2017/10/11

日光街道ダイジェストウォーク【日光東照宮→今市宿】(その1)

『おちゃめ日記』では、この1年ほど『中山道六十九次・街道歩き』をシリーズ化して掲載していますが、もともとこれを始めたのは、週末グータラしていた私を妻が見かねて、新聞広告で見つけた某旅行会社のツアー企画に申し込んだのがキッカケでした。

正直、最初は妻の顔を立てて渋々参加したようなところがあったのですが、一度参加してみると、この企画は私の好奇心にドンピシャでジャストミート。防災を考えている中で地元に起こった過去の災害を調べることの重要さに気づいて以来、私は歴史に深く興味を持つようになっていましたからね。加えて、NHK総合テレビの番組『ブラタモリ』の影響も大きかったですね。私はリアル版『ブラタモリ』とも言えるこの企画に一気にハマり込んでしまい、最近では、毎月、京都三条大橋を目指して歩くことが趣味のようになっています。

いっぽうで、そんな私を最初に誘った妻はと言うと、スケジュールの都合で参加できない回が続き、武蔵国(埼玉県)を出たところで完全にリタイヤ。その後は私1人が参加して歩いています。そんな妻も私が中山道街道歩きから帰宅後、「今回はここが良かった」、「昔の面影が色濃く残っているところで、メチャメチャ感動した」などと写真を見せながら楽しそうに話すのを聞いて、羨ましく(苦々しく?)思っていたのでしょうね、きっと。「最初に誘ったのは私だってことを忘れてないでしょうね。感謝してる?」なぁ~んて聞いてきたりします。そんな妻が「これ、一緒に行かない?」と言って新聞の折り込み広告を持ち出してきました。それが『中山道六十九次・街道歩き』とは別の旅行会社が企画販売している『五街道ダイジェストウォーク』というものでした。

最近は健康志向の高まりから中高年を中心にウォーキングがブームとなっていて、その需要を当て込んでか、各旅行会社も様々なウィーキングツアーを企画販売しています。なかでも最近増えてきているのが街道歩き。私が参加している『中山道六十九次・街道歩き』もその1つですが、これまでの東海道、中山道に加え、今年に入ってからは奥羽街道や甲州街道、日光街道といった「五街道」のうちの他の街道でも昔の人と同様に歩いて旅するツアーが次々と発売されているようです。『五街道ダイジェストウォーク』はその隙間を狙った商品のようです。東海道や中山道をスタートポイントである江戸の日本橋からゴールまで各宿場を巡りながら通しで歩いていくのではなくて、「ダイジェストウォーク」の名称の通り、人気の高い見所の部分だけを“摘み食い”のように歩くという企画です。なるほどぉ~、こういうのもありかもしれない…と思い、「うん、いいよ」と二つ返事で夫婦での参加を決めたのでした。ちょうど『中山道六十九次・街道歩き』も信州の長久保宿まで到達し、次回はいよいよ和田峠越えです。真夏の一番暑い時期に五街道最高標高(1,600メートル)の和田峠という難所越えをさせるのは危険だろうという判断なのでしょう、8月の開催がなく、2ヶ月間の間隔が空くので、ちょうどいいや…って感じでした。

『五街道ダイジェストウォーク』の第1回は日光街道。それも江戸から見て終着点の日光東照宮から江戸に向かって戻ってくる感じで、今市宿まで歩きます。ここには街道歩きを趣味とする人の間では“超”の字が付くほど有名な「日光街道の杉並木」があります。

まずはさいたま新都心駅から観光バスで日光東照宮へ向かいました。

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観光バスを降りて、日光東照宮に続く山道を歩きます。

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日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)です。下野国一宮で旧社格は国幣中社。現在は神社本庁の別表神社です。関東平野北部、栃木県北西に聳える日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀っている神社です。日光三山は男体山(なんたいさん)・女峯山(にょほうさん)・太郎山(たろうさん)からなり、日光二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っています。ちなみに、男体山は古名を二荒山(ふたらさん)と言い、日光二荒山神社の名称はこの二荒山から来ています。また、日光三山のほか日光連山全体を境内地としており、面積は3,400haにも及び、その神域には有名な華厳滝やいろは坂も含まれます。

