2017/09/13
中山道六十九次・街道歩き【第15回: 塩名田→長久保】(その1)
7月中旬の3連休の後半にあたる7月16日(日)、17日(祝)、中山道六十九次・街道歩きの【第15回】に参加してきました。前回【第14回】に次いで信州、信濃国佐久平(佐久盆地)を歩きます。
池袋駅西口を出発した観光バスは関越自動車道、上信越自動車道を走り、佐久小諸JCTで中部横断自動車道に入り佐久南ICへ。その佐久南ICで高速道路を下りると次は国道142号線を北西方向に走り、この日の出発点である塩名田宿にほど近い国道142号線沿いにある「道の駅ほっとぱーく浅科」へ向かいました。3連休の中日と言うことで少し渋滞に巻き込まれたこともありますが、さすがに遠方になってきたので、街道歩きの出発点に向かうのにも時間がかかります。池袋駅西口を午前8時半に出発して、「道の駅ほっとぱーく浅科」に到着したのが12時半。移動に約4時間を要し、午前中をバスでの移動だけで費やしてしまいました。12時半と言うことで、まずは「道の駅ほっとぱーく浅科」でお弁当の昼食を摂りました。
「道の駅ほっとぱーく浅科」から北の方角を見ると、目の前には青々とした田圃の向こうに、浅間山(2,568メートル)の雄大な景色が見えます。この日も頂上付近は雲がかかっていましたが、それでも前回【第14回】と比べれば、浅間山のほぼ全貌が見えます。浅間山の左側には浅間山の第一外輪山である黒斑山(くろふやま:2,404メートル)があり、その間に前掛山(2,524メートル)、剣ヶ峰(2,288メートル)も顔を覗かせています。ホント雄大な景色です。
この日はまだ梅雨明け宣言が出る前で、梅雨前線は北陸から東北地方にかけて伸びていて、おまけに日本列島の南の海上を弱い低気圧が西から東に進むというちょっと気になる気圧配置でした。いちおう、朝確認した天気予報では長野県のこのあたりは「晴れのち曇り」の予報になっていましたが、南から温かく湿った空気が大量に流れ込み、晴れとは言っても青空の色は薄く、雲が非常に多い湿度の高そうな空になっています。おまけに気温は午前中の段階で30℃を超え、暑い一日になりそうだし、このあたりの標高は1,000メートル近いときています。どう見ても大気の状態は不安定そうで、こりゃあ歩いている最中に突然の激しい雷雨に襲われる可能性が高そうです。『中山道六十九次・街道歩き』、ここまでは「晴れ男のレジェンド」でずっとお天気には恵まれてきましたが、この日は雨、それも突然の激しい雷雨に襲われることを覚悟しました。なので、いつ雨が降り出してもいいように、リュックサックの最上部に上下セパレートタイプのレインコートを入れるようにしておきました。
お弁当の昼食後、「道の駅ほっとぱーく浅科」のガイドマップでこの日歩くコースと見どころをチェック。短い距離ですが、この日も見どころが多そうです。
「道の駅ほっとぱーく浅科」では、この日、フリーマーケットが開催されていました。で、そこに出店されている商品の中に気になる一品が…。「東名急行」と車体横に書かれた古い高速バスの乗用玩具です。実はこれとまったく同じ玩具を、子供の頃に6歳年下の弟が持っていました。私は当時から鉄道やバスが大好きだったので、本当は私が欲しくてたまらなかったのですが、6歳年上のお兄ちゃんが弟から無理矢理取り上げるわけにはいきません。グッと我慢して、弟が遊ぶのを眺めていた記憶があります。さすがに年代物なので、表面はかなり傷ついてはいるものの、状態は良さそうなので、衝動買いで買っちゃおうか…とも思いましたが、観光バスでのツアーで来ているので、今回もそこはグッと我慢しちゃいました。まぁ~、買って帰ってもいいのですが、乗用玩具ということでちょっとサイズが大きいので、家内に「また、ガラクタを買って…」と叱られそうですし…。
昼食後、「東名急行バス」の玩具に未練を残しながら、観光バスでこの日のスタートポイントである塩名田宿にある佐久市浅科公民館の駐車場に移動しました。
