2017/08/18
中山道六十九次・街道歩き【第14回: 軽井沢→塩名田】(その7)
風情のある田舎道を小田井宿を目指して進んでいきます。この微妙なカーブが旧街道の特徴ですね。
御代田町を抜けると佐久市小田井(おたい)に入ります。長野県道137号にぶつかる小田井上宿交差点のところが小田井宿の江戸方の下木戸の跡です。ここから小田井宿に入ります。信号の手前右側にも、御嶽山、八海山やらの石碑が沢山並んでいます。
千曲バスの小田井上宿のバス停です。待合室が設けられたバス停ですが、いかんせん運行本数が少なすぎます。いや、運行本数が少ないからこそ長時間バスが来るのを待たないといけないから、待合室が用意されているとも言えます。こういう光景、私は好きです。
小田井宿案内板と小田井宿地図板があります。小田井宿とは、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて21番目の宿場です。天保14年(1843年)の記録によれば、小田井宿の宿内家数は107軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で宿内人口は319人であったそうです。規模の小さな宿場ですが、参勤交代などで大名が北国街道との分岐点でもあった追分宿で宿をとる際、小田井宿は姫君や側女たちの宿にあてられることが多く、「姫の宿」とも呼ばれました。これは、前の追分宿が飯盛り女の多い大変に賑やかな宿場であり、次の岩村田宿が城下町で本陣が置かれてなかった事にもよるとされています。「姫の宿」と呼ばれるように、昔も女性達から人気の静かな佇まいの宿場だったそうで、その面影が今も色濃く残っています。
小田井宿の街並みは非常に良く保存されていて、現在でも街並みの半分は江戸時代からのものだそうです。本陣跡、上・下問屋跡、旅籠などのほか用水も当時のものが残されており、案内板も設置されています。昔、このあたりの住民達は鉄道(信越本線)の通過に反対したそうで、そのため発展から取り残されてしまったのですが、そのため往時の宿場の面影は残っているとのことのようです。
「おはる地蔵」です。「おはる地蔵」の“おはる”とは“安川はる”さんという実在の人物のことで、「おはる地蔵」は安川はるさんにちなんだ地蔵様です。安川はるさんは明治36年(1903年)、小田井に生まれ、当初は小学校教員をしていました。高価な肥料が買えない農民に安い肥料を提供するため、ゴミと人糞から燻炭肥料を作る「安川式肥料燻炭炉」を発明した方なのだそうです。「安川式肥料燻炭炉」は副産物として高価な7種類の薬品が摂れることから経済的に大変優れた発明として期待されたのですが、安川はるさんが難病にかかり計画を中断。大東亜戦争が激しくなると部下を連れて開拓に入りました。戦後は小学校の全教室へテレビを寄付するなど地域に大変貢献しました。生涯独身で人々のために献身的な活動をして、平成3年(1991年)、89歳で永眠なさいました。このように地域に様々な貢献をしたということで、地元の方々が安川はるさんの功績を称えて「おはる地蔵」を建てたということのようです。
この道を入った先に宝珠院があります。宝珠院は永正年間(1504年~1520年)に開創された真言宗の寺院で、境内の枝垂桜(シダレザクラ)は樹齢300年。高さ約20メートルの見事な枝張りのアカマツの木もあり、どちらも御代田町の天然記念物に指定されています。今回は遠くから眺めるだけで、立ち寄るのはパスしました。
小田井宿の本陣跡(安川家住宅)です。本陣の客室は1756年に建てられた当時のままだそうで、宮家や公家等の姫君が泊まることが多かったため、姫の宿(姫宿、ひめじゅく)ともいわれていたそうです。
中山道と言えば、皇女和宮の降嫁の行列です。文久元年(1861年)、皇女和宮が第14代将軍の徳川家茂に降嫁する際の一行は、お供や警護の者を含めると総計でおよそ8万人にも及ぶ空前絶後の規模でした。宿泊先として指定された宿場は宿の増設や景観の改善等の準備に追われました。この佐久地域では八幡宿と沓掛宿に泊まり、小田井宿では昼食を摂りました。その際、給仕をした少年の安川時太郎に御所人形が贈られました。これにちなみ小田井の町では毎年8月16日に「小田井宿まつり」が開催されています。この「小田井宿まつり」では、皇女和宮から拝領した高さ8cmのふっくらとした姿の唐笠を被った童子の人形を籠に乗せ、当時の行列が再現されます。
小田井宿の問屋(といや)跡です。小田井宿には問屋が2ヶ所あり、これはその1つで、本陣と同じく安川家のものです。江戸時代後期(享保・文化年間)に建てられたもので切妻造りで、屋根は板葺(現在は防火のために鉄板葺に改修)。荷置場・帳場・客室部・廐・土間などがよく保存されているそうです。