二荒山神社は古来より修験道の霊場として崇敬されてきました。江戸時代になり江戸幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財指定の主な社殿が造営されました。また、国宝指定の刀剣2口や多数の刀剣等の重要文化財を現在に伝えているほか、境内は国の史跡「日光山内」に包括されているほか、日光東照宮ともども、「日光の社寺」としてユネスコの「世界文化遺産」に登録されています。

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見事な杉並木です。杉の木がこんな巨木に成長するにはかなりの年月が必要となるので、この杉並木を見ただけでも古い歴史を感じます。

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日光東照宮は栃木県日光市にある神社で、江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀っています。

徳川家康は、元和2年4月17日(1616年6月1日)、駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に埋葬され、同年中に久能山東照宮の完成を見たのですが、翌・元和3年(1617年)に下野国日光に改葬されることとなりました。家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からであるとされています。徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取った臨済宗の僧侶・金地院崇伝(こんちいん すうでん)の日記である本光国師日記には、「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と記されているのだそうです。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神という意味。家康は、江戸から見て不動の北辰(北極星)の位置にあたる日光山の地から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとした…と伝えられています。ただし、家康の遺骸は久能山にそのままとされ、日光には家康の遺命に従って分霊が勧請されました。

社殿は、築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し、江戸城改築などにも功を挙げた伊予国宇和島藩主や今治藩主を歴任した藤堂高虎を作事奉行として進められ、元和3年(1617年)4月に完成。朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の1周忌にあたる4月17日(5月21日)に遷座祭が行われました。

寛永11年(1634年)には、9月に3代将軍・徳川家光が日光社参し、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、今日見られるような荘厳な社殿への大規模改築が行われました。この大規模改修の総奉行(日光造営奉行)は元・上野国総社藩藩主で甲斐国東部の郡内地方を治める谷村藩の藩主であった秋元但馬守泰朝が務め、普請は江戸はもとより京・大阪からも集められた宮大工達が、江戸幕府の作事方大棟梁で慶長大地震で荒廃した伏見城修築を行った近江国出身の工匠(建築家)・甲良豊後宗広一門の指揮の下で務め、僅か1年5ヶ月の工期で完成しました。

境内の特徴は、自然の地形を生かした参道や階段を用い、バランス良く配置された社殿群が荘厳な宗教的空間をつくりだしていることにあります。さらに建物には、漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られていますが、これらは単なるデザインではなく、信仰形態や学問・思想があらわされています。

社殿群のうち、以下の5件8棟の建造物が国宝に指定されているほか、34棟の建物が国の重要文化財に指定されています。

  本殿、石の間及び拝殿 1棟
    (附 銅箱入供養具9箇、旧妻戸2枚、箱入大工道具一具)
  正面及び背面唐門 2棟
  東西透塀 2棟
  陽明門 1棟(附 旧天井板2枚)
  東西回廊 2棟(附 潜門)


また、奉納されている美術工芸品も国宝や国の重要文化財に指定されているものが多数あります。さらに、これらの社殿群は他の日光市にある寺社などとともに、平成11年(1999年)12月、「日光の社寺」としてユネスコの「世界文化遺産」に登録されました。

日光東照宮はその後も建物の維持のため補修作業がたびたび繰り返されています。昭和25年(1950年)4月から着手した昭和大修理事業は、昭和61年(1986年)3月の第二期工事終結を以って指定建造物40棟の主要な修理が終了しました。その後は第三期工事としてアフターケアとなる維持補修を中心にした事業が平成14年(2002年)度まで継続されました。