今回の【第15回】も1泊2日の旅程で、1日目のこの日は塩名田宿をスタートし、八幡宿を経て、望月宿まで歩きます。予定歩行距離はこれまでで一番短く6.7km、予定歩行時間は約2時間、標高差は130メートル。また、翌2日目は望月宿をスタートして、芦田宿を経て長久保宿まで歩きます。予定歩行距離は10.6 km、予定歩行時間は約3時間30分、コース上の標高差は243 メートル。距離は短いものの、起伏がありアップダウンを繰り返す場所ばかりを歩きます。
前述のように、1日目のスタートポイントは前回【第14回】のゴールであった佐久市浅科公民館の駐車場でした。駐車場には塩名田宿のデッカイ案内板が立っています。ふむふむ、なるほどぉ~。この日も入念なストレッチ体操をしてから、街道歩きのスタートです。
前回【第14回】でも書きましたように、塩名田宿は江戸の日本橋から数えて23番目の宿場です。千曲川の東岸の河畔にある宿場で、宿場としての町並みの長さは10町2間(約1.1km)。そこに本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠7軒が並ぶ小さな宿場でした。「近郷無類の荒れ川」と呼ばれる千曲川は氾濫によりしばしば旅人の足を止めたため、宿として重要な役割を果たしていました。
塩名田宿には千曲川の川留めに備えて2軒の本陣が置かれていたのですが、この日のスタートポイントである佐久市浅科公民館の手前には、その2軒の本陣のうちの1軒、「丸山善兵衛本陣」がありました。現在は大井屋という食料品店となっています。
その丸山善兵衛本陣跡の斜め前の切妻・大屋根の建物も本陣・問屋跡でこちらは「丸山新左衛門家」。丸山新左衛門本陣の現在の建物は宝暦6年(1756年)に再建されたもので、現在も改装されながらも住居として使われているようです。ちなみに脇本陣も丸山文左衛門家と、丸山一族が塩名田宿の本陣・脇本陣を務めていました。屋根を見上げると、鬼瓦に「丸山」という本陣名が刻まれています。
本陣跡の隣が高札場の跡で、一部が復元されていて、現在も掲示板として使われています。
塩名田宿には旧旅籠と思われる商家が幾つも建ち並んでいます。今も格子戸が残る町並みには旧屋号が書かれた看板が下げられています。
高札場跡の斜め先にある 佐藤家住宅は塩名田宿に現存する最も古い家なのだそうで、古い町屋の様式を伝える貴重な建物なのだそうです。1階の桁は曲り材がそのまま使われており、なかなか味わいがあります。
本陣や脇本陣が置かれていた宿場の中心部は千曲川河畔の河岸段丘上にあり、出桁造りの家並みや大屋根の本陣など、心安らぐ空間となっています。
この先の道を右に入った奥にある寺院が正縁寺。阿弥陀如来三尊像を御本尊とする浄土宗の寺院で、正式な名称は向択山深入院正縁寺と言います。この正縁寺には、中山道をゆく旅の途中で行き倒れになった人とか、千曲川の氾濫などで犠牲になった人なども供養されているということです。大きな寺院で、境内には見るからに古い石塔が立っているのだそうです。
このあたり一帯の地域は古くから阿弥陀如来を信仰する伝統的地盤でした。元々は字入道(現在の舟久保団地南)の地に新善光寺とも落合善光寺とも称された寺があったのですが、戦国時代に戦禍でその寺は焼失してしまいました。江戸時代にもその寺の跡には阿弥陀信仰の僧が居住しており、正縁寺の称名もそこに由来すると言われているのだそうです。そして、元和・寛永年間(1615~1644)に開山超誉一念和尚によりこの地に正縁寺として再建されたのだそうです。寺院の建物自体も昭和48年(1973年)に焼失し、昭和61年(1986年)に再建されたものなのだそうです。前述のように、この寺の裏にある墓地には、中山道をゆく旅の途中で不幸にしてこの地で亡くなった武士や庶民が埋葬されているほか、千曲川の氾濫で犠牲になった人なども供養されているのだそうです。