脇本陣「すわまや」の跡です。建物は現存してなくて、民家の庭先に案内柱だけが立っています。
旅人が旅の疲れを癒した旅籠の跡です。
千曲バスの「小田井中央」バス停です。先ほどの「小田井上宿」バス停はちょっと野晒しの状態で傷みが目立ちましたが、こちらの「小田井中央」バス停のほうは宿場の“中央”にあるためか、宿場の風景とマッチする構造の待合室が併設されていて、しかも綺麗に整備されています。いいですねぇ~。
もう1つの問屋は尾台家のものです。明和9年(1772年)の大火以降に建てられたもので、こちらは白壁で綺麗に保存されています。
小田井宿は2町(約220メートル)にわたる街並みが続いていました。宿もはずれに来ると、枡形に曲がって終わりとなります。ここが小田井宿の京方の入り口、上木戸があったところです。小田井宿を出ると右手には旅籠のような、古い家も残っています。
小田井宿を出て、次の岩村田宿を目指して歩きます。
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)です。全国に2,000社以上ある白山神社(はくさんじんじゃ、しらやまじんじゃ)の1社で、石川県と岐阜県との県境に立つ白山(標高2,702m)の山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る白山神社の総本社である白山比咩神社と同じ名称の神社です。浅間山の麓で白山ですか…。喧嘩を売ってるようなものですね(笑)
いかにも昭和レトロな感じが漂ってくる広告看板です。地元のお店の広告なので、ローカル色が全面に出ているところも何気にいいですね。前にも書きましたが、私、こういう看板、大好きです。ウ~~ン、渋い!! (>_<)
小田井下町の信号を越えた先には「馬頭観音」や「道祖神」などが1ヶ所にまとめられて立っています。
右手から国道18号線が近づいてきて合流します。
小田井宿を抜け国道と合流すると、咬月ヶ原(こうげつがはら)と呼ばれるところに出ます。昔は大草原だったといわれていて、今でも広い草地となって残されています。古くからある草原らしく、石仏等が沢山残されています。近くには咬月古墳もあります。
地元に伝わる伝説によれば、咬月(こうげつ)とは用命天皇(586年頃)に仕えた官女の名前です。ある咎めを受けて、佐久郡のここ小田井の原に流されてきたのですが、この咬月、官女のわりには乗馬が好きで、白馬を乗り回していたそうです。ある時、その白馬が天の龍馬で、空を駆け巡り、平尾山の頂上に立ち止まりました。そこで、咬月は「吾は唯人ではない 白山大権現だ」と言って、岩の中に入っていってしまったそうなのです。その後、大権現となった咬月は、たびたび馬でこのあたりにやってきては輪乗り(庭乗りの一種)を楽しんだそうなのです。そうしたところ、その部分の草が生えなくなったので「咬月の輪」と呼ぶようになったのだそうです。
隣の歌碑は享保7年(1723年)、小諸藩の馬術師範で皎月原で押兼流馬術を習得したと伝えられる押兼団衛門長常という人の歌碑です。
……(その8)に続きます。
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御代田町を抜けると佐久市小田井(おたい)に入ります。長野県道137号にぶつかる小田井上宿交差点のところが小田井宿の江戸方の下木戸の跡です。ここから小田井宿に入ります。信号の手前右側にも、御嶽山、八海山やらの石碑が沢山並んでいます。
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千曲バスの小田井上宿のバス停です。待合室が設けられたバス停ですが、いかんせん運行本数が少なすぎます。いや、運行本数が少ないからこそ長時間バスが来るのを待たないといけないから、待合室が用意されているとも言えます。こういう光景、私は好きです。
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小田井宿案内板と小田井宿地図板があります。小田井宿とは、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて21番目の宿場です。天保14年(1843年)の記録によれば、小田井宿の宿内家数は107軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で宿内人口は319人であったそうです。規模の小さな宿場ですが、参勤交代などで大名が北国街道との分岐点でもあった追分宿で宿をとる際、小田井宿は姫君や側女たちの宿にあてられることが多く、「姫の宿」とも呼ばれました。これは、前の追分宿が飯盛り女の多い大変に賑やかな宿場であり、次の岩村田宿が城下町で本陣が置かれてなかった事にもよるとされています。「姫の宿」と呼ばれるように、昔も女性達から人気の静かな佇まいの宿場だったそうで、その面影が今も色濃く残っています。
