え、中山道経由で進軍してくる豊臣勢を迎え撃つ後北条家の重臣・大道寺政繁との間でこの碓氷峠の山中でも激しい戦闘が繰り広げられたということを書きました。その際に、豊臣軍が布陣したとされる山城の跡が、碓氷峠の熊野神社から東へ約250メートルのところの旧中山道沿いで発見されたというニュースを、先日、目にしました。碓氷峠の熊野神社から東へ約250メートルというと、特定こそできませんが、まさにこのあたりですね。
山城は長さ約200メートル、幅約100メートルの楕円状で、遺構の残存状態は良く、最高部の高さ約5メートルの“土塁”や、平均で幅約7メートル、深さ約3メートルの“空堀”が残っているのだそうです。空堀などに囲まれた平地の“郭”には、出入り口を土塁で守る“枡形(ますがた)虎口”という遺構もあるのだそうです。城に登ってきた敵兵が斜面で横へ移動するのを防ぐ“竪堀”が6本も確認され、松井田城攻略のための一時的な軍事拠点であったにもかかわらず、なかなか本格的なものだったようです。それにしても、この時代の我が国の土木建築技術は現代人が想像する以上に進んでいたようです。まぁ~、大河である荒川だって利根川だって、流れを付け替えちゃうくらいですからね。
この山城に昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』で話題となった真田昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)、上杉景勝、前田利家といった武将達が布陣したわけですね。様々な旗指物が立ち並ぶその山城の光景が思い浮かびます。残念ながら、その豊臣勢の山城があったとされる場所までは分かりませんでした。
心臓の鼓動が速くなり、大汗をかいてそろそろ休憩がしたいなぁ~と思ったちょうどその頃に「熊野神社」の標識が見えてきてホッとしました。
平坦になった道を100メートルほど歩くと、この長坂の急斜面の坂を避けて大きく迂回してきた和宮道との合流点(追分)に到着します。ここまで来ると、もう碓氷峠の頂上にある熊野神社はすぐそこです。
右から来た和宮道と合流した場所に、明治維新で廃棄された神宮寺の「仁王門跡碑」や小さな祠などの「石塔群」が散在しています。仁王門は元々は熊野神社の神宮寺の入口にあったもので、明治元年(1868年)に明治新政府から出された神仏判然令により神宮寺は廃寺となり、その時に仁王門も廃棄されてしまいました。仁王様自体は今も熊野神社の神楽殿に保存されているそうです。
熊野神社への標識の所を右折します。和宮道との合流点の付近には「思婦石」が建っています。この「思婦石」、別名を「日本武尊をしのぶ歌碑」とも言われており、群馬郡室田の国学者・関橋守の作で安政4年(1857年)に建立された歌碑です。歌碑は「日本武尊」の故事を詠ったものだそうです。
「仁王門跡」や「思婦石」の傍らに鼻曲山への道標があります。何やら登山道があるらしいのですが、「鼻曲山」ですか…。どんなに臭い山なのでしょうか? (ちなみに鼻曲山とは浅間高原の東辺を区切って、南北に延びている尾根上の一峰で山頂の標高は1,654メートル。その山容が曲がった鼻によく似ていることから“鼻曲山”と呼ばれているのだそうです。)
和宮道と旧中山道の間の坂道を下ると、数字が並んだ「一つ家の歌碑」が建っているのだそうです。この碑は復元されたものだそうですが、元の碑はあの武蔵坊弁慶が爪で書いたのだそうです。
「やまみちは さむく さみしし ひとつやに よごとにしろくも もよおくしも (山道は 寒く 寂しし 一つ屋に 夜ごとに白雲 もよおくしも)」
旧中山道沿いの茶店しげの屋の駐車場奥にも、数字が並んだ「みくにふみの碑」が建てられているのだそうです。こちらは、
「よしやよし なにはおくとも みくにふみ よくぞ よままし ふみ よまむひと (よしやよし 何は置くとも み国書 よくぞ読ままし 書読まむ人)」
もう暗号ですね。残念ながら、どちらもウォーキングリーダーさんから話を聞いただけで、団体行動ゆえ、見に行くことまではできませんでした。熊野神社まではもう一息ですから。
「熊出没注意!」の立て看板があります。まもなく熊野神社に着こうとするここで注意を呼び掛けますか?! それにしても、冗談ではなく、ここまで登ってきた区間は、熊も出てきそうな山の中の道でした。そう言えば、ここまでの途中で熊除けの鈴を鳴らしながら軽井沢方向から歩いてくる団体さんと何組かすれ違いました。といっても熊が突然出てきたらどう注意したらいいんでしょうねぇ~。やはり1人で中山道を歩くのは危険だということですね。ちなみに、私達は絶えずワイワイとお喋りをしながらここまで登ってきたので、熊除けの鈴は不要だったようです。
碓氷川の水源地を左眼下に見ながら、いよいよ中山道碓氷峠の頂上に到着しました。ここが本当の碓氷峠です。登山口から登り始めて約4時間。中山道最大の難所と呼ばれるに相応しい厳しい登り坂でした。名物「力餅」を売る茶屋が数軒並んでいます。右手前方には「安政遠足」のゴールでもある熊野神社。ここは群馬県と長野県の県境にあたり、茶屋の前には「上信国境碑」が建てられています。ここは上野(こうずけ)国・上州と信濃国・信州の国境。ここからは信州・長野県に入ります。また、ここは中央分水嶺となっていて、「日本分水嶺」の看板も出ています。ここに降る雨水は日本海側と太平洋側の異なる方向に流れる境界点でもあります。ついに、ついに関東地方を抜けました。本当に長かったです。
これまでの舗装されていない細い道とは一変して、碓氷峠の頂上は道路が舗装されている上に道幅も広く、乗用車がいっぱい走っています。赤い小洒落た車体の大型車がやって来ました。軽井沢駅前からこの碓氷峠の頂上を結ぶ定期路線バスのようです。日本有数の観光地である軽井沢を走る路線バスなので、レジャー気分を打ち出すためにちょっとレトロな感じのボンネットバスを使っています。これまで緑色とコゲ茶色、そして空の青色が主体の景色の中にいたので、このバスの車体の真紅はやたらと眩しい感じがします(>_<)。これまでとはまるで別世界って感じですから。ちょっと面喰らうところも正直あります。
茶屋の1つ「碓氷山荘」というお店に入り、昼食のお弁当をいただきました。お弁当には碓氷峠名物の「力餅」が入っていて、それもいただきました。1口サイズの餡子(あんこ)味で、他に“きなこ”や“ごま”の餅もあるのだそうです。疲れた身体には、まずは糖分補給! 甘い餡子の「力餅」は嬉しかったです。
……(その11)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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