正縁寺の境内に斑稲荷神社(まだらいなりじんじゃ)があります。この斑稲荷神社は、天明7年(1787年)に正一位稲荷大明神を勧請したものなのだそうです。かつて養蚕業が盛んだった地域ではお稲荷さんが篤く信仰され祀られていることが多いのですが、このあたりも養蚕業が盛んで、稲荷神社を勧請したようです。大正12年(1923年)、このあたりの中津村商工会では地域の発展を図る目的でこの社を祀り、境内に桜桃を植え、小屋を設けて毎月10日を縁日とし、種々の催しものを行なって近郷近在の人出を目論んだのだそうです。残念ながら、時間の関係で、そうした説明を聞いただけで、訪れるのはパスしてしまいました。
郵便局の向かいに“うだつ”を備えた白い土蔵造りの「大和屋」という酒屋があります。建物は新しいのですが、看板は昔の屋号が書かれたものなので、古い老舗なのでしょう。
さらにその先の「えび屋豆腐店」の建物も江戸時代末期に建てられたものだそうです。この塩名田宿の建物も、街道に対して斜めに建っているという特徴があります。この斜めに建物を建てるのは旧中山道の宿場ではよく見掛けるもののようで、その理由は街道の見張りのためとも、大名行列が通る時に長く座っていなくてもいいなどの説があるようです。
えび屋豆腐店から数10メートル先で枡形があり、千曲川のほうへ坂を下っていきます。現在の県道は左に曲って中津橋を渡って行くのですが、旧中山道は右側の急な坂道を川原(河原)宿へと向かって下っていきます。
千曲川河畔の河岸段丘の、まさに段丘崖の急な坂を下った左側に東屋があります。滝不動(瀧大明神社)の跡です。かつてはここには大きな欅(ケヤキ)の木がはえていて、その欅の木の根元から大量の清水が湧き出て滝のようになって流れていました。この「滝の水」は中山道を旅する旅人の喉を潤して、オアシスになっていました。明治から大正の時代にかけて作られた塩名田節にもこの「滝の水」のことが謳われているのだそうです。また、安藤広重が塩名田宿を描いた浮世絵には大きな欅(ケヤキ)の木が描かれているのですが、それがこの滝不動の欅で、現在は枯れて、根だけが残っています。同じくかつては大量に流れ出て旅人の喉を潤した湧き水も今は枯れています。
東屋の隣は「角屋」と呼ばれた茶屋跡で、建築年代は不明ですが、出桁造りの木造の3階建ての立派な建物です。この周辺には木造3階建ての家が何軒かあるのですが、中には、なんと木造4階建ての家もあります。これにはビックリです 。
段丘崖の下には川原(河原とも)宿がありました。千曲川の渡しを控えたこの川原宿は、河畔の休茶屋として大いに賑わいました。その痕跡を残すように、佐久名物の鯉料理が楽しめる川魚料理店が今も数軒建ち並んでいます。
このあたりは「お滝通り」と呼ばれています。この先を右に曲ると、旅籠風の建物が何軒かあり、ここがかつての川原宿の中心部で、宿場の面影が色濃く残っています。
その「お滝通り」の突き当たりに長野県を代表する大河・千曲川が流れています。
奥秩父山塊の主脈の中央に位置し、山梨県(甲州)・埼玉県(武州)・長野県(信州)の3県の県境に位置する標高2,475mの甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)。その甲武信ヶ岳の長野県側斜面(南佐久郡川上村)を源流とし、長野県と新潟県を流れて、新潟市で日本海に注ぐ信濃川水系の本流「信濃川」。全長367kmで日本で一番長い川である「信濃川」のうち、信濃川と呼ばれているのは新潟県(越後国)域のみで、上流部である長野県(信濃国)は千曲川(ちくまがわ)と呼称が変わリます。越後国で信濃川と呼ばれ、信濃国では信濃川と呼ばれないのは面白いところです。ただし、河川法上では千曲川を含めた信濃川水系の本流のことを「信濃川」と規定しているため、「信濃川」の名称のほうが全国的には知られています。実は、この「信濃川」、全長367kmのうち、新潟県内を流れる信濃川と呼ばれている部分が153kmなのに対し、長野県内を流れる千曲川と呼ばれている部分は214kmと、千曲川の方が長いのです。
前述のように、千曲川(信濃川)は甲武信ヶ岳を源流としているのですが、そこに八ヶ岳や関東山地の山々などを源流とする何本もの河川と合流しつつ佐久盆地(佐久平)、上田盆地(上田平)を北流します。長野盆地(善光寺平)の川中島の北端に該当する場所で飛騨山脈を源流とし松本盆地(松本平)から北流してきた犀川と合流し、その後北東方向に流れを変え、新潟県に入って信濃川と名前を変えるわけです。新潟県内では、信濃川は十日町盆地を通って越後平野(新潟平野)に出て群馬・新潟県境の谷川岳から流れてきた魚野川と合流し、新潟市で日本海に注ぎます。