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小田井宿の街並みは非常に良く保存されていて、現在でも街並みの半分は江戸時代からのものだそうです。本陣跡、上・下問屋跡、旅籠などのほか用水も当時のものが残されており、案内板も設置されています。昔、このあたりの住民達は鉄道(信越本線)の通過に反対したそうで、そのため発展から取り残されてしまったのですが、そのため往時の宿場の面影は残っているとのことのようです。
「おはる地蔵」です。「おはる地蔵」の“おはる”とは“安川はる”さんという実在の人物のことで、「おはる地蔵」は安川はるさんにちなんだ地蔵様です。安川はるさんは明治36年(1903年)、小田井に生まれ、当初は小学校教員をしていました。高価な肥料が買えない農民に安い肥料を提供するため、ゴミと人糞から燻炭肥料を作る「安川式肥料燻炭炉」を発明した方なのだそうです。「安川式肥料燻炭炉」は副産物として高価な7種類の薬品が摂れることから経済的に大変優れた発明として期待されたのですが、安川はるさんが難病にかかり計画を中断。大東亜戦争が激しくなると部下を連れて開拓に入りました。戦後は小学校の全教室へテレビを寄付するなど地域に大変貢献しました。生涯独身で人々のために献身的な活動をして、平成3年(1991年)、89歳で永眠なさいました。このように地域に様々な貢献をしたということで、地元の方々が安川はるさんの功績を称えて「おはる地蔵」を建てたということのようです。
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この道を入った先に宝珠院があります。宝珠院は永正年間(1504年~1520年)に開創された真言宗の寺院で、境内の枝垂桜(シダレザクラ)は樹齢300年。高さ約20メートルの見事な枝張りのアカマツの木もあり、どちらも御代田町の天然記念物に指定されています。今回は遠くから眺めるだけで、立ち寄るのはパスしました。
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小田井宿の本陣跡(安川家住宅)です。本陣の客室は1756年に建てられた当時のままだそうで、宮家や公家等の姫君が泊まることが多かったため、姫の宿(姫宿、ひめじゅく)ともいわれていたそうです。
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中山道と言えば、皇女和宮の降嫁の行列です。文久元年(1861年)、皇女和宮が第14代将軍の徳川家茂に降嫁する際の一行は、お供や警護の者を含めると総計でおよそ8万人にも及ぶ空前絶後の規模でした。宿泊先として指定された宿場は宿の増設や景観の改善等の準備に追われました。この佐久地域では八幡宿と沓掛宿に泊まり、小田井宿では昼食を摂りました。その際、給仕をした少年の安川時太郎に御所人形が贈られました。これにちなみ小田井の町では毎年8月16日に「小田井宿まつり」が開催されています。この「小田井宿まつり」では、皇女和宮から拝領した高さ8cmのふっくらとした姿の唐笠を被った童子の人形を籠に乗せ、当時の行列が再現されます。
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小田井宿の問屋(といや)跡です。小田井宿には問屋が2ヶ所あり、これはその1つで、本陣と同じく安川家のものです。江戸時代後期(享保・文化年間)に建てられたもので切妻造りで、屋根は板葺(現在は防火のために鉄板葺に改修)。荷置場・帳場・客室部・廐・土間などがよく保存されているそうです。
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脇本陣「すわまや」の跡です。建物は現存してなくて、民家の庭先に案内柱だけが立っています。
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旅人が旅の疲れを癒した旅籠の跡です。