現在は、昭和大修理から半世紀が経過し、主要な社殿は外部装飾の劣化とともに木部の腐朽が進み始めるなど、改めて根本的な経年修理を必要とする再修理の時期を迎えています。前述の第三期工事では、上神庫など、先の昭和修理以来2度目となる経年修理にも平成9年(1997年)度から既に着手しており、平成15年(2003年)度からは第四期工事へと移行して、過渡的に中神庫の根本的な経年修理を実施しています。さらに、平成19年(2007年)度からはいよいよ拝殿をはじめ東西透塀、正面唐門など重要な主社殿の工事に取り掛かかり、平成25年(2013年)4月を以って竣工しました。

平成27年(2015年)4月に家康公400回神忌を執り行った後も根本的な経年修理工事は続けられていて、平成36年(2024年)度までを平成大修理事業と位置付けて、長期計画の下での修理工事を予定しているようです。平成25年(2013年)度からは拝殿に引き続いて本殿・石の間の修理に着手するとともに、陽明門工事にも新たに着手しています。

私は今から30年以上前に職場の旅行で日光東照宮を訪れたことがあり、それ以来です。長い年月が経って私の記憶がモノクロームに色褪せてしまっているのかもしれませんが、平成大修理が進んでいる真っ最中からかもしれませんが、久し振りに訪れた日光東照宮は色鮮やかで、圧倒されるほどでした。白黒テレビからいきなりハイビジョンのカラーテレビに買い替えた時のような感動とでも言えばいいでしょうか(@_@)

表参道の先に有る高さ9mの石鳥居は日本最大のものであり、鎮座翌年の元和4年(1618年)、九州筑前(福岡)藩の初代藩主・黒田長政によって寄進されたものです。筑前藩領内(現在の福岡県糸島市にある可也山)から海路・水路・陸路を使って15個の石を運び、積み上げて造られました。国の重要文化財に指定されています。

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この五重塔は慶安3年(1648年)、若狭国(現在の福井県)小浜藩主で、第3代将軍徳川家光から第4代将軍徳川家綱時代に老中・大老を務めた酒井忠勝公によって奉納されました。文化12年(1815年)に火災に遭いましたが、その後文政元年(1818年)に同藩主・酒井忠進公によって再建されました。この五重塔は国の重要文化財に指定されています。

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表門です。この門は日光東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれています。この表門も国の重要文化財に指定されています。

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表門を潜り、日光東照宮の境内に入ります。

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三神庫(さんじんこ)です。上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫と言い、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められています。また、上神庫の屋根下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の大きな彫刻がほどこされています。下の写真のうち左側が上神庫で、右側が下神庫です。この三神庫も国の重要文化財に指定されています。

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神厩舎(しんきゅうしゃ)と三猿(さんざるです。神厩舎は、ご神馬をつなぐ厩(うまや)のことです。現在も神馬「光徳号」と「福勇号」がここで飼われています。また、昔から猿が馬を守るとされているところから、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されて描かれています。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名です。この神厩舎と三猿も国の重要文化財に指定されています。

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輪蔵(経蔵)です。この輪蔵も国の重要文化財に指定されています。

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鳥居を潜って、石段を登ります。東京から日帰りで来られる観光地と言うことで、この日も外国人観光客や修学旅行の小学生を含め、多くの人達が参拝に訪れていました。

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石段の横に2基の鉄製の灯篭が立っています。この鉄製の灯籠は「伊達政宗」が奉納したものですが、ポルトガルから輸入した鉄を用いて作ったもので、「南蛮鉄灯篭」と呼ばれています。伊達政宗は戦国時代最後の武将という感じの人物ですが、徳川の時代になってしまってからは外様大名ゆえに伊達家を守ることに専念したようで、徳川に忠義を立てるため、いろいろと貢ぎ物をしていたようです。この南蛮鉄灯篭も国の重要文化財に指定されています。

この南蛮鉄灯篭のほか日光東照宮の境内にはあちこちに灯籠があります。 灯籠の数は全部で121もあるそうです。すべて、当時の諸大名の奉納によるものだそうです。しかも、奉納者の身分によって奉納する灯籠の場所が決まっていたそうです。中にはオランダから奉納された回転灯篭なるものもあるそうです。