佐久平のこのあたりはかなりの上流部分にあたるのですが、さすがに日本最長の大河、上流部分と言ってもかなりの川幅です。なかなか雄大な風景です。
「信濃なる 千曲の川の細石(さざれいし)も 君し踏みてば 玉と拾わむ」 万葉集
千曲川は古くは万葉の頃から多くの詩歌に詠われました。万葉集に掲載されているこの和歌は、作者不詳の歌(東歌)です。信濃の女性の秘めた恋心が伝わってくる歌ですね。
その万葉集の歌だけでなく、千曲川は「小諸なる古城のほとり」で始まる島崎藤村の「千曲川旅情の歌」や、昭和50年(1975年)に五木ひろしさんが歌って大ヒットした「千曲川」などに歌われ、風情のある緩やかな流れの川のように思われがちですが、実際には千曲川の名前の通り幾重にも曲がりくねった急流であることで知られ、ひとたび大雨が降って水嵩が増すと難所に一変し、旅人を苦しめました。
千曲川もこのあたりは上流部分にあたるため急流で、江戸時代、川幅は120メートルほどもあったそうなので、旅人泣かせだったのだそうです。川の瀬が二つに分かれていた頃は、塩名田宿側は平橋、対岸の御馬寄側は岩を橋台にした投渡橋(なげわたしばし)であったり、享保6年(1721年)の7月に千曲川の洪水で投渡橋が流失した後は刎橋(はねばし:川の両岸から刎木を何段にも重ね、それで橋桁を受ける様式)であったり、それも流された時には舟渡しとなったり…と橋を架けては流され、橋を架けては流され…を繰り返し、様々な方法でこの千曲川の急流を渡っていたのですが、明治期に入った明治6年(1873年)、9艘の舟を浮かべ、それらを繋いだうえで舟の上に板を敷いて橋とし、人馬を渡す「舟橋」方式が採られるようになりました。その際、舟を繋ぐために使われたのが「舟つなぎ石」で、現在も残されています。この舟橋は明治26年(1893年)まで使われたそうです。
……(その2)に続きます。
池袋駅西口を出発した観光バスは関越自動車道、上信越自動車道を走り、佐久小諸JCTで中部横断自動車道に入り佐久南ICへ。その佐久南ICで高速道路を下りると次は国道142号線を北西方向に走り、この日の出発点である塩名田宿にほど近い国道142号線沿いにある「道の駅ほっとぱーく浅科」へ向かいました。3連休の中日と言うことで少し渋滞に巻き込まれたこともありますが、さすがに遠方になってきたので、街道歩きの出発点に向かうのにも時間がかかります。池袋駅西口を午前8時半に出発して、「道の駅ほっとぱーく浅科」に到着したのが12時半。移動に約4時間を要し、午前中をバスでの移動だけで費やしてしまいました。12時半と言うことで、まずは「道の駅ほっとぱーく浅科」でお弁当の昼食を摂りました。
「道の駅ほっとぱーく浅科」から北の方角を見ると、目の前には青々とした田圃の向こうに、浅間山(2,568メートル)の雄大な景色が見えます。この日も頂上付近は雲がかかっていましたが、それでも前回【第14回】と比べれば、浅間山のほぼ全貌が見えます。浅間山の左側には浅間山の第一外輪山である黒斑山(くろふやま:2,404メートル)があり、その間に前掛山(2,524メートル)、剣ヶ峰(2,288メートル)も顔を覗かせています。ホント雄大な景色です。
この日はまだ梅雨明け宣言が出る前で、梅雨前線は北陸から東北地方にかけて伸びていて、おまけに日本列島の南の海上を弱い低気圧が西から東に進むというちょっと気になる気圧配置でした。いちおう、朝確認した天気予報では長野県のこのあたりは「晴れのち曇り」の予報になっていましたが、南から温かく湿った空気が大量に流れ込み、晴れとは言っても青空の色は薄く、雲が非常に多い湿度の高そうな空になっています。おまけに気温は午前中の段階で30℃を超え、暑い一日になりそうだし、このあたりの標高は1,000メートル近いときています。どう見ても大気の状態は不安定そうで、こりゃあ歩いている最中に突然の激しい雷雨に襲われる可能性が高そうです。『中山道六十九次・街道歩き』、ここまでは「晴れ男のレジェンド」でずっとお天気には恵まれてきましたが、この日は雨、それも突然の激しい雷雨に襲われることを覚悟しました。なので、いつ雨が降り出してもいいように、リュックサックの最上部に上下セパレートタイプのレインコートを入れるようにしておきました。