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千曲バスの「小田井中央」バス停です。先ほどの「小田井上宿」バス停はちょっと野晒しの状態で傷みが目立ちましたが、こちらの「小田井中央」バス停のほうは宿場の“中央”にあるためか、宿場の風景とマッチする構造の待合室が併設されていて、しかも綺麗に整備されています。いいですねぇ~。
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もう1つの問屋は尾台家のものです。明和9年(1772年)の大火以降に建てられたもので、こちらは白壁で綺麗に保存されています。
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小田井宿は2町(約220メートル)にわたる街並みが続いていました。宿もはずれに来ると、枡形に曲がって終わりとなります。ここが小田井宿の京方の入り口、上木戸があったところです。小田井宿を出ると右手には旅籠のような、古い家も残っています。
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小田井宿を出て、次の岩村田宿を目指して歩きます。
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白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)です。全国に2,000社以上ある白山神社(はくさんじんじゃ、しらやまじんじゃ)の1社で、石川県と岐阜県との県境に立つ白山(標高2,702m)の山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る白山神社の総本社である白山比咩神社と同じ名称の神社です。浅間山の麓で白山ですか…。喧嘩を売ってるようなものですね(笑)
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いかにも昭和レトロな感じが漂ってくる広告看板です。地元のお店の広告なので、ローカル色が全面に出ているところも何気にいいですね。前にも書きましたが、私、こういう看板、大好きです。ウ~~ン、渋い!! (>_<)
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小田井下町の信号を越えた先には「馬頭観音」や「道祖神」などが1ヶ所にまとめられて立っています。
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右手から国道18号線が近づいてきて合流します。
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小田井宿を抜け国道と合流すると、咬月ヶ原(こうげつがはら)と呼ばれるところに出ます。昔は大草原だったといわれていて、今でも広い草地となって残されています。古くからある草原らしく、石仏等が沢山残されています。近くには咬月古墳もあります。
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地元に伝わる伝説によれば、咬月(こうげつ)とは用命天皇(586年頃)に仕えた官女の名前です。ある咎めを受けて、佐久郡のここ小田井の原に流されてきたのですが、この咬月、官女のわりには乗馬が好きで、白馬を乗り回していたそうです。ある時、その白馬が天の龍馬で、空を駆け巡り、平尾山の頂上に立ち止まりました。そこで、咬月は「吾は唯人ではない 白山大権現だ」と言って、岩の中に入っていってしまったそうなのです。その後、大権現となった咬月は、たびたび馬でこのあたりにやってきては輪乗り(庭乗りの一種)を楽しんだそうなのです。そうしたところ、その部分の草が生えなくなったので「咬月の輪」と呼ぶようになったのだそうです。
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隣の歌碑は享保7年(1723年)、小諸藩の馬術師範で皎月原で押兼流馬術を習得したと伝えられる押兼団衛門長常という人の歌碑です。
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……(その8)に続きます。
執筆者
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株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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