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国宝の陽明門(ようめいもん)です。日本を代表する最も美しい門と言われ、宮中正門の名をいただいたと伝えられています。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」とも呼ばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされています。陽明門の左右に延びる廻廊(かいろう)も国宝で、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られています。いずれも一枚板の透かし彫りには、極彩色がほどこされています。真夏の強い陽射しに照らされて、眩いばかりに光り輝いています。圧倒されて、見事と言うしか、他に適切な言葉が見つかりません。

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陽明門を潜ってさらに中に入ります。国の重要文化財に指定されている神輿舎(しんよしゃ)です。この神輿舎には春と秋の年2回行われる渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる、三基の神輿(みこし)が納められています。

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これも国宝の唐門(からもん)です。全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」など細かい彫刻がほどこされています。この唐門の奥にチラッと見えるのが拝殿、そのまた奥に本殿があります。拝殿と本殿、さらにはその2つの建物を繋ぐ石の間からなる御本社(ごほんしゃ)は東照宮の最も重要なところです。例祭をはじめ、年中の祭典が斎行されます。また拝殿左右には、「将軍着座の間」・「法親王着座の間」があります。この御本社はもちろん国宝です。

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国の重要文化財に指定されている祈祷殿(きとうでん)です。ここで結婚式や初宮などの際のご祈祷が行われます。

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名匠・左甚五郎の作と伝えられている国宝の「眠り猫(ねむりねこ)」です。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで彫られたとも言われています。この「眠り猫」の奥に拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神のお墓所、奥宮(おくのみや)があります。この奥宮は国の重要文化財に指定されています。奥宮は時間の関係でパスさせていただきました。

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左甚五郎(ひだり じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人です。足利家の家臣だった伊丹左近尉正利を父として、文禄3年(1594年)に播磨国明石に生まれました。父親の亡き後、叔父である飛騨高山藩士・河合忠左衛門宅に寄寓。慶長11年(1606年)、京伏見禁裏大工棟梁・遊左法橋与平次の弟子となりました。元和5年(1619年)に江戸へ下り、将軍家大工頭・甲良豊後宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げました。

江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、刺客を倒し、寛永11年(1634年)から庇護者である老中・土井利勝の女婿で讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに亡命したとされています。ただ、将軍家大工頭・甲良豊後宗広の指揮のもと日光東照宮の大規模改築が始まったのが、同じく寛永11年(1634年)。甲良豊後宗広の女婿である左 甚五郎がこの大工事に参加したと考えるのは極めて妥当なことで、上記の江戸城西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたので亡命したというのは、ちょっと疑わしいところもあります。

その後、寛永17年(1640年)に京都に戻り、師である遊左法橋与平次の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た後、寛永19年(1642年)に讃岐高松藩の客文頭領となったのですが、慶安4年(1651年)頃に逝去。享年58歳でした。

左甚五郎は落語や講談等でも有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品は各地にあります。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もあります。この日光東照宮の眠り猫をはじめ、左甚五郎の作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くあります。しかし、その製作年間は安土桃山時代から江戸時代後期にかけての300年にも及び、出身地とされるところも様々であるので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようなところもあります。謎に包まれた人物ではあります。

この眠り猫に限らず、日光東照宮の建物には、多様な動物の木彫像がみられます。これらの動物のほとんどは平和を象徴しているとされています。眠り猫は踏ん張っていることから、徳川家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれていますが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているとも言われています。平成28年(2016年)11月28日、約60年ぶりに修復されたカラフルなものが再び取り付けられました。

日光東照宮は見どころが多く、もっと時間をかけてゆっくりと見学したいのですが、この日は日光街道を歩くことが主目的なので、そうもいきません。後ろ髪を引かれる思いで、日光東照宮を後にしました。

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日光といえば紅葉で有名なのですが、日光東照宮の境内にもたくさんのモミジの木があります。11月にもなると葉っぱが真っ赤に色付き、さぞや美しい光景になるのだろうな…と、容易に想像できます。そういう時期にまた訪れてみたいものだと思います。

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……(その2)に続きます。