お弁当の昼食後、「道の駅ほっとぱーく浅科」のガイドマップでこの日歩くコースと見どころをチェック。短い距離ですが、この日も見どころが多そうです。
「道の駅ほっとぱーく浅科」では、この日、フリーマーケットが開催されていました。で、そこに出店されている商品の中に気になる一品が…。「東名急行」と車体横に書かれた古い高速バスの乗用玩具です。実はこれとまったく同じ玩具を、子供の頃に6歳年下の弟が持っていました。私は当時から鉄道やバスが大好きだったので、本当は私が欲しくてたまらなかったのですが、6歳年上のお兄ちゃんが弟から無理矢理取り上げるわけにはいきません。グッと我慢して、弟が遊ぶのを眺めていた記憶があります。さすがに年代物なので、表面はかなり傷ついてはいるものの、状態は良さそうなので、衝動買いで買っちゃおうか…とも思いましたが、観光バスでのツアーで来ているので、今回もそこはグッと我慢しちゃいました。まぁ~、買って帰ってもいいのですが、乗用玩具ということでちょっとサイズが大きいので、家内に「また、ガラクタを買って…」と叱られそうですし…。
昼食後、「東名急行バス」の玩具に未練を残しながら、観光バスでこの日のスタートポイントである塩名田宿にある佐久市浅科公民館の駐車場に移動しました。
今回の【第15回】も1泊2日の旅程で、1日目のこの日は塩名田宿をスタートし、八幡宿を経て、望月宿まで歩きます。予定歩行距離はこれまでで一番短く6.7km、予定歩行時間は約2時間、標高差は130メートル。また、翌2日目は望月宿をスタートして、芦田宿を経て長久保宿まで歩きます。予定歩行距離は10.6 km、予定歩行時間は約3時間30分、コース上の標高差は243 メートル。距離は短いものの、起伏がありアップダウンを繰り返す場所ばかりを歩きます。
前述のように、1日目のスタートポイントは前回【第14回】のゴールであった佐久市浅科公民館の駐車場でした。駐車場には塩名田宿のデッカイ案内板が立っています。ふむふむ、なるほどぉ~。この日も入念なストレッチ体操をしてから、街道歩きのスタートです。
前回【第14回】でも書きましたように、塩名田宿は江戸の日本橋から数えて23番目の宿場です。千曲川の東岸の河畔にある宿場で、宿場としての町並みの長さは10町2間(約1.1km)。そこに本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠7軒が並ぶ小さな宿場でした。「近郷無類の荒れ川」と呼ばれる千曲川は氾濫によりしばしば旅人の足を止めたため、宿として重要な役割を果たしていました。
塩名田宿には千曲川の川留めに備えて2軒の本陣が置かれていたのですが、この日のスタートポイントである佐久市浅科公民館の手前には、その2軒の本陣のうちの1軒、「丸山善兵衛本陣」がありました。現在は大井屋という食料品店となっています。
その丸山善兵衛本陣跡の斜め前の切妻・大屋根の建物も本陣・問屋跡でこちらは「丸山新左衛門家」。丸山新左衛門本陣の現在の建物は宝暦6年(1756年)に再建されたもので、現在も改装されながらも住居として使われているようです。ちなみに脇本陣も丸山文左衛門家と、丸山一族が塩名田宿の本陣・脇本陣を務めていました。屋根を見上げると、鬼瓦に「丸山」という本陣名が刻まれています。
本陣跡の隣が高札場の跡で、一部が復元されていて、現在も掲示板として使われています。
塩名田宿には旧旅籠と思われる商家が幾つも建ち並んでいます。今も格子戸が残る町並みには旧屋号が書かれた看板が下げられています。
高札場跡の斜め先にある 佐藤家住宅は塩名田宿に現存する最も古い家なのだそうで、古い町屋の様式を伝える貴重な建物なのだそうです。1階の桁は曲り材がそのまま使われており、なかなか味わいがあります。
本陣や脇本陣が置かれていた宿場の中心部は千曲川河畔の河岸段丘上にあり、出桁造りの家並みや大屋根の本陣など、心安らぐ空間となっています。
この先の道を右に入った奥にある寺院が正縁寺。阿弥陀如来三尊像を御本尊とする浄土宗の寺院で、正式な名称は向択山深入院正縁寺と言います。この正縁寺には、中山道をゆく旅の途中で行き倒れになった人とか、千曲川の氾濫などで犠牲になった人なども供養されているということです。大きな寺院で、境内には見るからに古い石塔が立っているのだそうです。
このあたり一帯の地域は古くから阿弥陀如来を信仰する伝統的地盤でした。元々は字入道(現在の舟久保団地南)の地に新善光寺とも落合善光寺とも称された寺があったのですが、戦国時代に戦禍でその寺は焼失してしまいました。江戸時代にもその寺の跡には阿弥陀信仰の僧が居住しており、正縁寺の称名もそこに由来すると言われているのだそうです。そして、元和・寛永年間(1615~1644)に開山超誉一念和尚によりこの地に正縁寺として再建されたのだそうです。寺院の建物自体も昭和48年(1973年)に焼失し、昭和61年(1986年)に再建されたものなのだそうです。前述のように、この寺の裏にある墓地には、中山道をゆく旅の途中で不幸にしてこの地で亡くなった武士や庶民が埋葬されているほか、千曲川の氾濫で犠牲になった人なども供養されているのだそうです。
正縁寺の境内に斑稲荷神社(まだらいなりじんじゃ)があります。この斑稲荷神社は、天明7年(1787年)に正一位稲荷大明神を勧請したものなのだそうです。かつて養蚕業が盛んだった地域ではお稲荷さんが篤く信仰され祀られていることが多いのですが、このあたりも養蚕業が盛んで、稲荷神社を勧請したようです。大正12年(1923年)、このあたりの中津村商工会では地域の発展を図る目的でこの社を祀り、境内に桜桃を植え、小屋を設けて毎月10日を縁日とし、種々の催しものを行なって近郷近在の人出を目論んだのだそうです。残念ながら、時間の関係で、そうした説明を聞いただけで、訪れるのはパスしてしまいました。
郵便局の向かいに“うだつ”を備えた白い土蔵造りの「大和屋」という酒屋があります。建物は新しいのですが、看板は昔の屋号が書かれたものなので、古い老舗なのでしょう。
さらにその先の「えび屋豆腐店」の建物も江戸時代末期に建てられたものだそうです。この塩名田宿の建物も、街道に対して斜めに建っているという特徴があります。この斜めに建物を建てるのは旧中山道の宿場ではよく見掛けるもののようで、その理由は街道の見張りのためとも、大名行列が通る時に長く座っていなくてもいいなどの説があるようです。
えび屋豆腐店から数10メートル先で枡形があり、千曲川のほうへ坂を下っていきます。現在の県道は左に曲って中津橋を渡って行くのですが、旧中山道は右側の急な坂道を川原(河原)宿へと向かって下っていきます。
千曲川河畔の河岸段丘の、まさに段丘崖の急な坂を下った左側に東屋があります。滝不動(瀧大明神社)の跡です。かつてはここには大きな欅(ケヤキ)の木がはえていて、その欅の木の根元から大量の清水が湧き出て滝のようになって流れていました。この「滝の水」は中山道を旅する旅人の喉を潤して、オアシスになっていました。明治から大正の時代にかけて作られた塩名田節にもこの「滝の水」のことが謳われているのだそうです。また、安藤広重が塩名田宿を描いた浮世絵には大きな欅(ケヤキ)の木が描かれているのですが、それがこの滝不動の欅で、現在は枯れて、根だけが残っています。同じくかつては大量に流れ出て旅人の喉を潤した湧き水も今は枯れています。
東屋の隣は「角屋」と呼ばれた茶屋跡で、建築年代は不明ですが、出桁造りの木造の3階建ての立派な建物です。この周辺には木造3階建ての家が何軒かあるのですが、中には、なんと木造4階建ての家もあります。これにはビックリです 。
段丘崖の下には川原(河原とも)宿がありました。千曲川の渡しを控えたこの川原宿は、河畔の休茶屋として大いに賑わいました。その痕跡を残すように、佐久名物の鯉料理が楽しめる川魚料理店が今も数軒建ち並んでいます。
このあたりは「お滝通り」と呼ばれています。この先を右に曲ると、旅籠風の建物が何軒かあり、ここがかつての川原宿の中心部で、宿場の面影が色濃く残っています。
その「お滝通り」の突き当たりに長野県を代表する大河・千曲川が流れています。
奥秩父山塊の主脈の中央に位置し、山梨県(甲州)・埼玉県(武州)・長野県(信州)の3県の県境に位置する標高2,475mの甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)。その甲武信ヶ岳の長野県側斜面(南佐久郡川上村)を源流とし、長野県と新潟県を流れて、新潟市で日本海に注ぐ信濃川水系の本流「信濃川」。全長367kmで日本で一番長い川である「信濃川」のうち、信濃川と呼ばれているのは新潟県(越後国)域のみで、上流部である長野県(信濃国)は千曲川(ちくまがわ)と呼称が変わリます。越後国で信濃川と呼ばれ、信濃国では信濃川と呼ばれないのは面白いところです。ただし、河川法上では千曲川を含めた信濃川水系の本流のことを「信濃川」と規定しているため、「信濃川」の名称のほうが全国的には知られています。実は、この「信濃川」、全長367kmのうち、新潟県内を流れる信濃川と呼ばれている部分が153kmなのに対し、長野県内を流れる千曲川と呼ばれている部分は214kmと、千曲川の方が長いのです。
前述のように、千曲川(信濃川)は甲武信ヶ岳を源流としているのですが、そこに八ヶ岳や関東山地の山々などを源流とする何本もの河川と合流しつつ佐久盆地(佐久平)、上田盆地(上田平)を北流します。長野盆地(善光寺平)の川中島の北端に該当する場所で飛騨山脈を源流とし松本盆地(松本平)から北流してきた犀川と合流し、その後北東方向に流れを変え、新潟県に入って信濃川と名前を変えるわけです。新潟県内では、信濃川は十日町盆地を通って越後平野(新潟平野)に出て群馬・新潟県境の谷川岳から流れてきた魚野川と合流し、新潟市で日本海に注ぎます。
佐久平のこのあたりはかなりの上流部分にあたるのですが、さすがに日本最長の大河、上流部分と言ってもかなりの川幅です。なかなか雄大な風景です。
千曲川は古くは万葉の頃から多くの詩歌に詠われました。万葉集に掲載されているこの和歌は、作者不詳の歌(東歌)です。信濃の女性の秘めた恋心が伝わってくる歌ですね。
その万葉集の歌だけでなく、千曲川は「小諸なる古城のほとり」で始まる島崎藤村の「千曲川旅情の歌」や、昭和50年(1975年)に五木ひろしさんが歌って大ヒットした「千曲川」などに歌われ、風情のある緩やかな流れの川のように思われがちですが、実際には千曲川の名前の通り幾重にも曲がりくねった急流であることで知られ、ひとたび大雨が降って水嵩が増すと難所に一変し、旅人を苦しめました。
千曲川もこのあたりは上流部分にあたるため急流で、江戸時代、川幅は120メートルほどもあったそうなので、旅人泣かせだったのだそうです。川の瀬が二つに分かれていた頃は、塩名田宿側は平橋、対岸の御馬寄側は岩を橋台にした投渡橋(なげわたしばし)であったり、享保6年(1721年)の7月に千曲川の洪水で投渡橋が流失した後は刎橋(はねばし:川の両岸から刎木を何段にも重ね、それで橋桁を受ける様式)であったり、それも流された時には舟渡しとなったり…と橋を架けては流され、橋を架けては流され…を繰り返し、様々な方法でこの千曲川の急流を渡っていたのですが、明治期に入った明治6年(1873年)、9艘の舟を浮かべ、それらを繋いだうえで舟の上に板を敷いて橋とし、人馬を渡す「舟橋」方式が採られるようになりました。その際、舟を繋ぐために使われたのが「舟つなぎ石」で、現在も残されています。この舟橋は明治26年(1893年)まで使われたそうです。
……(その2)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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